【狂気】バケモン・鶴瓶を映し出す映画。「おもしろいオッチャン」に潜む「異常さ」と「芸への情熱」:映画『バケモン』

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「バケモン」公式HP

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

今どこで観れるのか?

公式HPをご覧ください

この記事の3つの要点

  • 「キ◯ガイ」という言葉に鶴瓶が込める「優しい眼差し」
  • 師匠・松鶴の十八番であり、鶴瓶のライフワークとなった古典落語「らくだ」
  • 芸事を追究し続ける芸人としての凄み

タモリが鶴瓶を「自開症」と評したのも納得の、そことはかとない「狂気」を滲ませる存在だ

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

まさに「芸のバケモン」である笑福亭鶴瓶に17年間密着した壮大なドキュメンタリー映画

メチャクチャ面白い映画だった

テレビで見ている限り、笑福亭鶴瓶という人には「おもろいオッチャン」ぐらいの印象しかない。テレビに出ている姿を見て、鶴瓶を「凄い」と感じたことは正直ない。ただし、どことなく「狂気」を感じる瞬間は度々あったと思う。きっと、「何かある人」なんだろうという印象は持っていたのだろう。

だからこの映画も、観ようと思った。この人は一体どんな人なのだろう、という興味があったのだ

最終的に撮影期間17年、撮影時間6000時間、取材ノート34冊にも及ぶ密着となったが、元々鶴瓶は、「俺が死ぬまで公開するな」という条件で撮影を許可したそうだ。その真意までは語られていなかったが、芸人としての矜持に関わる何かがあったのだろう。しかしコロナ禍で映画館が苦境に立たされていると知るや、「映画館に恩返しするなら今しかない」と公開を決意したという。

だから、この映画の入場料はすべて映画館に提供すると表明している。

このようなスタンスで公開された映画なので、配信で観られる可能性は低いのではないかと思う。公開している映画館は今では多くないだろうが、機会を見つけて観に行くことをオススメする。

映画の冒頭で注意書きが表示される「差別表現」に込めた思い

この映画は冒頭で、

この映画には差別的な表現が出てきますが、笑福亭鶴瓶という人間を正確に表現するためにそのまま使用しています

という趣旨の注意書きが表示される。映画を観れば、それが「キ◯ガイ」を指しているのだと分かるだろう。

映画には何度かこの「キ◯ガイ」という言葉が登場する。そしてそれは、どれも「愛」に溢れたものだ

最初に鶴瓶が「キ◯ガイ」と口にしたのは、「どんな人間に興味があるか」という話になった際、電車内で出会った人について語る場面である。鶴瓶は、電車内で見かけた男性を「キ◯ガイ」と表現し、興味深いからといって自ら積極的に話しかけたというエピソードを語っていた。その時のことについて鶴瓶は、次のような言い方をする。

普通の人がいじろうと思えないような人をいじるのが好きやねん。

別の場面では、「誰もスポットライトを当てないような人が好き」とも語っていた。これは「スポットライトが当たらないような地味な人」のことではなく、「スポットライトを当てられないようなヤバい人」という意味だ。

鶴瓶はまた、何の話の流れでのことだったか忘れてしまったが、

キ◯ガイの枠に入れたったらええねん。

という言い方をしていた。これは恐らく、「光を当ててはいけない人」「見ちゃいけないもの」としてざっくりひと括りにしてしまうのではなく、むしろ「『キ◯ガイ』という枠組み」を作ってそれに相応しい扱いをしてあげた方がお互いにとって幸せなんじゃないか、という意味だろう。この映画のもう1つの軸である「落語」の世界は、「ダメでもいいじゃないか」という形での肯定が根底にあると感じるが、鶴瓶はまさにそれを地で行くような人間だと思う。

さらに先ほどの発言に続けて彼は、

その中には自分も入るしな。

みたいに言っていた。「自分も『キ◯ガイ』の部類だ」ということだ。確かに私も以前から、笑福亭鶴瓶という人間にそことはかとなく「狂気」を感じていたのだが、その「狂気」の源泉を上手く捉えきれていなかった。

この映画には、「タモリが鶴瓶のことを『自閉症』ならぬ『自開症』と称したことがある」というエピソードが出てくる。そしてこの「自開症」という表現に、強い納得感を抱くことができた。

「自開症」とは言い得て妙だろう

「自閉症」について「閉じてしまうことに問題がある」と表現するとすれば、「自開症」は「開いてしまうことに問題がある」となるだろう。そしてまさに鶴瓶は、弁みたいなものの機能がぶっ壊れているのではないかと思うほど「開きっぱなし」だった。コミュニケーション1つとってもそんな感じで、イメージ通り、誰とでも壁を作らずに関わる。「この人は一体いつ『閉じる』のだろうか」と不安を抱かせるような振る舞いに「狂気」を感じてしまうのだと思う。

私は基本的に「変人」が好きで、しかも「パッと見て分かりやすい変人」よりも「深堀りしてみないと気づけない変人」に興味がある。そういう意味で笑福亭鶴瓶は、まさに私の好きなタイプの「変人」と言っていい。

