【不寛容】カルトと呼ばれた「イエスの方舟」の現在は?「理解できなければ排除する社会」を斬る映画:『方舟にのって』(監督:佐井大紀)

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「方舟にのって~イエスの方舟45年目の真実~」公式HP

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「イエスの方舟」は「理解できない存在」だったが故に批判され、社会から排除されていった
  • 「『理解できないもの』はただ放っておけばいい」と思うし、それこそが「多様性」だと私は思うのだが、何故そういう社会が実現しないのだろうか
  • 「イエスの方舟」を深堀りすればするほど、「『イエスの方舟』を排除する大衆の狂気」が浮き彫りにされていく

「理解できなくても、排除さえしなければいい」みたいなスタンスが当たり前になれば、社会の「窮屈さ」はずっと減るはずだと思う

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

映画『方舟にのって』は、「カルト宗教」と騒がれた「イエスの方舟」の現在を追うドキュメンタリー映画。「理解できないものをあっさり排除する社会」に私たちは生きている

毎年、「TBSドキュメンタリー映画祭」には行くようにしている。映画を色々と観てはいるが、やはり圧倒的にドキュメンタリーが面白いと思っているからだ。ただ、ドキュメンタリーはフィクションの映画に比べれば観てもらえる機会が少ないだろうし、あまりお金にもならないだろうそんなドキュメンタリーを民法のテレビ局としてこれだけ推しているのも珍しい気がするし、なので、個人的な趣味とTBSへの応援みたいな意味も込めて出来るだけ毎年足を運んでいる

ちなみに、私が観た上映回では最後にトークイベントがあり、監督の佐井大紀と小説家の小川哲(この組み合わせも不思議だが、監督が初対面の際にお願いしたらしい)が登壇した。で、その監督はなんと普段はTBSのドラマ部で働いており、この時撮影していたのが二階堂ふみ主演の『Eye Love You』だったそうだ。TBS内の仕組みがどうなっているのかは知らないが、「希望する人がドキュメンタリーを撮れる」みたいなシステムなんじゃないかと思うし、そういう環境からはやはり「ヒットはしないかもしれないが、濃密で濃いドキュメンタリーが生まれ得る」ような気がする。そんなわけで、TBSにはこれからもドキュメンタリーを頑張ってほしいものだなと思う。

「イエスの方舟」とは何か?

本作を観る前の時点で、「イエスの方舟」という響きには何となく聞き覚えがあった気がする。ただ私は結局、それが何なのかよく知らないまま本作を観た。「イエスの方舟」が社会問題化したのは、本作によれば1980年なのだそうだ。私は1983年生まれなので、やはりリアルタイムでその騒動を知っている世代ではなさそうだ。恐らく、「昔こんな出来事があった」的な特集番組などでチラッと見聞きしたことがあるぐらいじゃないかと思う。

というわけでまずは、本作『方舟にのって』で描かれている情報を元に、「イエスの方舟」についてまとめておくことにしよう。

「イエスの方舟」は「カルト宗教ではないか」と思われて問題になったのだが、その発端は千石剛賢が主催した「聖書の研究会」であり、少なくとも「イエスの方舟」のメンバーらは、現在に至るまで「宗教団体ではない」と主張し続けている。では、そんな「イエスの方舟」はどうして社会問題となったのか? それは「10名の若い女性たちが家出同然で千石剛賢の元へと集い、そのまま2年間も逃亡生活を続けた」からである。そりゃあ、千石剛賢の元へ向かった女性たちの家族は、この現状をどうにかしようと声を上げるだろう。こうして「イエスの方舟」は「ハーレム教団」「セックスカルト教団」などと呼ばれ、危険視されたのだ。

