【知的】文系にオススメの、科学・数学・哲学の入門書。高橋昌一郎の「限界シリーズ」は超絶面白い:『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 科学・哲学・経済・生命など様々な分野の話が展開される『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』の3作を一気に紹介する
  • 「専門家と一般人が架空のシンポジウムで議論する」というスタイルがもの凄く読みやすい
  • どの順番で読んでもいいので、気になった巻から手に取ってみてほしい

「存在さえ知らない事柄」を理解することはできない。本書は「未知の考え・議論の存在」を知るのに有効な1冊だ

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

高橋昌一郎「限界シリーズ」3作『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』を一気に紹介。人間の「理性・知性・感性」の限界を認識しておこう

この記事では、『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』という、いわゆる「限界シリーズ」3作を一気に紹介する。タイトルの字面も、「講談社現代新書」から出版されているという事実も、なんとなく「難しさ」を感じさせるかもしれないが、そんなことはない。後で詳しく触れるが、「会話形式」になっており、見た目の印象とは大きく違って非常に読みやすい作品だ。

テーマも多岐に渡り、「科学」「数学」のような理系分野から「言語」「思考」、あるいは「愛」「自由」など様々な領域の話題に触れられていく。特定の話に留まらず、複数の分野の話題をシンプルにまとめているので、「特定の知識について知りたい」という動機ではなく、「知的好奇心を味わいたい」という気分で読むことをオススメする。

それまでの「限界シリーズ」と同じように、本書の最大の目標は、なによりも読者に知的刺激を味わっていただくことにある。

「感性の限界」(高橋昌一郎/講談社)

読む順番は、出版順である必要はない。興味のある巻から読んでもらって大丈夫だ。どれか1冊読み、その議論のスタイルが気に入れば、関心の持てないテーマだとしても別の作品も読んでみよう。テーマとして設定されている話題以外にも様々な話が盛りだくさんなので、メインテーマだけで判断するのはもったいないと思う。

「架空のシンポジウム」という設定

本書の最大の特徴は、様々な人物が「架空のシンポジウム」で話しているという設定で議論が展開されることだ。これが、難しいテーマを扱いながら読みやすい作品に仕上がっている最大の要因と言えるだろう。

シンポジウムという設定なので、「論理学者」「数理経済学者」「科学主義者」「軍事評論家」「急進的フェミニスト」など、堅い肩書きを持つ人も当然出てくる。しかしそれだけではない。本書には、一般人代表として、「会社員」や「学生A」といった人物も出てくるのだ

議論はこんな風に展開する。専門家がある話題を出し、それに別の専門家が批判を繰り出す。と同時に、「会社員」や「学生A」が、そもそもそれってどういうことなんですか? と素朴な疑問をぶつけていく。「司会者」がきちんと議論を采配しながら、参加者みんなであーでもないこーでもないと意見や疑問をぶつけ合うスタイルなのだ。

『理性の限界』で初めてこの構成に触れた時には衝撃を受けた

私は、科学・数学・哲学などの分野が好きなのだが、決してそれらをするっと理解できるほど頭が良いわけではない。いわゆる「下手の横好き」であり、好きだが決して得意ではないのだ。

だから、「科学者や哲学者が一般向けに書いた本」でも難しく感じることが結構多い

もちろん、そういう専門家の中にも、異常に読みやすい文章を書いてくれる人はいる。しかし、みんながみんなそうではない。どうしても、基本的な知識やある程度以上の理解力がないと読めない本もあって、なかなか苦労させられてしまう

しかしこのシリーズのようなスタイルだと、扱われている内容が高度でも、議論の進め方が非常に秀逸なので、割とすんなり理解できる。特に、「会社員」や「学生A」が、読者が疑問に感じる部分を先回りで質問してくれるので、とてもありがたい。

本書は、このようなスタイルの本であるため、個々の話題についてそこまで深堀りはされない。しかし、本書を読んだ後でそれぞれの話題の入門書に進めば、理解度は格段にアップするだろうと思う。

「何かを知る」ためにはそもそも、「その『何か』が存在していること」を認識しなければならない。しかし本書で扱われるテーマの多くはそもそもその存在を知る機会が少ないものだと思う。また、「愛」「自由」といった普遍的なテーマも取り上げられるが、それらに対してどのような知見・議論が存在するのかを知らないことも多いだろう。

