はじめに
この記事で取り上げる映画
「ウォン・カーワァイ 4K」公式HP
今どこで観れるのか?
公式HPの劇場情報をご覧ください
この記事の3つの要点
- この記事では、『恋する惑星』『天使の涙』『花様年華』『2046』『ブエノスアイレス』の5作品の感想を書いていく
- 『恋する惑星』の鑑賞時、観ようと思っていた日のチケットが取れず、さらに若いお客さんが多かったことに驚かされた
- ウォン・カーウァイ作品に対しては全体的に、「魅力的な女性が多数登場する」という点が素敵だと思う
自己紹介記事
ウォン・カーウァイ監督作品5作を紹介!『恋する惑星』『天使の涙』など必見の話題作を含む、20世紀末を鮮やかに彩ったスタイリッシュな作品群
2022年8月、ウォン・カーウァイ監督作品5作が、監督自身の手による4Kレストアを経て劇場公開された。
さて、私はそれまで、「ウォン・カーウァイ」という映画監督のことを正直知らなかったし、もちろん作品についても同様である。だから、「あの監督の4Kレストア版が観れる!」みたいな動機で映画館に足を運んだのではない。
一方私は、「基本的に映画館でしか映画を観ない」と決めている。なので、「過去の名作を観る機会」はほとんどない。ただ最近は「4Kレストア版」「4Kリマスター版」などが劇場公開されることが多くなってきた。そしてやはり、そういう映画は「名作と呼ばれる作品」であることが多いだろう。なので私は、「なるべくレストア版・リマスター版は積極的に観るようにしている」のである。
そんな理由で私は、ウォン・カーウァイ4Kレストア版5作品をすべて観た。
さて、先に私の好き嫌いについて触れておこう。今回観た5作品の中で、私が一番好きなのが『天使の涙』である。そしてその次が『恋する惑星』。それから『花様年華』と『2046』がほぼ同列、『ブエノスアイレス』はちょっと好きになれなかったという感じだ。
ただ、この評価は「観た順番」にも依るかもしれないとも考えている。
調べてみると、ウォン・カーウァイ作品は「様々な形で歴史に翻弄された『香港』という土地を舞台にしている」という点にとても大きな意味があるのだそうだ。「様々な政治・国際情勢を背景にしながら、『そんな香港で生きる人々』を切り取っている」という要素も、作品の評価の一因になっているのである。
しかし私は、そういう背景的なことはほとんど知らず、作品からも読み取れない状態で映画を鑑賞していた。そのため、ウォン・カーウァイ作品の分かりやすい特徴である「スタイリッシュさ」に惹かれたと言っていいだろう。そしてその「スタイリッシュさ」は、この5作品で割と共通している。私はこの5作品を、『恋する惑星』『天使の涙』『花様年華』『ブエノスアイレス』『2046』の順に観たのだが、もし『花様年華』や『2046』を先に観ていたら、そっちを好きになっていたかもしれない。
またこの印象は、「5作品を短期間で一気見したからこそのもの」とも言えるだろう。
たとえ「スタイリッシュさ」が似通っていたとしても、作品鑑賞のタイミングがズレていれば印象もまた変わったかもしれない。しかし私は今回、1ヶ月間で5作品観た。つまり、「似た印象の『スタイリッシュさ』を続けざまに取り込んだ」ことになる。それで「先に観た作品の方がより良い印象になっている」という可能性もあるだろう。
いずれにせよ、私はウォン・カーウァイ作品の「スタイリッシュさ」にかなり惹かれたし、この記事ではそういう「表面的な見方」ばかりに触れるつもりだ。深い考察をしているわけではないので、そのような内容を期待している方はここで読むのを止めていただくのがいいだろう。
それでは、それぞれの作品を紹介していくことにする。
『恋する惑星』
劇場が満員だったことに、とにかく驚かされてしまった
さて、最初に観た『恋する惑星』の話から始めていくが、内容の前にまず、「映画館が満員だった驚き」に触れておきたいと思う。
