【リアル】多様性を受け入れる気がない差別主義者のヘイトクライムを描く映画『ソフト/クワイエット』

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

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この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「多様性を重視する社会」を私は喜んで歓迎するが、しかし「多様性」を履き違えているような風潮には違和感を覚えてしまう
  • 「白人が逆差別されている」という、主人公たちの現実認識とは?
  • 「全編ワンカット」という撮影手法により、「たった90分でこんな地点にまで辿り着いてしまうのか」という驚きも加わる

賛否両論渦巻く作品だとは思うが、私は「様々な思考を迫る作品」だと感じたし、観て良かったなとも思う

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

全編ワンカットで撮影された映画『ソフト/クワイエット』は、その撮影手法だけではなく、差別主義者の凄まじい言動を描く内容にも驚かされた

これは凄まじい映画だった。「ちょっととんでもないものを観たな」と感じさせられた作品である。

「マイノリティ」や「ポリティカル・コレクトネス」に対する私の基本的なスタンス

時代はますます、「マイノリティ」に対する配慮や「ポリティカル・コレクトネス」の遵守などが強化されていると言えるだろう。それ自体はとても良いことだし、そういった考え方がより当たり前になるべきだと思っている。

その一方で本作は、そんな「多様性の時代」を鼻で笑って蹴散らすような「凶悪さ」に満ちていると言っていい。ある意味では、「多様性」という言葉が「社会のベース」になりすぎたが故の反動とも捉えられるかもしれない。例えば、ある登場人物のこんなセリフからも、そのような実感を抱けるのではないかと思う。

黒人や有色人種の人たちは、白人をバカにすることができる。「白人はクソだ」ぐらいのことを言っても、特に問題にはならない。
でも、私たち白人が、ほんの僅かでも黒人や有色人種を悪く言うと、「ヘイト」だと批判される。

この意見はこの意見で「なるほど」と感じさせる部分があるし、否定することも難しい。やはり「多様性」という言葉が強くなりすぎたが故の弊害と言っていいのではないかと思う。というわけで、まずはその辺りの感覚について、私自身の感覚を説明しておこう

繰り返しになるが、「『多様性』が重視される世の中になっていること自体はとても良い」だというのが私の意見だ。大前提として、この点は揺らがない。さらに、「多様性の重視」というのは当然、「今まで優遇されてきたマジョリティの権利・自由をある程度制約する」という方向になることは仕方ないだろうとも思う。だからそのことでマジョリティから不満・批判が出てくるのも当然と言えば当然である。今はまさにそのような変革の過渡期であり、どれぐらい時間が掛かるかは分からないものの、しばらくすれば「多様性の重視」が落ち着き、両者の権利・自由がある程度のところでバランスが取れた状態になると私は思っている。そしてそうなるまでは対立構造も散見されるだろう

なので、「『多様性の重視』を巡って混乱が起きている」という状態そのものは仕方ないことだと私は思う。

さて一方で、「多様性の重視」に関連して、私にはちょっと「嫌だな」と感じられる状況がある。それは「批判を避けるために”過剰に”、あるいは”本質とは無関係の部分で”配慮がなされること」だ。

例えば映画の話で言うなら、私は最近、「欧米製作の映画に黒人やアジア人の役者が多く出演するようになったな」と感じている欧米の映画をたくさん観ているわけでもないし、そもそも私の主観的な印象でしかないので間違っているかもしれないが、とりあえずこれを事実だとして話を進めていこう

さて私の考えでは、そのような流れは「ハリウッド(に限らないが分かりやすいので)は白人ばかり優遇している」みたいな批判が出始めたから生まれたものではないかと思っている。また、何で見聞きしたのか覚えていないが、「白人ばかり出演する映画はアカデミー賞にノミネートされにくい」みたいな話もあったはずだ。そして「そのような状況に対処するために、”便宜的に”黒人やアジア人を採用しているのではないか」と私は疑っているのである。

もし私のこの推測が正しいとしたら、そのような風潮はどうにも好きになれない。というか、はっきりと嫌いである。このような動きは結局、「多様性を重視する社会」を気にしているだけであり、「マイノリティ」のための行動ではないからだ。もちろん、そのような行動が結果的に「マイノリティ」のプラスになることもあるとは思うが、私は「嫌だな」と感じてしまう

