【あらすじ】天才とは「分かりやすい才能」ではない。前進するのに躊躇する暗闇で直進できる勇気のことだ:『蜜蜂と遠雷』(恩田陸著、石川慶監督)

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画・本

出演:松岡茉優, 出演:松坂桃李, 出演:森崎ウィン, 出演:鈴鹿央士, 出演:臼田あさ美, 出演:鹿賀丈史, 監督:石川慶, Writer:石川慶
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著:恩田陸
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いか

この映画・本をガイドにしながら記事を書いていくようだよ

この記事で伝えたいこと

「枠組み」の存在など気にせずやすやすと飛び越えていく者こそ「天才」と呼ばれるべき

犀川後藤

「ランキング1位」は、「天才」の指標になどならないと私は思う

この記事の3つの要点

  • 「天才」をどう評価すべきか
  • 「天才」になれない者はどう生きるべきか
  • 勝敗が決する「コンクール」を舞台にしながら、「仲間」「協調」なども描かれる
犀川後藤

「天才」ではない私は未だに、「天才」が見ている世界を体感したい、という気持ちを捨てきれません

自己紹介記事

いか

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

「天才」というのは、どこまでいっても清々しいぐらいに「天才」なのだと、『蜜蜂と遠雷』の物語に触れて実感させられる

「天才」が見ている世界を体感してみたい、とずっと願ってきました。今でもそう思っています。私たちのような凡人とはまったく異なる世界で生きているだろう彼らの日常を、一瞬でもいいから知ってみたい。そのためなら、天才であることのデメリットをすべて引き受けてもいい、と思うことさえあります。

悔しいけど、俺にもわからないよ。あっち側の世界は

「蜜蜂と遠雷」(監督:石川慶、主演:松岡茉優、松坂桃李)

でも、「凄い人」と「天才」の差があまりにも大きなこと、そしてどれだけ「凄い人」であっても「天才」の世界は理解できないのだということを、この作品で理解しました。

それでもやっぱり、「天才」の世界に足を踏み入れてみたいと考えてしまいます。

「既存の枠組み」を飛び越える者こそが「天才」

生きていると本当に、「凄い人」って世の中にはたくさんいるものだなぁ、と感じさせられます。どうやってそんなことやってるんだろう、なんでそんなこと知ってるんだろう、みたいな圧倒的な能力・知性を感じさせる人は、なんだかんだごろごろいるものです。そういう人の存在を知る度に、自分のちっぽけさを感じてしまうわけですが、まあそれは仕方ありません。

さて、そういう「凄い人」の存在を知る度、「うわぁ、天才!」というような表現をついしてしまいます。同じだという方は結構いるのではないでしょうか。でも一方で私の感触としては、そんなにごろごろ「天才」がいたら困ってしまいます。「天才」というのはもっと、ほとんど現れない稀少な存在だと私は考えているからです。

だとすれば、「凄い人」と「天才」を分けるものはなんでしょうか

犀川後藤

まあ、私からすれば、どっちも「自分には辿り着けない」って意味では遠い存在だけどね

いか

それを区別することに意味なんかあるんかね???

才能に関して、私がよく考えることがあります。それは、「ランキングの1位は必ず存在する」という事実についてです。

何かの「ランキング」を決めるとすれば、そこには必ず「1位」が存在します。当たり前ですが、それが「ランキング」というものです。

それが何であれ、「ランキング1位」は凄いことだと扱われます。もちろん凄いことではあるんですが、しかし必ず誰かは「1位」に選ばれるという意味ではさほどの重要さはないとも言えるでしょう。例えばですが、メチャクチャ足の遅い人100人を走らせて「1位」を決めることもできます。しかしその「1位」に何か意味があるでしょうか?

このようにして私は、「ランキング1位だからと言って天才なわけではない」と考えます。そしてこの考えを押し広げることで、「既存の枠組みの範囲内にいる人は天才ではない」と言っていいのではないか、と考えています。

つまり、「既存の枠組みを飛び越える者こそ天才」というわけです。

「枠組み」というのは、「理解のための補助」だと言えます。「テレビ」という枠組みがあるから「ドッキリ」が理解できるし、「一般相対性理論」という枠組みがあるから「重力」が理解できるわけです。「甲子園出場」や「東大合格」などの「枠組み」が存在することで、その内側では評価軸が定まり、だからこそそれに沿った努力ができることになります。「ランキング」が成立するのも「枠組みの内側にいる」からです