私は元々本作を土曜に観るつもりだったので、その前日金曜の夜にチケットを取ろうと思っていたのだが、その時点で既に、シネマート新宿の335席もあるかなり広い劇場が満員で埋まっていたのである。シネマート新宿はよく行くのだが、あの広い劇場が満員になったところなどそれまで見たことがなかったのでとても驚かされてしまった。
そんなわけで、慌てて日曜のチケットを取ったのだが、結局私が観た回も満員だったようである。とにかく客席が埋まっていたのだ。さらに、ざっくり見た限りの印象だが、若い人が多かったことにも驚かされた。映画『恋する惑星』は1994年公開の映画であり、2022年に私が観た時点で約30年前の作品だ。「当時観ていた映画が懐かしくて劇場に足を運んだ」ということであれば、40~50代の人が多いはずだろう。
もちろん、昔の作品でもレンタルや配信で観れるわけで、そのようにしてウォン・カーウァイ作品に触れていた若者が、「4Kレストア版が上映される」と知って映画館に足を運んだ可能性もあるとは思う。しかし、鑑賞後に近くの席から、明らかに本作を人生で初めて観たのだろう若者の会話が聞こえてきたのである。
さらに、この4Kレストア版はなんと、私が映画館で鑑賞した時点で既に、配信でも観ることが可能だったのだ。つまり若者は、「今まで観たことがなく、かつ配信でも観られる映画を、わざわざ映画館まで観に来ている」ことになる。まず私は、この点に驚かされてしまったというわけだ。
若い人の間で「レトロ」「昭和」がブームになっているみたいなので、そういう流れでウォン・カーウァイ作品も話題になっているのかもしれないが、いずれにせよ、「30年近く前に公開された映画に、初日から若い人がじゃんじゃん押し寄せている」という状況が私にはちょっと不思議に感じられた。何にせよ、そのような強い引力を持つ作品と言えるだろう。公開館の規模が違うとはいえ、大ヒットアニメ映画ぐらいお客さんが押し寄せていたので、「アニメ映画以外でもこれほど劇場にお客さんを惹きつける作品がある」ということに少し感動を覚えさえした。
前後半でまったく異なる展開の物語であることに驚愕させられた
映画を観て一番強く感じたのは、「前後半で物語が繋がってないじゃん」ということだ。個人的な感覚では、「2つの短編映画が1作として提示されている」みたいな印象さえ受けたのである。
映画館で観たので時間経過はなんとなくの体感でしか判断できないが、私の感触では「前半の物語が全体の1/3」「後半の物語が全体の2/3」であるように感じられた。そしてその前後半で、主人公が変わる。前後半の物語の共通項は、「同じ屋台を舞台にしている」ぐらいだろう。それ以外には、前後の物語を繋ぐ要素は無かったと思う。実に変な構成だと感じられたし、正直「1つの物語としては成立していない」という印象の方が強かった。
ただ、非常に不思議なのだが、作品としてはすごく素敵に感じられたのである。正直、何が良かったのか上手くは説明できない。私は普段、割と「頭(思考)」で映画を観ているのだが、ウォン・カーウァイ作品は全般的に「心(感情)」が持っていかれる感じがした。その差が大きかったのかもしれない。
また、前後半で物語が繋がっていないだけではなく、「全体的にストーリーが破綻している」とさえ感じられた。前半の物語はまだ成り立っているようにも思えるのだが、後半の物語は「ストーリーとして成立してます?」と言いたくなったほどである。物語的な観点から捉えれば正直、「まったく意味不明」と言わざるを得ないだろう。
ただ、これもまた私にとっては不思議な感覚だったのだが、どちらかと言えば後半の物語の方が面白く感じられた。それは圧倒的に、屋台で働く短髪の女性フェイの存在感に依っていると言えるだろう。後半の物語がハチャメチャに見えるのは「フェイが無茶苦茶やってるから」なのだが、しかし同時に、フェイの圧倒的な存在感によって、後半の物語は「観れるもの」として成立できているのだ。フェイの行動は「狂気」と表現することもできるものなのだが、しかし観客は恐らく、その「狂気」をずっと観ていられると感じるだろう。私も正直、彼女のことをもっと観ていたいと思っていた。実に魅力的な女性なのである。
これは「恋」と呼んでいいのだろうか?