だからこそ、まずは「この世の中に何が存在するのか」を知ることが大事だ。深堀りするかどうかはそこから考えればいい。

そういう、「存在を知る」という意味で、本書ほど秀逸な作品はなかなかないだろう。

それではここから、3作それぞれにおいてメインとなるテーマや、私が面白いと思った話題について個々に触れていくことにする。この記事では当然「架空のシンポジウム」のやり取りを真似ることは難しいので、紹介するテーマや議論を難しいと感じることもあるかもしれない。しかし、「架空のシンポジウム」という議論スタイルを通せば格段に分かりやすくなるので、この記事だけで難しさを判断しないでもらえるとありがたい。

アロウの不可能性定理:『理性の限界』

「アロウの不可能性定理」は、ざっくり言えば「投票」に関する話だ。その帰結を難しく書けば、「完全に民主的な社会的決定方式は存在しない」となる。分かりやすく書くと、「世の中に存在するすべての『投票形式』にはどれも欠陥がある」というイメージだ。

「投票」の話は、国政選挙や人気投票など、日常の様々な場面で出てくるかなり身近な話題と言っていいだろう。そして研究によって、「どのような『投票形式』を採用するかで、同じ得票数でも結果が変わってしまう」ことが既に明らかになっている。投票形式の違いで、どんな人が1位になりやすいかが変わってくるのだ。そう言われると、ちょっと自分にも関係しそうな話だと感じられるだろう。

この「アロウの不可能性定理」は非常に難解なようで、自力で証明できる経済学者はほとんど存在しないと言われているらしい。しかしそんな難しいテーマを、なんとなく分かった気にさせてくれるのだ。

「アロウの不可能性定理」の説明のために、過去あった実際の選挙の話題が多数取り上げられる。ブッシュとゴアがアメリカ大統領選で争った際には、ゴアの方がブッシュよりも33万票も上回っていたのだが、実際に当選したのはブッシュだった。これは、「勝った方が、その州の票を総取りできる」という選挙の仕組みによるものだ。また、フランスで行われたある選挙では、上位2名による決選投票が行われるスタイルで争われたが、最有力とされていた候補が決選投票に進めないという波乱があった。これもまた、投票形式によるものなのだ。

実際、私たちの日常生活でも、状況に適した投票形式が採用されている。「単記投票方式」や「上位二者決選投票方式」では「強いリーダーシップを持つ者」が選ばれ、「順位評点方式」は様々な分野の専門家集団から代表者を選出する場合に使われ、「勝ち抜き決選投票方式」は企業の商品開発の現場でよく見られるという。

普段特に、「投票形式」のことなど意識せずに投票してしまうが、それぞれが持つ性質はかなり違うということだ。考えたことなどなかったので、「違いがある」ということに驚かされた。

また、「アロウの不可能性定理」と直接には関係ないのだが、「囚人のジレンマ」に関する話も出てきて興味深い。「囚人のジレンマ」についてはちょっと自分で調べてほしいが(「ゲーム理論」と呼ばれる分野で非常に有名だ)、この「囚人のジレンマ」をゲーム化しプログラム同士で闘わせた結果、「TFT」あるいは「しっぺ返し戦略」と呼ばれる、相手の打った手をそのままやり返す戦略が最も勝ちやすいと分かったそうだ。この話もとても面白かった。

ハイゼンベルグの不完全性原理:『理性の限界』

「ハイゼンベルグの不完全性原理」は、科学の世界の「量子力学」という分野で登場する。その詳細については以下の記事に書いたので読んでほしい。

非常にざっくり説明すれば、「小さな物質の『位置』と『速度』を”同時に正確に”測定することはできない」という、「量子力学」の世界を制約する強いルールのことを指す。私たちの日常生活では、「位置」と「速度」を同時に正確に測定することは決して難しくないが、極小の世界になるとそれが「原理的に」不可能なのだ。「原理的に」というのは、測定機械の精度に制約があって調べられないのではなく、どれほど精密な測定機械を作ったとしても不可能という意味である。

この不確定性原理、あまりに私たちの日常感覚とかけ離れているためイメージするのは難しいが、本書の「バードウォッチング」を例にした説明が非常に分かりやすかったので紹介しよう。

いつか友人と一緒にバードウォッチングに行った時に、似たような経験をしました。バードウォッチングの醍醐味は、まったく自然のままの鳥の姿を見て、その鳴き声を楽しむことにあります。遠くから双眼鏡を使えば、いきいきとした鳥の姿を観察することはできますが、あまり鳴き声が聞こえません。ところが、鳴き声が聞こえるまで鳥に近づこうとすると、今度は鳥が人の気配を察して逃げてしまうのです。つまり、自然なままの「鳥の姿」と「鳴き声」を同時に味わうのは非常に難しいわけでして……

「理性の限界」(高橋昌一郎/講談社)