しかし一方で、「枠組み」が存在することによって、その外側に出るのがとても危険なことだと感じられるでしょう。そこは、「理解の補助が存在しない領域」なわけですから。だから私たちはどうしても、「枠組み」の外側に出ないように意識しがちです。

しかし中にはその「枠組み」の境界線をあっさりと越えて、まったく別のステージに行き着く人もいます

いか

越えようと思って越えるんじゃなくて、いつの間にか越えてる、みたいなのが天才って感じする

犀川後藤

「あれ? 超えちゃダメなんでしたっけ?」みたいなね

最近では、大谷翔平の例を挙げるのが一番分かりやすいでしょう。大谷翔平は、野球界の「枠組み」を打ち破り、投手と打者という二刀流を実現させ、そのどちらでも驚異的な成績を残しました。投手あるいは打者のどちらか一方でとんでもない成績を出す人はそれなりにいるでしょうが、やはりそれは「凄い人」に留まってしまう印象があります。大谷翔平のように、既存の「枠組み」を当然のように突破していく者だけが「天才」と呼ばれるに相応しいのではないかと私は思うのです。

『蜜蜂と遠雷』にも、そんな「枠組み」をあっさり越えてしまう「天才」が登場します。

野原にピアノが置いてあれば、世界中に僕一人しかいなくたって、僕はきっとピアノを弾くよ

「蜜蜂と遠雷」(監督:石川慶、主演:松岡茉優、松坂桃李)

彼は、「ピアノを弾く」という行為につきまとうありとあらゆるものをさらりと振り払って、「ただ弾きたいから弾くんだ」というスタンスを持ち続けます。子どもの頃にはきっと、誰もがそう思いながらピアノを弾いていたでしょうが、コンクールに出場するようなレベルともなればそうもいきません。しかしそういう「枠組み」を当たり前のように越えていくのです。

この作品では、そういう「枠組みを越える」という意味での「天才」を描き出し、その圧倒的な存在に直面する人々が様々な問いに向き合うことになります。

「天才」をどう評価するのか

その「問いに直面する人」の中には、コンクールの審査員も含まれます。つまり、「枠組みを飛び越えた『天才』をいかに評価すべきか」という、まさに「審査員が審査される状況」が生み出されているわけです。

よく言われることだが、審査員は審査するほうでありながら、審査されている。審査することによって、その人の音楽性や音楽に対する姿勢を露呈してしまうのだ

「蜜蜂と遠雷」(恩田陸/幻冬舎)

そして、審査員たちも薄々気付いている。
ホフマンの罠の狡猾さと恐ろしさに。
風間塵を本選に残せるか否かが、自分の音楽家としての立ち位置を示すことになるのだということを。

「蜜蜂と遠雷」(恩田陸/幻冬舎)

風間塵というのがその「天才」の名前ですが、彼はホフマンという大御所の隠し玉としてコンクールに出場します。そしてホフマンは、「お前ら審査員に、風間塵を評価できるのか?」という問いを投げかけている、というわけなのです。

では、ピアノコンクールにおける「枠組み」とは一体なんでしょうか

近年、演奏家は作曲者の思いをいかに正確に伝えるかということが至上命題になった感があり、いかに譜面を読みこみ作曲当時の時代や個人的背景をイメージするか、ということに重きが置かれるようになっている。演奏家の自由な解釈、自由な演奏はあまり歓迎されない風潮があるのだ

「蜜蜂と遠雷」(恩田陸/幻冬舎)

それが「審査」である以上、何らかの「枠組み」を必要とするのは当然です。しかし一方で、ピアノコンクールに限る話ではありませんが、「『枠組み』から外れているからダメだ」というあまりにも短絡的な評価・批評が多いように、私個人としても感じています。

犀川後藤

まあ、「枠組みの外側にあるからダメ」って言っておけば、自分は安全圏にいられるからね

いか

そういう、批評する側がリスクを犯さない評価ってつまらんよね

本来的には、「枠組み」の内側にあるか否かは、指標の1つに過ぎないはずです。野球の場合は「ストライクゾーン」に入らないものはすべて「ボール」と判定されますが、普通は「ストライクゾーン」に入らなかったとしても、ただそれだけで「ダメなもの」という扱いをすべきではないでしょう。

もちろん、必要があって「枠組み」を設けているなら別です。例えば、「ミステリー小説」を公募する賞に「純文学作品」を送っても、正しく評価されないでしょう。それは良し悪しの問題ではなく、求められているものと違うからです。「私たちはこういうものを求めています」という「枠組み」から外れたものが、正しく評価されないのは当然と言えます。

