【特異】「カメラの存在」というドキュメンタリーの大前提を覆す映画『GUNDA/グンダ』の斬新さ

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

Writer:ヴィクトル・コサコフスキー, 監督:ヴィクトル・コサコフスキー
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この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

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この記事の3つの要点

  • 普通は、「カメラで撮られている」という事実が、どうしても「現実」に影響を与えてしまう
  • 「どんな風に現実を切り取りたいか」という「撮影者の意図」も、「現実」の解釈を歪ませる可能性を持っている
  • 「カメラの存在」「撮影者の意図」を排し、さらに「家畜」を被写体に据えたことで、ドキュメンタリーとして奇跡的に成立している

「面白かったか」と聞かれれば答えに窮するが、「斬新かどうか」で言えば間違いなく斬新な作品

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

「カメラの存在」や「撮影者の意図」を感じさせない、ドキュメンタリーとして”斬新さ”に満ちた映画『GUNDA』

基本的にこの「ルシルナ」というブログでは、「私が良いと感じた映画・本」に関する記事のみを書いている。そういう意味で、映画『GUNDA/グンダ』を取り上げることは、少しルールに反していると言えるかもしれない。正直、そこまで面白いと思えたわけではないからだ

ただこの映画はドキュメンタリーとして、ある”特異さ”を有していると感じた。その点について、私は文章を書きたいと思ったのだ。面白いかどうかと聞かれれば、私は口を濁すが、ドキュメンタリーとして斬新かどうかと聞かれれば、「斬新だ」と即答するだろう

この映画は、ドキュメンタリーにおける「デュシャンの『泉』」ではないかと思う。その意味は後で説明することにしよう。

ドキュメンタリーでは回避不可能な「そこにカメラがある問題」について

私はドキュメンタリーが好きで、結構観ている方だと思う。今まで知らなかった、あるいは想像さえしたことがないような現実が様々に切り取られるドキュメンタリーには、これまで何度も衝撃を受けてきた。

しかし一方で、ドキュメンタリーはその性質上、「現実を完全に切る取る」ことができない。何故なら、「カメラを向けられている」という事実が、少なからず「現実」に影響を及ぼすはずだからだ。

普段立ちションをしているという人も、カメラの前ではまずしないだろう。信号無視ちょっとした暴言放屁なども、「そこにカメラがある」という事実がブレーキを掛けるかもしれない。あるいは逆に、普段お年寄りに座席を譲る人が、「カメラの前でそんなことをするのは恥ずかしい」と考えて止める可能性だってあるだろう

長期に渡る密着取材であれば、次第に「カメラの存在」に意識が向かなくなるかもしれないし、あるいは、芸能人やYouTuberなど「普段から撮られている人」の場合は、普通の人よりもカメラの前で「素」でいられるのかもしれない。しかし問題は、「カメラの存在がどの程度影響を与えているのか」を判断する術が受け取り手にはないという点にある。

例えば、ドキュメンタリーで映し出されるのが自分の知り合いなら、「普段の振る舞い」と「カメラの前での振る舞い」を比較することで、「カメラの存在」の影響を推し量ることができるだろう。しかしほとんどの場合、ドキュメンタリーの被写体は、自分の知り合いではない。だから、「カメラがなかったら、その人はどんな風に振る舞うのか」を想像するきっかけを掴むことはなかなか難しいと思う。

もちろん、「どうせ、カメラを通じた姿しか自分は知り得ないのだから、『カメラがなかったら』なんて考えても仕方がない」みたいに思考する人もいるだろう。その考え方でまったく何の問題もないし、私にしても、この「カメラの存在」という要素で作品の捉え方が大きく変わるなどと考えているわけではない。しかしやはり、原理的には、「ドキュメンタリー映画から『カメラの存在』の影響を取り除くのは困難」と考えるべきだと思うし、撮影に当たって実際的な問題を引き起こすケースだってあるのではないだろうか。

