【倫理】報道の自由度に関わる「放送法の解釈変更」問題をわかりやすく説明(撤回の真相についても):映画『テレビ、沈黙。 放送不可能。Ⅱ』(田原総一朗、小西洋之)

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

監督:村田吉廣, プロデュース:中谷直哉, プロデュース:杉田浩光, プロデュース:八幡麻衣子, 出演:田原総一朗, 出演:小西洋之

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 2015年に変更された「『政治的公平』に関する解釈」は、現在、安倍政権以前の状況に戻っている
  • 「放送法」は何故生まれ、安倍政権は何故それに手を入れようとしたのか
  • 政権の決定を受けて下されたテレビ局側の素早い「忖度」が、「撤回」後の現在も恐らく引き継がれたままである

「世界報道自由度ランキング63位」に甘んじる日本のジャーナリズムの現状が一発で理解できる作品

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

国会でゴチャゴチャやっていた「放送法の解釈変更」はこう決着していた!映画『テレビ、沈黙。 放送不可能。Ⅱ』で田原総一朗が小西洋之を問い詰める

非常に興味深い内容の映画だった。覚えている人もいると思うが、少し前、元総務大臣の高市早苗議員が議員辞職をするとかしないとか国会でゴチャゴチャやっていたことがある。この映画で描かれているのは、この騒動に関係するものだ。いわゆる「放送法の解釈」の話であり、「政権からの圧力があったのではないか」みたいな疑惑がその中心にある。「ニュース番組を見てもよく分からなかった」という人もいるだろうし、問題の本質からズレて高市早苗の進退問題ばかりが取り上げられていたことも余計その状況に拍車をかけていたと言っていいだろう。

その辺りの事情について、問題の発端から、そして恐らく国民のほとんどが知らないだろう「意外な決着」までを、この騒動に火をつけた小西洋之参議院議員に田原総一朗が様々な質問をすることで明らかにしていくのが本作である。

本作における最も重要なポイントについてまずは触れておく

さて、この「放送法」に関するゴタゴタは問題が錯綜しており、非常に分かりづらいので、なかなか上手く捉えられないだろうと思う。しかし、本作『テレビ、沈黙。 放送不可能。Ⅱ』に関して言えば、「絶対に知っておくべき知識」は1つだけだ。それは、後で触れる事情によってテレビ等では一切報じられていないため、国民のほとんどがその事実を知らないはずである。私も、この映画を観て初めて知った。

というわけで、まずはその「最も重要なポイント」について触れておこう。まとめると、以下のようになる。

安倍政権時代に高市早苗が発表した、「1つの番組だけから政治的公平性を判断し、電波を停止することも可能である」とする「放送法の解釈変更」は、2023年3月17日に行われた「テレビ放送されない委員会」の場で正式に「撤回」された

もう少し分かりやすく書くとこうなる。

「放送法の解釈」は、安倍政権以前のもの、つまり「政治的公平性は、放送局全体の番組から総合的に判断される」という解釈に戻った

今この記事を読んでくれている方で、「放送法に関しては一定の知識を持っている」という方は、上述した事実を理解していただければ、もうこれ以降の文章を読む必要はない。後は、「その『撤回』を実現させたのが小西洋之議員であること」「総務省の極秘の内部文書を小西洋之に渡した官僚がいたこと」を知っておけば十分だろう。

さて、私自身は映画鑑賞時点で、「放送法の解釈変更」に関してはそれなりに理解していたと思う。ニュース番組等を見て、「何が問題なのか」はある程度分かっていたし、映画を観ながら改めてそう実感することもできた。もちろん、様々な細部について「こんなことが起こっていたんだ」と知れたし、そういう意味でも映画を観て良かったと思う。ただやはり、「『撤回』されていた」という事実には何よりも驚かされた。小西洋之議員がその「撤回」を認めさせた時の映像も映画で流れるのだが、「恐らく、初めて世間に公開されるだろう」と語るぐらい、世間的には知られていない話なのだ。テレビで報じられなかった背景についてはまた後で触れるが、とにかく、「そんな展開になっていたのか」という点に驚かされた。