しかし、そういう大前提をクリアしているのであれば、「枠組み」の存在は評価する際の指標の1つに過ぎないはずです。そこに固執するのは、批評する側の怠慢だと私は感じます

私が特に嫌いなのは、「対象となる作品が『枠組み』の外側にくるように恣意的に『枠組み』を設定しているように感じられる批評」です。後出しジャンケンのように後から「枠組み」を提示し、「そこから外れているからこの作品はダメだ」と批判するような人が結構いるように感じています。はっきり言って私には、何がしたいのかよく分かりません。「自分は安全な場所にいながらその作品を徹底的に貶したい」というぐらいの理由しか思いつかないのです。

そこまでとは言わずとも、やはり「枠組み」に固執してしまう批評は多く存在するだろうし、だからこそ、ホフマンが風間塵という「天才」を送り込んで「審査とは何か?」を問いかけようとする気持ちも分かるような気がします

よし、塵、おまえが連れ出してやれ。
少年はきょとんとした。
先生は、底の見えない淵のような、恐ろしい目で少年を見た。
ただし、とても難しいぞ。本当の意味で、音楽を外へ連れ出すのはとても難しい。私が言っていることは分かるな? 音楽を閉じこめているのは、ホールや教会じゃない。人々の意識だ。綺麗な景色の屋外に連れ出した程度では、「本当に」音を連れ出したことにはならない。解放したことにはならない。

「蜜蜂と遠雷」(恩田陸/幻冬舎)

「枠組み」の存在が、音楽に限らず、様々な作品を閉じ込めていると言えるかもしれません。

「天才」ではない人間はどう生きるべきか

ほとんどの人間が「天才」にはなれません。では、「天才」ではなかった者はどう生きていくべきなのでしょうか

私がよく考えるのは、「努力し続ければ、ステージには立ち続けられる」ということです。

「天才」のように世に衝撃を与えたり、新しい可能性を示したり、未知の世界に連れ出したりすることはできないかもしれません。ただ、自分が努力を止めずにいれば、「評価される場」に立ち続けることはできるでしょう。世の中には、「評価」というステージに辿り着くことができない人もたくさんいます。「評価される状況にいる」というのは、「天才」にはなれない我々の1つの目標になると言っていいでしょう。

また、こういう考え方もできるかもしれません。「天才」が生まれるための「枠組み」を保持する役割があるのだ、と。

先ほど書いた通り、「天才」というのは「枠組み」を越えていく存在だと思っています。つまり、「天才」が生まれるためには「枠組み」が存在していなければならない、とも言えるでしょう。「こういうのが当たり前だ」という「枠組み」がきちんと存在するからこそ、それを超越する者が「天才」だと評価できるわけです。

であれば、その「枠組み」を保持し続けることもまた、「天才」の出現を間接的に助けていると言えるでしょう。「凄い人」を含めた様々な人たちが「枠組み」の内側で切磋琢磨することで、その「枠組み」が確固たるものになっていきます。そしてそんな確固たる「枠組み」が存在するからこそ、それを飛び越える者が目立つわけです。

「天才」の礎なんていう役割に甘んじたくないと感じもするでしょう。しかしどうやったって「天才」にはなれない以上、自分の存在に別の形でなんらかの意味を見出した方がいいと思います。自分が「枠組み」をの内側で奮闘しているからこそ「天才」が正しく評価されるのだと考えることは、個人の存在意義としてそう悪いものではないと思うのですが、いかがでしょうか?

いか

もちろん、自分こそが注目される存在でありたい、と多くの人が望むだろうけどね

犀川後藤

でも、そうなれないから自分の人生は不幸だ、と考えるようになったらしんどいよ

『蜜蜂と遠雷』の内容紹介

映画では、作品のメインであるコンクールでの描写が主となるが、小説ではそのコンクールのオーディションから描かれる。

3年ごとに開かれる「芳ヶ江国際ピアノコンクール」のオーディションが、日本を含む世界5都市で行われている。パリ会場で審査員を務める嵯峨三枝子、アラン・シモン、セルゲイ・スミノフの3人は、退屈な演奏が続く中で、その少年に出会う。

風間塵である。

風間は異例づくしの候補者だった。履歴書はほぼ真っ白、学歴もコンクールへの出場歴もなし。日本の小学校を卒業した後に渡仏した、という程度の情報しか分からない。オーディション開始ぎりぎりに会場へとたどり着いた風間の手は、なんと泥だらけだったという。後に彼の父親が養蜂家であると知る。