千石剛賢は、紆余曲折の末に、実は一度警察に出頭している。しかし結局、嫌疑不十分のため不起訴の判断が下った。千石剛賢が拘束されている間、彼の元にいた10名の女性たちはそれぞれ家族の元に戻っている。しかしその数年後、彼女たちは再び千石剛賢の元に集まった。そしてそれからは、新たなメンバーも加えたりしつつ、彼女たちは現在も、福岡県にある千石剛賢が建てた教会兼住居で共同生活を行っているのだ。

本作『方舟にのって』は、そんな「イエスの方舟」の”今”を追うドキュメンタリーである。

さて、確かに本作は「『イエスの方舟』を扱ったドキュメンタリー映画」なのだが、しかし本作を観ながら私は、「本当に焦点が当てられているのは『イエスの方舟』ではない」と感じた本作で映し出されているのは、実際には映し出されていないものである。禅問答みたいなことを書いたが、要するに、「『理解できないもの』に名前を付けて理解した気になりたい大衆」を捉えようとしているのではないかと感じたのだ。

つまり、「『イエスの方舟』を『カルト宗教』扱いした『大衆』の振る舞いは正しかったのか?」と問われているのだと私には思えたのである。

「宗教的なもの」に対する私のスタンス

というわけでまずは、「宗教的なもの」に対して私がどのような感覚を抱いているのかについて説明しておきたいと思う。私のスタンスはかなり明快だと自分では思っているのだが、それは以下のようにまとめられるだろう。

誰がどんな宗教を信じていても、どんな信条・価値観を有していても別にいい。ただ、それを私には押し付けないでくれ。

私は、キリスト教などを含む既存のどんな宗教も好きになれないのだが、その一方で、誰がどんな宗教を信仰していようと別に構わないとも思っている。地下鉄サリン事件など凄まじいテロ事件を起こしたオウム真理教に対しても、「事件を指示した者、あるいは直接犯行に関わった者」は当然断罪されるべきだと思うが、だからと言って「同じ宗教団体に属していたすべての人」が非難されるのはおかしいように感じてしまう(ただこの点に関しては、状況次第では「組織全体」を断罪する気分になることもあるので一概には言えないが)。どれだけ私と違う価値観を持っている人だろうと、その事実だけで「拒絶・批判しよう」と考えることはない。少なくとも、そういう意識を持っているつもりだ。

ただ、「お前が信じる教えを俺に押し付けるつもりならその限りじゃないぞ」とも思っている。私が抱いてしまう「『宗教的なもの』に対する嫌悪感」は、ほぼこの1点に集約されると言っていいだろう。「宗教的なもの」はどうしても「信者的な存在の獲得」を大きな目標に据えるだろうし、となれば「教えを周りに広める」というプロセスが必要になる。しかし私は何にせよ、「他人から考え・価値観を押し付けられること」がとにかく嫌いなのだ。

そしてここから、「私が何を『宗教的なもの』と捉えているのか」が説明できる。「相手の意思に関係なく『布教』してくる人・組織」というのが私の定義だ。だから私は、「強めに”布教”してくるオタク」もまた「宗教的なもの」として捉えている自分が好きだと思うアニメやスポーツについてひたすら喋り続けているだけなら全然問題ない(というかむしろ良い)が、「絶対面白いから観ろって」「これ読まないのは人生損してるぞ」みたいに言われると「あー、ウザ」となってしまうのだ。

これが私にとっての「宗教的なもの」の捉え方である。

しかし恐らく世間的には、私のこの発想とは違う風に捉えられているように思う。一般的に「宗教っぽい」という言葉が使われる場合、「意味が分からない」「理解できない」「許容したくない」みたいな感覚が内包されていることがほとんどのはずだ。「『自分とは違う』と感じた時点で、それに『宗教』という名前を付けて遠ざける」みたいな振る舞いはよくあるんじゃないかと思う。

そして私は、そういうスタンスがどうにも好きになれないのである。

さて、「イエスの方舟」もまた、「理解できない」「自分(たち)とは違う」と思われたからこそ「ハーレム教団」「セックスカルト教団」などと揶揄され遠ざけられたのだろう。いや、遠ざけられただけではなく、積極的に攻撃・排除されてもいる。そして私にはその状況が、「『理解できないもの』に名前を付けて理解した気になりたい」という気分によるものに見えたのである。

