【真実】ホロコーストが裁判で争われた衝撃の実話が映画化。”明らかな虚偽”にどう立ち向かうべきか:『否定と肯定』

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

著:デボラ・E・リップシュタット, 翻訳:山本やよい
¥1,089 (2022/03/03 06:09時点 | Amazon調べ)
出演:レイチェル・ワイズ, 出演:ティモシー・スポール, 出演:トム・ウィルキンソン, 出演:アンドリュー・スコット, 出演:ジャック・ロウデン, 監督:ミック・ジャクソン

この本・映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「名誉毀損」で訴えながら「ホロコーストは無かった」と自説を主張し続けるイギリス人歴史学者
  • 「明らかな虚偽」に正面から立ち向かわなければならなくなった事情と葛藤
  • 事実や情報とどう向き合うべきか考えさせられる

「正しいかどうか」ではなく「信じたいかどうか」で「真実」が決まる世界には生きたくない

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

ノンフィクションを映画化した『否定と肯定』が描き出す「『歴史的事実』が裁判で争われるという前代未聞の実話」から、「真実とは何か」を考える

2000年1月、イギリスで信じがたい裁判が開廷した。ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺、いわゆる「ホロコースト」の真偽を巡って裁判が行われることになったのだ。

日本でも、「慰安婦問題」や「南京大虐殺」など、主に戦時中の出来事について「あったかなかったか」という論争が繰り広げられている。しかしそれは、学問上の議論であったり、あるいは、被害者がその被害を訴える際に注目される場合がほとんどだろう。

「ホロコースト」の裁判は、そのようなものとはまったく異なる論争だった。なにせこの裁判は、2人の歴史学者が、「ホロコーストが実際に起こったか否か」について”法廷”で争うという不可解なものなのだ。これが「実話」だということに驚かされてしまう。

しかし、驚いているだけではダメだろう。私はこの裁判を、「『真実』とは何か」を考えるきっかけにすべきだと考えている。

トランプ元大統領が多用したことで定着した「フェイクニュース」。この言葉が象徴するように、現代では「正しいかどうか」よりも「信じたいかどうか」の方が、「真実らしさ」を決めるより強い要因になってしまっていると感じる。

しかしやはり、「真実かどうか」は「正しいかどうか」で判断されるべきだ。至極当たり前の話ではあるが、こんな当然のことを指摘しなければならないくらい、現代社会は歪んでいるように私には思える。

奇妙としか言いようがない裁判の顛末から、「情報をいかに捉えるか」について改めて考えてみてほしい

この記事では、映画と原作の両方に言及するつもりだ。

『否定と肯定』の内容紹介

なぜ「ホロコーストの実在」が裁判で争われることになったのか。まずはその辺りの話から始めよう。この話には、ユダヤ人歴史学者デボラ・リップシュタット(原作本の著者である)と、イギリス人歴史学者デイヴィッド・アーヴィングの2人が登場する。

アメリカで歴史研究を行っていた、決して有名とは言えないデボラの元に、1995年のある日速達が届く。送り主はイギリスの出版社ペンギン・ブックスだった。彼女が執筆した『ホロコーストの真実 大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ』の版元である。

著:デボラ・E. リップシュタット, 原著:Lipstadt,Deborah E., 翻訳:義人, 滝川
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送られてきた手紙にはなんと、「デイヴィッド・アーヴィングがあなたを名誉毀損で訴えようとしている」と書かれていた。どういうことか。

彼女は『ホロコーストの真実』の中で、「アーヴィングはホロコースト否定者だ」と書いたのだが、これが名誉毀損に当たるというのだ。しかしアーヴィングは「ホロコースト否定論者」として有名な人物で、何より彼自身そう主張していたのである。だからデボラは、この件が大事になるはずはないと放っておくことにした。しかし実際にアーヴィングが訴えを起こすと分かり、状況はややこしくなっていく。

