【あらすじ】映画『愛されなくても別に』超良い!毒親からの歪な”愛”に翻弄される少女たちの葛藤(監督:井樫彩、主演:南沙良、馬場ふみか、本田望結)

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「子どもを持つこと」に対して、もう少し「躊躇」を抱いた方が良いのではないか?
  • 毒親が口にする「愛してる」、そして「愛されること」にNOを突きつける主人公
  • 超ローテンションのまま関係を深めていく宮田と江永のやり取りがとにかく素晴らしい

本作を観れば、「自分以外の存在なんかどうでもいい」と良い意味で開き直れるんじゃないかと思う

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

ビックリするほど素敵だった映画『愛されなくても別に』は、「クソみたいな毒親」と生きざるを得ない少女たちの絶望的な日常が描き出される

本作『愛されなくても別に』は、正直まったくノーマークの作品だった。確か「公開後にその存在を知って、『あんまり観る映画ないな』みたいなタイミングだったから観に行った」ぐらいの作品だったと思う。でも、凄く良かったビックリするぐらい素敵な映画で、メチャクチャ惹きつけられてしまったのだ。これはホントに観て良かったなぁ。

「子どもを持つことに躊躇を抱かない人」に私は驚かされてしまう

私は世の中の人たちに対して、「子どもを持つことに躊躇しないなんて凄いな」と感じることがある。もちろん、ずっと少子化だと言われているし、「実際に子どもを産み育てる人」は減っているのかもしれない。ただそれは経済状況など様々な要因が関係しているだけで、「子どもがほしい人」は大きくは減っていないのではないかと思っている。もちろんそれ自体は良いことだと思うが、しかし私は「無邪気すぎない?」とも感じてしまうのだ。

私は、「結婚」についてしてもしなくてもどっちでもいいのだが、「子ども」に関しては「絶対にほしくない」と昔から思ってきた。42歳になった今も、その考えが変わることはない。その理由は色々と絡まり合っている気がするが、その中でも一番大きな理由は「自分はきっとクソみたいな親になる」という確信を何故か持っているからだと思う。

私は別に「親から虐待を受けた」的なことはなく、だから「自分が親になったら虐待の再生産をしてしまう」みたいに恐れているわけではない。ただ、ニュースなどで児童虐待の事件が報じられる度に、「自分は割と、その一線を踏み越えられちゃう人間かもな」という思考がどうしても頭を過ぎるのだ。もちろん、実際にはそうはならならず、「そう悪くない親」として踏み留まれるかもしれない。でも私は、どうしてもその確信が持てないのだ。私は昔から「子ども」が好きじゃなかったし、「自分の子ども」だからって愛せる確証はないし、そもそも「人間」に対する興味が薄い(というか「興味を持てる人間が少ない」)。そういうことを色々考えて「育児放棄的な振る舞いをしかねない」と思ってしまうのだ。

まあ自分でも、「未来に対して悲観的すぎる」なとは思う。同じような話として、私は「未来永劫、車の運転はしない」と決めているのだが、これも「事故を起こす可能性がある」と考えてしまうからだ。「『確率は低いかもしれないが、それが起こった場合の他者への影響力が甚大』と感じられる状況からは、なるべく遠ざかっておこう」みたいに考えているのだと思う。

育児放棄はしないかもしれないし、事故も起こさないかもしれない。ただ私自身は、「そういう自分」をリアルに想定出来てしまうのだ。だからどうしても踏み出せない。「『未来の自分』を信頼出来ない」ということなのだろう。

そしてそんなスタンスの私からすると、世間の人はとても「安易」に見えてしまう「『安易』という表現はちょっと良くないよなぁ」と思いながら使っているのだが、まあ本心である。虐待事件などは日々報じられるし、ニュースとして取り上げられない事案も多数あるはずで、児童相談所や児童養護施設と関わらざるを得ない子どもはたくさんいるはずだ。私たちはそういう社会に生きているし、それは誰もが知り得る情報だと思うのだが、そんな状況でも「自分は『悪い親』にはならずにいられる」なんて思い込める理由が、私には理解できないのである。

