【生きる】映画『それでも私は』は、オウム真理教・麻原彰晃の三女・松本麗華の現在を追う衝撃作

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「それでも私は Though I’m His Daughter」公式HP

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

今どこで観れるのか?

公式HPの劇場情報をご覧ください

この記事の3つの要点

  • 「加害者家族は別に悪いことなどしていないのだから、堂々と生きていてほしい」と私には思えてしまう
  • 銀行口座の開設すら拒絶され、試験に合格した大学からは入学を断られ、外国からも入国が禁じられている、そのあまりにも酷い現状
  • 「父親が死刑ではなく終身刑だったとしたら、私は結婚だってしていたかもしれない」という発言の真意とは?

麻原彰晃に動機を喋らせることなく死刑を執行させてしまった社会(我々)は反省すべきだし、罪のない個人が批判されずに穏やかに生きていける社会を構築すべきだとも思う

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

オウム真理教・麻原彰晃の三女・松本麗華を追う映画『それでも私は Though I’m His Daughter』は、「加害者家族」のあまりにも辛い現状と彼女の不屈の生き様を描き出す

凄まじい人生である。ちょっと信じがたいぐらいだし、よくもまあここまで生きてこられたものだと思う。松本麗華は作中で何度も「死にたい」と口にしていたのだが、そう感じるのも当然だろう。ホントに、どうにか少しでも穏やかに生きてほしいものだなと思う。

本作『それでも私は Though I’m His Daughter』はドキュメンタリー映画で、焦点が当てられるのは、オウム真理教の教祖・麻原彰晃こと松本智津夫の三女・松本麗華である。2018年2月から取材を始め、そこから6年間もカメラを回し続けたという。そしてその間には、麻原彰晃や幹部らの死刑執行や、麻原彰晃の遺骨返還裁判などが行われた。彼女の人生は常に激動だっただろうが、「父親の死刑執行」を含むこの期間はかなり濃密と言っていいのではないかと思う。

「加害者家族」に対する私自身の考え方について

本作についてあれこれ書く前にまず、「加害者家族」に対して私がどのように考えているのかについて触れておくことにしよう。世間一般的に「加害者家族」がどのように認識されているか正確には捉えられてはいないものの、私のイメージでは「加害者家族」はあまりにも酷い扱いがなされているように感じられている。

状況によって色々と違いがあるとは思うが、私は基本的に、「『加害者がしたこと』と『加害者家族』には何の関係もない」と考えていて、だから「自由に穏やかに生きてくれ」としか思えない。「加害者」に怒りや批判が向くのは当然だが、しかし同じような視線がその家族にまで向けられるのはちょっと意味が分からなすぎる

もちろん、家族も犯行に加担していたとか、知っていて黙認していたみたいなことであれば、責められても仕方ないだろう。ただ、そういう場合は普通、その家族も何らかの刑法に引っかかるだろうし、だから「加害者家族」ではなく「加害者」という扱いになるはずだ。つまり、「『加害者家族』には、刑法上の罪は存在しない」というのが私の前提であり、だから「家族は別に関係ないだろ」としか思えないというわけだ。

あるいは、「『加害者』が未成年」の場合には、ある程度は親が責めを追う必要も出てくるかもしれない。しかしだからと言って、「加害者」に対するのと同等の批判が向けられるのは間違っていると思う。虐待などよほどのことがない限り「親の責任」は限定的であり、個人的には、「未成年だろうがなんだろうが、『加害者』がそのほとんどの責任を負うべき」だと考えているというわけだ。

それで、本作には原田正治という人物が登場する。というか、彼の存在が本作のきっかけになったと言っていいだろう。彼は、弟を殺された被害者家族である。「弟の勤務先の従業員が結託して保険金殺人を企てた」というなかなか凄まじい事件だ。そしてこの原田氏が松本麗華との対面を望んだことから本作の撮影が始まったようである。

原田氏は当初、加害者らに死刑を望んでいたという。しかし後に加害者から謝罪を受けたことで「生きて償ってほしい」と考えを変え、既に下されていた死刑判決の撤廃を求める運動を始めたのである。しかし結局、死刑はそのまま執行されてしまったそうだ。