「撮影者の意図」さえも排除されていると感じられる

映画『GUNDA/グンダ』は、「カメラの存在」の問題をシンプルに解決する被写体が人間ではないのだ。人間以外の生き物の場合も、カメラのあるなしで振る舞いが変わる可能性はゼロではないが、少なくとも観る側は、「カメラが無くてもきっと同じ振る舞いのはず」と思えるだろう。こうして、「そこにカメラがある問題」はシンプルに解決される。

しかしただこれだけの話であれば、「人間以外を撮影対象としたドキュメンタリー全般」に同じことが当てはまるだろう。この映画には実はもう1つ特長がある。それは「『撮影者の意図』が存在しないように見える」ということだ。

ドキュメンタリーは、「現実を切り取る」ものだが、目の前に存在する現実をむやみやたらに切り取ったところで作品として成立するわけではない監督には普通「撮影意図」があるはずで、その「意図」こそが作品の肝だ。カメラマンはその意図を踏まえて、「こういう画がほしい」「こういう展開を望んでいる」というような思惑と共に撮影しているはずだ。

この事実は、撮影対象が動物だろうと変わることはない

例えば、アフリカのサバンナの映像を見ていて、そこに「ライオン」と「インパラ」が映ったとしよう。この時点で見ている者は、「インパラがライオンに襲われるのではないか」と想像するはずだ。もちろん、その予想を裏切って別の展開になる可能性もあるのだが、ライオンとインパラを目にした時点で私たちはそのように誘導される。

そしてその誘導は間違いなく、監督が意図したものだ

「撮影者の意図」があろうがなかろうが、ライオン・インパラの行動に違いはない。しかしくその「意図」は、見ている者の意識をコントロールする。見る側としても、「撮影者の意図」は映像を見る上での指針となるのだから、あるのが当然だと考えるだろう。

つまり、監督が「こう撮りたい」と考えるだけではなく、見る側もそのような誘導を望むからこそ、ドキュメンタリーには「撮影者の意図」が組み込まれることになる。そしてそれは、逆に言えば、「『撮影者の意図』に沿った『現実』しか切り取れない」という状況にも繋がっていくはずだ。

例えば、公園に水道の蛇口をひねって水を飲む特技を持つカラスがいるとする。しかしその成功率は低く、100回チャレンジして1回成功するかどうかだとしよう。しかし、その1回をカメラに収めることで、あたかもこのカラスが常に蛇口をひねることに成功するかのように誤認させることができる。本当は「100回に1回しか成功しない」というのが「現実」なのに、「撮影者の意図」が存在することでその「現実」が勝手に歪曲されてしまうというわけだ。

この「撮影者の意図」も、「ドキュメンタリーが現実を正しく映し出しているか」に影響する要素だと私は考えている。

しかし映画『GUNDA/グンダ』には、そんな「意図」は一切感じられない。もちろん、私がそう感じただけで、監督は「意図」を持っていた可能性もある。しかし、「豚」「鶏」「牛」の、何が起こるわけでもない日常を、ただただ淡々と切り取っているようにしか見えない映像の連続から、「撮影者の意図」を読み取ることはなかなか難しいのではないかと思う。

ある意味では、「だからこそ私には退屈に感じられた」とも言える。しかしいずれにしても、「ドキュメンタリー」に必要不可欠に思われた「撮影者の意図」が感じられないという点は非常に斬新ではないかと感じた。

「ドキュメンタリーとして新たな価値を提示した」という点こそが評価されているのではないか

ここまで説明してきたように、この映画は、「カメラの存在」「撮影者の意図」を排した形で撮影されたドキュメンタリーだという点に特長があると私には感じられた。「カメラの存在」も「撮影者の意図」も、ドキュメンタリーから外すことが難しい要素に思えるのだが、この映画はその2つを存在させない形で成立していると私は思う。

そしてだからこそ、この映画を「デュシャンの『泉』」だと感じた

「デュシャンの『泉』」の詳しい説明については、以下の記事を読んでほしい。

ざっと説明すると、「既製品の男性用小便器に作家自身の署名をサインペンで書いただけのアート」である。しかしこれが、現代アートとしてものすごく高く評価されているのだ。例えば、世界中の美術関係者500人による2004年のアンケートでは、「最も影響力のある現代アート」の1位にこの「デュシャンの『泉』」が選ばれている。ピカソやアンディー・ウォーホルよりも評価が高いというのだから驚きだろう。