前半の物語は、分かりやすく「恋」と呼べるものだった。まあ、正確には「失恋」なのだが。しかし、後半の物語を「恋」と呼んでいいのかはちょっとなんとも言えない。フェイの振る舞いに対して最も適切な表現を探すとしたら、やはり「ストーカー」になってしまうだろう。そして、仮にその「ストーカー行為」の動機が「恋」なのだとしても、彼女の行動一つ一つはやはりちょっと謎過ぎる。
前半から後半へと物語が切り替わるタイミングで、「6時間後、彼女は別の男に恋をする」と表示されるので、「フェイが恋に落ちた」という理解で間違いない。というか、そのように説明されるからこそ、観客も「彼女の振る舞いは『恋』が起点になっている」と受け取れると言えるだろう。
そしてもしそのような説明がなかったら、彼女の行動だけを見てそれを「恋」と判断することはほぼ不可能ではないかと思う。いや、もちろん断片的には、「恋をしているんだろうなぁ」と感じさせる場面はある。しかしそれ以上に、「目的の分からない狂気的な振る舞い」が多すぎるため、全体として見た場合に、そこに「恋」を見出すことは難しいように思うのだ。
このように、後から振り返って冷静に分析してみると、フェイの振る舞いの「狂気さ」に改めて気付かされる。だから普通なら、「彼女の振る舞いをもっと観ていたかった」みたいな感想になるはずがないのだ。しかし実際には、フェイがメインで描かれる後半の物語の方が圧倒的に面白かったし、物凄く惹きつけられてしまった。本当に、自分でもよく分からないぐらい不思議な感覚だったなと思う。
音楽や映像もとても素敵
後半の物語では、音楽もとても印象的だった。頻繁に流れる曲に聞き覚えはあったのだが、曲名が分からなかったので鑑賞後に調べたところ、『California Dreamin’』という曲だそうだ。正直、何故聞き覚えがあるのか思い出せないのだが、子どもの頃観ていたテレビ(何かのドラマ?)でも流れていたような気がする。というか恐らく、映画『恋する惑星』がヒットしたことで、この曲が様々な場面で使われるようになったということではないだろうか。しかし、この曲のタイトルを調べてやっと、作中で「カリフォルニア」に言及していた理由が分かった。
さて、私は基本的に音楽が記憶と結びつかない人間だ。好んで音楽を聴く習慣が元々ないし、テレビなどでよく流れていた音楽についても、曲自体は覚えていても、それがいつの時代のどこで流れていた曲なのかという記憶が喚起されたりはしない。だから私は、本作で流れる『California Dreamin’』を聞いて、どことなく「懐かしさ」を覚えた理由が謎だった。聞くと何故か懐かしく感じられるのだ。そんなわけで、どうしてか「懐かしい」気分になるこの曲の存在も、作品の印象に影響を与えていると言えるだろう。
また私は普段、視覚的な情報にもあまり反応しない人間で、映画を観ても「このシーンは構図が素晴らしい」「役者の衣装が素敵」みたいな感想を抱くことはない。しかし本作の場合、「1990年代の香港の街並み」や「夜のネオンの色彩」みたいなものがとても素敵に感じられたのだ。
前半の物語の舞台はほぼ完全に夜で、だから香港の夜が織りなす色彩がとても印象的だった。「暗い背景の中でネオンが輝く」といった映像が素敵に感じられたのだ。また後半の物語は昼間のシーンもあるのだが、それでも明るい屋外にいることは少ない。外から日があまり差さない暗い室内で展開されることが多いため、映像の背景としては「暗さ」が強調されていると言える。一方で、フェイの服装はキャッチーで彩りが鮮やかなので、後半の物語でも「暗い背景をバックにフェイの衣装が際立つ」という印象が強かった。さらにフェイの服だけではなく、室内の小物なども色鮮やかで、そのような対比が映像的にとても綺麗だったのだ。
また、「背景が暗い」ことによって作品全体の「異様さ」が際立ち、その一方で「ネオンや服・小物の色鮮やかさ」によって作品全体が放つ「異様さ」が緩められているみたいな印象もあった。だから、特に後半の物語では「フェイの狂気」がに焦点が当たっているにも拘らず、「魅力的な物語」になっていたのかもしれない。
このように、普段私があまり気にならない「音楽」や「映像美」みたいなものも含めとても素敵な作品だった。しかしそういう要素を考慮しても結局、映画『恋する惑星』の一体何に惹かれたのかは上手く捉えられずにいる。とても不思議な物語だなと思う。あと、前半の物語に出ていたのが金城武だと、エンドロールを見て知った。そうだったのか。