つまり、「イエスの方舟」は「『イエスの方舟』を含む社会全体を映し出す鏡」みたいなものであり、「イエスの方舟」を深堀りすればするほど、そこに「大衆の姿」が浮かび上がるというわけだ。「本作で映し出されているのは『イエスの方舟』ではない」という捉え方は、私のそのような感覚によるものである。

「理解できないもの」に対する反応が「排除」しか存在しない社会

本作のメインビジュアルには、「鑑賞後もあなたは、ハーレム教団と呼びますか?」というコピーが添えられていた。この問いかけこそ、まさに本作における最も重要な「核」だと言っていいのではないかと思う。

「イエスの方舟」は、「多くの若い女性と、年の離れた男性1人が共同生活を行う集団」であり、確かにそれは一般的には「奇妙」な状況と言っていいだろう。本作には、「幼い頃から両親と離れて千石家で育てられ、そのまま千石家の養女になった」みたいに紹介されていた女性(もちろん「イエスの方舟」のメンバーである)が登場するのだが、彼女もまた「理解できない状況なのは分かります」みたいに答えていた。私ももちろん「奇妙だな」と思うし、一般的に理解しがたい状況であることは間違いないだろう。

さて私は、そのような「自分の理解の及ばない状況」に直面した場合には、かなり意識的に「何だか分からないものBOX」にそれを放り込むようにしている。理解出来るかどうかは関係ない。というか、私は基本的に「何だか分からない状況」は凄く好きだし、「分からない方が面白い」とも思っている(というか、「理解できるものなんてつまらないだろ」とさえ感じてしまう)。だから、「何だか分からないものBOX」がいっぱいになっていく感じは心地良いし、むしろそれを望んでいる気持ちさえあるぐらいだ。

しかし世間的にはどうもそうではないらしい。恐らくだが、「何だか分からない状況」に直面したら、すぐに「理解できるかどうか」の判断をするようである。そしてどうやら、「理解できない」という状態は許容出来ないみたいだ。よく分からないが、「自分の頭が悪い」みたいな気分になってしまうのだろうか? まあそれは私の勝手な想像に過ぎないが、ともかく「何だか分からないまま」というのは嫌らしいのだ。だからそれをどうにか「自分が理解できる概念」に落とし込もうとする。そうやって「安心感」みたいなものを得たいのだろう。私はなんとなくそんな風に想像している。

そして恐らく、「イエスの方舟」に対する反応も同じようなものなのだと思う。「多くの若い女性と、年の離れた男性1人が共同生活を行っている」というのは、普通には理解できない状況だからだ。だからこそ、「男が女性たちを洗脳しハーレム化している」みたいに考えてしまう。こう捉えれば「理解できる状況」に落とし込めるからだ。そんなわけで、実態を知りもせずに「ハーレム教団」なんて捉え方をすんなり受け入れてしまうというわけだ。私はそういう反応が凄く嫌いだし、いけ好かない世の中だなとも感じている。

この点に関しては、以前観た映画『彼女はなぜ、猿を逃したのか?』のことが思い出された。この映画では「ある女子高生が動物園から猿を逃がす」のだが、その行為について記者が「どうしてそんなことをしたのか?」と問い詰める場面が描かれる。女子高生はその質問にのらりくらりと芯のない答えを返し、もう少し本質に迫りたいと思っている記者がさらに質問をする、というやり取りが繰り返される場面だ。

さて私には、このシーンにおける記者のスタンスがとても印象的に感じられた。というのもこの記者は、「目の前の女子高生は、何か明確な理由があって猿を逃がしたはずだ」という思い込みを持っていたからだ。そのため記者は、「家族との関係に不満があったのか?」「社会に対して何か訴えたいことがあったんだろう?」みたいに問いかけ、「本心」を聞き出そうとする。つまり、「そういう動機でもない限り、猿を逃がすなんてことするはずがないだろう」という前提を持っているというわけだ。

