【実話】「ホロコーストの映画」を観て改めて、「有事だから仕方ない」と言い訳しない人間でありたいと思う:『ホロコーストの罪人』

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:ヤーコブ・オフテブロ, 出演:クリスティン・クヤトゥ・ソープ, 出演:シルエ・ストルスティン, 出演:ピーヤ・ハルヴォルセン, 出演:ミカリス・コウトソグイアナキス, 監督:エイリーク・スヴェンソン

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

今どこで観れるのか?

公式HPの劇場情報をご覧ください

この記事の3つの要点

  • ホロコースト以降も、世界中で大虐殺は起こっている
  • 「有事だったから仕方ない」という言い訳をしない人間でありたいと切に願う
  • 「見た目」では区別できない要素で差別されるが故の難しさ

「その時その場にいたら、自分はどんな行動ができただろうか」と考えさせられてしまう

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

有事であっても、平時と同じように真っ当な判断力を持ち続けたいと思わされる「ホロコーストの悲劇」を描き出す映画『ホロコーストの罪人』

「ホロコースト」と聞くと、真っ先にドイツが思い浮かぶだろうし、「ホロコースト」が関係する国としてイメージするのもドイツ周辺の国が多いだろう

しかしこの映画で扱われるのは、「ノルウェー」で起こったホロコーストの悲劇である。「北欧の国もホロコーストと無関係ではいられなかった」という事実さえ、正直まったく知らなかったこともあり、とても驚かされた。

映画の最後に、この映画で描かれる史実についてノルウェー政府が既に公式に謝罪しているという字幕が表示された。しかしその謝罪はなんと2012年のことだったそうだ。つい10年ほど前のことだ。もちろん、国内では恐らく「公然の秘密」のような扱いだったのだとは思う。しかし、非を認めて謝罪をしたのがたった10年前だということにも驚かされた。

まさに「知られざる史実」が描かれている作品なのだ。

ホロコーストを「過去の出来事」と捉えるのは間違っている

ホロコーストに直接的には関わりのない日本人にしてみれば、「ホロコースト」と言われても「教科書に載っている出来事」ぐらいの印象になってしまうかもしれない。第二次世界大戦当時のドイツが、あるいはその指導者のヒトラーが”イカれていた”だけであり、ホロコーストみたいなことはもう起こるはずがないなんて風に感じる人もいるだろう

しかし、そんなはずがない。

1975年には、カンボジアでポル・ポトが知識人を虐殺した。1994年には、100万人以上が殺されたとされるルワンダ大虐殺が起こっている。天安門事件もまだまだ記憶に新しいし、1995年にボスニアで起こった虐殺を描いた映画『アイダよ、何処へ?』が2021年に公開されている。

そして、ロシアがウクライナに侵攻した。市民を虐殺しているとも噂されている。

また、命こそ奪われないかもしれないが、主義主張の対立によって市民が苦しめられることも多い。ミャンマーでクーデターが起き、香港は中国から圧力を掛けられ、アフガニスタンではタリバンが再び実権を握った。

これらはどれも、「ホロコーストのようなもの」だと言っていいはずだし、そんな酷い出来事が、今日までそこかしこで起き続けている

幸い今はまだ、日本が「ホロコーストのようなもの」に巻き込まれることはないように思う。しかし、北朝鮮を初めとする周辺各国との関係がどう変化していくか分からないし、いつ日本がウクライナのような状況に陥ってもおかしくはないとも感じている。

だからこそ、ホロコーストで一体何が起こっていたのか、私たちは正しく知らなければならない

私は基本的に映画館でしか映画を観ないと決めているのだが、この『ホロコーストの罪人』を観た前後で複数の「ホロコーストを扱った映画」が公開されていた。そして観る度に、「そんな事実まったく知らなかった」というような話が出てくる。あまりの闇の深さに、恐ろしくなるほどだ。

有事であっても、平時と同じ判断基準を保ちたい

ホロコーストに限らず、人類の歴史に連なる様々な「悲劇」の当事者にもし自分がなったとしたら、果たして「真っ当な決断・行動」が出来るだろうか、と考えてしまう

未来を生きる人間には、何だって言える。「自分だったらそんなことしない」「良くもまあそんな非人間的なことができるな」「普通に考えればそんな判断になるわけないだろ」と、「自分ならそんな行動絶対にしない」という前提に立って当事者たちを批判できてしまう。