なるほど、上手い説明をするものだ。しかし、あくまで「例え」である。誤解してほしくないのは、この「バードウォッチング」の話なら、技術で解決できるということだ。たとえば、木に無人カメラを設置すれば、自然なままの「鳥の姿」と「鳴き声」は同時に味わえる(もちろん、それを「バードウォッチング」と呼んでいいのか、という問題は残るが)。しかし、「ハイゼンベルグの不完全性原理」の場合は、技術での解決は不可能なのだ。「生身の人間が宙に浮くことはできない」というのと同じような意味で、「位置」と「速度」を同時に測定することはできないのである。

この「ハイゼンベルグの不完全性原理」と併せてよく語られるのが、科学の世界を驚愕させ続けている「二重スリット実験」だ。これについては図を使わずに説明するのが困難なので、以下のリンク先の説明を読んでほしい。

この「二重スリット実験」については様々な亜種実験が存在し、世界の原理原則について驚くべき示唆を与えてくれている。本書でもその亜種実験がいくつか紹介されているが、中でも最も驚かされたのは、「世界各地で同時に『電子1個だけを発射』し、後にそのフィルムを重ね合わせたところ、干渉縞が現れた」という実験だ。「二重スリット実験」が何か分からない方にはどこが驚きポイントなのかも理解できないと思うが、とにかく、「我々が生きる世界の法則は常軌を逸している」と実感できる非常に興味深い実験なので、是非理解を試みてほしい。

本書には、「結局『科学』とはどんな営みなのか?」という議論も展開される。

その議論の帰結の1つとして、「科学とは物語でしかない」という話が出てくるのも興味深い。私たちは、「科学的に証明された」と聞くと、「絶対に正しい」と思い込んでしまいがちだ。しかし、「科学って何?」を突き詰めて考えてみると、結局「信じるか信じないか」の話に行き着いてしまう。だからこそ「物語でしかない」という捉え方になるというわけだ。

しかしそれでも、人類が長年の叡智を結集させた「最も確からしい物語」こそが「科学」なのだから、私はそれを信じる。しかし同時に、「科学の限界」を理解しておくこともまた重要だと示唆するのだ。

ゲーデルの不完全性定理:『理性の限界』

「ゲーデルの不完全性定理」は数学の世界では非常に有名な話である。これについても別に記事があるので、どんなものなのか詳しい話は以下の記事を読んでほしい。

ざっくり説明すると、「それがどんな枠組みであれ、『その枠組み中では正しいかどうかを判定できない問題』が存在する」という主張になる。この記事で初めて「ゲーデルの不完全性定理」という単語を目にした人には、何を言っているのかさっぱり理解できないと思うが、本書では「司法システムと犯罪者」を例にした説明がある。「司法システム」というのは、要するに憲法や刑法などを指していると考えてもらえばいいだろう。

例えば、ある人物Aがある行為Xを行ったとしよう。その行為Xは、誰がどう判断しても「犯罪」と感じられるようなものである。そして、その行為Xを行ったのが人物Aであることも間違いないとしよう。つまり、「人物Aが犯人」と確定しているというわけだ。

しかし、日本の法律を洗いざらいすべてひっくり返してみても、この行為Xを「犯罪」と規定する条文を見つけることができない。市民の気分としては行為Xは明らかに犯罪であり、すなわち「人物Aが犯人」であるにも関わらず、行為Xを犯罪と立証する「司法システム」が存在しないのだ。

より具体的な例を出した方がわかりやすければ、「盗聴」を挙げよう。「盗聴」は明らかに犯罪に思われるが、「盗聴器を設置して盗聴する行為」を犯罪と規定する法律は存在しない。「盗聴」で逮捕されるのは大体、「住居侵入罪」である。

ゲーデルが主張した「不完全性定理」もこれに近い。私たちが採用する「司法システム」では、「盗聴」という行為を「正しい」とも「間違っている」とも判定できないように、ゲーデルは、「どんな枠組みを設定しても、その枠組みの内側の理屈では正しいかどうかを判定できない命題が存在する」と示したのだ。

しかしそもそもだが、何故そんな証明が生まれたのだろうか。そこにはヒルベルトという数学者が関係している。数学という学問はそれまで、様々な数学者が色んな発見をバラバラに行うことで発展してきたが、それを体系的に整理して、ごく少数の前提からすべての命題を証明しよう、というプログラムをヒルベルトが立ち上げたのだ。しかし、「真偽を判定できない命題が存在する」とゲーデルが証明したことで、このプログラムが実現不可能であると判明してしまったのである。