「放送法の解釈変更」に関する問題の基本情報の整理

さてまずは、「放送法って何?」「解釈の変更?」みたいに感じている人向けに、基本的な情報を整理しておこうと思う。ただ、私の理解不足や認識違いがあるかもしれないので、その点はご容赦願いたい。以下の文章に何か誤りがあったとしても、それは映画の不備を指摘するものではなく、単に私のミスだと理解していただければ幸いである。

発端となったのは、2023年3月3日の予算委員会で、小西洋之議員がある質問をしたことだった。それ以前に彼は、総務省の官僚から極秘に内部文書を受け取っており、それに関する質問をしたのである。上映後にトークイベントが行われたのだが、その中で小西洋之は、その内部文書の「性質」について、「『総務省が政権からこのように突っつかれている』という事実を総務省内で共有するために作られたもの」だと語っていた。

そして、自身もかつて総務省の官僚だった小西洋之議員は、その資料をひと目見て「完璧な行政文書だ」と感じたという。見て明らかなぐらい、行政文書としての体裁が整っていたというわけだ。また、「放送法の解釈変更」に関しては、政権が総務省に「明らかに違法だと感じられる要求」を突きつけていたとされている。となれば総務省としては、自分たちの身を守るという意味でも、「このような経緯があってこういう決定をしたのだ」という記録を残しておかなければ後で怖いだろう。そのような様々な背景を踏まえれば、これは間違いなく「総務省で作られた正式な文書」だと判断できるというわけだ。

しかし、何故このような念入りな主張をしているのか。それは、当時の総務大臣だった高市早苗が後に、「この文書は捏造だ」と発言するからである。小西洋之からすれば「そんなことはあり得ない」となるし、先述の経緯を信じるなら、多くの人がそう感じるだろう。「国民に対する裏切りを見て見ぬふり出来ない」と感じた勇気ある内部告発者によって、このような資料が表に出てきたのである。それを「捏造」と言い切って問題の焦点をズラそうとしたというわけだ。

では、その極秘文書には一体何が書かれていたのだろうか。その中心的なテーマこそが「放送法の解釈変更」である。「放送法」そのものについては後で詳しく触れるが、その「解釈」について、政権はある変更を行いたかった。そしてそれを実現するために、当時安倍首相の総理補佐官だった礒崎陽輔が総務省に対して、「このような解釈変更をどうにか押し通せ」と、まさに「恫喝」と言うしかない、横車を押すようなやり方を続けていたのだ。その「恫喝」の様子が、文書には記録されているのである。

その文書に記載されている情報を仔細に検討することで、「礒崎陽輔総理補佐官が主導し、安倍首相が追認し、高市早苗総務大臣がそのような事情を理解した上で世間に公表した」という構図が浮かび上がってくるというわけだ。そのような生々しいやり取りを知ることとなった小西洋之が、内部告発をしてくれた官僚の想いに報いるように国会で質問をし、それによって、連日テレビで報じられるような大騒動に発展したのである。

この「解釈変更」は、日本のジャーナリストたちに大きな衝撃を与えることになった。詳しくは「放送法」の説明の中で触れるが、この「解釈変更」を受け入れるのであれば、「日本のジャーナリズムは死んだ」と言うしかない状況になってしまうからである。戦時中のような、「国が報道に直接的に介入する」という状況を許容せざるを得なくなるというわけだ。想像以上に由々しき事態が進行していたのである。

「放送法」が誕生したきっかけと、政権がその「解釈」を変更したいと考えた理由

それでは次に、「放送法」そのものの説明に移ることにしよう。まずは、「放送法」が作られた理由から。

この点については非常にシンプルだ。多くの人が知っていると思うが、戦時中の日本では、政権が放送局を支配し、自分たちに都合の良い報道だけをさせていた。いわゆる「大本営発表」である。そして、この時の反省を踏まえた上で作られたのが「放送法」というわけだ。だからこそ「放送法」には、以下のようなスタンスが明確に記載されている