もちろん、「そういう怖さを抱えながらそれでも踏み出すことを決めた人」もたくさんいるだろう。あるいは、そもそも「生殖」は生命の基本なわけで、だから「『生殖』に関する不安・恐怖をなるべく抱かないように生物は進化してきた」みたいなことなのかもしれない。だから別に「子どもを育てている人、あるいは子どもを持とうとしている人全員」を「安易」だなどと見做しているわけではないつもりだ。とはいえ中にはやはり、「みんなが出来てるんだから、自分だって大丈夫でしょ!」ぐらいの思考しか持てていない人もいるように思う。私は自分でも「躊躇しすぎ」だと自覚しているが、世の中には「躊躇しなさすぎ」に思える人が結構いる気がしているのだ。

そしてそんな風に「躊躇しない人」が多い世の中だからこそ、結果的に「虐待」「毒親」みたいな状況が蔓延っているのだと思う。とはいえ私は、国が着手すべき最優先課題は「少子化対策」であり、ありとあらゆる手を打つべきだと考えている。当然「子どもを持つこと」に躊躇せずに済む社会の方がベストだろう。だから私は、「赤ちゃんポスト」などが代表例だろうが、「『子育て』を諦めざるを得ない人」に対する選択肢も色々と用意しておくべきじゃないかと考えている。「やってみてダメだった場合でもこういう可能性がある」という選択肢が視界に入っていれば、躊躇する気持ちを持ったまま、その躊躇を適切に減らしていくことは出来るはずだからだ。

誰だって最初は子育て未経験だし、そりゃあ想像できない部分もたくさんあるとは思う。ただそれにしたって、「あまりにも何も想像していない」みたいな人が多いような気もするのだ。いや、何度でも書くが、私は「少子化対策」こそ最重要課題だと考えているので、そりゃあ「産んで育ててくれる人」がたくさんいてくれた方がいいと思っている。だから、「だったら躊躇なんかしてられなくない?」みたいな反応も当然かもしれない。ただ、いくら子どもが増えたって、「不幸な子ども」が増えるんじゃ意味がないだろう。であれば、「良い具合に躊躇する」みたいな態度はやはり必要だろうし、そして先述した通り、そんな「躊躇」をある程度解消できるような社会システムも同時に構築していくべきだと思っている。

そうなれば、本作で描かれているような「クソみたいな現実」もぐっと減っていくんじゃないだろうか。

作中で印象的に使われていた「愛してる」という言葉

本作『愛されなくても別に』では、3人の若い女性がメインで描かれる。彼女たちがそれぞれ、少しずつ違った形で「クソみたいな親」との関わりを強いられているのだ。「親がいなかったらそもそも彼女たちは生まれていない」という事実を一旦無視すれば、「こんなクソみたいな親さえいなければ、もっとまともな人生が歩めたはずの人」だと言えるだろう。そして世の中には彼女たちのように、「親のせいでクソみたいな人生を強いられている」みたいな人はたくさんいるはずだ。そういう現実を知る度に、私はうんざりさせられてしまう。

さて、そんな本作では、「愛してる」という言葉がかなり印象的な形で使われていた。概ね「親が子に言うセリフ」である。

大学生の娘を働かせて自分は浪費ばかりしている母親は、娘に度々「愛してる」と言う。正直なところ、母親がどんな意図で「愛してる」と口にしていたのか、はっきりとは分からない本当に娘のことを愛していてそれを伝えたいと思っての言葉なのか(そうだとしたら、言動が不一致すぎてかなり狂気的だが)、あるいは、娘を馬車馬のように働かせるための「魔法の言葉」ぐらいに考えていたのか。いずれにせよ、娘の方は、母親から気まぐれに放たれる「愛してる」を僅かながらの心の拠り所にしながら、しんどい日々をどうにか過ごしていたはずだ。