ここまでくると、数学なのか哲学なのか分からなくなってくるが、数学・哲学どちらの世界にも衝撃を与えた定理として、非常によく知られている

言語の限界:『知性の限界』

メインで語られるのは、ウィトゲンシュタインだ。彼は前期と後期でその主張がまったく異なることでも知られており、本書ではその変遷にも触れられていた。

前期の哲学は、『論理哲学論考』という本にまとめられている

著:ウィトゲンシュタイン, 著:野矢 茂樹
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ウィトゲンシュタインは、「哲学的な問題などそもそも存在しない」という結論にたどり着いた。彼自身の言葉を引用するとこうなる。

語りうることは明らかに語りうるのであって、語りえないことについては沈黙しなければならない

語れる事柄は、「語れる」のだからそもそも問題ではない。そして語れない事柄は、ただ言葉の意味が不明瞭なだけであり、それは「問題として認識される以前の混沌」でしかないのである。「哲学的な問題が存在する」ように見える理由は、ただ言葉が不明瞭なだけに過ぎず、「哲学的な問題」はすべて「擬似問題」という主張をしているわけだ。

一方、後期のウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」という概念を生み出し、ここから「すべての言語に共通する本質的なものなど存在しない」という結論に至る。

言語はそもそも、「社会集団におけるそれぞれの生活形式によってルール付けされるもの」だとウィトゲンシュタインは指摘した。そしてだからこそ、そんな言語によって行われる思考や身につく習慣も、自ずと文化によって違いが生じるというわけだ。

どちらの話も、短く紹介できるようなテーマではまったくないのでこれ以上の説明は諦めるが、ウィトゲンシュタインを中心軸に据えながら、「言語」がどのような限界を内包しているのかを明らかにする内容だ。またその過程で、思考は言語に依存してしまうという「サピアウォーフの仮説」や、観察は理論と切り離すことができないという「ハンソンの観測の理論負荷性」なども取り上げられる。

予測の限界:『知性の限界』

「予測の限界」では主に、「科学」に関する話題が扱われる。

「『科学である』とはどういうことか?」を定義するのは、実はなかなか難しかった。科学では基本的に、「帰納法」と呼ばれる、これまでに起こった様々な事象から本質を抽出する手法を用いて実験や観察の結果を分析し、理論を導いてきた。しかしポパーという人物が、この「帰納法」には根本的な問題が存在することを明らかにしてしまったのである。「帰納法」に基づいているからといって科学とは言い切れない、というわけだ。

そこでポパーが提唱したのが「反証可能性」という考え方である。これについては以下の記事で詳しく書いた。

簡単に書くと、「『誤りだと指摘される可能性のある仮説』でなければ科学とは言えない」となる。なんとなく、「誤りだと指摘される可能性のある仮説」では不十分に思えるかもしれない。しかし、次の占い師の話で考えてみると、この「反証可能性」の威力を理解できるだろうと思う。

あなたは占い師から「今日の運勢はとても良いいです」と言われたとしよう。しかし同じ日に、車に轢かれて大怪我に遭ってしまう。普通に考えれば「運勢が良い」という「占い(仮説)」は間違いだったと思えるが、占い師は「運勢が良かったから、事故に遭っても死ななかったのだ」と主張するかもしれない。

つまりこの占い師の「占い(仮説)」は、どうやっても「間違い」だとは指摘できない「反証不可能な仮説」なのである。だから「科学的ではない」と判断できるのだ。

このように、「反証可能性」こそが科学の指標であることが説明される。

また、「確証原理」の話も実に興味深い。本書では、カラスの例で説明される。

まずは「確証原理」そのものの説明をしよう。例えば、「すべてのカラスは黒い」という「仮説」を立てるとする。この場合、黒いカラスが1羽発見される度に、この「仮説」の確証度(正しさの度合い)は高まると考えていいだろう。このような判断を「確証原理」と呼ぶ。

さてここで、論理学の「対偶」という概念に触れよう。「AであればBである」という命題に対して、「BでなければAではない」を対偶と呼ぶ。先ほどのカラスの「仮説」の場合は、「すべての黒くないものはカラスではない」が待遇だ。論理学の世界では、「命題」と「対偶」の真偽は常に一致することが知られており、命題が真なら対偶も真、命題が偽なら対偶も偽である。

さて、この「対偶」の考え方から「確証度パラドックス」が生まれるのだが、その説明をしていこう。

先ほどと同様に考えれば、「すべての黒くないものはカラスではない」という主張は、「黒くないもの」、つまり「黄色いバナナ」や「赤いリンゴ」などが見つかれば見つかるほど確証度が高まる。一方で、「すべての黒くないものはカラスではない」は「すべてのカラスは黒い」と真偽が一致すると先述した。つまり、「黄色いバナナ」や「赤いリンゴ」は、「すべてのカラスは黒い」の確証度を高める存在でもあるわけだ。

