【信念】アフガニスタンに中村哲あり。映画『荒野に希望の灯をともす』が描く規格外の功績、生き方

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「劇場版 荒野に希望の灯をともす」公式HP

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

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この記事の3つの要点

  • 「死に瀕した息子」よりも「アフガニスタンへの支援」を優先した凄まじすぎる覚悟
  • 個人の「妄想」によって実現した用水路は、信じがたい形でアフガニスタンを激変させた
  • 医師だった中村哲は、何故「治療」ではなく、まったくの畑違いである「用水路建設」に乗り出すことにしたのか?

「個人が成した偉業」として、中村哲ほどの功績に並ぶものはなかなか見つからないのではないかと思う

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

中村哲を追ったドキュメンタリー映画『荒野に希望の灯をともす』には、アフガニスタンに生涯を捧げた偉人の凄まじさが詰まっている

「病気の息子」よりも「アフガニスタン」を優先した凄まじい覚悟

中村哲のことを知らない人がこの記事を読んでくれているとは思えないが、少しだけ紹介しておこう。

中村哲は、「アフガニスタンの根本的な問題は水だ」と考え、医師でありながら独学で25kmにも及ぶ用水路を作り上げた。彼が完成させた用水路のお陰で、元々砂漠だった土地で農業が行えるようになったのだが、その激変ぶりには本当に驚かされる。しかし、住民が自ら用水路を作れるようにと活動を進めている最中の2019年、車で移動中に何者かに銃撃を受け命を落としてしまう。タリバンの仕業ではないかと疑われたが、タリバンは組織の関与を否定する異例の声明を出した。中村哲というのはそれぐらい、アフガニスタンにおいてあらゆる人・勢力から支持されていたのだ。亡くなる直前には、アフガニスタンでの長年の活動が認められ、同国の名誉市民権が与えられていた。あまりにも偉大な人物である。

本作『荒野に希望の灯をともす』は、そんな中村哲の活動を追うドキュメンタリー映画なのだが、まずは本作を観ながら心がぎゅっとなった、あまりにも辛い状況から紹介したいと思う。

9.11同時多発テロが起こった後も、中村哲はこれまでと変わらずアフガニスタンへの寄付金集めのために奔走していたアフガニスタンに拠点を持つ「アルカイダ」の仕業だとされていたこともあり、恐らく、この時は最も寄付金集めが大変だったのではないかと思う。さらにこの時、彼は全然違う心配事も抱えていた。

当時10歳だった息子が悪性の脳腫瘍に冒され、まさに命の灯火が消えようとしていたのだ。

「命を救ってあげることはもう出来ない」と分かっていたのだという。しかし親としてはやはり、命尽きる前に遊びに連れ出すなどして、せめてもの思い出を作ってあげたいと考えていたのだ。

しかし中村哲は、「どうしてもその時間を割くことが出来ない」と、講演を優先する。そしてその甲斐もあって、彼はなんと、たった1ヶ月で2億円もの寄付を集めたのだ。

これは別に、良いとか悪いとかって話ではない。例えば、彼とまったく同じような状況に置かれた人がいたとして、その人が息子との時間を優先したとしても、それが「悪い」なんて話になるはずがないだろう。ただこのエピソードは、中村哲の「覚悟」を示すものとしてとにかく印象的だった。普通ではない、ある意味では「常軌を逸した」と表現してもいいだろう「覚悟」を持って、中村哲はアフガニスタンへの支援を行っていたのだ。そんなこと、やろうと思ったって普通は出来ないだろうし、そんな生き方を生涯続けた中村哲には頭が下がる思いである。

「個人が成した成果」として、中村哲の偉業ほど凄まじいものは他に無いように思う

1人の人間の想い・行動力が生んだ成果として、中村哲が成したことほど凄まじいものはなかなか思いつけない。歴史を遡れば、ナイチンゲールやガンジーなどの偉人がいるが、同時代を生きた者の中で、中村哲ほど「現実に多くの人を直接的に救った人」はいないんじゃないだろうか。もちろん、「生み出した薬で多くの人を救っている」みたいな成果も素晴らしいが、中村哲は「用水路建設」という、とても個人で手掛けるようなものじゃない事業に乗り出し、そして現実に環境を大きく変えているのである。その凄まじさには、ちょっと驚かされてしまう。