あるいは、娘を愛しているが故に過保護になりすぎている母親は、「あなたのことを『愛してる』から」と言って自身の「狂気」を正当化しようとする。母親は娘のために「危険を排除しなければならない」と考えているのだが、その程度があまりにイカれているのだ。母親が「危険だ」と感じるものをすべて排除しようとするため、結果として、娘が大切にしているものを根こそぎ奪い取っていくことになる。まあ、ここには少し捻れがあり、「娘が大切だと考えているもの」の1つは客観的に見て「だいぶ怪しい」ので、観客としては「これが奪い取られるのは仕方ないか」という感覚になるんじゃないかと思う。ただ娘からすればそこは、「これまであらゆるものを奪ってきた母親から唯一逃れられる安住の地」だったので、そこに母親が侵食してきたことに絶望を感じたに違いない。それにそもそも、「母親がイカれていなければ、その『怪しい安住の地』に行き着くこともなかった」はずなので、そういう意味でも「母親のヤバさ」が際立つとも言える。

さて、先に挙げた2つは「親が子に向ける『愛してる』」だったが、もう1人の場合は少し違う。というかこちらの場合、セリフも「愛してる」ではなく「愛される」なのだが。これから言及するのは物語後半の展開であり、だから具体的な状況説明は避けるが、彼女はある場面で「親から愛されたいのね」みたいなことを言われる。そしてそれに対してキレ気味に次のような言葉を返すのだ。

他人から愛されるために生きるなんて、そんなのただの呪いだよ。私は、他人から愛されなくても幸せに生きることを許されたい。

まさに、本作のタイトル『愛されなくても別に』に込められているだろう感覚が凝縮されたセリフだなと思うし、個人的には、これが作中で最も好きなセリフである。

彼女が抱く「他人から愛されなくても幸せに生きることを許されたい」という感覚は、私もとてもよく理解できてしまう。私はそもそも「愛する/愛される」みたいなことへの関心が薄いのだが、それはともかく、彼女の主張はざっくり「他者の存在に依存しなくても生きられる自分でいたい」ということなのだろうし、そういう感覚は私の中にもずっとある

もちろん彼女としても、「愛された方がより良い」ぐらいには思っているだろう。別に「愛されること」を拒絶しているわけではないはずだ。しかし、「『愛されること』こそ人生において目指すべきことだ」みたいに言われると、「うるせぇな」みたいに感じられてしまうのだと思う。ホントその通りである。

親からの歪な「愛してる」を受け取る2人は、そのイカれた「愛」をどう取り扱っていいか分からず、だから「愛されなくても別に」と感じているのだろう。そして「愛されるために生きること」を「呪い」と言い切る彼女は、まさにその感覚ゆえに「愛されなくても別に」と思っているというわけだ。このように、三者三様の人生でタイトルの『愛されなくても別に』を描き出す作品であり、実に素晴らしかった。

子どもは「自分を愛してくれる親」を無条件で受け入れなければならないのか?

3人の少女たちの人生はどれも興味深いのだが、その中でもより難しい問いを投げかけるのが「過保護な親に侵食される娘の物語」だと言っていいだろう。

さて、私はそもそもだが、「この世に生を享けること」を「暴力」だと捉えている。なにせ、「生まれてくる子ども」には一切の意思が存在しないのだ。「100%他者の意思によって自分の行く末が左右される」という意味で、私には「暴力」そのものであると感じられている

少し前に私は「反出生主義」という言葉を知った。メチャクチャざっくり説明すると、「すべての人間は生まれるべきではないし、子どもも作るべきではない」みたいな主張のようだ。もちろんそこには、先に説明したような「暴力」的な発想がある。私はさすがにここまで強い主張を持っているわけではないが、ただ全体的な方向性としては賛同できるなと思う。「生を享けた存在は等しく素晴らしい」みたいな主張には全力で抵抗したいし、「『子どもを産むこと』は『暴力』なのだから、当然悪い結果になることだってある」程度の考えは当然のように許容されてほしい

そしてそういう話で言えば、先に言及した「過保護な親」は「生を享けた存在は等しく素晴らしい」的な発想を持っていると言えるだろう。つまり、「子どもを産むこと」を「暴力」だなどとは微塵も感じていないというわけだ。だからこそ彼女は、何の疑問も抱かずに「子どもに愛情を注ぐ」し、「それを子どもが喜ばしいと感じているはず」と無邪気に信じてもいられるのである。

しかしまさにこの点について、彼女の娘がこんな指摘をしていた

愛されてたら、子どもは何でも許さなきゃいけないの?