映画の中では、あと1回だけ「キ◯ガイ」という言葉が出てくる。立川談志からかつてこんなことを聞いたと弟子の立川談春が語る場面だ

(笑福亭)松鶴と鶴瓶には、何かキ◯ガイじみたものを感じ、畏怖の念を抱いていた

笑福亭松鶴は、鶴瓶の師匠である。天才・立川談志にそう言わしめたのだから、鶴瓶にはやはり何かあるのだろう。映画全体としては、次で紹介するように「らくだ」という落語の演目が核となるのだが、随所に現れる鶴瓶の「狂気」にはやはり興味を抱かされた

「『らくだ』を撮りたい」と、許可を取る前からカメラをバッグに忍ばせて始まった撮影

映画は、隠しカメラのような映像から始まる。鶴瓶にドキュメンタリー映画撮影の許可を取る前だからだ。撮影は2004年にスタートした。50歳から改めて本格的に落語に戻った鶴瓶は、師匠・松鶴が得意としていた「らくだ」をやると決意する。それを知った監督が鶴瓶に「『らくだ』を撮りたい」と直訴、「いいけど、俺が死ぬまで世に出すなよ」という条件で撮影が許可された。

鶴瓶は1972年に松鶴に弟子入りしたが、師匠から落語を教えてもらったことは一度もないそうだ。上方落語四天王の一人と呼ばれ、破天荒で豪放磊落な人生を送った松鶴が得意としたのが、古典落語の名作と名高い「らくだ」である。鶴瓶にとって「らくだ」をやるというのは大きな決意を伴うものだった。それで彼は毎月、松鶴の墓、そして「らくだ」を完成させた三代目桂文吾の墓をお参りしている。鶴瓶の話術にかかれば墓参りさえも笑い話に変わってしまうのだからさすがだ。さらに後半、この「墓」に関して驚きの展開が待っている。なんというか「持っている男」だと思う。

いつしか「らくだ」は、笑福亭鶴瓶のライフワークになっていく。だからこそこの映画でも、必然的に「らくだ」が主軸となるのだ。歌舞伎座で「らくだ」をやったり、ある時から13年間も「らくだ」を封印したりする。「らくだ」の中身も時代ごとに変わっていく。そんな風に、ライフワークとなった「らくご」を通した笑福亭鶴瓶の変化が切り取られていくというわけだ。

この映画は基本的に「『らくだ』をやる笑福亭鶴瓶の映画」と言ってよく、この落語がどのように生まれたか歴史を紐解くなど「らくだ」に関する話は非常に多い。その中から、ここで触れるのは1点だけにしよう。テレビで見るのとは違う、「芸人・笑福亭鶴瓶」の奥深さを感じさせられるような場面だ。

2020年に鶴瓶は13年ぶりに「らくだ」をやった。映画では「らくだ」のあるシーンが映し出されている。それは、「酒に飲まれがちな紙屑屋」がまさに酒を飲みながら崩れていく場面だ。そこで紙屑屋を演じる鶴瓶は、「あのなー」「あー」「そうだなー」みたいな、話の筋とは一切関係ない「意味のないセリフ」を口にしている

この場面について、楽屋にいる鶴瓶がこんな話をするのだ。

あれは、ああ言おうみたいに考えてたわけじゃなくて、勝手に出てきたんよなぁ。松鶴が言うてたのかと思ってテープを聞き直したんやけど、言うてないわ。だからあれは、俺が言うたんやな。

元々の「らくだ」にも、師匠である松鶴がやった「らくだ」にも、「意味のないセリフを口にする場面」は存在せず、鶴瓶自身もあらかじめ準備していたわけではなく、舞台上で勝手に出てきたものだ、と言っているわけだ。さらにそれに続けて、

でも、あれを言おう思って言うたらダメなんやな。意味のない言葉なんやもん。言おう思って言うんやったら意味ないわ。

と語っていて、失礼な話ではあるが、なるほどそんなことまで考えて「芸」を捉えているのか、と感じさせられたシーンである。テレビで見る「笑福亭鶴瓶」のイメージとは大きく違うので印象的だった。

鶴瓶が言っているのはこういうことだろう。「あのなー」「あー」「そうだなー」みたいな言葉は、「紙屑屋が酩酊し始めているサイン」でしかなく、言葉そのものは意味を持たない。そしてだからこそ、「こういうことを言おう」と待ち構えていると、「酩酊し始めているサイン」としての機能が失われてしまう。その匙加減が難しい、というわけだ。

恐らくあらゆる「表現者」と呼ばれる人たちが、自身の「表現」について様々な形で深堀りしているのだろうし、鶴瓶が特別なわけでは決してない。しかし、やはりテレビとのイメージのギャップが大きいせいだろう、「意外」という印象が強かった。このような鶴瓶が観られるという意味でも貴重な映画だと言えるだろう。