ではここで、「すべてのカラスは白い」という「仮説」について考えよう。先ほどと同じように考えて、「すべての白くないものはカラスではない」が待遇である。

ここで何かに気づかないだろうか? そう、「黄色いバナナ」や「赤いリンゴ」は黒色でもないが白色でもない。つまりそれらは、「すべての白くないものはカラスではない」の確証度を高める要素でもあるのだ。さらに先ほどと同様に考えることで、「すべてのカラスは白い」の確証度も高めることになる

まとめるとこういうことだ。「黄色いバナナ」や「赤いリンゴ」の存在は、「すべてのカラスは黒い」という「仮説」だけではなく、「すべてのカラスは白い」という「仮説」の確証度をも高める。しかし、「すべてのカラスは白い」という主張は明らかに誤りだ。それなのに、「黄色いバナナ」や「赤いリンゴ」の存在はその主張を、「すべてのカラスは黒い」と同程度の確証度へと引き上げるのだ。

これを「確証度パラドックス」と呼んでいる。正しい論理を積み重ねたはずなのに矛盾が生じてしまう奇妙な理屈は非常に興味深い

また未来予測に関するパラドックスも、考えれば考えるほど頭が混乱してくる面白い話だ。

宇宙人が地球にやってきたとしよう。この宇宙人は「脳検索装置」というテクノロジーを持っている。地球人の脳を一瞬でスキャンして思考を読み取り、そこから得られる情報によってその人間の未来の行動を正確に予測することができるのだ。あなたは地球へとやってきたその宇宙人の案内役を買って出る。そしてその期間中ずっと、宇宙人はあなたの未来の行動すべてを完璧に予測し続けていたとしよう。

さて、宇宙人が地球を去る日がきた。宇宙人はあなたにプレゼントを用意しており、目の前には2つの箱が置かれている。箱Aは透明で中に100万円が入っているのが見えるが、箱Bは不透明で中身が入っているかどうかも見えない状態だ。

さてこの2つの箱を前にして、宇宙人はあなたにこんなことを言う。

あなたは、①箱Bのみを取るか ②箱AとBを両方取るという二つの選択肢の内の一つを選べます。ただ、私があなたの脳をスキャンしてあなたの行動を予測していることに注意してください。もし脳検索装置が、①あなたが箱Bのみを取ると予測した場合、私は箱Bに1億円入れておくが、もし②あなたが箱Aと箱Bの両方を取ると予測した場合、箱Bは空にしておく。

「知性の限界」(高橋昌一郎/講談社)

このパラドックスで重要な点は、「1億100万円を手に入れられる可能性は存在するか」である。①箱Bのみを取ることにして1億円手にすれば十分かもしれないが、やはり可能性が存在するなら、最大利益である1億100万円を手に入れたいところだ。しかし、1億100万円を手にするためにはどうしたらいいだろうか?

考えれば考えるほど思考が迷宮入りしていくような話で、まさに「予測の限界」を実感させられるパラドックスだと言える。

思考の限界:『知性の限界』

まず紹介されるのは、「人間原理」と呼ばれるものだ。科学の世界の話題なのだが、とても科学の話とは思えないぶっ飛んだ考えだと感じる人もいるだろう。詳しく説明すると色んな話に触れる必要があるのだが、ここではあまり深入りはしない。概要をざっと紹介するに留めよう。

「人間原理」の基本的な発想は、「この宇宙は、我々人間のような知的生命体が生まれる性質を備えた形で誕生した」となる。一気に胡散臭くなっただろう。何故なら、この考えを採用すれば自然と、「創造主がこの世界を作った」という結論に行き着いてしまうからだ。実は、創造主の存在を仮定せずとも成立する「人間原理」の解釈もあり、私はそちらの考えを気に入っているのだが、その説明はまた別の機会に回そう。

「創造主」がいるかどうかは一旦脇に置くとして、科学の世界には「人間原理」という、「知的生命体が生まれるような形で宇宙が誕生した」とする考えが存在するわけだ。もちろん、すべての科学者が認めているわけではないし、というか、大半の科学者が眉唾ものだと捉えているようだが、しかし「人間原理」的な考え方を採用しなければ解釈が難しいものも存在する

その一例として本書で紹介されるのが、「宇宙を支配する6つの定数」だ。「定数」というのは、「変動しない固定された数値」のことを指す。例えば、「光速」はどんな場合でも一定で、秒速約30万kmだ。つまり「光速」も「定数」である。