また、結構前の話だが、歌舞伎町タワー内に作られた「ジェンダーレストイレ」が問題視されたことがある。「男女どちらでも使用可能なトイレ」であり、作った側の意図としては「LGBTQの人も安心して使えるように」みたいなことだったと思うのだが、結局炎上してしまった。批判された理由をちゃんと把握しているわけではないが、恐らくトイレの構造に問題があったのだろう。結局、設置から4ヶ月で撤去が決まったのである。

「LGBTQの人も安心して使えるように」という意図があったのだとして、「じゃあ、LGBTQの人から意見を聞いたのか?」と私は感じてしまった。もちろん、意見を聞いた上で作ったのかもしれないし、もしそうであれば私は、「結果的に批判を浴びてしまった」だけであり「意図」には問題なかったと判断する。しかし私にはどうにも、「そもそもLGBTQの人から意見を聞いていなかったんじゃないか?」みたいにしか思えないのだ。つまり、「『多様性に配慮していますよ』とアピールするためだけに設置したに過ぎないんじゃないか」と考えているのである。そして私は、そのような動きが、どうにも好きになれないのだ。

このような風潮があるのだとして、私には「『多様性』という言葉が当たり前になったが故の弊害」だと感じられている。こういう「変な動き」をしてしまう人はきっと、「ルールの分からないスポーツ」に参加させられているみたいな気分でいるんじゃないだろうか「『カバディ』が今世間で人気らしいぞ。ルールはよく分からないけど、ウチも『カバディ』に参加しようじゃないか」みたいなマインドの人が、何となくのイメージだけで関わっているんじゃないかと思っている。そしてそうだとすれば、そりゃあ的はずれな行動にもなるだろう

というわけで私は、「『多様性』が重視される社会になったことは喜ばしいが、しかしそれによって『多様性の何たるか』を理解していない人も強制参加させられることになり、そのせいで歪みが生まれている」という風に理解している。まあ、まさに過渡期という感じだろう。私の印象では、若い世代ほど「多様性」に対する解像度が圧倒的に高いので、要するに「今のおじさん・おばさん(年齢的には私もここに含まれる)が社会からいなくなれば問題は自然と解消される」はずだし、そうなるのを静かに待つしかないと思う。

これが私の基本的な理解・スタンスである。

「配慮すること」の難しさを感じさせる様々な事例

本作で描かれるのは、先程引用したセリフのような「逆は許されているのに、白人が黒人・有色人種をバカにすると『ヘイト』だと批判される」みたいな感覚を持つ者たちだ。この感覚には「なるほど」「確かに」と思わされたし、なかなか難しい問題だなとも感じている。

映画を観ながらまず思い出したのが、大学時代の友人と以前話をした「男女平等」についての議論だ。ちなみに、私もその友人も男である。

どちらも「男女平等を目指すべき」というスタンスは一致していた。ただそもそも、「『男女平等』が何を指しているのか」に違いがあったようだ。私は「今マイナスの状態にいる女性が、せめて平均ぐらいになれる」ことが「男女平等」だと思っているのだが、その友人は「それでは不十分だ」という。さらに「今プラスの状態にいる女性が平均ぐらいにならなければおかしい」というのである。

分かりにくいと思うので具体例を挙げて説明しよう。友人との議論の中では「レディースデー」の話が出た。映画館などで女性の料金が安くなるサービスのことだ。私はそもそもこの「レディースデー」を、「女性は他の人を誘って来てくれることが多いし、さらに口コミも女性の方がより発信してくれるだろうから、宣伝効果が高い」と商業施設が判断しているからこそのサービスだと理解している。しかし友人はこれを、「社会の中で低い扱いを受けている女性を優遇するサービス」と見ているようだ。確かに、そういう側面もなくはないだろう。とりあえずここでは、後者の解釈を採用して話を進めようと思う。

それで友人は、「レディースデーによってマイナスから平均ぐらいになる人もいるだろうが、同時に、別にマイナスではない女性(平均ぐらいかプラスにいる女性)が恩恵を受けるサービスでもある。そしてそれでは『平等』とは言えない」と主張していた。つまりその友人は、「マイナスにいる女性が平均ぐらいになるだけではなく、今プラスにいる女性が平均ぐらいに”落ちてくる”必要がある」と言いたいようなのだ。

