【偉業】「卓球王国・中国」実現のため、周恩来が頭を下げて請うた天才・荻村伊智朗の信じがたい努力と信念:『ピンポンさん』

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

KADOKAWA
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この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • たった5年で世界一となり、引退後には世界平和にも貢献した卓球界のレジェンド・荻村伊智朗の存在を、私はまったく知らなかった
  • 文化大革命で孤立した中国の国際復帰に先鞭をつけ、周恩来からも一目置かれていたとんでもない人物
  • 一切の妥協を許さず、あらゆる人間関係をぶち壊してでも必要な努力をし続けた荻村伊智朗の凄まじさ

卓球場の女性経営者・上原久枝との関わりも含め、巨星・荻村伊智朗の生涯を余すところなく描く1冊

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

驚異のスポーツ選手・荻村伊智朗のことを私は知らなかった。『ピンポンさん』で描かれる、その凄まじい生涯

私は本書を読むまで、荻村伊智朗という人物のことを知らなかった彼が選手として活躍していたのは、今から70年近く前の1950年代のこと。とすれば恐らく、少なくない日本人が、彼の名前を知らないのではないかと思う。卓球という、野球やサッカーと比べればマイナーな競技の選手であったことも、その状況に拍車をかけるはずだ。

しかし本書を読んで、「これほど凄まじい人物を知らないのは恥ずかしい」と思わされた。彼は選手としても凄かったが、実は引退後の方がもっと凄まじい。その事実を併せて考えると、これほどの功績を成したスポーツ選手は他にいないようにも感じられる。いや、スポーツ選手に限らずとも同じことが言えるかもしれない。

かつて新聞紙上で行われた、「20世紀を代表するスポーツ選手は誰か?」というアンケートに関するエピソードが本書に載っている。その当時、サッカー選手の中田英寿がスポーツ界で最も注目を集めていたのだが、そのアンケートで彼は16位。そして荻村伊智朗はなんと15位だったのだ。このアンケートの話は本書の冒頭で書かれているため、荻村伊智朗について知らなかった私は、15位でもかなり高いと感じた。しかし本書には、「荻村伊智朗が15位なんて納得がいかない」と憤る人物が紹介されている。「1位の長嶋茂雄より、荻村伊智朗の方がもっと凄い」というのだ。

「これまで一度も名前を聞いたことのない人物が、誰もが知る長嶋茂雄よりも上だ」という主張をすんなり受け入れることはやはり難しい。しかし本書を読めば誰もが、「確かにそう言われて然るべき存在だ」と感じるのではないかと思う。大げさではなく、ノーベル平和賞を受賞してもいいのではないかと思わされた。

『ピンポンさん』の内容紹介

本書の内容を紹介する形で、まずは荻村伊智朗の生涯について触れていこう

1954年、22歳の時に彼は世界ランク1位になっている。しかし、卓球を始めたのは高校1年生の時。つまり、たった5年で世界の頂点に立ったのである。

1949年、都立第十高の2年生だった荻村は、卓球部の主将を務めていた。本書の物語はここからはじまる。中学時代は野球部でエースだったが、身体が小さくプロにはなれないだろうと考え辞めてしまう。都立第十高には当時卓球部は存在していなかったのだが、どうにか創部しようと先輩たちが画策している最中だった。そして先輩たちの美しいラリーに惹かれた荻村も、創部に向けて共に動くことに決める。

そんな風にして、荻村伊智朗の凄まじい生涯は始まっていったのだ。

彼の人生を語るのに欠かすことのできない人物がいる。2008年まで吉祥寺で卓球場を経営していた上原久枝だ。彼女の存在抜きには、荻村伊智朗の世界一も、その後の活躍もあり得なかったに違いない。

久枝は家の事情から、当時の女性には珍しく職業婦人として働いていた。しかし、戦争を機に仕事を離れ、専業主婦となる。元々働きに出ていた彼女は、専業主婦として無為に過ごす日々に焦りを感じていた。そんな折、たまたま手に取った婦人雑誌に、「函館に住む主婦が自宅で開いた卓球場が人気」という記事を見かける。