  • 自立と自由の保証
  • 不偏不党の精神
  • 干渉や規律の排除

さて、「放送法」そのものの話からは少し脱線するが、作中で田原総一朗が「ジャーナリストを目指すきっかけになった」と語るあるエピソードに触れられる。彼は11歳の時に終戦を迎えたのだが、そのちょっと前までは教師から、「この戦争は、悪の英米からアジア諸国を解放するための素晴らしい戦争である」と教わっていた。しかし終戦を迎えると教師たちは180度意見を変え、「戦争はしてはいけないことなのだ」と言い出すようになったのだ。その後朝鮮戦争が勃発し、田原少年は「戦争反対」と主張したのだが、教師はまた手のひらを返し、「戦争反対」と主張した彼の方が怒られてしまったという。この経験から彼は、「偉い人やマスコミの言うことは信用できない」「国は国民を簡単に騙す」と感じるようになり、ジャーナリストを目指すと決めたのだそうだ。

では話を戻そう。このように高尚な理想の下に誕生した「放送法」だったが、それに手を加えたいと考える人物が現れた。もちろんそれは、安倍元首相である。きっかけとなったのは、「安保法制」に関する審議だった。いわゆる「集団的自衛権」の話である。マスコミも大きく報じたし、また、この「安保法制」に関しては、専門家も「憲法違反だ」と主張するなど、かなり強く反対の声が上がっていた。最終的には強硬的に採決されてしまい、私はこの時以降、「日本は戦争に突き進んでいくつもりなんだな」と感じるようになったわけだが、まあそれはともかく、この時のマスコミ挙げての「大反対」が、安倍元首相には「鬱陶しかった」ようだ

先に紹介した内部文書には、そのことを示唆するやり取りも記録されていた。ざっくり書けば、「安保法制審議の際の、国民の反対がウザかった。だからちょっと、テレビの報道を押さえつけようぜ」みたいな感覚があったというわけだ。そこで安倍政権が目をつけたのが「放送法 第2章 第4条の第2項」である。第4条は「編集」について規定しているのだが、その第2項で「政治的公平を保つこと」と記載されているのである。

つまり、「この『解釈』を変更すれば、マスコミの頭を押さえつけられるはず」と考えたというわけだ。それでは次で、その辺りの事情についてもう少し詳しく見ていこう。

「解釈変更」に至るまでの流れと、その後の変化

ではそもそも、この「政治的公平を保つこと」という第2項は、これまでどのように「解釈」されていたのだろうか。それは、「あるテレビ局が放送したすべての番組から総合的に判断する」である。例えばQテレビがA・B・Cという3つの報道番組(理屈では報道番組に限る話ではないのだが、実質的にはそう考えていいだろう)を放送しているとしよう。この内、番組Aがかなり政治的公平を欠く内容だったとしても、番組B・Cを含めて総合的に見て、「Qテレビ全体が偏向しているわけではない」と見做されるのであれば、「『放送法』には抵触していない」と判断されていたというわけだ。まあ、普通に考えて、真っ当な判断と言っていいだろう。

しかし安倍政権はこれを、「ある1つの番組からだけでも、その放送局全体の政治的公平性を判断可能」という解釈に変えようと考えた。つまり先の例で言えば、「番組Aの政治的公平が保たれていない時点で、Qテレビが『放送法』の基準を満たしていないと判断される」ということである。

しかしそうだとして、一体その何が問題なのか。それは「免許停止の可能性がある」という点にある。テレビ放送というのは、総務省管轄の「免許事業」であり、総務省の許可がなければ事業を行うことが出来ない。つまりこのような「解釈変更」を実現すれば、「おたくは『放送法』に抵触しているので、免許停止になる可能性がありますねぇ」と「脅す」ことが可能になるのである。これで政権にとって都合の悪い報道番組を「潰す」ことが出来るというわけだ。

さて当然だが、総務省としてもこんな解釈変更など到底許容できるものではなかった。だから、必死に抵抗したそうだ。しかし、先の文書から読み取れるのは、その度に礒崎総理補佐官からボロクソに罵倒されるというやり取りだった。こうして総務省も、軟化せざるを得なくなっていくのである。