『天使の涙』
映画『恋する惑星』よりも好きな作品
さて、『恋する惑星』に続いて観たのが『天使の涙』である。そして私は、本作『天使の涙』の方が好きだなと思った。というわけで、この比較をする理由を1つ挙げておくと、観ながら「『恋する惑星』と『天使の涙』は近い世界観を舞台にした作品だ」と感じたからである。実際、この捉え方は正しかったようだ。というのも『天使の涙』は、元々『恋する惑星』の一部として含まれるはずだった物語を独立させたものなのである。
先程書いた通り、私にとって『恋する惑星』の素敵さはほぼ「短髪の屋台店員フェイの存在感」に依っていたのだが、『天使の涙』は全体的に面白いと感じられた。物語は『恋する惑星』と同様、「ほぼ無関係と言っていい2つのストーリーが展開される」という感じなのだが、『恋する惑星』とは大分印象が異なる。『恋する惑星』では、前後半の物語にまったく繋がりが感じられなかったのだが、『天使の涙』では、無関係な2つの物語の要素が作品全体に散りばめられているような感じがしたのだ。つまり、『天使の涙』の方が、2つの物語に仄かな関係性を感じられたというわけだ。そのような構成が、『恋する惑星』よりも私の好みだったのである。
「色彩の美しさ」や「『夜の香港』の妖しさ」、あるいは「カメラの手ブレを抑えることなくそのまま使うスタイル」など、『恋する惑星』と共通する部分は多く、この2作については「誰が作ったのか」を知らなくても、同じ監督の作品だと誰もが認識できるのではないかと思う。そのような「作家性」が強烈に溢れ出る作品というわけだ。
『恋する惑星』では、「暗い背景」に映える「鮮やかな色彩の衣装や小物」などが印象的に使われていたが、一方、『天使の涙』ではそのようなものには目がいかなかったので、「色彩の鮮やかさ」に関してはほぼ「『夜の香港』のネオンの色」のみと言っていいと思う。物語は基本的に、「殺し屋」か「他人の店を勝手に営業させてしまう迷惑男」のどちらかによって展開されるのだが、この2つは普通1つの作品の中で馴染むものではないだろう。ただ、その「ネオンの妖しさ」が全体の雰囲気を統一しており、そのような部分もまた良かったなと思う。
物語の設定・展開の説明
『天使の涙』にも物語らしい物語は存在しないのだが、『恋する惑星』と比べればストーリー性はあると思うので、少し説明しておくことにしよう。
「綾野剛みたいな殺し屋の男」は、香港の街で「人殺し」を生業に生きてきた。ものぐさを自認している彼は、「誰をどのように殺すのか」をすべて指示してくれる今の仕事を気に入っている。頭ではなく、身体だけ動かしていたいタイプなのだ。
そんな殺し屋に指示を出す「あいみょんみたいなパートナーの女」は、男に仄かな恋心を抱いている。といっても男とは仕事だけの関わりであり、「155週間ぶりに隣に座った」というくらいそもそも会う機会がない。というか彼女は、「わざと距離を置いている。知ると興味を失うから」とさえ考えているのだ。ただ、殺し屋の男への関心は消せないため、彼の家に勝手に忍び込んでは、ゴミを持ち帰って生活ぶりを想像したり、家主不在の部屋でひとりオナニーをしたりするのである。
2人の関係はそのような形で長く継続してきたのだが、殺し屋の心情が少し変わってきた。怪我を負う機会が増えてきたこともあり、殺し屋稼業から足を洗いたいと考えるようになったのである。そんなある日、彼はマクドナルドで「金髪の竹内結子みたいなハイテンション女」と出会う。そして土砂降りの雨に打たれながら、男は知り合ったばかりの女の家に向かうのだ。
一方、金城武が演じているのは、5歳の時に賞味期限切れのパイナップルを食べたことで喋れなくなってしまった「勝手に商売男」である。彼は、シャッターが閉まった店に忍び込んでは、店を勝手に営業し金を稼いでいた。しかもやり方が荒っぽい。コインランドリーに忍び込んでいたホームレスの服を破ってでも脱がせて洗おうとしたり、通行人を捕まえて理髪店の椅子に座らせそのまま髪を洗ったり、アイスクリーム店にやってきた客に有無を言わさず延々にアイスを食べさせるなど、やりたい放題なのだ。そして、その「勝手に商売男」の父親が経営している「重慶ホテル」という安宿に寝泊まりしているのが「あいみょんみたいなパートナーの女」である。