そんな原田氏は松本麗華に、「加害者の奥さんと子どもが謝罪に来てくれたことがあり、それで救われた部分も確かにある」みたいなことを口にしていた。その流れで松本麗華が、「加害者家族からの謝罪は必要だと思いますか?」と聞くと、原田氏は、「救われたことは確かだけど、ただ、『加害者家族が謝罪すべき』だとは思わない。被害者家族も加害者家族も、どっちも被害者ですよ」と言っていたのである。

一応書いておくと、原田氏は別に、松本麗華に配慮してそんな言い方をしたのではないと思う。というのも、原田氏も松本麗華も書籍を出版しており、お互い相手の著作を読んだ状態でこの対談に臨んでいるからだ。恐らくだが、原田氏は書籍の中で「『加害者家族が謝罪すべき』だとは思わない」みたいなことを書いていて、それを知っていた松本麗華が改めてその展について確認するための質問をした、みたいな流れだったのではないかと想像している。じゃなければ同じ事件の「加害者」「被害者」ではないとはいえ、「加害者家族が被害者家族に『加害者からの謝罪は必要ですか?』と質問する」なんてことは出来ないだろう。

さてもちろんだが、すべての被害者家族が原田氏のように考えているはずがないし、私としても別に、「被害者家族は加害者家族に怒りを向けてはならない」なんて思っているわけではない。やりきれない思いを抱えているだろう被害者家族が、自分の気持ちを落ち着かせるために、そしてどうにか前を向いて進んでいくために、その怒りの矛先を誰かに向けてしまうのは仕方ないことだし、その「誰か」が加害者家族になってしまうことだってあるだろうと思う。私は別に、そういう状況に対して何か言及したいわけではない。

私が指摘したいのは、「SNSなどでウダウダ言っている連中」に対してである。そして私は、「お前らに加害者家族を批判する資格などない」と言っているだけなのだ。加害者本人を責めるならまだ理解は出来る(それでも、「外野がとやかく言ってんじゃねぇ」と感じてしまうのだが)。ただ、事件と直接的には関係ない加害者家族に対して、そもそも何の関係もないネット民があーだこーだ言っている状況は、私にはちょっと許容できない。どんな言い訳をしようが、彼らの行動に「正義」などどこにもないはずだ。

というわけで、ここまでで書いたようなことが私の基本的な考え方である。一応まとめるなら、「『加害者』と『加害者家族』は無関係であり、だから『加害者家族』が批判される必然性などどこにもない。謝罪などしなくていいし、堂々と胸を張って生きてほしい」となるだろうか。「加害者」の責任なんて、負う必要はないのである。

「『加害者家族』への批判」はある種の「抑止力」として機能しているのかもしれないが、そうだとしても「『加害者家族』を責めていい」ということにはならない

さて、「加害者家族」に対するここまでの文章は間違いなく私の本心だが、それとは少し異なる話もしておきたいと思う。それは、「『加害者家族』への批判がある種の『抑止力』として機能している現実」についてだ。

私たちは今、「何か罪を犯せば、自分だけではなくその家族までも批判にさらされる」という社会に生きている。そしてそれ故に、「自分はともかく、家族を路頭に迷わせるわけにはいかない」と考えて踏みとどまる人もいるんじゃないかと思う。ただ、そういう効果があるとしても、それは測定不能である。結果として犯罪は起こっていないわけで、「起こっていてもおかしくはなかったが実際には起こらなかったこと」についてカウントしなければならないからだ。さすがにそれは無理があるだろう。ただ測定出来ないとはいえ、「その効果は一定程度存在する」と考えるのが自然ではないかと思う。

逆に言えば、私が主張するような「加害者家族が責められない世界」が実現したら、「罪を犯したとしても家族に迷惑が掛かることはない」と考えて、結果として犯罪が増えるなんて可能性もあるかもしれない。こちらも実際のところは検証不可能な仮説ではあるが、やはり「そうであってもおかしくない」ぐらいに考えておくのが良いんじゃないかと思う。

そして私は、「仮にそうだとしても、加害者家族が責められない社会を実現すべきだ」と考えている。それがどれだけ「公共の利益」に帰するとしても、そのために「特定の個人に対する不利益」が生まれてしまうのであれば、そんなのフェアだとは思えないからだ。「犯罪の抑止力」について考えるのはもちろん大事なことである。しかしそれは、「加害者家族が批判される」というのではない形で実現されるべきだろう。「個人に不利益を被らせて社会全体の秩序を守る」なんて、人柱や姥捨て、魔女狩りなどと大差はない。そんな前時代的な仕組みでしか秩序を維持できないとすれば、そんなの現代社会の敗北でしかないだろう。