その背景には、官僚人事に関するある変化も関係していると言えるだろう。確か安倍政権下で変更されたはずだが、新たに「内閣人事局」という組織が作られ、「内閣が官僚の人事を一手に掌握する」という形に変わったのだ。それまでの人事の形態を知っているわけではないが、恐らく省庁ごとに独立で行われていたのだろう。だから、官僚が政権に反対するような立場を取っても、省庁内でその行動が承認されていれば、人事に影響はなかった。しかし今は、人事の主導権が内閣にあるため、「政権に歯向かうと左遷させられるかもしれない」という可能性を拭いきれないのである。この仕組みのせいで、官僚は大いに萎縮しているのだ。

こうして、横紙破りとでも言うべき横暴が通ってしまい、礒崎総理補佐官が主導した「放送法の解釈変更」が現実のものとなってしまった。そしてその後、当時の総務大臣である高市早苗が委員会で公に発表し、世間の知るところとなったのである。

テレビ局の動きは早かった。高市早苗の発表と呼応するように、「物言うキャスター」の交代が相次いだのだ。『サンデーモーニング』の岸井成格『報道ステーション』の古舘伊知郎『クローズアップ現代』の国谷裕子らの降板が次々に発表された。各テレビ局は、「高市早苗の発表とは関係なく、自主的な判断である」との声明を発表したそうだが、そんな風に受け取った人はほとんどいないだろう。「放送法の解釈変更」を受けて、「いち番組のキャスターの発言で免許停止にさせられたらたまらん」と考え、各社が降板を決めたとしか考えられない

映画に登場した小西洋之議員も実際に、テレビ局の「忖度」「萎縮」を肌で感じ取っていた。彼が、3月3日の委員会で質問したことは既に触れたが、それ以前に、内部文書を受け取った時点で、マスコミにもあらかじめ情報提供を行っていたのだ。

経緯はこうである。内部文書を受け取ってすぐ、小西洋之議員は総務省に掛け合った。しかしその時の対応は、まったく暖簾に腕押しだったという。そこで「公表しますよ」と伝え、2023年3月2日に記者会見を行った。しかし、60名ほどの記者が会場に集ったにも拘わらず、この件はほとんどと言っていいほど報道されなかったのである。

さらに言えば、翌3月3日の予算委員会での質問も大して取り上げられなかった。そしてその後、「この文書は捏造だ」と繰り返し主張していた高市早苗が、「もし捏造でないなら議員を辞める」と発言してからようやく報道が加熱したのである。しかしその報道も、「放送法」に関する話はほとんど取り上げず、「高市早苗が議員辞職するか否か」ばかりが議論されていたというわけだ。

「撤回」を勝ち取った小西洋之議員の奮闘と、テレビ制作現場における「忖度」の継続

さて、それ以降の流れはテレビで報じられていた通り、高市早苗にばかり焦点が当たったものの、結局議員辞職することはなく、なし崩し的に問題が収束してしまう。しかしそんな中でも、小西洋之議員は独自の奮闘を行っていた。総務省から「撤回」を引き出したのである。

それは3月17日のことだった。小西洋之議員は、当初からテレビ中継の予定がない委員会の場において、総務省から正式に「安倍政権時代の解釈は撤回する」という回答を引き出したのだ。これは総務省の公式な決定であり、つまり現在は、「いち番組だけでも政治的公平が判断可能」という、2015年から2023年3月16日まで存在していた「解釈」は無くなり、安倍政権以前の解釈、つまり「放送局全体で政治的公平を判断する」という従来のやり方に戻ったのである。

しかし、何故小西洋之議員は「テレビ中継の予定がない委員会」でこのようなやり取りを行うことにしたのだろうか。その裏話が興味深かった。小西洋之議員は水面下で事前に総務省とやり取りをしていたわけだが、その際、「テレビ中継される委員会では撤回出来ない」と申し入れがあったというのだ。ここからは私の勝手な推測だが、安倍元首相が亡くなり、政権が変わった今も、総務省は「『放送法の解釈変更』を撤回すること」が「政権に対する批判」と受け取られる可能性を恐れているのではないかと思う。しかし総務省としては当然、こんな「改悪」は撤回したい。だから、「世間では広く取り上げられず、しかし総務省としてはきちんと正しい対応をしたと見做される形」での対応しか出来ないと考えたのだろうと思う。そんなわけで、冒頭でも触れたが、小西洋之議員が「撤回」を引き出した委員会の映像は、恐らく本作が初出だろうとのことだった。