これはあまりに特殊な状況すぎるが、私は同じようなことを刑事事件全般に対しても感じてしまう。私は別に警察関係者や弁護士などではないし、「刑事事件」の情報には報道やノンフィクション・ドキュメンタリー、あるいは小説・映画などのフィクションなどを通じて触れる以外にはないのだが、やはり「犯行動機」が重視される印象が強い。もちろんこれは「裁判を成立させるために必要な要素」であり、だから「はっきりとした動機」を確定させる必要があることは理解できる。しかし、私はよく「犯行動機が明確にならない状況だってあるだろう」と感じてしまうのだ。「何だか分からないがそうせざるを得なかった」みたいな状況はいくらでもあるんじゃないかと思う。

もちろん、事件に関わる者の場合は「『裁判を成立させる』ために『犯行動機』を確定させる必要がある」のだろうが、世間の人も同じように「動機」を知りたがるのは何故なのか。この点に関しては以前、何で見知ったのか覚えていないのだが、「人々は犯人の『動機』を知って『自分とは違う(自分がそんな犯罪に手を染めることはない)』と安心したい」という話に触れたことがある。だからこそ「理解できるものであってほしい」と望むのだろう。

このように「大衆」は「『理解できる安心感』を得たい」と考えているのだろうし、その眼差しが「イエスの方舟」にも向けられていたということなのだと私は理解している。そしてそのような振る舞いに対して私は「傲慢だな」という気分を抱かされてしまった。どうして「『自分に理解できる理屈』が存在するはず」だなんて思い込めるのか、私には不思議で仕方ない。そしてさらに恐ろしいのは、「『自分に理解できる理屈』が存在しないなら、それは『狂気』と判断する他ない」みたいな発想に行き着いてしまうことだ。私には、そんな風に考えていること自体が「狂気」だと感じられる。

このように考えると、「イカれているのは実は『大衆』の方なんじゃないか?」みたいな話を受け入れやすくなるのではないかと思う。

「理解できないもの」は放っておけばいいと私は思う

「多様性(ダイバシティ)」という言葉が割と当たり前のものとして使われるようになってきているし、特に若い世代にそういう感覚が広く浸透しているように感じられる。そのこと自体は凄く良い傾向だなと思うし、このまま「上の世代」(残念ながらそこには私も含まれる)が社会から退場すれば、世の中はもっと良くなっていくだろうなとも思う。

ただ、「多様性」という言葉が使われる場面で、私はちょっと怖いなと感じることがある。それが「相手のことを”理解して”尊重しよう」という発想だ。いやもちろん、「理解しようとすること」は大事だと思う。ただ私は、この「相手のことを”理解して”尊重しよう」という感覚に、「理解できないものは尊重出来ない」みたいな印象を抱いてしまうのだ。

いや、そうじゃないだろ

私は、「多様性」の本質は「放っておくこと」にあると思っている。「理解出来なくても、尊重出来なくてもいいから、『批判も排除もしないこと』にこそ重視されるべき」だと考えているのだ。「多様性」という言葉はどうも、人によっては「窮屈」に感じられるようだが、恐らくそれは「理解しなければならない」と考えているからだろう。そしてそこには、この記事の前半で書いたように、「『理解出来ない』という状態を許容出来ない」みたいな感覚があるのだと思う。みんながそんな風に思っていたら、本質的な意味での「多様性」など永遠に実現されないだろう。