個人的にはその意見にはまったく賛同できなかったので反論したのだが(私は、マイナスにいる女性が平均ぐらいになればそれでいいと思っている)、友人からは「お前はフェミニストだ」と言われてしまった。うーん、そうなのだろうか。

あるいは、以前読んだネット記事のことも思い出した。「育児のために時短勤務している同僚男性の仕事をカバーするのがしんどくなって会社を辞めた男性」に関する記事である。その記事を読む限り、会社を辞めたというその男性は「時短勤務の同僚男性」のことも「働いていた会社」のことも決して悪くは言っていなかったと思う。彼は、「子育てのために時短勤務している同僚男性は正しい」し、「そのような仕組みを用意している会社も正しい」と理性的に判断していたのである。

しかしそれでも彼は、自身が置かれている状況にはどうにも我慢できなかったようだ。記事全体のトーンとしては、「この怒りをどこにどうぶつけたらいいのかよく分からない」という感じでまとまっていた気がする。これもまた、とても難しい問題だなと思う。世の中的に、「男性にも積極的に育休休暇を取らせる」という企業が増えているだろう。それ自体はとても良いことだが、しかし、運用もきちんと整えないと先に紹介したネット記事の男性のような状況が生まれてしまいもする。これもまた、「『配慮』が正しく機能しなかった事例」と言っていいだろう。

そして、私たちの社会にも散見されるこのような「『配慮』のすれ違い」みたいなものが、本作『ソフト/クワイエット』でも描かれているように感じられた。「多様性を尊重する」という風潮が「黒人・有色人種を優遇する」という方向に向きすぎているが故に、逆に「白人がマイナスを被る」みたいな状況が生まれてしまっているというわけだ。そして本作では、そんな白人側の「怒り」が全力で放出されているのである。実にややこしい問題だなと思う。

本作で描かれる現実の”ややこしさ”と、そんな映画を製作した監督について

さて、さらにアメリカの場合は、「白人がて黒人を奴隷として使役していた」という過去があるため、余計にややこしい。外野の立場で言えば、「黒人奴隷は相当苦労させられたんだから、白人は黒人に対して贖罪の念を抱くべきだ」と感じてしまうのだが、しかし一方で、「現代を生きる白人が奴隷を使役しているたわけではない」とも思う。「奴隷を使役することで積み上げられた財産からの利益を現役世代も受けている」みたいな見方も出来るのでまったく無関係とも言えないだろうが、それでも、白人からすれば「自分はそんなことしてないし」と感じてしまうのも仕方ないだろう。この辺りはとてもややこしいなと思う。

なのでこの記事では、一旦その歴史については無視することにする。そしてその上で私は、ある人物が発した次のような言葉こそが本作全体を貫く考え方なのだろうと感じた。

1776年に白人がアメリカを建国したんでしょ? その国が今、奪われようとしている。

「奪われようとしている」に関して具体的な言及はなかったが、要するに「『わたしたちのアメリカ』なのに、黒人や有色人種(その多くは移民でもある)によって、白人の居場所や権利が失われつつある」みたいなことを言いたいのだろう。

さて、私は正直このような感覚を抱くことはほぼないが、現代の日本においても似たような感覚の人は結構いるのではないかと思う。というのも、ここ最近の選挙戦などでも「外国人の受け入れ」が争点になることが多いからだ。日本は表向き「移民」を受け入れていないし、「難民」さえも拘束するか追い返すかするような国である。しかし、実際には「技能実習生」という形の移民がたくさんいるし、世界の中でも移民人口が多い国とされているようだ(2024年は全世界で19位だったという)。そしてだからだろう、「増えすぎた外国人によって日本人の生活が脅かされている」みたいな主張をする人・政党が増えている印象がある。特に「伝統的な日本」みたいな考え(私には「幻想」にしか感じられないが)を強く持つ人たちがそういう主張をしている感じがするし、そういう人であれば、本作で描かれる「問題意識」にも共感できるのではないかと思う。

最近では、大統領に返り咲いたドナルド・トランプが「自国優先主義」を貫いてムチャクチャなことをしているし、そういう風潮は決してアメリカだけに限らない日本もどんどんそんな風になっていくのだろうなという兆しが感じられる。これもまた、「多様性」が重視され続けたことによる反動と言えるだろうか。本作で描かれる「過激な差別主義者」が「普通」とみなされるような社会になってしまうのかもしれないし、個人的にはもちろん、そういう社会は最悪だなと思う。