そしてこの「加害者家族は責められるべきではない」という私の感覚は、松本麗華に対しても当てはまると考えている。もちろん彼女の場合、かなり特殊な状況であることは間違いない。例えば、父親が逮捕された当時彼女は12歳だったのだが(私は恐らく彼女と同い年で、1ヶ月ほどしか誕生日が違わないと思う)、その時点で彼女は教団内で「アーチャリー」という名前が付けられ、「指導的な立場」をやらされていたという。また、彼女は早い段階でオウム真理教やその後継団体とも一切関わりを絶ったのだが、「教祖の娘である」という事実によって神格化され、本人の意思に反して教祖的な扱いがなされてしまう可能性もあるだろう。実際にこの記事を書く少し前に、「本人の意思に反しているか」は不明だが、「松本智津夫の次男が後継団体の『グル』を自称している」というニュースが出たりもしていた。松本麗華がそうなっていた可能性もあるだろうし、後で触れるが、公安調査庁は今もそのような警戒を続けているようだ。

だから松本麗華の場合、「ごく一般的な加害者家族」(という表現も実に変ではあるが)とはちょっと言えないだろうと思う。

しかしそうだとしても、「父親が松本智津夫なんだから、その娘はどんな風に扱ったって別に問題ない」みたいになるのはおかしいだろう。というか、イカれていると思う。オウム真理教に関しては、国家が総動員してあらゆることを調べ尽くしているはずなので、「にも拘らず松本麗華が逮捕されていない」ということは、少なくとも彼女は刑法に引っかかるようなことは何もしていないということだろう。だとすればやはり、彼女が責められるべき謂れはない

というかそもそも、松本麗華はオウム真理教の「虫も殺してはいけない」という教えを信じて育ったため、「父親が逮捕されるまでは菜食主義者だった」と言っていた。その後変わったのかはよく分からない。ただ、冒頭で映し出される原田正治との対談の中で彼女は「生け簀が置かれている店は苦手です」と口にしていた(そういう話の流れがあったのだ)。完全な菜食主義者ではないかもしれないが、現在でも「生き物を食べること」に多少なりとも抵抗を持っているのかもしれない。

まあそんなことはどうでもいいのだが、何にせよ、松本麗華は「罪のない加害者家族」でしかなく、松本智津夫の娘だろうがなんだろうが、酷い扱いをしていいはずがないというわけだ。

松本麗華が置かれている、あまりにもしんどい日常

さて、何となく想像出来るとは思うが、松本麗華はやはり相当しんどい状況に置かれている。そのしんどさは、ちょっと想像を絶するんじゃないかと思う。

というわけで、いきなり松本麗華ではない人物の話から始めるが、私が驚かされたのは「学校の先生からもいじめられた」というエピソードだ。松本麗華が妹・聡香(映画を観ている時は本名だと思っていたのだが、調べたらペンネームらしい)について話している時に出てきたエピソードである。

聡香は学校(小学校だったと思う)でのクラスメートらからのいじめが苦しくて自傷行為をするようになったという。そしてそれを知った学校側の誰か(担任なのか校長なのかは覚えていない)が、「あなたの命は1つです。でも、あなたの教団は多くの人の命を奪いました」みたいなことを言ったというのだ。この話が事実だとすれば(松本麗華の証言しかないので、念の為こういう表現をしている)、マジで気が狂ってるんだなという感じがする。クラスメートからのいじめももちろん辛かっただろうが、教師からそんな風に言われたのなら絶望でしかなかっただろう。確かに、あの当時は「オウム真理教憎し」という社会全体の雰囲気が凄かったが(私は中学1年ぐらいだったが、やはりかなりのインパクトと共に記憶している)、それにしたって、教師がしていい言動ではない(というか、教師以外ももちろんダメだ)。

また本作では、松本麗華が銀行口座の開設を依頼する場面が映し出される(何らかの方法で隠し撮りされた映像のようだった)。そして銀行側は、彼女の口座開設依頼を拒否するのだ。もちろん松本麗華は「どうして作れないんですか?」と質問するのだが、銀行側は「総合的に判断した」という返答を繰り返すばかり。しかしそのやり取りからは、明らかに「松本智津夫の娘だから」だということが伝わってくる。そう、彼女はなんと銀行口座すら作れないのだ。それはあまりにもハードすぎるだろうと思う。