当たり前の話だが、世の中に存在するすべての価値観を「理解」し「尊重」するなんてことは不可能だ。どう考えたって、理解できないもの、受け入れがたいものは残り続けるだろう。そして私は、「別にそれでいいじゃないか」と思う。「多様性が実現した状態」を強く望むのは、どちらかと言えばいわゆる「マイノリティ側」の人たちのはずだが、彼らはきっと「大衆に理解されたい」なんて思ってはいないだろう(「身近な人に理解されたい」みたいな気持ちはあるだろうが)。ただ批判や排除を避けたいだけのはずだ。

だから私は、「『理解出来ない何か』に出会ったら、放っておこうよ」と思ってしまう。「理解も尊重もしなくていいから、非難や拒絶だけしないでおこうよ」と。

しかし、どうも「大衆」にはそれが難しいようだ。「『理解できないもの』を『理解できる形』に押し込めたい」と感じるようだし(そのスタンスは、私には「宗教的なもの」に思える)、「『理解できる形』に押し込められない」となったら、「そんなものが自分の世界に存在していいはずがない」とでも言わんばかりに攻撃してしまうのである。そのようなスタンスこそが、まさに「イエスの方舟」に向けられたものだったと言えるだろう。

ホントに嫌だなと思う。

私は別に、本作を観て「イエスの方舟」を理解できたとも、共感できたとも思えていない。この点に関しては、監督の佐井大紀がナレーションで話していたことが実に的確だったなと思う。彼は次のように言っていたのである。

「イエスの方舟」のことは分かったつもりになったが、しかし、自分の身近な人間が「イエスの方舟」に入りたいと言ったら、素直に送り出せるかは分からない。

まさにその通りだなと感じた。私も本作を観て、「『イエスの方舟』は別にヤバいわけじゃない」と理解出来たが、しかしだからと言って、自分が入りたいとも、身近な人間に入ってほしいとも思わない。まあそういう意味で言えば、私も「『イエスの方舟』を許容している」とはとても言えないだろう。

しかしだからと言って、「批判・排除する」なんて発想にはならない私の人生に関係しないのであれば、別に好きにしていてくれたらいい。その程度の存在である。そして「みんな、何に対してもそれぐらいのスタンスでいればいいのに」と私には感じられるのだ。自分が理解できない何かに関わっている人のことを「あいつは洗脳されている」なんて捉える必要はない(お金が絡んだりすれば話は別だが)。「まったく理解不能な価値観を持つ者」を「洗脳されている」なんて見做していたらキリがないだろう。それは単に「私とあなたが違うだけ」のことであり、そんなのは当たり前のことでしかないのだ。

私は本作『方舟にのって』を観ながら、そんなことを考えていたのである。

本作で映し出される「イエスの方舟」のメンバーは、私にはごくごく普通の人に見えた。もちろん、一般的な人とは価値観が大きく異なるからこそ価値観を同じくする者たちと共同生活をしているわけで、その状況だけを捉えれば「普通ではない」と言えるかもしれない。しかし、「世間と価値観が合わない」ことを「普通ではない」と判断するのは、やはりおかしい。何故なら、「世間」の方こそが「普通ではない」可能性だってあるからだ。「多数派だから普通」なんて判断は通用しないだろう。そのことは、北朝鮮やロシア、あるいはトランプ大統領が台頭したアメリカなどからも理解できるはずだ。あるいは、戦時中のことを考えてみてもいい。

狂っているのは「大衆」の方かもしれない単に「数が多い」というだけの理由で「排除」を免れているだけで、「狂気」を孕んでいるのは「大衆」なのかもしれないのだ。そういう発想を忘れるべきではないと私は考えている。

最後に

この記事では、「作中でどのように『イエスの方舟』が描かれているのか」にほとんど触れなかったが、それは是非本編を観てほしい。観れば観るほど、「彼女たちが『カルト』と呼ばれたこと」が疑問に思えてくるのではないかと思う。

繰り返すが、別に「理解できない他者」を理解・尊重しようとする必要はない「批判も排除もせずに、ただ放っておく」ことさえ出来れば、本当の意味での「多様性」が実現すると私は考えているのだ。

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