卓球場なら、自分にも続けられるかもしれない。そう考えた彼女は夫を説得、吉祥寺に卓球場を開いた。そしてここで2人は出会ったのである。

創部間もない卓球部には当然不十分な設備しかなく、また練習時間も上手く確保できなかった。そこで荻村は、同世代の卓球少年たちと同じく、町中にある卓球場へと向かう。母子家庭で育った彼は、母親の蔵書を勝手に売りさばいて費用を捻出していた。そんな折、吉祥寺に新しく卓球場が出来たという噂を耳にする。荻村は立ち寄ってみようと考え、そこで久枝に声を掛けられたというわけだ。

荻村伊智朗の練習は、凄まじかった。やせっぽっちだった少年は、卓球にすべての時間を注いだのである。彼は、周囲のアドバイスを一切聞こうとしなかった。練習の効率を上げるための工夫を含め、すべて自分で考えたのだ。そんな荻村は、妥協というものを知らなかったため傲慢だと見られてしまい、周囲と打ち解けられないでいた。しかし久枝にだけは懐いたという。そして困っている人がいると助けてしまいたくなる性分の久枝もまた、孤立し苦悩を抱えながら卓球に邁進する荻村を献身的にサポートしたのである。

久枝の卓球場には次第に、荻村を中心とした様々な人たちが集まるようになった。そして、卓球部のない大学に進学した彼は、久枝の卓球場のメンバーで作ったチームで大会に出場するようになっていく。

こうして荻村伊智朗は、卓球を始めて僅か5年と7ヶ月という短期間で、圧倒的な強さを見せつけて世界一となったのである。

しかし、凄まじい結果を出す一方で、他人にも厳しさを突きつけるやり方や孤高を貫くスタイルには、常に反発も付きまとった。後に荻村伊智朗はスポーツ界にとんでもない貢献を成すのだが、選手時代に関しては悪評ばかり出てくる。周囲にいる人間とは相当軋轢を抱えていたようだ。しかし、勝つことに異常にこだわり、さらに日本の卓球の未来を常に見据えて行動し続けた荻村には、迷いはなかった

荻村伊智朗は、選手時代以上に、引退後の活躍が目覚ましい。後で詳しく触れるが、彼は国際卓球連盟会長として「米中ピンポン外交」を行うなど、スポーツを通して政治的な軋轢を乗り越えさせようと奮闘したのだ。周恩来からも一目置かれていたというのだから、その存在感がどれほど圧倒的だったか理解できるだろう。

荻村伊智朗は1994年に62歳で亡くなった。その際メディアは、「日本スポーツ界は天才的才能のリーダーを失った」「戦後日本の希望の星」「『スポーツを通じ平和』が信念」と伝えたそうだ。

本書は、そんな類を見ない存在感を放った巨星の生涯を余すところなく伝える1冊である。

スポーツ外交で手腕を発揮する

たった5年で世界一になったことももちろん凄まじいが、やはり荻村伊智朗の生涯においては、「引退後の功績」の方が遥かに大きいと言えるだろう。「いち卓球指導者」に留まらない、世界平和さえ見据えた立ち回りにはやはり驚かされてしまった。

そもそも、「いち指導者」としてもレベルが高かったそうだ。指導者になってからもやはり厳しかった荻村は、招かれて指導に赴いたスウェーデンで、1人を除いた全員が彼の元を去ってしまうという経験をしている。しかし荻村はなんと、その残った1人を世界のトップに立たせたのである。

おばさん、人間は勝手に自分の限界を作ってしまうんですよ。限界より少し上のハードルを設定してやるのが、指導者の仕事なんです。

また、荻村伊智朗が日本であまり知られていない理由の1つだと思うが、彼は日本の選手の指導には携わらなかった。そのせいで、日本の関係者から非難を浴びることになってしまう。彼のそんな性分が、日本で評価されていないという状況を生んだことは間違いないだろうと思う。

しかし荻村伊智朗はその後、国際卓球連盟の会長に就任したアジア人初の快挙であり、世界でその存在が評価される人物になっていくのである。

会長として荻村は、スポーツを通じた国家間の外交に貢献すべく奔走した。その最大の功績が、文化大革命によって世界から孤立した中国を表舞台に引き戻したことだろう。荻村は以前から周恩来と関わりがあった。そこでなんと、「スポーツを通じて国交を回復させるべき」と周恩来に直談判したのだ。こうして中国は、世界卓球選手権への参加を決める。これは、文化大革命が起こって以降、中国が国際的な舞台に復帰した初めての出来事となった。荻村伊智朗は、中国の国際復帰の先鞭をつけたのだ。