「勝手に商売男」は日々、夜の香港でムチャクチャな商売を行っているのだが、ある日、公衆電話で誰かに電話をし続ける「ビビアン・スーみたいな女」に出会う。話を聞くとどうやら、親友に恋人を盗られたようだ。そのため、復讐心に燃えたぎっていた。「ビビアン・スーみたいな女」は「勝手に商売男」から金を借りては電話をし、さらに彼を連れ回して「金髪アレン」と呼ぶ女を探し出そうとするのである。
そんな彼女に、「勝手に商売男」は人生初の恋に落ちた。しかし「ビビアン・スーみたいな女」は、親友に盗られた恋人のことが忘れられないようで、そのことを知った「勝手に商売男」は落ち込んでしまう。ただ、「すべてのものには賞味期限が存在する」と理解している彼は、彼女の恋人への想いが「賞味期限切れ」になるのを待とうと考えるのだが……。
「歪んでいるが歪んでいるようには見えない」という不思議さが素敵な物語
内容的にはやはり、「これは物語と言えるのか?」と感じるくらい意味不明な話だった。しかし、『恋する惑星』よりはちゃんと展開すると言えるだろう。また、個々の登場人物が物語の各所で微妙に接点を持っていくため、「次にどういう展開になっていくのかさっぱり分からない」みたいな感覚がかなり強くなる。そんなわけで、物語の展開そのものがまずシンプルに興味深く感じられたた。
殺し屋とパートナー女の物語は割とシリアスに展開していくのだが、商売男と失恋女の物語は思わず笑ってしまうシーンが満載で、とても陽気に展開していく。このギャップもまた良かったなと思う。映画の冒頭は、「商売男が色んな店を勝手に開けて商売する」というシーンで始まるのだが、このハチャメチャさはすごく面白かったし、また、「金髪アレン」を探そうとする失恋女の「謎のテンションの高さ」も異様で惹きつけられた。
さて、「異様」と言えば、本作に登場する女性たちは皆どこかしら「歪んでいる」と言っていいだろう。パートナー女は、本人でさえ「恋」と認識しているのか分からないような歪んだ恋心を抱いているし、ハイテンション女は、その常軌を逸したハイテンションっぷりが凄まじいのだ。さらに失恋女も、「まともな思考回路がショートしているのだろうか?」と感じさせるようなぶっ飛んだ行動を繰り返すのである。
しかし、このような「歪み」は、「誰かに説明しよう」と思って言語化する際には意識されるのだが、正直、観ている時にはあまり気にならなかった。『恋する惑星』も同様だったが、この点が本作の凄まじい点だと思う。『恋する惑星』も『天使の涙』も、主に女性たちが「イカれた雰囲気」をこれでもかと醸し出しているのに、観客としてはそれがさほど強く意識されないのである。
恐らくそれは、「映像のかっこよさ」「作品の雰囲気にマッチした女優の美しさ」「作品全体が放つスタイリッシュさ」みたいなものに覆われているからだと思う。これほど強烈な「歪み」が随所に散りばめられているのに、観ている時にはそれが強くは意識されないという作品全体が持つ雰囲気には、ちょっと驚かされてしまった。何をどうしたらそうなるのかさっぱり分からないものの、どこか「錯視映像」を見せられているような感覚であり、やはりとても不思議な作品と言えるだろう。
結局のところ誰の物語も進展しないし、本作をシンプルに要約したら「特に何も起こらなかった」となるのではないかと思う。しかしそれでも、物凄く惹きつけられてしまったのである。断片的な描写が延々に続いていくような雰囲気が何故か心地よい作品であり、その形容しがたい雰囲気に圧倒されてしまった。
『花様年華』
「ストーリー的な断片」ではなく「映像的な断片」で構成された物語
ウォン・カーウァイ作品を見慣れてきたこともあり、そのスタイルには馴染み深ささえ感じるようになってきた。本作『花様年華』でも、「覗き見のようなショット」「印象深い音楽」「断片が積み重ねられる構成の展開」などはとてもウォン・カーウァイ的であり、全体としてはとても好きな感じの作品である。
本作『花様年華』で特徴的だと感じられたのは、「『映像的な断片』で物語が構成されていた」という点だ。それまで観たウォン・カーウァイ作品では、「『ストーリー的な断片』が積み上げられて全体が構成されている」という感じだった。しかし『花様年華』では、それがさらに「映像単位」にまで分割されていたように思えたのだ。「『それ単体では何を描いているのか分からない短い映像』をこれでもかと繋いでいくことで、『意味を持ちそうな物語』を構築していく」というようなやり方で作られているのではないだろうか。