とはいえ、この件で銀行を責めるのは少し酷かもしれない。というのも、松本麗華はどうやら、公安調査庁から「後継団体(たぶん「アレフ」)の事実上の幹部である」と見なされているようなのだ。後継団体も恐らく「テロ集団」と認定されているはずで、だから松本麗華は公式の書類において「テロリスト」として扱われているのだと思う。そしてこの事実が、彼女の社会生活を著しく妨げる要素となっているというわけだ。

松本麗華は、この事実を不服として裁判を起こした。しかし結果は覆らない。その後判決を精査してみたところ、やはりその決定には奇妙な点があったという。というのも、公安調査庁はある時点ではっきりと、「11歳当時の松本麗華は教団幹部ではなかった」という報告書をあげていたからである。「松本麗華が後継団体の幹部である」という認定には、「かつて幹部だったこと」と「現在幹部であること」の2つを示す必要があるようなのだが、前者は公安調査庁自身の報告書によって否定されているのだ(この報告書はもちろん裁判で提出されている)。にも拘らず裁判所は、「松本麗華は後継団体の幹部である」という認定を許容し、取り消しに応じなかったのである。

このような現状を松本麗華は、「国からいじめを受けている」と表現していた。確かに、そんな風に言いたくもなるだろう。

また、彼女はある場面で、「個人からのいじめだったら、引っ越したりして私のことを誰も知らない場所に行けばどうにかなる」みたいなことを言っていた。それも普通なら容易ではないはずだが、しかし彼女には簡単なことに感じられて当然だとも思う。というのも松本麗華は、なんと「外国からも入国を拒否される」という状況にあるからだ。恐らくこれも、公式の書類で「後継団体の幹部」と認定されてしまっているためだろう。こんな風にして国は、「松本智津夫の娘」というだけの理由で一個人を徹底的に弾圧しているのである。個人的には、ちょっと信じがたいなと感じられてしまった。

さらに、このような「理屈を曲げてでもオウム真理教関係者をねじ伏せる」みたいなやり方は、「麻原彰晃の遺骨の返却」に関しても見られる

麻原彰晃ら幹部の死刑が一斉に執行された後、「麻原彰晃の遺骨を誰に渡すか」が問題となった。というのも、麻原彰晃の逮捕後、彼の家族(母親と6人の子ども)は実質的に一家離散の状態にあるからだ。また先述した通り、次男は後継団体アレフの「グル」を自称しているもし彼の手に遺骨が渡れば教団の新たなシンボルとして扱われるだろうし、そしてそれは、国目線からすれば「家族の誰に渡してもその危険は残る」という判断になるだろう。そのため、裁判所が「遺骨は次女の宇未に引き渡す」ように命じたにも拘らず、国は遺骨の引き渡し自体を拒んだのである。

もちろん、そんな状態はあまりにも理不尽なので、宇未は裁判を起こすことに決めた。そして本作には、その裁判で弁護を担当した弁護士が少し登場するのだが、彼は「遺骨を返却しないことに法的根拠など一切ない」と説明していた。まあ、そりゃあそうだろう。そしてにも拘らず、国は「遺族が遺骨を引き取ること」を「権利濫用」だと主張し、引き渡しを拒んでいるらしいのだ。マジで意味が分からないし、その弁護士も理解不能だと言っていた。ここでも国は、ルールを無理やり捻じ曲げてでも「オウム真理教関係者」を排除しようとしているのである。

こんな状態で生きていくのはあまりにもしんどかっただろう。よく生き延びられたものだなと思う。松本麗華は、試験を突破し合格したはずの大学から入学を拒否されたり(ただ最終的には、弁護士の尽力もあり通えることになった)、働き口を見つけてもすぐに解雇されてしまったりと、とにかくまともな生活が送れずにいる。そして、誰も明言こそしないだろうが、その理由は間違いなく「松本智津夫の娘だから」なのだ。