そんな荻村伊智朗と周恩来の凄まじいエピソードが紹介されている。国際卓球連盟会長に就く以前にコーチとして参加した名古屋大会での出来事だ

この時中国チームは、勝つためにある戦略を採った。それは決してルール違反ではないが、マナーとして不適切なものである。中国側の戦略を見抜いた荻村はいち早く抗議し、そのプレーを止めさせた

この話を周恩来は新聞で知ったそうだ。そして、チームにこんな風に言ったのだという。

オギムラさんに抗議を受けるようなことをしてはいけない。オギムラさんを怒らせてまで勝つ必要はないよ。

凄くないだろうか?「いち指導者」に過ぎない荻村伊智朗の抗議を受けて、一国のトップが自国のチームにダメ出しをするのだ。荻村伊智朗とは、そのような存在だったのである。

その後も彼は、南北問題に苦しむ朝鮮に何度も足を運び、ついにある大会において、様々な困難を乗り越えて「南北共同チーム」としての出場を実現させた。また、アパルトヘイトに苦しむアフリカの選手を特例で世界選手権に出場させるなど、スポーツを通した外交を積極的に行っていく。

スポーツの本質を曲げずに、政治が歩みよりやすい場を設定する。それがスポーツ側にいる人間の力量です。スポーツが政治を動かすことはできないが、援護射撃はできる。

選手として活躍する、あるいは指導者として活躍するというケースはあるだろうが、そのどちらでも世界レベルの功績を成した人物など、世界中見渡してもそうそういないだろう。このような話を知れば、冒頭で紹介した「なんで長嶋茂雄が1位なんだ」と憤慨した人物の嘆きにも、得心が行くのではないかと思う。

たった5年で世界一となった凄まじい努力

荻村伊智朗は指導者として類を見ない存在感を放ったが、もちろんそうなるためには、選手としての圧倒的な実績も欠かせない。ここからは、卓球を始めてから僅か5年で世界一となったその凄まじい努力について触れていきたいと思う。

荻村は、勉強ももの凄く出来たこともあり、進学校に通っていた。他の生徒は当然、2年生の2学期で部活を辞め、その後は受験勉強に専念する。しかし荻村は部活を辞めなかった「卓球で飯が食えるわけないじゃないか」と彼を諭そうとする友人に、荻村はこう返したという

僕らが大人になったときにそうなっているかどうかはわからないけど、スポーツも、スポーツに時間を注ぎ込む人間も、その価値を認められる時代がきっと来るはずだ。

高校2年生にして、既にこのように語っていたのである。スポーツ選手という生き方がまだ社会的にそこまで認知されていなかった時代に、ずっと先を見据えて努力を続けたというわけだ。

しかもただ闇雲に努力するだけではない。10年後の未来を想定した後は、そこに辿り着くために何をしなければならないかを徹底的に考え抜いた。そこに一切の妥協はない。必要だと思うことはすべてやったし、やるべきことを相手の都合に合わせて止めるなんてこともしなかった。時間や設備が不足していれば、とにかく頭を使って工夫したのである。

荻村は「自分ほど努力している人間はいない」と口にしていたそうだが、確かにそう言いきれるだけのことはしていただろう。自身の肉体を極限まで酷使し、周囲の人間関係を悉くぶち壊し、あらゆるものを打ち捨ててでも目指すべき未来のためにやるべきことをやった。彼は久枝に、「石はいくら磨いてもダイヤモンドにはなれない、僕は初めからダイヤモンドだったんだ」と語っているが、そう豪語できるだけのものが確かに彼の内側にはあったのだと感じさせられる。

発想の仕方もぶっ飛んでいた。例えば荻村はある時から、練習場の近くにあった「高島易断」で骨相や観相を学び始める。それが卓球とどう関係するのか。彼は、ラリー中に相手の表情の変化からも心の動きが分析できるのではないかと考えたのである。他にも、宮本武蔵『五輪書』など、卓球とはまったく関係のない本からも刺激を求めた。ツルゲーネフの名著『ルーヂン』を読んだ荻村は、「時・時の記」と題したノートにこんなことを書いている。