そのややこしさの元凶は、イギリスとアメリカの裁判の違いに起因していた。アメリカでは、訴えた側に立証責任がある。しかしイギリスでは、訴えられた側に立証責任があるのだ。アーヴィングはイギリスの裁判所に訴えた。仮にデボラが出廷しなければ、自動的にデボラの敗訴が確定するというわけだ。彼女としては、受けて立つしかない。

デボラは『ホロコーストの真実』の中で、「アーヴィングはホロコースト否定者であり、その考えはユダヤ人差別から生まれるものだ」と書いた。アーヴィングは、これを名誉毀損だと訴えている。つまりデボラは、上述のこと、つまり「アーヴィングがホロコースト否定者であること」「ユダヤ人差別主義だからこそホロコーストを否定していること」を証明しなければならなくなったのだ。

そしてこのことが裁判で争われれば、否応なしに「ホロコーストが実際に起こったのかどうか」も争点になってしまうことになる。というか、まさにそれこそがアーヴィングの目論見であり、この裁判を通じて、「ホロコーストは起こらなかった」と全世界に知らしめることが目的なのだ。

だからこそデボラは、絶対に負けらない。自身がユダヤ人であることもあり、嘘つき歴史学者の主張が世界に広まるのを防がなければならないのだ。

そのために、最高のリーガルチームが結成されることになる。また、150万ドルにも及んだ巨額の裁判費用は、ユダヤ人コミュニティの支援を受けられることにもなった。彼らは、アーヴィングのこれまでの著作や書簡などの膨大な資料を徹底的に精査し、様々な歴史学者の協力を得ながら準備を進めていく。

しかしデボラは、リーガルチームの戦略に大いに不満を抱くことになる。

彼らはまず、「ホロコーストが起こったかどうか」を争点にはしない、と決めた。それではアーヴィングの思う壺だというのだ。彼らは、アーヴィングがいかに信用のおけない歴史学者であるかを示すことで、その信頼性を崩そうと考えていた。

ユダヤ人である彼女は、「ホロコーストは起こった」と声高に主張したいところなのだが、それが禁じられてしまうのだ。

それどころか、法廷戦術として、裁判ではデボラに発言させないという方向性も決まってしまう。彼女は猛反発するが、確実に勝つためには仕方ないと説得され……。

「専門家」の主張だからと言って信じていいか

私たちは、世の中のあらゆることに習熟することはできないし、だからこそ、自分が詳しくない分野については「専門家」の助けを借りる。そのこと自体は当たり前のことだ。

しかし同時に、「専門家」の意見だからと言って鵜呑みにしていいわけではない、ということも強く認識しておくべきだろう。

正直言ってアーヴィングは、とにかく「イカれている」ようにしか見えない。どんな主張をしているのかは、また後で触れるつもりだが、「正気なのだろうか?」と感じるようなことを、裁判中に堂々と言い放つ。この裁判ではアーヴィングは弁護人をつけず、自身で自身の弁護をするという形を取った。ゆえに法廷では、アーヴィングの饒舌が響き渡ることになる。法廷を会場にした演説のようなものなのだ。

そんなアーヴィングは、歴史学者として一定以上の評価をされている。原作本には、

学者としてのアーヴィングの不撓不屈の努力はいくら褒めても褒め足りない

「否定と肯定」(デボラ・E リップシュタット著、山本 やよい訳/ハーパーコリンズ・ ジャパン)

アーヴィングが不当に無視されてきた。

「否定と肯定」(デボラ・E リップシュタット著、山本 やよい訳/ハーパーコリンズ・ ジャパン)

などアーヴィングを称賛する声が紹介されていた。また、彼が執筆した歴史書を、

『ヒトラーの戦争』は第二次世界大戦について書かれた本の中で一、二を争うすぐれた著作である。

「否定と肯定」(デボラ・E リップシュタット著、山本 やよい訳/ハーパーコリンズ・ ジャパン)