ホントにその通りだよなと思う。私は別に「親からウザいぐらいの愛情を受け取った」みたいなことはないし、だから私自身の実感として理解できているわけではないのだが、でも「確かに」と感じられてしまう親が子どもをどれだけ愛そうが、それは別に自由だ。そして当然、それを子どもがどう受け取るのかもまた自由だろう。にも拘らず、「こんなにも愛しているんだから」みたいな考えを突きつけられるとうんざりしてしまう

これは決して親子関係に限る話ではないが、「愛するかどうかはお前の自由。そして、それをどう受け取るかは私の自由」というのが私には大前提に思えるのだが、そうじゃない人も世の中にはたくさんいるのだろう。マジでダルい。そして本作で描かれる3人も、細かな差異はあると思うが、概ね私と同じような感覚を抱いているのだろうし、「そうなってない現状からいかに逃れるか」を常に考えているみたいに見えた。

本作はこのように、「親子」を描くことによって様々な思考を刺激する作品であり、凄く良かったなと思う。「親子はとても素晴らしい関係だ」みたいな発想が当然のように語られ、ある種の「社会的圧力」として機能しているようにさえ感じられる世の中に私たちは生きている。だから、「そうじゃない感覚を抱くことは間違っている」みたいな気分にさせられてしまいもするのだ。本作は、そんな「社会的圧力」に対して強烈な「NO」を突きつける作品という感じがして、その痛快さにメチャクチャ惹かれた

映画『愛されなくても別に』の内容紹介

大学生の宮田陽彩は、シングルマザーの母親と2人で暮らしている母親には付き合っている男性がいるようで、恐らくそのせいだろう、彼女は自身の収入以上の浪費を続けていた。宮田は母親から「高校を卒業したら働いてほしい」と言われていたのだが、「学費も生活費も自分で稼ぐから」と説得し、それでどうにか大学進学を許されている。そのため彼女は、大学に通いながら週6日のコンビニバイト、さらに短期バイトも組み合わせながら月に20万円ほど稼ぎ、その内8万円を母親に渡していた。自分で選んだ道とはいえ、相当にハードな生活である。

そんな宮田はある日、過去の授業のレジュメをもらおうとして教授に断られてしまう病欠だったのだが、「理由のいかんを問わず例外は認められない」というのだ。そこで、勇気を出して同じ授業を取っている女性(後に木村という名前だと分かる)に話しかけ、ノートを見せてもらおうとした。最初彼女は「それって私に何かメリットあります?」みたいな反応で、宮田は諦めかけたのだが、彼女が「じゃあノートは江永雅に見せてもらおうと思う」と口にすると、木村の反応が一変する。「江永雅なんかに関わっちゃいけない」というのだ。当然その理由を尋ねた宮田に、彼女は驚くべき話をする。

江永雅の父親は殺人犯なんだよ。

宮田が江永にノートを見せてもらおうと考えたのには理由がある。彼女は、宮田がバイトしているコンビニで一緒に働いているのだ。とはいえちゃんと話したことはない。だから「友人」と言えるような存在ではなかったのだが、木村から「父親が殺人犯」と聞いたことで見え方が変わった興味を抱けるようになったのだ。そんなわけで2人は、バイト中に少し話をするような関係になっていく。

そんなある日、思いがけない人物が訪ねてきたことで宮田の生活は一変するのだが……。

映画『愛されなくても別に』の感想

本作『愛されなくても別に』ではずっと、この記事の冒頭からしばらく書いてきたような「親子のあれこれ」が底流にあり、まずはその部分の描写がとても良かったなと思う。メインで描かれる3人はそれぞれ全然違う状況にいるのだが、「親のせいでハードモードの人生を歩まされている」という点は共通しているし、その上で、「『クソ』としか名付けようがない現実の中で必死にもがき、時に諦め、それでもどうにか前進していく様」が描き出されている。まずはそんな「底流」の部分が素晴らしかった