さて、私は普段、「この映画をどんな人が撮ったのか?」みたいな監督の属性にはまったく興味がない。どんな思想を持ったどんな人物が作ろうが、生み出された作品だけから作品の評価を下すべきだと考えているからだ。しかし本作の場合はちょっとそうはいかない。というのも、「本作を作ったのが『白人至上主義』なのだとしたら、さすがにそれは受け入れがたい」と思えてしまうからだ。

というわけで、映画を観終えた後に調べてみたのだが、公式HPによると、監督・脚本を担当したのは「中国系アメリカ人の母親とブラジル出身の父親を持つ人物」なのだという。なるほど、それなら本作も受け入れやすい。また、公式HPに載っていた監督の文章を読むと、本作のような映画を作ろうと考えた意図も理解できるだろう。非常に興味深い文章なので、一部引用したいと思う。

私たちが生きる時代のストーリーテリングと映画製作は、非常に危険な状態にあると思います。アメリカのインディペンデント映画は、もう何年も観客を甘やかしてきました。観客や視聴者を慰め、安心させることに集中する時代が続いているのです。(勢力が縮小するどころか拡大している現実があるにもかかわらず)ナチスや秘密結社KKK (クー・クラックス・クラン)のメンバーが、自らの過ちに気付いたり、有色人種の主人公が、人種主義にあふれるこの世界で自らの重大な欠点を正したりという物語が中心です。もちろん、慰めを与えたり、人生には希望があるということを観客に思い出させたりするような映画があることも重要です。しかし、人種差別や白人至上主義に関して容赦するよう促す映画や物語が支持されているのは、非常に残念なことです。そうした間違った物語は、ずっと前から人々の内側にあり、それが白人至上主義を支えてきたのです。

監督のこの言葉は、「『過激な白人至上主義者』を主人公にした映画をどうして作ろうと考えたのか?」に対する答えになっていると言っていいだろう。つまり、「これこそが、今アメリカが置かれている現実である」と突きつけるためなのだと思う。

「本作を観て何をどう感じるか」はもちろん人それぞれである。しかし、「『本作を観て何をどう感じるか』はそのまま、『私たちが社会をどのように捉えているのか』と重なる」と考えてもいいはずだ。本作では「人種」だけが問題にされているのではない。他にも「『従順な妻』こそ理想の女性だ」「男なら男らしくしろ」のような「ベタなステレオタイプ」こそが「正しいこと」であるかのように描かれてもいるのだ。そして、本作のそんな主張に共感できる人も結構いるんじゃないかと思う。特に、「意図せずセクハラ・パワハラをしてしまっているおじさん・おばさん」なんかはその筆頭だろう。時代の変化についていけず、「THE 昭和」みたいな価値観を引きずったまま令和を生きている人は、本作で描かれる主張にかなり賛同出来るに違いない。そして当然だが、「本作の主張に賛同できた人」は現代社会の捉え方を誤っている可能性が高いと思うので、大いに気をつけた方がいいと思う。

ちなみに、タイトルの「ソフト/クワイエット」というのは、白人至上主義者である登場人物たちが抱いている「布教のスタンス」を表している。「表向きは柔らか(ソフト)に、密か(クワイエット)に自身の考えを伝えれば、人々はすんなりと受け入れてくれる」と考えているらしい。過激な主張をして対立構造を煽ったり、無理やり相手の考えを変えさせようとするのではなく、「ソフト/クワイエット」に行きましょう、というわけだ。

これが白人至上主義者たちの共通の考えなのかはよく分からないが、しかしここから分かるのは、「私たちの身近にいる誰もが差別主義者の可能性がある」ということだろう。なにせ、ソフトでクワイエットなのだ内側にどれだけ「ヤバい思想」を秘めていたとしても、それはそう簡単には見えないはずである。SNSや選挙演説などで猛々しいことを言っている人から距離を取ることはそう難しくはないが、ソフトでクワイエットに近づいてくる人を警戒することは容易ではないそんな「怖さ」を感じさせる作品でもあった。

全編ワンカットで展開される凄まじい没入感に圧倒されてしまった

さて、今更ではあるが、ここでざっくりと内容を紹介しておこうと思う。

幼稚園の先生であるエミリーはその日、幾人かの女性を集めて「会合」を開いた。会の名前は「アーリア人団結をめざす娘たち」。要するに、「ザ・白人至上主義者の集まり」というわけだ。彼女たちは車座になって自身の経験や価値観について口にする。「コロンビア人に管理職の座を奪われた」「多文化主義は失敗だった」「白人も結束しなければ」などと言い合うのだ。