作中では何度か、本作監督と松本麗華がオンラインでやり取りする場面が挿入されるのだが、その中で監督が、「『挑戦する』という権利さえ奪われてしまっている」という表現を使っていた。彼女の現状を表すのにピッタリという感じがするし、そして、国家がその強大な権力を行使してそのような状況に追い込んでいる事実は、やはりちょっと酷すぎるのではないかと思う。

「麻原彰晃が何一つ語らないまま死刑に処された」という現実について

そんな松本麗華の口から語られる話はどれも興味深かったのだが、やはり中でも「死刑」に関する言及はかなり重かったと言っていいだろう。

ただその話をする前に、「麻原彰晃の裁判の様子、そして死刑に至るまでの過程」について少し触れておこう。一般的にどの程度知られているのかよく分からないが、麻原彰晃の裁判はかなり異例の形で進行したのである。私は、以前読んだ『A3』(森達也)というノンフィクションでその一端を知った。恐らくニュース等でも報じられていたとは思うが、私はリアルタイムではこの事実を認識していなかった気がするし、私と同じように詳しく知らないという人がいてもおかしくはないだろう。

どうやら麻原彰晃は、1審の途中から意味不明なことを口にするようになったようである。それが演技だったかどうかは、死刑が執行されてしまった今となっては判断できない。しかし、森達也には「明らかに精神異常が疑われる」という状態に見えたのだそうだ。にも拘らず国は、「裁判を一度中断して治療に専念させるべきだ」という声を無視して裁判を続行、そのまま判決を下し、死刑を執行したのである。つまり、「すべての指示を行った」とされる麻原彰晃の証言は一切取れないまま、オウム真理教に関する事件は終結してしまったというわけだ。

本作の取材が始まったのは、たまたま麻原彰晃らの死刑が執行される少し前のことであり(死刑がいつ行われるかは事前に公表されないので、本当にたまたまである)、そしてその取材期間中に、宮台真司や森達也ら知識人が集まって、「死刑囚・麻原彰晃を治療すべきだ」という主旨の記者会見が行われた。ちゃんとは理解できなかったが、恐らく「この会の発起人は松本麗華だが、彼女自身は記者会見に同席しなかった」みたいな感じだと思う。松本麗華だけではなく、多くの人が「動機や真相の解明をすべきだ」と主張しており、そしてそのためには「麻原彰晃の治療」が欠かせない。もちろん、治療したところで治る保証はないが、そうしなければ動機を語らせることも出来ないのだから、「仮に可能性が低くても治療を施すべきだ」と訴えていたのだ。私も、絶対にそうすべきだと思う。特に「オウム真理教が関わった事件」は、あらゆる意味で前代未聞だったわけだから、実態を解明しなければならないはずだ。

この点に関しては、監督が松本麗華に、「奇跡的に治療が回復して喋れるようになったとして、その場合、お父さんの口から、あなたが望んでいない事実が語られるかもしれないけど、それでも治療を望むの?」と質問する場面がある。そして彼女は、「その点に関しては繰り返し考えてきたけど、仮に自分が望まない話が出てくるとしても、やっぱり私は治療をしてほしい」と断言していた。

ちなみに、記者会見の中で森達也が話していたのだが、オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こしたのは、教団にとっての「絶頂期」だったそうで、麻原彰晃も教団内に愛人を囲うなど申し分ない状況にあったという。にも拘らず、地下鉄サリン事件は実行された。それが麻原彰晃の指示なのだとすれば、そんな絶頂期に教団の破滅に繋がるような計画を立てるものだろうか? このような点さえも未だに明らかにされていないようなのだ。死刑が執行されてしまった今となっては言っても仕方ないことだが、やはり治療を行うべきだったように思う。

このままだと結果的に「国はオウム真理教に屈した」という印象になるし、「同じような事態に直面した際に対応できないのではないか」という感じもしてしまう。「麻原彰晃ら幹部を一斉に死刑にした」という事実によって、ある意味で「国民の溜飲を下げる」みたいな効果を狙ったのかもしれないが、そんな一瞬で消えてしまう効果と引き換えにして失ったものは大きいような気がした。

学生に語っていた「死刑」と「マスコミ」についての話が印象的だった

さて、彼女は「死刑」に関して様々な場面で断片的に話をしていたのだが、個人的に一番興味深いと感じたのは、「マスコミ志望の学生向けのセミナー(みたいなものだと思う)」で彼女が語っていた内容である。どうしてそのセミナーに松本麗華が登壇することになったのかはよく分からないが、非常に印象的な話が多かったなと思う。