そしてそのような構成だったからだろう、ストーリーを捉えるのがとても難しかった。私は普段、これから観る予定の映画について設定さえも知らないまま劇場に行くことにしており、そのこともあって本作の場合、「そもそも何が描かれているのか」を把握するのにかなり時間が掛かってしまったのだ。
例えばかなり冒頭の方で、「隣人に買ってもらった日本製炊飯器の代金の支払い」に関する場面があった。主人公の1人であるチャウは頻繁に海外出張に出かける隣人に「炊飯器のお礼」を伝え、その上で代金の支払いについて相談しようとする。しかし相手から、「お金はもう、あなたの奥さんからもらった」みたいに言われてしまうのだ。
このシーンを観た時には、このやり取りの意味が理解できなかった。分かったのは、だいぶ後になってからである。そしてその後、「バッグ」と「ネクタイ」の話からある事実が判明するのだが、しかしその点についても、「バッグとネクタイが出てくる場面」ですぐに理解できたわけではない。その意味が分かったのは、「日本の切手が貼られた封筒が届くシーン」でのことだ。そしてようやくここで、「なるほど、そういう設定の物語なのか」と理解できたのである。
さて、今私は、本作における「重要な設定」を伏せた上で内容を説明したが、この点に関しては公式HPの内容紹介欄でも触れられているので書いてもネタバレには当たらないだろうと思っている。そのため、これ以降はその点に触れるつもりだ。知らずに鑑賞したいという方は、ここから先を読まないようにしてほしい。
物語の設定・展開について
舞台となるのは、1962年の香港。新聞編集者であるチャウと商社で秘書として働くチャンは、同じ日に同じアパートの隣同士に引っ越してきた。引っ越しのタイミングが重なったこともあり、お互いの荷物が混ざったりとトラブルも起こる。そんなこともあって、2人は初日から話をする機会を得ることになった。
その後2人は、付かず離れずといった距離感の関係を続けていく。共に既婚者だが、お互いの配偶者は出張だったり夜勤だったりで、ほとんど家にはいない。屋台へと向かう階段ですれ違ったり、アパートの中で少し顔を合わせたりする程度で、お互いの配偶者の存在はほとんど感知されないというわけだ。
状況に変化が訪れたのは、チャンを呼び出したチャウがある相談を持ちかけた時のことである。チャウは妻にバッグを買ってあげたいと考えており、チャンに「君が持っているバッグはどこで買ったのか」と尋ねたのだ。そしてその話の流れの中で、チャンがチャウのネクタイに話を移し、その結果、「チャウの妻とチャンの夫は不倫しているに違いない」という事実に思い至ったのである。どちらも伴侶に裏切られていたというわけだ。そんな痛みを抱えていることが分かったこともあり、2人の距離はそれまでよりも縮まることになる。
しかし2人は恐らく、「配偶者と同じことはするまい」と考えていたのだと思う。確かに距離は縮まるが、それ以上深い関係になることもなかった。もし2人がまったく違う形で出会っていたら、何の障害を感じることもなく恋をしていたことだろう。しかし、お互いが同じ不幸を背負っていることを同時に知ってしまった2人の恋は結局、始まりもしなければ終わりもしないのである。
「互いの伴侶が不倫をしている」という状況を、一方の側からのみ描き出す物語
先程書いた通り、「ネクタイとバッグの話をしている場面」では、私はまだ「お互いの伴侶が不倫している」という状況に気づいていなかった。そのため、その際に交わされた「私だけかと思った」「どっちが誘ったにしろ、もう始まってる」というやり取りの意味はまったく理解できていなかったのである。そしてその後、「日本の切手が貼られた封筒が出てくるシーン」でようやく状況が掴めたというわけだ。
なので私には、「どう見ても惹かれ合っているだろう2人が恋愛に発展しない理由」がしばらく理解できなかった。もちろん共に既婚者なのだから「恋愛に発展しない」のは自然と言えば自然なのだが、物語的には不自然なのである。そのため、「互いの伴侶が不倫をしている」という設定を理解して、ようやく状況が把握できたというわけだ。
本作の場合凄いのは、「不倫している側の状況を一切描かないこと」だと思う。何なら、「状況」が描かれないだけではなく、「不倫している側の存在」さえほぼ映し出されないのである。先述した通り、「僅かに気配を感じる」程度にしか描かれないのだ。