中村哲は様々な場面で「平和」について語っていた

平和は戦争以上に積極的な力でなければならない。

平和とは理念ではなく、現実の力なのだ。

前者は、9.11同時多発テロを踏まえての発言だ。アメリカ主導でアフガニスタンに報復が行われている現状について、「『戦争』が現実に介入する以上に『平和』が力を持たなければならない」と主張しているのである。そして後者は、アフガニスタンに初めて設立した診療所が武装した住民に襲撃を受けた時のもの。同じく武器を取って応戦しようとしたスタッフを中村哲は制止し、なんと一切の反撃を禁じたのだ。彼は、この襲撃の背景に「マラリアの大流行」があることをきちんと理解していた。そこでマラリアの特効薬を大量に入手し、薬の配布と巡回診療を行ったのだ。「マラリアを治す」というような現実の力を生み出すことこそが、本当の意味での「平和」であると訴えているのである。

そしてそんな中村哲の最大の功績は、やはり「用水路の建設」だろう。私は本作を観る前の時点で、「中村哲が干ばつの酷い地域に用水路をゼロから建設した」という事実は知っていたし、そのビフォーアフターも目にしたことがある。とはいえやはり、何度見ても衝撃的だ。その驚きについては、以下に載せた本作の予告編でも体感出来るので是非観てほしい。1:55付近に、元々砂漠だったところが緑地に変わる場面がある。これが国家の事業ではなく、個人の発案によって成し遂げられたということに、未だに私は驚かされてしまうのだ。

「用水路建設」へと踏み出した中村哲の凄まじさ

中村哲が「用水路建設」を計画し、その話を周囲の人間にした時には、それは単なる「妄想」に過ぎなかったと思う。彼は用水路の建設に着手する前にスタッフを集め、「クナール川から全長13kmの用水路を建設する」と自身の決断を告げたのだが、正直、そんなことが実現できるとは誰一人として想像できていなかったのだ。

しかしそれも当然だろう。何せ、中村哲を含め土木工事の経験者など誰もいなかったからだ。またそれだけではなく、用水路を設計した人もいなければ、重機や機材もまともに揃わないような環境なのである。そんな中で「用水路を建設する」など、「イカれた発想」でしかなかったのだ。中村哲と長年活動を共にしてきたアフガニスタン人スタッフも、「彼は大丈夫だと言っていたが、実現するなんて誰も思っていなかった」と正直に語っていたほどである。

その後、中村哲は様々な準備を整え、実際に用水路建設に着手するところまで漕ぎ着けた。そして、その際にスタッフを激励する意味で掛けた言葉がとても印象的だった。本作のタイトルも、この時の言葉から取られているのだと思う。

私たちはとても小さな組織だ。出来ることは決して多くない。しかし、希望を与えることはできる。用水路建設を通して、皆の心に小さな灯をともそうじゃないか。

メチャクチャかっこよかった。恐らく、中村哲も、そんな素振りはまったく見せはしなかったが、この用水路建設計画がどれだけ無謀なのかはっきりと理解できていたはずだ。そのことは、彼が口にした「私たちは絶対に逃げない」という言葉からも感じられるだろう。少なくとも本作中で、中村哲が「絶対に用水路を建設するぞ!」みたいに言っている場面は存在しなかったように思う。リーダーであれば普通、現場の士気を高めるためにそれぐらいのことを言ってもいい気がする。しかし中村哲は「私たちは絶対に逃げない」という言い方をしていた。それは、「不可能だとしても逃げない」という覚悟の現れであり、「もしかしたら作れないかもしれない」という思いも頭の片隅にはあったんじゃないかと思う。

また、「小さな灯をともそう」も同じような言葉に感じられた。用水路を作れるかどうかは分からない。ただ、自分たちがここで努力し、諦めずに闘い続けることで、アフガニスタンとそこに住む人々に灯がともるんじゃないか。用水路の建設については断言できなくても、「絶対に灯をともしてやる」という覚悟ならはっきりと表明できる中村哲の「誠実さ」が、こういう言葉の選び方に現れたんじゃないかという気がした。

私の解釈が正しいとして、彼の言動からは「不可能かもしれない事業に乗り出す覚悟」や、「不可能だとしても歩みは止めないという決意」などが滲み出ていたように思う。その強さには圧倒させられてしまった。本当に凄いものだなと思う。

すべてを独学で行った用水路建設

驚くべきことに、中村哲は用水路建設の専門家などに協力を仰ぐのではなく、すべてを独力で行ったまったくの未経験から土木を学び、設計図さえ自ら引いたのである。コンクリートで作るなど色んな選択肢がある中で、中村哲は「住民が管理しやすいように」と「石を組み上げる工法」を採用し、さらに、用水路建設への自身の決意を示すために白衣を脱ぎ、最前線に立って自ら建設作業にも携わったのだ。

重機は僅かしかなく、ほとんどの作業は人力で行われた。そうなると、川から砂漠までの13kmは途方もない距離となる。しかも近隣の村では、前代未聞の干ばつのため村を捨て別の場所で暮らす者も多かったという。圧倒的な人手不足だったのだ。しかし、「用水路を建設しているらしい」という噂が広まることで、村を捨てた者が少しずつ戻り始めた。さらに、日銭を稼ぐために傭兵やゲリラになっていた者も、武器を捨て参加するようになったという。彼らは、アフガニスタンを空爆する連合軍からの機銃掃射に時々晒されながらも、辛抱強く建設作業を続けた