と評価する者もいる。もちろん、アーヴィングを悪く言う者も出てくるが、歴史学者として認められている人物ではあるのだ

そしてだからこそ、この裁判が注目を集めたとも言える。訴えを起こしたのが名も知れぬ人物であれば、ただの言いがかりとしか受け取られないかもしれない。しかし、歴史学者として評価されるアーヴィングが訴えを起こしたからこそ、その去就に世界中が注目することになったのだ。

私は、アーヴィングのような人物がいるという事実が、「専門家の主張」に触れる際のスタンスに影響を与えると考えている

この作品はデボラ側から描かれるため、意図的に「アーヴィングが悪く見える」ように扱われている可能性もゼロではない。しかしそんなことをすれば、アーヴィングと同じ土俵に立つことになってしまう。デボラはきっとしないだろう。そしてそれを前提とするなら、誰が見たってアーヴィングは「異常」と感じられる主張をしている。

正直、こんな人物の言っていることを信じる者などいるのだろうか、と感じてしまうほどだ。

しかし私たちは、トランプ大統領の支持者がかなり存在することを知っている。彼もまた「イカれた主張」を繰り返しているが、それを信じる者も多いはずだ。だとすれば、アーヴィングの主張を信じる者がいても不思議ではない。

あなた自身は、アーヴィングのような怪しい人物の主張を信じないかもしれない。しかしもしかしたら、「『アーヴィングのような人物の主張』を根拠に何かを発信している人物の主張」を受け入れてしまっている可能性はある。あなたはAさんを疑わしく思っているが、Bさんのことは信じているとしよう。しかしBさんが、Aさんの主張を元に発言している可能性は常にあるのだ。

なかなか避けがたい状況ではあるが、意識しておく必要はあるだろう。

それでは、裁判の中でアーヴィングがどれほど「イカれた」主張をしているのか、いくつか引用してみることにしよう。短い引用で伝わる箇所だけを抜き出したので、内容的には些末なものが多くなってしまうが、デボラ側の弁護士とのやり取りの中ではもっとぶっ飛んだ発言をしていたりもする。

ランプトンはアーヴィングに、ヒムラーが<狼の巣>に呼び出されたという記述の裏付けとなる証拠を示すよう求めた。アーヴィングは即座に、「それに関するわたしのすぐれた専門的意見がその証拠です」と答えた。手元の書類を見ていたランプトンが驚いて顔を上げた。「えっ?」アーヴィングはもう一度言った。「それに関するわたしのすぐれた専門的意見がその証拠なのです。詳しい説明をお望みですか?」グレイ裁判官もアーヴィングの返事にいささか困惑の様子で、意味がよくわからないので詳しく説明してもらえないかと言った。

「否定と肯定」(デボラ・E リップシュタット著、山本 やよい訳/ハーパーコリンズ・ ジャパン)

これは、「ある歴史的事実の証拠の提出」を求められたアーヴィングが、「自分は優れた専門家なのだから、自分の意見こそが証拠だ」と主張する場面だ。シンプルに言って意味不明だろう。当然ここで言及されている「証拠」とは、書簡などの「物的証拠」を指しているわけだが、アーヴィングは「私の意見がその証拠だ」と主張しているのだ。

ランプトンはアーヴィングに、ゲーリングがその場にいたとか、目を丸くしていたとか、どうしてわかるのか、と訪ねた。アーヴィングは「著者の特権です」ときっぱり言った。「作り事だというのですか……フィクションだと?」アーヴィングはランプトンに講義をするような口調で言った。「人に読んでもらう本を書くときは……読みやすくするために工夫するものです……」

「否定と肯定」(デボラ・E リップシュタット著、山本 やよい訳/ハーパーコリンズ・ ジャパン)

デボラを「名誉毀損」で訴えている人物が、自身の著作内の記述については「著者の特権」と言い切るのも、なかなかの胆力だと言えるだろう。知れば知るほど、こんな異常な人物と論争しなければならないデボラ陣営に同情心が沸き起こってくる。