本書で紹介される「6つの定数」の中に、「ε(イプシロン)」と表記されるものがある。これが何を示す定数なのかイマイチ理解していない。しかし、我々が生きているこの宇宙の「ε」の値は「0.007」であり、もしこの数値が「0.008」や「0.006」だったら、我々人間は存在できないという事実が明らかになっているのだ。

この「ε」は、ある一定の範囲内という制約はあるかもしれないが、基本的にどんな値でも取りうる。つまり、「0.007」でなければならない必然性はないということだ。しかし、「0.007」からほんの僅かでもズレていれば、宇宙が誕生したとしても、その中で我々人類が生まれることはなかったのである。

また、この「6つの定数」の中には、「空間次元数」も含まれている。私たちが生きる宇宙はご存知の通り「3次元空間」(時間も含めれば「4次元時空」)だが、3次元空間でなければ生命は進化できないと分かっているそうだ。

私たちは3次元空間でしか生きたことがないからイメージしにくいが、宇宙の空間次元は別に「3」である必然性はない。2でも100億でもいいのだ。しかしその中で、「3」だけが生命の進化を可能にする空間次元なのである。

このような話を聞くとどうしても、「『ε』や『空間次元数』は、生命が誕生するように”調整”されているのではないか」と考えたくなるだろう。そのような発想の延長にあるのが「人間原理(の解釈の1つ)」というわけだ。本書ではこの「人間原理」を端緒にして、「神の存在証明」の話が展開されていく。

本書では様々な種類の「神の存在証明」が紹介されるが、個人的に面白いと感じた証明について触れよう。

証明したい命題を整理しておくと、「全能の神は存在する」となる。ここでは「全能」というのがポイントだ。「神」にどんなイメージを持つかは人それぞれだろうが、やはり「何でもできる存在」と考えたくなるだろう。

さてここで、誰かと「神は存在するか」という議論をしているとしよう。そしてそのやり取りの帰結として相手が、「神は存在しないだろうが、もし存在するのなら全能だろう」と主張したとする

この場合、これを認めた人物は「全能の神は存在する」という命題も受け入れざるを得ないことになるのだ。何故だろうか。

全能である神は何だってできる。そして当然、何だってできる神が、「存在する」なんて簡単なことができないはずがない。つまり、「存在するなら神は全能だ」と主張するなら、必然的に「全能の神が存在する」という命題も認めなければならないということになるのである。

なんともパラドキシカルな話に思えるが、なんとなく納得させられてしまう感じもある。面白い話だ。

行為の限界:『感性の限界』

ここでは、「知覚」を出発点として、「行動経済学」「動物行動学」「情報科学」「認知科学」など、かなり多様な分野に渡って話が展開される。人間や動物が、行動に際してどんな情報・認知に影響を受けてしまうのかについて様々な実例が紹介されていて面白い

中でも最も興味深いのは、やはり「行動経済学」の話だろう。ここからは、本書で紹介されている「行動経済学」に関する様々な話を取り上げる。

まずは「アンカリング」から。これは、ある数字が「アンカー(錨)」となり、その数字を基準に物事を判断してしまう人間の行動原理のことを指す。本書では、「アンカリング効果」を発見しノーベル経済学賞を受賞したカーネマンとトヴェルスキーによる「国連実験」が紹介されている

2人は大学の教室に、1から100までの数字が書かれたルーレットを持ち込んだ。このルーレットは「10」か「65」のどちらかでしか止まらないように細工されていたのだが、被験者である学生にはそのことは知らされていない。

さて2人はルーレットを回し、「国連にアフリカ諸国が占める割合が、ルーレットで出た数字より高いか低いか」という質問をした。つまり学生は、「10が出ました。では国連にアフリカ諸国が占める割合は10%よりも高いか低いか?」「65が出ました。では国連にアフリカ諸国が占める割合は65%よりも高いか低いか?」のどちらかの質問に答えることが求められるというわけだ。

すると、前者の場合は「10%高い」と推定し、その平均は25%だったのに対し、後者の場合は「65%より低い」と推定し、その平均は45%だった。これは明らかに、質問内容とはまったく無関係であるルーレットの数字に引きずられて答えているということになる。

この「アンカリング効果」を実に効果的に使ったとされる「悪名高い裁判」がある。「マクドナルドのコーヒーを自らの過失でこぼして重度の火傷を負った老婦人が、『コーヒーの温度が高すぎたから』とマクドナルドを訴えた裁判」だ。老婦人に対してなんと286万ドル(およそ3億円)というとんでもない額の損害賠償の支払いが命じられた。この裁判で弁護士が巧みに「アンカリング」を行ったという。