しかし、それらの情報を遥かに上回る衝撃も持ち合わせていた。それは、風間がユウジ・フォン=ホフマンに5歳から師事しており、彼の推薦状を持って現れた、ということだ。

ホフマンは世界中の音楽家から愛された伝説的な人物で、今年亡くなった。弟子を取らないことでも有名だった彼の弟子であるというだけでも驚きだったのだが、ホフマンが死の間際に、

僕は爆弾をセットしておいたよ。僕がいなくなったら、ちゃんと爆発するはずさ。世にも美しい爆弾がね

「蜜蜂と遠雷」(恩田陸/幻冬舎)

と語っていたことが思い出され、風間塵こそがその「爆弾」なのかと直感したのだ。

果たしてその通りだった。風間の演奏は、常軌を逸していた。オーディションを通すかどうか侃々諤々の議論の末、風間塵を合格とする。

そんな風間塵も出場する、「芳ヶ江国際ピアノコンクール」の幕がいよいよ開く。ホフマンが亡くなった年に開かれるという意味でも、今回のコンクールは例年にも増して注目度が高く、それに呼応するように参加者のレベルも高くなった。前回の優勝者でも今年の最終審査には残れなかったのではないか、と言われるほどだ。

風間塵の他に、メインで描かれるのは3人。

栄伝亜夜は、幼い頃から「天才」と評され、中学生の頃には既に自身のコンサートを開くまでになっていたが、7年前に母親が亡くなったことでピアノが弾けなくなってしまう。予定されていたコンサートをドタキャンして以来、表舞台に出てくることはなかった。今回のコンクールを最後のチャンスと捉えており、優勝できなければピアノから離れる覚悟で挑んでいる。

マサル・カルロス・レヴィ・アナトールは、長身に甘いマスクのお陰で舞台映えし、既にスターの予感を漂わせている、ジュリアード音楽院期待の星だ。実は子どもの頃に、亜夜の母親からピアノを教わっており、短期間に驚くべき飛躍を遂げた圧倒的な才能の持ち主だった。マサルは、亜夜との久々の再開を喜んでいる。

高島明石は、「楽器店で働くサラリーマン」という、コンクール出場者としては異色の経歴を持っている。仕事の合間を縫い、家族の協力も得ながら、睡眠時間を削ってコンクールのための調整を続けてきた彼には、「生活者の音楽」という持論がある。音楽だけを生業とする者だけのために音楽はあるのではない、という想いを伝えるべく、コンクール出場を決意したのだ。そんな彼の挑戦を、高校時代の同級生がカメラを回し、ドキュメンタリーとして記録している。

様々な形で音楽と向き合う者たちの人生が緩やかに折り重なりながら、コンクールという場を軸として様々な葛藤や苦悩が描かれていく。勝敗が明確に決する場を舞台にしながら、「仲間」「協調」と言った要素も描かれる熱い物語

『蜜蜂と遠雷』の感想

どうしてもこの作品を紹介する際には、「風間塵という天才」が中心になりがちですが、決してそれだけではなく、メインで描かれる他の3人にもそれぞれ物語があります。ピアノという、正直私にはあまり馴染みのない世界が描かれるのですが、誰もが抱いてしまうだろう悩みや葛藤が物語の中心にあるのです。

栄伝亜夜は「ピアノ」とどんな風に向き合うべきなのか分からないでいました

しかし、意外にも、亜夜自身に挫折感はなかった。
彼女の中では、コンサートのドタキャンは筋が通っていたからである。
取り出すべき音楽がピアノの中に見つからないのに、なぜステージに立つ必要などあるだろうか。

「蜜蜂と遠雷」(恩田陸/幻冬舎)

母親の死によって「取り出すべき音楽」が無くなってしまった、だからピアノを弾かない、というのは、彼女にとっては当たり前の選択だったわけです。そもそも彼女は、

彼女は、元々ピアノなど必要としていなかった。
子供の頃、トタン屋根の雨音に馬たちのギャロップを聴いていた時から、彼女はあらゆるものに音楽を聴き、それを楽しむことができたからである

「蜜蜂と遠雷」(恩田陸/幻冬舎)

というように、「音楽」と関わるのに「ピアノ」でなければならない理由はありませんでした。その上でいかにコンクールに挑むのか、また他の参加者と関わる中で気持ちがどう変化していくのかが描かれていきます。

高島明石のスタンスは、音楽やピアノの世界とは関係ない場面でも身近な問いに落とし込むことができるような普遍的なものではないでしょうか。

俺はいつも不思議に思っていた――孤高の音楽家だけが正しいのか? 音楽のみに生きる者だけが尊敬に値するのか? と。
生活者の音楽は、音楽だけを生業とする者より劣るのだろうか、と。