しかし本当に「自分ならそんな行動絶対にしない」と断言できるだろうか

私は、香港のデモやアメリカのBLM運動のようなニュースを見る度に感じることがある。鎮圧のために出動する警察官は、どんな気持ちでいるのだろう、と。組織の命令である以上、警察官は国家側の立ち位置につかざるを得ない。しかし中には、デモ側に共感してしまう人もいるだろう。それでも、彼らは「職務」として、デモを取り締まる「仕事」をしなければならないのだ。

ホロコーストに関わった多くの人も、きっと同じ感じだっただろう。実際に、「ミルグラム実験(アイヒマン実験)」と呼ばれる、「権威ある者から命じられれば、人はどれほど残虐なこともしてしまう」ことを示した実験もよく知られている。「アイヒマン」というのは、ユダヤ人を強制収容所へ移送する責任者だった人物で、ミルグラムという心理学者が、「アイヒマンは本当に極悪非道な人間だったのか?」という疑問を抱いたことからこの実験が行われた。

普段どれだけ優しくても、有事となれば人が変わる可能性は十分にある。そして、そのことを理解しているからこそ私は、「有事であっても、平時と同じ振る舞いが出来る人間でありたい」と切に願ってしまう。そういう状況に巻き込まれないことが一番だが、巻き込まれるかどうかは自分では選べない。だから、巻き込まれてしまったとしても、「平時の自分」のままでどうにか踏み留まりたいと思っているのだ。

映画『ホロコーストの罪人』の内容紹介

「悲劇」は、1942年11月26日に起こった。ノルウェーの国家秘密警察のロッドが、非番の者も含めた全員を招集し、「ノルウェー中のユダヤ人を集めて船に乗せろ」と指示を出したのだ。この船は当然、アウシュビッツへと向かう。ロッドは、上からの指令を受け取ってからたった48時間という短い時間でこのミッションを完遂させなければならなかった。

ノルウェーという国家が、警察を動かしてユダヤ人排除を行った、そんな悲劇の歴史である

舞台は3年前まで遡り、映画で主として描かれるユダヤ人のブラウデ家の物語が始まっていく。

ボクシングのノルウェー代表として勝利を飾ったチャールズは、兄弟たちと酒場で盛り上がっている。チャールズは既にラグンヒルとの結婚を考えているのだが、彼女がユダヤ人ではないことが引っかかっていた。彼の母親が熱心なユダヤ教信者で、安息日のお祝いなどユダヤ教のしきたりをきちんと守っているからだ。しかしチャールズ含め子どもたちは、自分たちが「ユダヤ人」だという自覚がさほどない。両親は元々リトアニアで暮らしていたが、ユダヤ人への迫害が厳しくなったことでノルウェーへと逃れてきた。子どもたちはノルウェーでの生活が長く、「ユダヤ人」よりも「ノルウェー人」という意識の方が強かったのだ。

チャールズは家族の反応をそれとなく確認し、無事ラグンヒルとの結婚が決まった。幸せな生活が始まると思われたが、不穏なニュースが届く。ドイツ軍がオスロフィヨルドの要塞を突破したというのだ。ドイツ軍がノルウェーに降伏を要求し、情勢は一気に悪化していった

しばらくして、ノルウェーに住むユダヤ人男性が一斉に逮捕されてしまう。ブラウデ家の面々ももちろん例外ではない。逮捕理由など一切知らされず、まったくなんのことか分からないまま連行されるが……。

映画『ホロコーストの罪人』の感想

欧米人は「ユダヤ人」と「ユダヤ人ではない者」を見た目で区別できるのか?

ホロコーストについて情報を得る度に、毎回不思議に感じることがある。それは、「ユダヤ人を見た目で区別できるのだろうか?」という点だ。欧米人の顔を見て出身国を判断することは日本人には難しいだろうが、欧米人にはきっとできるだろう。それは、私たちがアジア人の顔をなんとなく区別できるのとたぶん同じだ。そして、それと同じように、「ユダヤ人」と「ユダヤ人ではない者」は見た目で区別できるのか、という点がいつも疑問に感じられる。

何故そんな話をするのか。それは、言い方が良くないことは分かっているが、「見た目で違いがあるなら、『差別』が生まれる状況がまだ理解しやすい」と感じるからだ。

見た目の違いで「差別」が生まれる状況を良いと思ってるわけではないが、しかし理解しやすいかどうかで言えば理解しやすい。「見た目が違う」ということは「区別」が容易ということであり、「区別」は簡単に「差別」へと変わっていくからだ。