日本の場合、「損害賠償」は「実際の損害を補填する金額」しか算出されないが、アメリカでは「懲罰的損害賠償」の請求が可能だ。そこで弁護士はその算出に際して、「マクドナルド全店のコーヒーの売上を基準にするのはどうか」と主張した。つまり弁護士の「アンカリング」によって陪審員は、「懲罰的な意味を込めて、マクドナルド全店のコーヒー売上の1日分ぐらいの損害賠償金を認定してもいいのではないか」と刷り込まれ、結果として約3億円という日本では考えられない額になったのである。

また、「フレーミング効果」も有名だろう。本書には以下のような質問が載っている。あまり深く考えずに、すぐ答えを出してみてほしい。

二つのボウルがあって、「ボウルA」には白玉9個と赤玉1個、「ボウルB」には白玉92個と赤玉8個が入っているのが見えていて、各々の個数も被験者にハッキリと告げられているとしましょう。被験者はボウルに手を入れて、かき混ぜてから一つの玉を取り、それが赤玉だったら景品を獲得するというゲームです。さて、あなただったら、どちらのボウルから玉を取りますか?

「感性の限界」(高橋昌一郎/講談社)

これについては実際に実験が行われており、「ボウルB」から取る被験者が多かったという。冷静に確率を考えれば、明らかに「ボウルA」から取るのが正解だと分かるはずだ。しかし瞬時に答えなければならないとしたら、「ボウルAよりボウルBの方が赤玉がたくさん入っているから」と考えて「ボウルB」を選んでしまうかもしれない。

このように、表現方法や伝え方によって、相手に与える印象が変わることを「フレーミング効果」と呼ぶ

では次に、2つの問いを用意するので、それぞれ大臣の立場に立って答えを考えてみてほしい

あなたは主要国の厚生大臣で、ある感染症の病気に対策を講じようとしているとします。この病気には、すでに600人が感染していて、このまま放っておけば死亡することが推定されています。この感染症に対して、二つの対策が提案されます。
「対策A」を採用すれば、200人が助かります。「対策B」を採用すれば、600人が助かる確率が1/3、一人も助からない確率が2/3です。
さて、あなたが大臣だったら、どちらの対策を採用しますか?

「感性の限界」(高橋昌一郎/講談社)

あなたは主要国の厚生大臣で、ある感染症の病気に対策を講じようとしているとします。この病気には、すでに600人が感染していて、このまま放っておけば死亡することが推定されています。この感染症に対して、二つの対策が提案されます。
「対策C」を採用すれば、400人が死亡します。「対策D」を採用すれば、一人も死亡しない確率が1/3、600人が死亡する確率が2/3です。
さて、あなたが大臣だったら、どちらの対策を採用しますか?

「感性の限界」(高橋昌一郎/講談社)

いかがだろうか?

これも実験が行われており、前者では「対策A」が、後者では「対策D」が選ばれる傾向が強いそうだ。

しかし、文章をよく読めば理解できるが、この2つの問いは実は同じことを主張している。つまり、「対策A」と「対策C」はまったく同じものだし、同様に「対策B」と「対策D」もまったく同じだ。しかし、情報の出し方で、どちらが選ばれるのかが変わってしまうのである。

人間の判断にはこのようなエラーが付きものであり、だからこそ事前に、どんな間違いを犯す可能性があるのか知っておくべきだと思う。

意思の限界:『感性の限界』

ここでの大きなテーマは、「人間に自由意志など存在するのか?」である。

そしてその議論のために、「ミルグラムのアイヒマン実験」を実例にした「服従」の話と、「ドーキンスの利己的遺伝子」を中心とした「遺伝子による支配」の話が展開されていく。

「ミルグラムのアイヒマン実験」については、以下の記事に詳しく書いたのでそちらを読んでほしい。

様々な心理学の知見から、人間がいかに「服従」させられてしまうのかが分かっており、私たちの日常生活と無関係とは言えない話が様々に出てくる。

もう一方の、ドーキンスが主張した「利己的遺伝子」の考え方は次のようなものだ。

私たちは当たり前のように、「生命の基本は個体(肉体)だ」と考えてしまう。それぞれの個体が最小単位となって、生命の様々な行動が規定されているのだ、と。しかしドーキンスは、「生命の個体は単なる『遺伝子の乗り物』に過ぎず、生命の行動は、『種全体として遺伝子が最大利益を享受できるように規定されている』」と主張した。これが「利己的遺伝子」である。