こうして、用水路を掘り進める作業自体は「時間と労力さえ掛ければどうにかなる」という状態になったのだが、問題だったのは取水口である。クナール川は激流だったため、水の流れを変える堰を取水口付近に作る必要があったのだが、巨石でさえもすぐに流されてしまうのだ。用水路を掘り進めても、そこに水を流せないのであれば意味がない

中村哲は、ヒントを求めて故郷・福岡へと戻った。私は「さすがに専門家の助けを仰ぐのだろう」と思っていたのだが、そうではなく、朝倉市にある山田堰を見に行ったのだ。江戸時代に作られたというこの堰は、幾度かの大洪水に晒されながら今も機能している。どうしてそんなことが可能なのか? その秘密を紐解くべく江戸時代の設計図を探し出した中村哲は、そこからクナール川の取水口に作るべき堰のヒントを見出すのである。

この経験から中村哲は、「人は見ようとするものしか見えない」と実感したそうだ。これはあらゆる事柄に当てはまる真理だと私は思う。中村哲は、昔から山田堰を視界に入れてはいたのだが見てはいなかった。そして、自ら堰を作る必要性に迫られた時、初めてちゃんと「見た」のである。知っているつもり、分かっているつもりになっていることは多々あるが、そのような思い込みに気づかせてくれる言葉だなと思う。

そして彼のこの感覚は、アフガニスタンの現状を訴える言葉の中からも読み取ることが出来るだろう。中村哲は、9.11同時多発テロを受けて自衛隊派遣を可能にする法改正が審議されている国会に呼ばれた。そしてアフガニスタンへの報復について「有害無益」と断言し、「現地で何が起こっているのかを知ってから物事を考えてほしい」と訴えたのだ。というのも、用水路建設に取り掛かる前のこの時点でアフガニスタンにおける最大の問題は干ばつだったのだが、その事実を日本で取り上げる報道はほとんど存在しなかったからだ。

もちろん、「報復」と「干ばつ」の話は関係ないと言えば関係ない。しかし、中村哲が「有害無益」と主張する理由も理解できるだろう。干ばつに喘いでいるアフガニスタンに報復したところで、現実的な問題は何も解決しないからだ。このように、私たちは「見ていたとしても見ていない」ことによって様々な勘違いや過ちを犯し得る。亡くなる直前までずっと現場で「見続けて」きた中村哲の言葉だからこそ、その重さも実感できるのではないだろうか。

1つの大事業を成し遂げただけでは中村哲の歩みは終わらない

最初に着手し、「マルワリード用水路」と名付けた用水路にようやく水を通した後で、彼は次のように言っていた

これまでの20年を振り返って、医師である自分がなんでこんなことをしているんだと、つい笑ってしまいそうになる。

自分の人生がすべてこのために準備されていたのだ。

感じ方は人それぞれだろうが、私は「あまりにも謙虚だな」と思う。まあ日本人らしいと言えばその通りだが、凄まじい偉業を成したのだから、もう少し誇ってもいいんじゃないかと感じた。

しかし、中村哲の挑戦はこんなものでは終わらない。その後、当然だろうが、様々な村から「用水路を作ってほしい」という依頼が舞い込み、彼はそれらの要望に応え続けたのだ。そしてさらに、「ガンベリ砂漠に水を引く」という大事業に取り掛かるのである。これがどれだけ難事業だったのかは、中村哲自身の言葉から理解できるだろう。

ここが緑地になるのだとしたら、私は神を心から信じよう。

既に多くの用水路建設に関わってきた中村哲をもってしても、「とてもじゃないけど実現するとは思えない」ような挑戦だったというわけだ。「ガンベリ砂漠」についてネットで調べると、「幅4キロ、長さ20キロの、古くから『死の谷』として知られる砂漠」と出てくるのだが、さらに「中村哲の活動により灌漑が進められ緑地帯が増えてきた」とも書かれていた。たぶん「地図を変えてしまった」ぐらいのインパクトがあるんじゃないかと思う。

しかしその建設は本当に大変だったようである。なにせ一度完成させたにも拘らず、その後100年に1度の大洪水により崩壊、設計を一からやり直すことになったというのだ。しかし中村哲は、再び山田堰を訪れては検討に検討を重ね、最終的には洪水にも強い堰を完成させてしまうのだから、本当に「凄まじい」の一言である。