「蜜蜂と遠雷」(恩田陸/幻冬舎)

音楽を生活の中で楽しめる、まっとうな耳を持っている人は、祖母のように、普通のところにいるのだ。演奏者もまた、普通のところにいてよいのではないだろうか

「蜜蜂と遠雷」(恩田陸/幻冬舎)

芸術であれなんであれ、自分が望む場所から楽しめばいいはずです。しかし、冒頭で触れた「枠組み」の話のように、「こうでなければダメだ」という批評が当たり前のように存在する世の中においては、その「好きなように楽しむ」という振る舞いが許されない雰囲気が生まれてしまいます

そういう世の中を打破したい、という彼のスタンスに共感できる人は多いのではないでしょうか

犀川後藤

にわかだろうが間違ってようが、好きなように好きなものと触れればいいはずなんだけどね

いか

それを認めちゃうと、「自分の知識・経験に価値がなくなる」って怖くなっちゃう人がいるんだろうなぁ

一方で明石自身も、こんな風に考えています

もし自分が抜きん出た才能を持っていたら迷わずプロの音楽家の道を選んだだろうし、それ以外の職に就くことなど考えもしなかっただろう。そして、そちら側にいたならば就職して所帯を持ち、「生活者の音楽」などと嘯いている者をきっと軽んじていたに違いないのだ

「蜜蜂と遠雷」(恩田陸/幻冬舎)

これもまた非常に素直な独白であり、そのスタンスに好感が持てます

マサル・カルロス・レヴィ・アナトールについてはちょっと、具体的に言及するのは止めておきましょう。彼もまた、このコンクールに出場することで、「ただコンクールに出場する」以上のものを得ることになるのです。

映画における「鈴鹿央士」の存在と、「音楽の受け取り方」の難しさ

風間塵を演じた鈴鹿央士は、『ドラゴン桜』にも出演していました。そして、彼が映像作品に初めて出演したのがこの『蜜蜂と遠雷』なのです。

私は、「風間塵」と「鈴鹿央士」の存在がリンクするという点を、この映画の面白さの1つに挙げられると感じました。

風間塵は、それまでコンクールに出場したことも、人前でピアノの演奏を披露したこともなく、まったく謎めいた存在としてオーディション会場に現れます。そんな人物が、音楽界の巨匠であるホフマンの推薦状を持っていたことが衝撃だったわけです。

鈴鹿央士も、それまで映像作品に出演したことも、演技の経験もなく、誰だか分からない存在として映画の主演を務めることになります。さらになんと彼は、女優の広瀬アリスに見いだされて芸能界入りしているのです。

テレビで見た記憶では、広瀬アリスが出演する映画だかドラマの撮影である学校を訪れ、そこの生徒がエキストラとして参加することになったのだけれど、その中に鈴鹿央士がおり、広瀬アリスがスタッフに「凄い子がいる」という話をして芸能界入りすることになった、とのことでした。

まさに「風間塵」役を演じるのにぴったりと言える存在だと感じました。そういう、役柄と役者のリンクが非常に印象的な作品でもあります。

さて、映画に関してもう1点書いておきたいことは、「音楽の受け取り方の難しさ」です。これは、映画『羊と鋼の森』でも感じたことで、この点に関しては私のような人間には小説の方がいいと感じました。

小説中の音楽の描写は、当然すべて言葉で説明されます。「凄い音楽だ」と書いてあればそうだと理解できますし、「誰々の演奏とはこれこれの点で違う」と書いてあればその違いを認識できるというわけです。

しかし映画では、音楽そのものを流せるので、評価や違いに関して観客自らが理解して受け取る部分が増えます。そして、音楽の素養がさほどない私には、それはとてもハードルが高いものに感じられてしまうのです。

原作では「風間塵の演奏は、それまでにはない斬新なものだ」と書いてくれますが、映画で聞く彼の演奏が、他の人のものと比べて凄まじいのかどうか、私にはなんとも言えないなぁ、と感じてしまいました。他の人も、みんな凄いからです。

いか

音楽の素養がある人なら当然、映像の方がいいと思うけどね

犀川後藤

私のような人間には、全部言葉で説明してくれる小説の方がありがたいね

音楽がテーマとなる映画では、いつもこの点が難しいと思っています。

著:恩田陸
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最後に

「才能とは何か」について考えさせつつ、様々な立場で表現と向き合う者たちを圧倒的に描き出す素晴らしい作品だと感じました。音など鳴らないはずの小説からも、音楽が漂ってくるような作品で、恩田陸という作家に圧倒されるでしょう。

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