しかし、もし「ユダヤ人」かどうかが見た目で判断できないなら、ノルウェー国家がノルウェーに住むユダヤ人を排除したという事実は、日本でいうところの「部落差別」みたいなものなのだろうか、と考えたりもする。

「部落差別」も私には謎のシステムで、「見た目で分かるかどうか」で言えば、「部落出身かどうか」は「見た目」では判断できないはずだ。そして、「見た目では判断できない事柄で差別が発生する」という状況に私はちょっと驚かされてしまう。繰り返すが、「見た目」で差別することを良しとしているのではない。ただ、その方が状況は捉えやすいと思っている。一方、「見た目」では分からない事柄で差別が生まれるという状況は、私にとっては不思議でしかない。

そして「見た目では分からない」からこそ余計にややこしいとも言える。

福島第一原発事故がもたらしたの最大の難しさは、「放射能が目には見えないこと」にあったと思う。被爆しているかどうか、どの程度被爆しているのかなどが目で見て判断できるなら、また違った状況になっていたはずだ。しかし、放射能が目には見えない以上、それは望めない。そしてそれゆえに、良かれ悪しかれ「事故当時福島にいた人」という大きな括りでひとまとめにされてしまう。

「ユダヤ人」を見た目で判断できないのなら、ホロコーストも状況は同じだ。そこには「ヒトラーの妄想」しか存在しないことになる。やはりそのような状況は凄まじいと言う他ない。

ブラウデ家の子どもたちは、「ユダヤ人」ではなく「ノルウェー人」という自覚の方が強かった。しかし、戦時中とはいえ、実際には「ノルウェー人」とは見てもらえず、「ユダヤ人」として酷い扱いを受けてしまう。「見た目では分からない」からこその恐ろしさを実感させられた。

ロッドのように、葛藤せずに決断できる者もいる

秘密警察のロッドに関する描写は少なく、想像で補うしかないが、彼は、平時だろうが有事だろうが関係なく、上からの命令に従って躊躇なく酷い決断が出来てしまう人間に見えた。

もしロッドがそういう人間だとすれば、ロッドのような人間を「改心」させることは不可能だし、その努力をする価値さえないと感じてしまう

恐らくだが、ロッドの部下の中には、「ユダヤ人を集めて船に乗せろ」という指示に躊躇を感じた人もいたはずだ。状況的に、その指示が何を意味するのか理解できただろうし、自分が間接的にそのような悪事に関わってしまうことへの葛藤に苦しんだ人もいたと思う。

そして、そんな人間の方こそを、私たちは物語として語り継いでいくべきだろうと感じた。

この映画はこの映画で、エンタメとして良い作品だったと思う。しかし、教育的な観点から言えば、ロッドのような人間ではなく、ロッドの指示に躊躇し、恐れを抱き、それでも加担してしまい、後々そのことを激しく後悔している人物こそ取り上げるべきだろう。

今の時代は特に、「過ちを犯した人」はただただシンプルに叩かれてしまう。しかしそれでは、勇気を出して「過ちを犯したこと」を打ち明ける人間が出てこられない。過ちを犯し、そのことを後悔している人は、私たちに「同じことをするな」と忠告を与えてくれる存在だと私は思っている。だから安易に批判するのではなく、むしろ私たちの方から受け入れていくぐらいの姿勢も必要ではないだろうか。

人類が愚かな悲劇を回避するためには、そういうことを繰り返し続けなければならないのだと改めて実感させられた。

出演:ヤーコブ・オフテブロ, 出演:クリスティン・クヤトゥ・ソープ, 出演:シルエ・ストルスティン, 出演:ピーヤ・ハルヴォルセン, 出演:ミカリス・コウトソグイアナキス, 監督:エイリーク・スヴェンソン

最後に

歴史的事実は、「知識として学ぶ」という意識になりがちだ。しかし、「過去に起こった悲劇は未来にもまた起こる」と捉えるべきなのだと思う。ホロコーストはまさにそのようなものの1つだ

人間はどこまでも愚かになれてしまう。だからこそ、「人間の愚かさの底辺」を知り、自分がどこまで「堕ちて」しまう可能性があるのか理解しておくことはとても重要なのである。

次にオススメの記事

この記事を読んでくれた方にオススメのタグページ

タグ一覧ページへのリンクも貼っておきます

シェアに値する記事でしょうか?
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次