エミリーは、そんな会合の場に「鉤十字をかたどったパイ」を焼いて持っていき、また、別れ際にナチス式の敬礼をする参加者もいたヒトラーの思想にシンパシーを感じているということなのだろう。さらに、自分たちの思想をどのように広めていくべきかという検討も行い、今後の活動に繋げていこうと考えている

その後諸事情あり、近くにあるエミリーの自宅に場所を移すことになった。何人か帰った後、ワインでも買おうと、会合の参加者の1人であるキムが経営する食料品店に立ち寄ることにする。しかし、彼女たちが店内にいる時に、アジア系の姉妹が客としてやってきて……。

さて、ここまでまったく触れてこなかったのだが、本作には内容以外にも非常に特徴的な点がある。なんと、全編ワンカットで撮影しているのだ。ワンカットに見えるように編集で上手く繋いでいるとかではなく、実際にワンカットで撮影したのだという。その意図については、公式HPにある監督の文章から読み取れるだろう。

こう決断したのは、この物語が伝統を破るよう意図したものだったからです。

私は憎悪犯罪をありのまま描き出し、観客が1秒たりとも気を抜くことができないような映画を作りだしました。そうでなければ、この映画は偽りということになります。

このような監督の意図を感じ取ることは出来なかったが、私は観ながら「こんな短い時間で、スタート地点からこれほどかけ離れた場所に辿り着いてしまうのか」という驚きを感じていた。これはまさに、ワンカットで撮影した効果と言っていいんじゃないかと思う。

本作は90分程度の映画で、もちろんそれは撮影時間と同じである。公式HPによると、まったく同じ撮影を4日連続で行ったのだそうだ。4本の中から最も納得いくものが上映版になっているのだろう。そしてそんな本作は、たった90分で起こった出来事だとは思えないほど起伏に飛んだ物語なのだ。

本作の始まりは、会話の内容はともかくとして、「女性が集まってお喋りをする」というかなり穏やかな感じである。しかしそこからたったの90分で、「嘘でしょ」というような地点に行き着いてしまうのだ。このような驚きはまさに、ワンカットでの撮影によるものだと言っていいだろう。

しかも、「たった90分で急転直下する物語」が非常にリアリティのある展開で描かれているのもとても素晴らしかった。「90分で急転直下」となれば、普通は「さすがにそうはならんやろ」みたいに感じる部分が出てきてもおかしくないように思うのだが、本作においてはそんな印象になるシーンはない。「白人至上主義者が集まる会合」という設定やキャラクター造形のお陰で、「確かにこういう人たちがこういう形で集まれば、こんな地点に行き着いてしまってもおかしくないかもしれない」と納得させられるのだ。

さらに言えば、「『狂気』がずっと上り調子で続いていく」のも凄いなと思う。本作では、「会合の目的」が理解できた辺り、つまりかなりの冒頭からずっと「狂気」が染み出し続けている。にも拘らず、作中ではずっと「狂気」が高まり続けていくのだ。「ワンカット」という強烈な制約の中、しかもかなりリアリティをもって物語を展開させている状況で、「狂気」をずっと高め続ける形で物語を進めるのは並大抵のことではないんじゃないかと思う。

そんなわけで、「ワンカット」というある種の「飛び道具」に頼っている作品なんかでは決してなく「ワンカット」じゃなくても十分に成立する作品にさらに「ワンカット」という果てしない制約を課しているというわけだ。そのレベルの高さに驚かされてしまった。

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最後に

賛否分かれる作品であることは間違いないし、「差別主義者がただ暴れ散らしているだけじゃないか」みたいに捉える人も全然いるだろうと思う。しかし私には、本作『ソフト/クワイエット』は「多様性って何だっけ?」と一度立ち止まって振り返ってみるきっかけとしての存在感が非常に強い作品だと感じられた。ぶっ飛んだ作品であることは確かだが、設定・内容・展開・撮影手法などあらゆる要素が上手く混ざり合って、エンタメとしても啓発作品としても成立する絶妙なバランスを持つ映画だと思う。「凄いものを観たな」という感じだった。

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