例えばミツバチを思い浮かべると分かりやすいかもしれない。ミツバチは「女王蜂」や「働き蜂」などの役割に分かれており、それぞれの個体ではなく、「種(というか「巣」)全体」で最大の利益が得られるような行動をとっている。そして、ミツバチに限らずすべての生命にこの考えが当てはまるというのが「利己的遺伝子」の主張なのだ。

もし「利己的遺伝子」の考え方を採用するなら、我々には「自由意志」など存在しないということになるだろう。種全体として遺伝子が最大利益を得られるようにすべての行動が決まっているとするなら、各個体に自由意志があると考えるのは難しい。

しかし、決してそうとも限らないようだ。例えば本書には、「苦味物質を好んで摂取するのは地球上でヒトだけだ」という話が出てくる。そしてそれに続ける形で、心理学者スタノヴィッチの次のような考えが紹介される。

私たちはロボット――複製子の繁殖に利するように設計された乗り物――かもしれないが、自分たちが、複製子の利益とは異なる利益を持つということを発見した唯一のロボットでもある。

「感性の限界」(高橋昌一郎/講談社)

少なくとも我々ヒトは、完全なる「遺伝子の乗り物」というわけではなさそうだ

また、『感性の限界』全体で言及される「二重過程理論」という理論があるのだが、これも「利己的遺伝子」の話と結びついていく。

「二重過程理論」とは、人間には異なる2種類の思考システムが存在する、という考え方だ。論理的・意識的な「分析的システム」と、直感的・無意識的な「自律的システム」の2つが存在し、この2つの思考システムの存在で人間の様々な行動が説明できる、というわけである。世界的ベストセラーである『ファスト&スロー』は、この2つのシステムを理解し、どのようにして意思決定するのかについて書かれた本だ(私は読んでいないが)。

そして、「自律的システム」を「遺伝子の利益を優先するもの」と解釈することで、「二重過程理論」の話は「利己的遺伝子」と結びつくというわけだ。

我々が意識的にコントロール可能なのは「分析的システム」だけであり、こちらが個体としての利益を優先する行動を生む。一方で、遺伝子の利益を優先する「自律的システム」も存在し、我々はこのシステムをコントロールする自由がない。個体の利益と遺伝子の利益が相反する場合、2つのシステムが矛盾した働きをしてしまい、その結果、人間の行動が不合理なものになってしまうという説明は、非常に分かりやすかった。

また、「意識」と「行動」に関する衝撃的な実験も紹介されている。この実験については以下の記事で触れた。

ざっくりと結論を書くと、「『行動しよう』と意識する前に、その行動を取るための司令が無意識的に出されている」となる。

例えば「ペンを取る」という行動で考えてみよう。この場合、「ペンを取ろう」と意識した後で手が動く、と考えるのが自然なはずだ。つまり、「意識することで行動の司令が発せられる」という認識である。

しかし実験から、「意識する前に行動の司令が発せられている」ことが判明したのだ。私たちが「ペンを取ろう」と意識するよりも前に、既に手を動かす指令が出ているのである。では一体「行動の司令」を発したのは誰なのか? 「自分が意識するよりも前」に行動の司令が出ているのだから、行動の司令を出しているのは自分ではないことになる。

このような実験からも、「人間には自由意思などない」と考えられるようになっていったのだ

存在の限界:『感性の限界』

ここでは、「死」や「存在そのもの」などについて議論が展開される。紹介の仕方が難しいので詳しくは触れないが、「肉体の消滅という意味だけではない死」「カミュ作品を引き合いに出して行う『不条理』の議論」「『脳』と『意識』と『私の死』の関係性」など、「死」を中心軸としながら、様々に哲学的な思考が展開されていく。

最後に

『感性の限界』の巻末に、こんな文章がある。

「充分に進化した科学技術は、魔法と見分けがつかない」というアーサー・クラークの有名な言葉がある。それに付け加えたいのは、現代の科学者は「科学」を行なっているが、一般大衆は「科学」ではなく「魔法」を期待しているということである。

「感性の限界」(高橋昌一郎/講談社)

「限界シリーズ」で語られるのは決して「科学」の話に留まらないが、他の学問領域にも同じことが当てはまる

「『魔法』を期待している」というのは、「どんなことも可能」と考えているということであり、それは即ち「限界を理解できていない」ことを意味する。「科学」に限らず、様々な物事の「限界」を知っておくことは、「どんなことも可能」という誤った捉え方を避けるために必要不可欠と言っていいだろう。

そしてまさにこのシリーズは、我々人間が直面する様々な事象の「限界」を分かりやすく提示してくれる作品なのだ。知的好奇心を満たすというだけではなく、そういう実用的な観点からも非常に有益な作品だと言っていいだろう。

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