このセミナーには質疑応答の時間があり、講演の中で「死刑には反対だ」と話していた(らしい)松本麗華に対してある学生が、「ではどういう刑罰が必要だと思うか?」と質問していた彼女の返答は「終身刑」であり、恐らくこれは、仮釈放が想定される「無期懲役」ではなく、「仮釈放がない終身刑」という意味なのだと思う。そしてそれに続けて、「もし父が死刑ではなく終身刑だったら、私の人生は全然違っていたと思う。もしかしたら、結婚だってしていたかもしれない」みたいなことを言っていたのだ。

私は正直、彼女がそう口にした時にはその意味がまったく理解できていなかったのだが、その後の説明を聞いて、「なるほど、そういうことか」と納得できた

先程も少し触れたが、「いつ死刑が執行されるのか」は事前に分からない。マスコミや家族に伝えられないのは当然、本人にも確か、「その日の朝突然伝えられる」みたいな感じだったと思う。そしてだからこそ、松本麗華は「会える時に会っておかないと後悔する」と考えていたそうだ。自分が置かれた状況を想像しやすいようにと「介護」を例に挙げていたが、「例えば親の介護をしていて、いつ亡くなってもおかしくないとしたら、会える時に会いたいって思いますよね?」と話していた。確かに、この方が状況を想像しやすいだろう。そして「そのせいでプライベートがかなり犠牲にされた」というのだ。

これが終身刑だったとしたら、「父親が突然いなくなる」みたいな可能性は低くなる(突然病死する、みたいな可能性はあるが)。そして「もしそうだったら、今とは全然違う人生を歩んでいたはずだ」というのだ。「親族に死刑囚がいる」というのはあまりにも状況が特殊すぎて今まで想像したこともなかったのだが、彼女の話を聞いて「なるほど、確かにそうかもしれない」と感じさせられた

さて、そのセミナーではもう1つ、「マスコミ」について興味深い話がなされた。セミナーの中で松本麗華が「マスコミに対する不信感」みたいな話をしたのだろう、それに関する学生の質問から展開された話である。その質問は、「マスコミを一括りに考えているようですが、マスコミも個人の集まりなわけで、そういう個人に対してプラスの印象を抱くことはないんですか?」というもの。そしてそれに対する返答にも「なるほど」と感じさせられた

松本麗華にはマスコミの知り合いがたくさんいるらしく、個人的に会ったり食事をしたりすることもあるそうだ。そしてそうなれば、確かにその人は「個人」として認識されるようになる。ただ、そうなればその人のことを信頼できるのかと言えば、そんなことはほとんどないという。彼女にとって「信頼できるマスコミの人」はごく僅からしい。

その理由ははっきりしている。仮に目の前にいる個人のことが信頼できたとしても、その背後に多くの人が関わっているからだ。要するに、「組織の理屈に個人は勝てない」という話である。彼女は、「私の映像の編集に副社長が立ち会ったことがある」みたいな話を聞いたことがあるそうだ。個人としてはどれだけ信頼できる人だとしても、組織の1人になってしまえば個人の想いなど消し飛んでしまう。「だから私は、マスコミのことは信頼しない」と話していた。こちらも、彼女自身の経験を反映した、実に説得力のある話だなと思う。

映画『それでも私は Though I’m His Daughter』のその他感想

それでは最後に、いくつか気になった話に触れてこの記事を終えようと思う。

まず、これは松本麗華だけではなく、「父親(松本智津夫)との記憶がちゃんとある家族」は全員同じ感覚を持っているようなのだが、「父を憎んでいる人はいない」と話していた。妹の聡香だけは、父親の逮捕当時6歳であり、父親とのまともな記憶がない。だから彼女は父親を憎んでいるし、父親と対立する道を選んだそうなのだが、父親との記憶がちゃんとある他の家族は恨んでいないという。松本麗華をこのような酷い状況に追い込んでいるのは明らかに父親なのだが、そうだとしても「家族の情」みたいなものを感じてしまうということなのだろう。