芸人としての「構え」と「覚悟」

先述の通り鶴瓶は、「芸」に対する真剣さが凄まじい

彼は、慶應大学の大学院で、在籍する留学生たち相手に落語をやったことがある。準備に3年掛かったそうだ。

本来の目的は、「『英訳したセリフをモニターに表示する』という落語で笑いが取れるか」という実験だった。古典落語は特に、舞台設定が現代ではないこともあり、私たち日本人が聞いてもスパッと理解しにくい描写・場面もある。それを、セリフを英訳するとはいえ、外国人に対して理解させ、さらにその上で笑わせられるのかという挑戦をするのだ。そしてなんと、鶴瓶は爆笑をかっさらうことに成功する

しかし鶴瓶はそこで止めない。今度は、英訳無し、日本語のみでやるというのだ。演目は先ほどとは違う「錦木検校」。専門家によれば、演出の難しい、笑いの少ない演目なのだそうだ。さすがに舞台設定などはあらかじめ英語で説明を行うが、落語そのものは日本語で聞かせるという。

監督は実は、慶應大学でのこの落語にも関わっていた。そして当初、オチに至る流れを映像で用意していたという。さすがに日本語で理解させるのは無理があると考えていたからだ。しかしそれを知った鶴瓶は激怒した。鶴瓶はこう声を上げる。

たとえ一人にしか通じなくても、その一人に向かってやりたいんや。通じるか笑わせられるか、その一番面白いところを、奪うつもりか。

彼はそもそも、全員を笑わせられるなどと思っていない。というかむしろ、1人にも伝わらないかもしれないとさえ考えている。しかしそれでもいい。自分の出せるすべてで一体どこまで通用するのか確かめたいのだから邪魔をするな。そう熱く語るのだ。「形ばかりの成功」よりも「未知の挑戦」にこそ価値があると考えているのだろうし、この年になってもまだその挑戦心を抱き続けられることが凄いと感じた。

また、別の公演でも「錦木検校」をやるのだが、その際に監督が「なぜ錦木検校を選んだのか?」と問う場面がある。それに対して鶴瓶は、

芸能ってのは、それぞれの時代に対して何を言うかみたいなことを考えるのが面白いんや。今の時代で言うと格差社会やろ、そういうのが何かないか探している時に、これやなと。

と答えていた。もちろんこのようなスタンスも、「表現者」としては当然のものだとは思う。しかし私の中の「笑福亭鶴瓶」のイメージにはなかったものであり、その真剣さに圧倒されてしまった

タモリの一言がきっかけで完成した落語「山名屋浦里」

鶴瓶が完成させた落語に、「山名屋浦里」があるこの落語にはタモリが関わっているそうだ。タモリが『ブラタモリ』(NHK)という番組で吉原に行くことが決まり色々と調べていたところ、「山名屋浦里」の元となった実話を発見したという。その話を鶴瓶に紹介したことで「山名屋浦里」が生まれたわけだが、この話のポイントは「何故タモリは鶴瓶にその話をしたのか」という点にある

話は飛ぶが、鶴瓶は以前から「鶴瓶噺」という2時間以上ぶっ通しで喋り続ける公演を行ってきた。話す内容は身近に起こった出来事で、しかも公演期間中、毎日話す内容を変えているというから驚きだ。木梨憲武からは、「喋るネタを探すために運転手をつけずに敢えてタクシーに乗っている」と茶化されるという。

また、立川志の輔はその話術・記憶力に驚愕し、

「いい加減(鶴瓶は)何人いるのか教えてくださいよ。」

と語るほど高く評価していた。

鶴瓶自身も、

こんなこと、他の人はできないだろうし、やらんやろな。

と言っており、そのハードルの高さを自覚している。

鶴瓶が「鶴瓶噺」で行っている「日常に起こった出来事を面白おかしく話す」ことを、鶴瓶やタモリは「素話」と呼ぶ。そしてタモリは、「素話がやれる人間じゃないとこれはできない」と直感し、「山名屋浦里」の元になった実話を鶴瓶に託したのだ。鶴瓶自身もこの点を理解しているようで、「やっぱ鋭いな、あの人」とタモリのことを評価していた。

落語家としては遅咲きと言っていい鶴瓶だが、「鶴瓶噺」という”寄り道”をしていたお陰で「山名屋浦里」を完成させられたとも言える。芸事の奥深さを実感させられたエピソードだった。

最後に

映画は他にも話題が盛りだくさんで、「笑福亭鶴瓶」と「らくだ」をとにかく深堀りしていく。「らくだ」という演目が誕生した由来についても、専門家を訪ね歩いて歴史を調べる場面もあり、様々なレイヤーが折り重なって出来上がっている映画だ。

また、映画では「鶴瓶噺」や落語の”一部”が切り取られて流れるわけだが、その一場面でも笑わせるのだからさすがだと感じる。前後の流れが分からなくても思わず笑ってしまうほど面白いのだから、機会があれば生で観てみたいものだと思わされた。

鶴瓶はある場面で、

(桂)米朝師匠が昔言ってたんや。芸人は、末期は哀れやぞ、と。

と語る。米一粒も、釘一本も作らない芸人なんか世の中の役に立たないから、ということのようだ。しかし「バケモン」である鶴瓶は、それすらも「おもろい」と思っているに違いない

そんな「狂気」に満ちた、「芸人・笑福亭鶴瓶」を堪能できる作品だ

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