ランプトンは疑問を呈した。「司法制度を捻じ曲げたこの言語道断なやり方に、アーヴィング氏が著書のなかでひと言も触れていないのはなぜでしょう?」アーヴィングはそれに答えて、その件をとりあげれば“八ページ分のごみを本に加えることになる”と主張した。ランプトンの意見は違っていた。「真実を書くスペースが見つからないなら、執筆そのものをやめるべきです」自分の解釈こそが真実だ、とアーヴィングが抗議を続けたが、ランプトンは次の項目へ移った。

「否定と肯定」(デボラ・E リップシュタット著、山本 やよい訳/ハーパーコリンズ・ ジャパン)

アーヴィングは著作の中で、ある歴史的事実について一切触れていない。そのことを指摘されたアーヴィングが、「自分の解釈こそが真実」と返す場面だ。これもまた凄まじい話だろう。まさに、「信じたいことだけを信じる」というスタンスというわけだ。

ここで引用した箇所だけでも、アーヴィングがどれだけ「イカれている」のかなんとなく伝わるだろう。実際には、もっとヤバい。そして、アーヴィングという人物のヤバさを知れば、とても彼の主張を信じる気にはならないはずだ

しかし重要なのはそこではない。アーヴィングがどれだけヤバい奴だろうが、この裁判の判決を耳にする者の大半はそんなことを知る由もないのである。つまり、万が一にも裁判でデボラが敗れるようなことがあれば、「イカれたアーヴィングの主張」が「裁判で正しいと認めた歴史学者の主張」として世界に発信されてしまうのだ。

デボラはなんとしてでもその状況を回避しなければならなかったのである。

「デボラ」VS「デボラのリーガルチーム」という構図

この裁判においてデボラは、アーヴィングだけではなく、彼女の弁護団とも闘わなければならなかった。弁護団が立てた法廷戦術に、デボラはどうしても納得できなかったからだ

先述した通り、「『ホロコーストが起こったかどうか』を争点にしない」「デボラには喋らせない」という2つの方針が彼女の前に立ちはだかった。

前者から見ていこう。弁護団は、アーヴィングの戦術に乗らないために、「ホロコーストが起こったかどうか」を争点から外した。アーヴィングは非常に弁が立つ人物であり、法廷でもその話術を駆使してデボラ側の主張の細かな点を突いていく。そしてそのやり取りから、「ホロコーストなど起こらなかった」という印象を形作ろうとしているのだ。

裁判の中で歴史論争を行うのは、アーヴィングにとって思う壺であり、負ける可能性が高くなると考えている。だから争点にはしないというわけだ。

しかしデボラは納得できない。彼女は、裁判に勝つことはもちろんだが、同時に、「ホロコーストは歴史的事実だ」と訴えることも重要だと考えているのである。ユダヤ人社会の機体も背負っているし、言うべきことは言わなければならないと考えているのだ。

一方で、「ホロコーストが起こったかどうか」を争点にすることは、別の問題も引き起こす懸念があった。起こったことを立証するために、生存者たちの証言が必要になる。しかし彼らを法廷に立たせれば、間違いなくアーヴィングから酷い扱いを受けることになるだろう。弁護団はこの点も危惧していた。

しかしデボラは、生存者にも証言させるべきだ、と考えていた。このようにデボラと弁護団の方針は食い違っていく。

さらに後者の、「デボラには喋らせない」という点も、彼女には承服しがたい戦術だった。

弁護団としては、その方針は自然なものだ。「ホロコーストが起こったかどうか」を争点にしないのだから、歴史学者であるデボラの証言は特に必要ない。裁判では、「アーヴィングがいかに信用できない歴史学者であるか」を立証しようと試みる。そのために、デボラが証言できることはさほど多くないのだ。

さらに弁護団は、こんな危惧もしている。デボラが法廷で口を開けば、「『ホロコーストが起こったかどうか』を論争したい」と考えているアーヴィングの挑発を受けて余計な発言をしてしまうだろう、と。デボラもまた弁の立つ人物であり、ホロコーストに対して言いたいことは山程ある。しかし、法廷で僅かでも誤りのある主張をすれば、アーヴィングにそこを突かれるかもしれない。法廷戦術として、そんなリスクを背負う価値はないのである。