天才には彼の良き理解者、心の援助者が必要だといった様なことをルーヂンが言う。
天才を理解できるモノが居るか。
そいつも天才か。

天才を志向した荻村は、ついに世界のトップに立つのだが、その後ヨーロッパの博物館でミケランジェロの「ピエタの像」を見て打ちのめされる。ミケランジェロがこれを作ったのが自分と同じ21歳だと知ったからだ。このように彼の発想は、「いちスポーツ選手」の枠組みから大きく外れていた。底が知れない、妥協を許さない男は、単に「勝負に勝つ」というだけではない挑戦をし続けていたのである。

身体文化であるスポーツの場合、<人間能力の限界への挑戦>という目標の方が、<時代の選手に勝つことの工夫>という目標よりも、はるかに高い。<時代の選手に勝つ>という低い次元の目標にとらわれると、もしその時代の選手のレベルが低い場合、低いところで自己満足することがおこる。

毀誉褒貶渦巻く人物ではあるが、彼のこの圧倒的な努力を知るとやはり、沈黙せざるを得ないような感覚になってしまうのではないか。改めてその凄まじさを感じさせられた。

上原久枝との関わり

この記事の冒頭で、「荻村伊智朗にとって上原久枝は無くてはならない存在だった」と書いた。アスリートと卓球場経営者という関係に過ぎない2人だが、常に孤立を余儀なくされた荻村にとって彼女は、恐らく唯一心を許せる存在だったのだと思う。折に触れて彼は、久枝の元へと立ち戻ってくる。

そもそも上原久枝という女性が非常に非凡だった。職業婦人として高島屋で働いていた際、「働く女性」を描く映画に抜擢され映画に出演したことがある。また、人気女優だった李香蘭の接客を担当したり、高島屋ブランドの帽子モデルに選ばれたりと、女学校中退という経歴でありながら、仕事を通じて様々な経験を得ていたのだ。

そんな女性だからこそ、専業主婦としての生活に安住できなかったのも納得と言えるだろう。そして、モヤモヤした想いに突き動かされるように始めた卓球場ですぐに荻村伊智朗と出会い、結果として彼女は、世界で活躍する人物を陰で支える重要な存在になっていく

荻村と久枝の関係は決して、常に良好だったわけではない。母子家庭という出自も関係していたのか、常に大きな孤独を抱えていた荻村は、久枝が他の人と関わっているのを見るだけで嫉妬に駆られてしまった。素直に気持ちを言葉にできなかった荻村は、伝わりにくい形で自身の不満をぶつけるしかなく、それ故不穏な空気になることもあったそうだ。ちょっとしたことがきっかけで疎遠になった時期もあったし、お互いの誤解からすれ違ったりもしたが、それでも荻村にとって久枝は、常に大きな存在だったと言っていいだろうと思う。

久枝のサポートは精神面に限らなかった。初めての国際大会のためイギリスへ渡航することが決まったが、その費用80万円は選手の自腹である。卓球連盟に渡航費用を捻出するだけのお金がなかったからだ。久枝らが中心となって募金を集め、彼らを無事イギリスに送り出したのである。

ちなみに、イギリスに下り立った彼らは、凄まじい反日感情の発露を目の当たりにすることになった。どこに行っても日本は嫌われていたのだ。第二次世界大戦の終結から間もない時期だったこともあり、仕方なかったと言えるかもしれない。今もあまり変わらないかもしれないが、当時は今以上に、スポーツと戦争・政治などの境界が曖昧な時代ったはずだ。そんな経験をしたからこそ、後に「スポーツ外交」で世界の融和を目指そうとしたのかもしれない

いずれにせよ上原久枝は、荻村伊智朗の人生に多大な影響を与えた。いつだって注目を集めるのは表舞台にいる人物ばかりだが、それを支える裏方にも光が当たってほしいものだと思っている。

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最後に

名前さえ一度も聞いたことのなかった人物が、これほどの功績を成していたと知ってとにかく驚かされた。荻村伊智朗は多くの人に知られるべき存在だと思う。本書を読んで、その凄まじさを体感してほしい。

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