そしてだからこそ、先述した通り、彼女は「父親を治療して動機を喋らせてほしかった」と考えているのである。父親としての記憶がちゃんとある松本麗華には、「世間で語られる麻原彰晃の姿」とあまりにも乖離が大きすぎると感じ、未だに理解できないのだそうだ。彼女は、「仮に自分たちには意味不明な話だったとしても、父親の口から直接聞きたかった」みたいに言っていた。結局何も分からないまま死刑に処されてしまったため、その「隔たり」は永遠に埋められない。そのこともまた、彼女を苦しめる要素になっているようだ。

また本作には、「松本麗華と次女の宇未が父親の生まれ故郷を訪ね、親族に会う」という場面も映し出される。一度も会ったことがない親族だそうで、最初こそ拒絶されたものの、最終的には3時間半にも及ぶ長い話をしていた。そして、その会話を振り返った松本麗華が次のように言っていたのである。

私たちは、父親が逮捕された時はまだ教団にいたから、教団に守られていたんだろうなと思う。そういうものがなかった親族の人たちはきっと、私たちより遥かにしんどかったと思う。

まあ確かにその通りだろう。そしてその上で松本麗華は、「憎めなかったからこその大変さ」みたいな話もしていた。親族はもちろん松本智津夫のことを憎んでいるのだろうし、であれば「彼に怒りを向けることで発散する」みたいなことも出来たはずだ。一方、松本麗華も宇未も、父親に対して憎しみを抱けないでいる。そして「だからこそ、気持ちの持って行き場が難しい」みたいな話をしていた。これもまた、リアルな実感だろうなと思う。

あと、これは既に触れたことではあるが、作中で松本麗華は何度も「死にたい」みたいなことを口にしていたそう感じるのも当然だろう。あらゆる意味で「まともな生活」など望めないし、ただ日常生活を送るだけでもかなりしんどいはずだ。また、妹と同じように彼女も父親の逮捕後にいじめに遭っており、その時のトラウマがフラッシュバックして鬱のような状態になってしまうこともあるという。

そんな「死にたい」と口にする場面の中でも特に印象的だったのが、2ヶ月前にコロナに罹り寝込んでいた松本麗華が久々にカメラの前で話す時のことである。この時は彼女の方から「会いたい」と連絡があったようで、監督がその理由を尋ねてみると、彼女は目を潤ませながら次のようなことを言っていた

私が死んだ時、「父たちのせいで死んだ」みたいに思われるのはやっぱり違う。「私に攻撃してきた人たち」のせいで死ぬんだ。

なかなか穏やかではない雰囲気である。監督も、いつもと違う雰囲気を感じ取ったようだ。彼女に、「もしかしてカメラの前で遺言を話してるってこと?」「このまま取材を続けると、『死にたい』って思ってるあなたの背中を押す感じになっちゃう?」みたいに聞きながら、その真意を確かめようとしていたのである。それに私にも、「遺言のつもりなのかもしれない」という風に見えていた。「本当に死んじゃうかは分からないけど、衝動的に死にたい気分に襲われて命を落とすことだってあるかもしれないし、そういう場合に備えて、自分の口で『死んだ理由』を説明しておきたい」みたいな動機があるように思えたのだ。時期や状況などによっても変わるのだろうが、やはりかなり追い詰められていたのだと思う。本当に、どうかそんな風に感じずに穏やかに生きてほしいものだと願わずにはいられなかった。

最後に

配慮を一切しない表現をするなら、松本麗華は「ドキュメンタリー映画の被写体」としてかなり最強の部類に入るんじゃないかと思う。匹敵する存在として思いつくのは、「袴田事件」の袴田巌ぐらいだろうか。本作『それでも私は Though I’m His Daughter』は正直、松本麗華以外の人物が撮影対象だったらちょっと物足りなさを感じたかもしれないが、被写体が松本麗華だったことで、実に興味深い作品に仕上がっているように感じられた。

「これほど酷いレッテルを貼られた人物もそうそういないだろう」という特異な存在感「国家から虐げられている」というあまりにも酷すぎる状況、さらに「そういう中でも顔と名前を晒しながら社会と対峙する」という姿勢など、そのすべてにちょっと圧倒させられたし、やはり「被写体として最強だな」と思う。

何にしても、彼女にはどうにか穏やかに生きていてほしいものである。

次にオススメの記事

この記事を読んでくれた方にオススメのタグページ

タグ一覧ページへのリンクも貼っておきます

シェアに値する記事でしょうか?
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次