しかしデボラは、裁判の中で沈黙することで、

しっぽを巻いて逃げ出した卑怯者

「否定と肯定」(監督:ミック・ジャクソン)

と見られることが分かっていた。アーヴィングは自身の口で雄弁に喋る。しかしデボラは一切沈黙したままだ。その状況そのものが「敗者」であるように受け取られてしまうだろう。

良心を他人に委ねる辛さをわかってもらえるかしら。これまで私は、絶対に委ねない生き方をしてきた。

「否定と肯定」(監督:ミック・ジャクソン)

と主張する彼女にとっては、とても耐えられる状況ではなかったのだ。しかし弁護団の1人は、「勝訴のための代償」だから受け入れるようにと説得する

こうして彼女は、とても納得できる状況ではないものの、「絶対に負けるわけにはいかない闘い」であるため、弁護団の方針に従うことに決めた

弁護団にしても、勝つために物凄い労力を割いているのだ。彼らは「歴史学者としてのアーヴィングの信頼性」こそを争点にすべく準備を進める。アーヴィングのこれまでの著作、各地で行っていた講演、さらには証拠開示請求によって提出させたアーヴィングの20年間に渡る日記など、アーヴィングに関する膨大な資料に目を通し、それらの記述から、「アーヴィングがどれだけ『意図的な改ざん・歪曲』を行ってきたか」を徹底的に示すことにした。

アーヴィングのような「イカれた」人物に対してこれほどの労力を割かなければならないのは非常に不愉快でしかないが、イギリスの法律ではそうなっているのだから仕方ない。繰り返すが、もしアメリカで裁判が行われていれば、アーヴィングの方に「デボラが名誉毀損を行ったこと」を立証する責任があるのだ。訴えの内容次第で違うとは思うが、この裁判に関しては明らかにアーヴィング側に立証責任があるとしか感じられないので、不合理極まりないと思う。

このような膨大な準備をした上で、2000年1月に開廷した裁判に臨むことになるわけだ。

著:デボラ・E・リップシュタット, 翻訳:山本やよい
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出演:レイチェル・ワイズ, 出演:ティモシー・スポール, 出演:トム・ウィルキンソン, 出演:アンドリュー・スコット, 出演:ジャック・ロウデン, 監督:ミック・ジャクソン

最後に

最後に、原作と映画の違いに触れて終わろう。

原作本からは少し冗長さを感じた。書きたいことが山程あったのだろう、かなりのページ数なのだが、その情熱が読者としては少し余分という感じがする。全体的にもう少しスッキリさせてくれる方が良かったのではないかと感じた。

一方映画は、最も重要なポイントである裁判に焦点を絞って全体を描き出してくれるので面白い。本と映画どちらを先がいいかと聞かれたら、私は映画と答える。状況がなかなか錯綜しており、映画だけでは上手く把握しきれない部分も出てくるかもしれないので、それを本で補う、という形をおすすめしたい。

わたしは自分を守るために、表現の自由を信じる心を保つために、そして、歴史に関して嘘をつき、ユダヤ人やその他の少数民族に対するひどい軽蔑を口にした男を打ち負かすために戦ったのだ。

「否定と肯定」(デボラ・E リップシュタット著、山本 やよい訳/ハーパーコリンズ・ ジャパン)

彼女は本の中で、自身の長い長い闘いが正しく理解されていないと嘆いている。しかしこの裁判は間違いなく、アーヴィングを始めとするホロコースト否定論者にダメージを与えた。大きな苦労を伴うものだったが、非常に重要な闘いだったというわけだ。

過去の歴史に対しては、それが自責の念を抱かせるものであればあるほど目を背けたくなるし、それは「実際には起こらなかった」という説に肩入れしたくなる気分を生みもするだろう。しかし、やはりそれは正しい態度であるとは言えない。

事実や情報とどのように向き合うべきなのか、改めて考えさせられる作品と言えるだろう。

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