そしてその上で、本作で描かれる「宮田と江永の関係性」が私にはとても素敵に見えていて、この点こそが本作の最大の魅力だなと思う。

宮田と江永が置かれている「クソみたいな現状」

宮田は冒頭から「他者を寄せ付けない雰囲気」を醸し出している(まあそれは江永にしても同様だが)。彼女は「大学には、幸せな人間か、自分が幸せであることに気づいていない人間しかいない」「幸せな人間とは分かり合える気がしない」みたいなことを言ったりするような人物だ。まあ、彼女の日常生活を見ていれば、そんな風に言いたくなる気持ちも理解出来るだろう。「学費を自分で稼ぐ」というのは自ら言い出したことだから100歩譲って仕方ないとして、私が酷いと感じたのは「母親が彼女に家事を押し付けていること」である。

例えばこんなシーンがあった。夜勤明けで疲れている宮田がソファで寝ていた時、母親が「ホントサンドを食べたい」と彼女を起こす。宮田は「午後から授業だからもう少し寝たい」と言うのだが、母親は無視結局ホットサンドを作らされるのだが、にも拘らず、母親はほとんど食べもせずにそのまま出かけるのだ。クソ腹立つなこいつ。

しかもだ。娘が作ってくれたホットサンドにほとんど手を付けずに出かける直前、母親は「愛してるよ」と口にするのである。うわー、腹立つ! 許しがたい振る舞いだろう。私だったら、この1回の行為で「こいつとは断絶」みたいな感じになってしまうと思う。恐らく宮田は、こんなクソみたいな日常を長年過ごしてきたのだと思う。マジでやってらんねー。

さて、一方の江永は、登場からしばらく他者と関わる描写がほぼないので、「孤高の存在」みたいな雰囲気でいる。「父親が殺人犯」という事実は少し後に出てくるので、だから最初は「江永はどうしてそんな雰囲気でいるのだろう?」と疑問に感じるんじゃないかと思う。ただ、彼女の生い立ちの背景が明かされると、「なるほど、そんな風にしか生きてこられなかったのだろうな」と理解出来るようになる。

さらに江永には、「父親が殺人犯」というだけではない「親とのあれこれ」があり、そういう部分も含めて「『他者との関わり』にどうも積極的になれない」という感覚を抱いているのだろうなと思う。こちらも、宮田とは色んな意味で大きく違うものの、「ややこしい日常を生きている」という意味では同じである。

さて、普通こんな2人が関わりを持つことなどないだろう。どちらも「他者を寄せ付けない雰囲気」を醸し出しているのだから、距離の縮まりようがない。しかし本作では、そんな2人の関係性がかなり自然な形で急接近する展開になっていく。結果的には、お互いの「歪さ」ゆえに絶妙な距離感になれたわけで、そんな2人の関係性がとにかく素敵だった。

とにかく素敵だった「宮田と江永のテンションの低いやり取り」、そしてその中でも最も好きな会話

私は宮田と江永の「テンションの低い関係性」がとにかく好きだ。メチャクチャ良かった。

2人とも基本的に「他者との関わりに期待なんかしていない」はずで、だから恐らく、普段から他者とのやり取りを「省エネ」的に済ませようとしているのだと思う。作中には、宮田が木村に話しかけるとか、宮田が同じゼミの仲間から飲み会に誘われるといったシーンがあるのだが、いずれも「超省エネ」的なやり取りだった。

また江永には恐らく「話すモードスイッチ」にようなものがあって、「意識的にそれをONにした時だけ喋る」みたいな感じなんじゃないかなと思う。そして同時に、「なるべくそのスイッチをONにしないようにしている」みたいな雰囲気も感じられた。

そんな2人が、望んだわけでもなくある意味で”仕方なく”急接近することになったわけで、だからこそ「テンションが低いまま関係を始められた」のだろう。ある程度続いている関係性ならこういうやり取りになるのも自然だが、出会ったばかりの時点でこんなローテンションで関われることはあまりないように思う。そして個人的には、こういう関係性こそ理想である。