さらに彼は、用水路の流域にモスクまで建てているというのだ。アフガニスタンでは、モスクは単なる宗教施設ではなく教育施設でもあるようで、多くの子どもたちがそこで学んでいるのだという。目の前の問題に対処するだけじゃなく、未来への希望をも生み出すなんて、本当に鉄人だなと感じさせられた。

中村哲がアフガニスタンと関わるようになったきっかけと、「用水路建設」に挑むまでの来歴

しかしそんな中村哲も、最初からすべてが順調だったわけではない。というわけでここからは、作中で語られていた中村哲の半生について触れたいと思う。

中村哲は元々、日本で精神科医として働いていたのだが、次第に疲弊していったのだという。医療はどんどんと高度化し、延命治療など新たな手法が生み出されていく。そしてそれに伴って、生命倫理的な問題など、これまでに直面したことのない状況に関わることが増えたことも一因であるようだ。

そういう状況から少し離れたいみたいな気持ちもあったのだろう、中村哲は登山スタッフの医療ボランティアとして志願することに決め、パキスタンを訪れることになった。しかしその際、パキスタンの住民が「診療してほしい」と医師である中村哲の元に集まってきてしまったのだ。ただ中村哲は、その想いに応えることが出来なかった。登山スタッフの医療ボランティアだったので、有効な薬を隊員のために取って置く必要があったからだ。そのため、明らかに酷い状態にある患者も、そのまま見捨てざるを得なかったのである。

その記憶が強烈に残っていたため、中村哲はその後再びパキスタンへと戻り、医療ボランティアとしてハンセン病患者を診ることになった。その際に出会った忘れられない患者がハリマという女性である。当時隣国のアフガニスタンはソビエトの軍事侵攻に晒されており、多くのアフガニスタン人が山を超えて難民としてパキスタンにやってきていた。ハリマもそんな1人であり、ハンセン病のせいで病棟中に悲鳴が響き渡るほどの苦痛と闘っていたのである。

この時中村哲は、難しい選択に悩んでいた。声を失わせてでも気管切開すべきか、あるいは何もせずに肺炎で死なせてしまうかである。それは、日本で延命治療の是非に悩んでいたのと同じ状況、いや、より酷い状況だったと言っていいだろう。悩みに悩んだ末、中村哲は気管切開を決断した。その後彼は、ハリマのある様子を目にしてホッとしたそうだ。このようにして中村哲は、まずパキスタンと関わるようになったのである。

その後1989年に、10年に渡る戦争が終結したアフガニスタンへと足を踏み入れた中村哲は、そのあまりの疲弊的な状況に驚かされてしまう。そしてすぐに無医地域に診療所を建設すべく、各地の長老と対話を続けることにしたのだ。長老たちの懸念は、「気まぐれに支援して、すぐに去ってしまうのではないか?」という点に集約されていたと言っていいだろう。そこで中村哲は次のように断言した

たとえ私が死んだとしても、この診療所は続けていく覚悟だ。

この時点で既に、中村哲は凄まじい覚悟を持って支援に臨んでいたのである。

その後アフガニスタンを、前代未聞の大干ばつが襲う診療所は患者で溢れ、幼児の多くが犠牲になってしまった。子どもを抱いた母親が、何日もかけて診療所までやってきたにも拘らず、診療所の列に並んでいる間に子どもが亡くなってしまうなんてことも日常茶飯事だったそうだ。

そんな状況を見て中村哲は、「医療だけでは問題の解決は不可能だ」と考える。そもそも水や食料が無ければ、どれだけ抗生物質を与えたところで焼け石に水でしかない。「病気以前の問題」というわけだ。そこで彼は方針を転換し、「井戸を掘る」ことに専念することにした。そして1年間でなんと660もの井戸を掘ったという。しかし、その井戸もすぐに干上がってしまうのだ。一体どうすればいいのだろうか。

そしてそんな中で起こったのが9.11同時多発テロなのである。これによってアフガニスタンはさらに厳しい状況に置かれることになってしまった。そして中村哲は、もうこれしかないという覚悟で「用水路建設」に着手、この計画にアフガニスタンの未来を託したというわけだ。

そんな凄まじい人物の生涯を知れるドキュメンタリー映画であり、多くの人に見てもらいたい作品である。

最後に

アフガニスタンは2022年に再び大干ばつに見舞われたそうだ。1970万人が飢餓に陥っており、「世界最悪の人道危機」と言われているという。ロシアによるウクライナ侵攻など、世の中では酷い出来事が様々に起こるが、しかし、「東京都の人口よりも遥かに多い人々が飢餓に苦しんでいる」という現実は広く知られてはいないだろう(私も本作を観るまで知らなかった)。

中村哲を喪った世界は、このような現実にどう立ち向かうべきなのか。そのことを多くの人と共に考えていかなければならないなと思う。

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