そのような構成になっているのは恐らく、「チャウにしてもチャンにしても、『伴侶の不倫』が確定的な事実にはなっていないから」だと思う。いや、2人はもちろん「伴侶の不倫」を確信しているだろう。しかし、「2人が一緒にいるところを目撃した」などの明確な“証拠”を掴んでいるわけではない。つまり「確実な妄想」みたいな認識なのであり、観客に対してもそのようなものとして提示しようと意図しているのだと私は感じた。
つまり、「チャウ、チャン」にとっても「観客」にとっても、「恐らく間違いないが、確証はないこと」として「お互いの伴侶の不倫」が描かれているというわけだ。そして、そのような状況の中で「チャウとチャンの関係性」が描かれていくのである。個人的には、「よくもまあこんな設定の物語を成立させたものだ」と感じさせられた。思っているより難しい設定なんじゃないだろうか。
私の場合は、「互いの伴侶が不倫している」という設定に気づくのにとにかく相当時間が掛かったため、前半から中盤の描写に関しては「よく分からない」と感じるものが多かった。恐らく、その設定を知った上で観ていたら、もっと細かな描写に気づけたはずだと思う。そういう視点で改めて観直してみたい気もする。
さて本作では、ラスト付近で「カンボジアの実際のニュース映像」が挿入されたり、あるいは「チャウがアンコールワットと思しき場所で佇むシーン」が映し出されたりするのだが、これらの意味が私にはよく分からなかった。恐らく、何か時代背景を踏まえた上での描写なのだろう。こういう部分も含めて理解できると、ウォン・カーウァイ作品をより楽しめるのだろうと思う。
『2046』
『2046』には、『恋する惑星』で短髪の女性を演じた役者が再び出てきたが、やはり彼女の存在感がとても素敵に感じられた。彼女は「日本人と付き合っていることを父親から反対されている役」であり、特に後半で中心的に描かれていく。また彼女は、作中で「アンドロイド」としても登場するのである。この後内容に触れるが、本作は文字で説明しようとするとちょっとややこしくなってしまう作品だ。いずれにせよ、アンドロイド役も担うというトリッキーさも含め、とても興味深かった。
物語の設定・展開の紹介
映画冒頭は、とてもSF的な感じでスタートする。木村拓哉演じるタクが、延々に止まらない高速列車の中にいるという状況が映し出されるのだ。彼は「『2046』から初めて戻ってきた男」である。
「2046」というのは、小説『2046』で描かれるある場所のことだ。そしてその小説の作者が、様々な女性と関わりを持つ、トニー・レオン演じる主人公チャウである。小説中では、多くの人が「何かを探すため」に「2046」を目指している。「『2046』では何も変化が起こらない」とされているため、多くの人が「そんな不変的な場所であれば、探しているものが見つかるかもしれない」と考えて「2046」を目指しているのだ。しかし基本的に、「2046」を訪れた者はそこから出ることが出来ない。そして、そんな「2046」から初めて戻ってきた人物こそタクなのだ。チャウとタクは現実世界で知り合いであり、そんなタクと付き合っている女性が、小説『2046』の世界では「wjw1967」というアンドロイド(フェイ・ウォン)として登場する。チャウは、身近な人間を小説に登場させるのだ。
現実の物語は、1966年に始まる。シンガポールにいたチャウは、夫のいる女性と恋仲になってしまったのだ。彼は香港へと戻るタイミンで、彼女に「一緒に行こう」と提案するも、断られてしまう。その後香港に戻った彼は新聞にコラムを書くようになったが、それだけでは暮らせなかったため官能小説を執筆し始める。
チャウはある日、クラブで古い友人ルルと再会したのだが、彼女は自分のことを覚えていなかった。その後ルルが酔い潰れてしまったため、チャウが彼女をホテルの部屋まで連れて行くと、その部屋番号が2046だったのだ。こうして「ルルと再会したこと」「2046という部屋番号を目にしたこと」がきっかけとなり、彼は後に『2046』という小説を書くことになるのである。
その後しばらくしてから2046号室を訪ねたが、既にルルはいなくなっていた。そこでチャウはホテルに、「2046号室を借りたい」と申し出る。しかし「改装する必要があるため、一旦2047号室に入ってもらえないか」と言われたチャウはそのまま2047号室を借りることにした。すると隣から、チャウには聞き馴染みのない言葉(実は日本語である)の独り言が聞こえてくることに気づく。その独り言は、日本人と付き合っているホテルオーナーの長女のものだった……。
映画の感想