さて、本作を観たちょうど前日の話だが、年下の異性の友人と以前から飲もうという話になっていて、それで相手から「今日は最初から川で飲みましょう~」と提案があった。その子とは普段から、「飲み屋で飲んだ後、最終的にコンビニで買った酒を川で飲む」みたいなことをしているのだが、今日は最初からそうしましょうというわけだ。もちろん私としても全然OKで、酒とつまみを買って川で飲んだ

彼女とは割と長い付き合いということもあり、宮田・江永ほどではないものの割と「テンション低い感じ」で関われていると思う。まあそんなこともあって、宮田と江永の関係を見て彼女のことを思い出したし、「やっぱりこういう雰囲気って良いよな」と改めて感じたりもした。

さらに良かったなと思うのは、宮田も江永もずっとお互いを苗字で呼び合っていたこと。これは私のイメージでしかないが、特に女性同士の場合は、最初から、あるいは仲良くなったタイミングで下の名前で呼ぶようになるのが一般的な気がしている。しかしこの2人の場合、そんなことは全然ない。たぶんどちらも、「最初から苗字だったし、変える理由なんか別にない」みたいな判断で苗字呼びをしているだけだとは思う。ただ彼女たちの雰囲気からはなんとなく、「呼び方なんかで関係性の深さが測られること」に抵抗してるみたいな雰囲気も感じた。「誰に理解されなくたって、自分たちが『仲良い』って思ってたらそれで十分」というスタンスに見えたのである。正直、傍から見たらこの2人は全然仲良さそうには見えないと思うが、会話を聞いていると「深いところで理解し合ってるんだろうな」ということが分かるし、良い関係だなと思う。

で、そんな2人の会話の中で一番好きなやり取りを紹介したい。

それは、宮田が「性的な関係って私は無理」と口にするところから始まる。それに対して江永が、「『性的』ってどれぐらいから? 例えば、手を繋ぐとかは?」と言って宮田と手を合わせるのだが、彼女は突然えづき始め、結局そのまま吐いてしまうのだ。その後宮田は、「男とか女とかいう以前に人間がダメ」と「他者を絶望的なまでに受け入れられない自身のあり様」を嘆く。しかしそれに対して江永はこう返すのだ。

宮田のそういう、私を人間扱いしてくれるとこ好き。

正直私は最初、このセリフの意味がスパッとは理解できなかったのだが、続けて江永が「みんなは私を女扱いしてるだけだから」と言ったことでようやく理解できた宮田は「女」を含む「人間」すべてを拒絶しているのだが、江永はそれを、「『女』じゃなくて『人間』として扱ってくれるの嬉しい」と受け取っているというわけだ。実に倒錯した感覚にも思えるが、ここに至るまでに描かれた2人のキャラクター的に凄くしっくり来るやり取りだったし、私にはとても素敵に感じられた。ホント、メチャクチャ良い関係だなと思う。

そんな2人の関係性を中心に描き出す、実に素晴らしい物語である。

最後に

本作においては、宮田・江永を演じた南沙良・馬場ふみかの存在感がとにかく素晴らしかったこの2人の演技が見事だったからこそ、宮田と江永の関係性も素敵に見えたのだろう。

南沙良は、容姿だけで言うなら「超正統派美少女」という感じなのに、宮田からはどことなく「内側から滲み出る陰キャオーラ」が強烈な感じがあって、まずはその佇まいが見事だった。彼女の周囲に「負のオーラ」がまとわりついている印象で、あの容姿でよくもまあこんなオーラが出せるものだなと思う。どことなく新垣結衣を彷彿とさせる雰囲気がある気もするし、とても興味深い役者である。

また馬場ふみかも、「自身の辛い境遇をネタみたいに話す」という江永の絶妙な雰囲気を見事に醸し出していて、メチャクチャ良かった。宮田もそうだが、江永もなかなか成立させるのが難しいキャラクターのはずで、それを「ホントにこういう人いそう」と感じさせるレベルまでちゃんと落とし込んでいたのが見事だなと思う。

本作はもしかしたら、「今まさにしんどい状況にいる人」にはちょっと刺さりすぎてしまうかもしれないが、是非観てほしい作品である。「自分以外のことなんかどうでもいい」と潔く開き直る勇気をもらえるんじゃないかと思う。

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