何故ここまで評価が高いのか。それは「既存の常識を打ち壊した」からだ。それまでの美術界では「美しいモノ」「一点モノ」にこそ価値があると考えられてきた。しかし、「デュシャンの『泉』」はそのどちらの価値観も一撃で粉砕するような存在感を放っている。「既存の常識」を破壊することでその存在に気づかせる「デュシャンの『泉』の」ような作品は、歴史の中で高く評価され得るのだ。

そう考えた時、「カメラの存在」「撮影者の意図」という2つの「常識」を打ち壊しているように感じられる『GUNDA/グンダ』もまた、ドキュメンタリーの歴史の上で高く評価され得るのではないか、と感じた。

まあ、私がまったく的外れなことを書いている可能性も十分にあるので、話半分ぐらいに受け取ってもらえればいいだろう。

被写体が「家畜」であることの絶妙さと皮肉

さて、普通に考えて「カメラの存在」「撮影者の意図」の存在しないドキュメンタリーは、ドキュメンタリーとして成立しにくいだろう。しかし、その困難さを乗り越えるのに上手く利用しているのが被写体の選択だと私は感じた。

映画で映し出されるのは「豚」「鶏」「牛」という、私たちが日常的に食している「家畜」なのだ。

「家畜」というのは私たちにとって、なかなかに微妙な存在だ。誰もがある程度「生き物を大切にする気持ち」を持っているだろう。また、豚・鶏・牛に「可愛い」という感覚を抱いたり、触れることで「親しみ」を感じることもあると思う。

しかし私たちは、同じ手でその「家畜」を食べている。この2つの事実は大いに矛盾するはずだが、私たちは普段その矛盾をあまり意識しない。それはつまり、「最終的には食肉になる」という事実と矛盾しないような形で、「家畜」をある意味で少し低く捉えているということだと思う。

そんな”撮るに足らない”存在でしかないはずの「家畜」を、この映画では非常に美しい映像でカッコよく描き出していく。私たちが「家畜」という言葉からイメージするものとは真逆の世界観だと言っていい。そしてだからこそ、観る者はざわついた気分にさせられてしまう

私たちが犬や猫の肉を食べることに抵抗を感じるのは、犬や猫を「愛玩」という捉え方をしているからだ。「愛玩している存在」を「食べる」などあり得ない。そして同じ理屈を当てはめるなら、豚・鶏・牛は私たちの意識の中で「愛玩」には成り得ない、ということになるだろう。

しかしこの映画で描かれる豚・鶏・牛は、「美しい」「カッコいい」という感情を通じて「愛玩」を訴えかける。豚の親子は必死に生きているし、片足の鶏は勇敢に見えるし、ハエにたかられている牛たちの表情はなんだかカッコいい。そして、そんな印象が高まれば高まるほど、私たちの内側で「矛盾」が大きく募っていくことになる。

「美しい」「カッコいい」と感じる対象を、自分たちは「食べている」のか、という矛盾が

もし、この映画の被写体が「家畜」でないとしたら、観客にこのような「矛盾した気分」を湧き上がらせることはできなかっただろう。この「『家畜』を撮影対象にしている」という点が、「カメラの存在」「撮影者の意図」なくしてドキュメンタリーを成立させた大きな要素だと私は感じた。

どこまでが監督の意図通りなのか私には判断できないが、あらゆる要素が絶妙に絡まり合って、「普通にはドキュメンタリーとして成立しない作品を、斬新な形でドキュメンタリーとして成立させた」という”特異さ”を生み出すことに成功していると思う。

Writer:ヴィクトル・コサコフスキー, 監督:ヴィクトル・コサコフスキー
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最後に

正直に言えば、睡魔に耐えながら、時々ウトウトしてしまうような映画鑑賞だった。全体的に単調で、音楽もナレーションもないので、どうしても眠くなってしまう。

そういう意味で「面白い」とはなかなか言い難い作品だ。しかしその一方で、ドキュメンタリーの歴史の中で、エポックメイキングな出来事として記憶される作品になるのではないかとも感じさせられた。

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