時代背景や舞台設定などは『花様年華』とのリンクを感じさせる。実際、『花様年華』には「2046号室の部屋番号が映し出される場面」が出てきた。『2046』を見てようやく、そのシーンの意味が理解できるというわけだ。また、このようなことをちゃんと思い出せるのも、短期間で一気見した良さと言えるだろう。時間を空けて見ていたらたぶん忘れていたと思う。さらに、『恋する惑星』や『天使の涙』ともどことなく繋がりを感じさせる物語であり、ウォン・カーウァイ作品の魅力はそんな部分にも現れているのだろうと感じた。
さて、本作を観た時点では知らなかったことなのだが、「2046」という数字は香港人にとって大きな意味があるのだという。よく知られているように、香港はイギリスから中国に返還された後も、「一国二制度」という形で、中国とは異なるルールで運用されてきた。ただし、返還に際して定められた法律によって、「2046年までは現行ルールのままの体制をを保証する」と決まっているのだ。
実際には、ニュースでもよく取り上げられていたように、香港に対する中国からの介入が強くなり、それに反発した若者らがデモを起こすようになっていった。「2046年まで現行ルールを保証する」というのは空手形だったと言う他ないだろう。しかし、少なくとも本作『2046』が制作された時点では、「香港はまだ大丈夫」という感覚が強かったはずだ。そしてそのような時代においては、「2046」という数字はとても大きなものだったのだろうと思う。
ウォン・カーウァイ作品はこのように、もちろん知らずに観ても十分楽しめるのだが、知っていればより深く作品を理解できるような仕掛けに溢れており、「スタイリッシュさ」だけではない魅力も満載なのである。ちなみに本作にも、魅力的な女性がたくさん出てきた。ウォン・カーウァイ作品を女性がどのように鑑賞するのか分からないが、男としてはやはり、「登場する女性が魅力的」という点は、ウォン・カーウァイ作品において最も強くアピールする部分だなと思う。
『ブエノスアイレス』
さて、本記事は基本的に「観た順番に感想を書く」という形をとってきたが、4番目に観た『ブエノスアイレス』の感想を最後に持ってきたのは、冒頭でも書いた通り、私にはちょっと受け入れられない作品だったからである。
まあその理由はとにかくシンプルだ。ついさっき書いた通り、私にとって「ウォン・カーウァイ作品」の最もキャッチーな魅力は「登場する女性が魅力的」という部分にあるわけで、そのため「男性同士の恋愛」を描く本作には上手く嵌まらなかったのだろうなぁ、と思っている。
ここまで散々書いてきたことだが、私が観た「ウォン・カーウァイ作品」は、「ストーリーがよく分からない」と感じるものが多かった。しかしそれでも魅力的に感じられたのは、やはり「作品全体が放つ雰囲気」に惹かれたからだろう。そして、そのような雰囲気をもたらしている一番の要因が、「『よく分かんないけど魅力的に見える女性』がたくさん出てきたこと」だと思う。
そういう部分に強く惹かれていた人間としてはやはり、『ブエノスアイレス』はあまり面白いとは感じられなかった。まあこれは完全に私の好みの問題だ。それに正直、ずっと「うーん」と思いながら観ていたので、作品を的確に捉えられているとも思えない。私の評価をあまり参考にしない方がいいだろう。
ただ、さすがだなと感じたのは「映像の美しさ」である。私は、何で目にしたのか覚えていないのだが、「ウォン・カーウァイ作品は、どこを切り取ってもポストカードになる」みたいな指摘を見かけたことがあり、なるほど確かにその通りだと感じた。また本作は、セックスシーンなんかをかなりリアルに映し出す作品なので、そういう意味でも一層「映像の美しさ」は重要になると言えるだろう。その辺りの手腕はさすがだなと思う。
最後に
個人的にはやはり、『恋する惑星』『天使の涙』の印象がとても強かった。そして、普段は映画を「頭で鑑賞する」ことが多い私には珍しく、「身体が弾んでいく」ような感覚をもたらしてくれる作品で、とにかく魅力的に感じられたのである。また、デモが常態化してしまった香港ばかり目にしていた我々には、ウォン・カーウァイ作品に閉じ込められた「まばゆい香港」の姿にもどことなく郷愁的な感覚を抱かされるのではないかと思う。
とにかく、出会えて良かったと思える作品だった。
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