ただ当然だが、この委員会の様子は別に「秘匿」されていたわけでもなんでもない映像素材は、手に入れようと思えばマスコミだって入手出来たはずだ。またそもそも、この委員会の様子については記者クラブを通じて情報は流れているわけで、少なくとも記者はその事実を知っていたはずである。だから、「撤回を引き出した」という事実を「報じない」と決めたのは、「テレビ局側の意思」と考えていいと思う。マスコミでこの「撤回」を取り上げたのは、朝日新聞と東京新聞だけだったというが、それも「社説」で言及があっただけだったそうだ。

この事実だけ捉えてみても、マスコミによる「忖度」「萎縮」が継続していると判断できる思う。

一応、少しだけ擁護しておこう。私は新聞を読まず、基本的にニュースはテレビから仕入れている。そして、高市早苗が議員辞職するかどうかばかり報じていた時期にも、番組によっては「放送法の解釈変更」についてかなり詳しく説明していた。だからこそ、本作鑑賞前の時点で私は、それなりの知識を持っていたのだ。確かに、「解釈変更が『撤回』されたこと」はテレビで報じていなかったのだと思うが、「放送法」に関する説明はされていたので、「事実」はそれなりに報じていると言えるだろう。

ただ映画の中で小西洋之議員と田原総一朗は、「テレビは『政策論評』をしなくなった」と指摘しており、確かにそれはその通りかもしれないと思う。私が知る限りでは、朝の番組で橋下徹が政策の良し悪しに言及しているのを見る機会はあるが、他の番組ではあまりない。「事実としてこうなっています」ということは報じるが、それが良いのか悪いのかという個人的な見解を話す人は、私が見ている範囲ではかなり減ったと感じる。

それは、2015年に高市早苗が「放送法の解釈変更」を発表してからずっと続いてきた「忖度」「萎縮」の賜物なのだと思うが、その一方で小西洋之議員は映画の中で、「安倍政権時代の解釈が『撤回』されたという事実を、テレビ制作の現場にいる人たちがそもそもどの程度正しく理解しているのが疑問だ」と語っていた。法解釈が変更されたところで、その事実をテレビ制作側が認識していなければ、それまでの「忖度」「萎縮」が無くなるはずがない。恐らくこのような状況を見越して、総務省は「テレビ中継のない委員会」を指定したのだろうし、まさにその狙いは上手く行ったと言っていいだろうと思う。小西洋之議員も田原総一朗も、彼らの肌感覚として、「放送に関わる人でも知らない人の方が多いんじゃないか」と言っていた。

はっきりと「撤回」という回答が引き出されたのだし、それを明確に証明する映像も残っているのだから、テレビ局が「免許停止」を恐れる理由はまったくない。これまで通り、放送局全体で公平性を保っていれば、「ギリギリを攻める」ような番組を作ってもいいはずだ。しかし残念ながら、そうはなっていない。まあ恐らく、「今後同じようなことが起こらないとも限らない」と警戒しているのだろうし、確かにそのような危惧は常に持ち続けるべきだと私も思う。しかしそうだとしても、現状のスタンスで良いはずがないだろう。

テレビ局は、高市早苗発言を受けて「降板」という形でインパクトのある反応を素早く見せたのだから、今回の「撤回」についても、「テレビ局は変革した」と伝わるようなインパクトのある反応を示してもいいように感じる。そのような変化を期待したいものだ。

日本のジャーナリズムはどうあるべきか

さて、以前から認識していたことではあるが、「国境なき記者団」というNGOが発表している「世界報道自由度ランキング」において、日本は非常に評価が低い

2023年度は180ヶ国を対象に調査が行われ、日本は63位。「レソト」「リベリア」「モーリシャス」「ガイアナ」「ブルキナファソ」「ベリーズ」などの聞き馴染みのない国にも負けているし、アジア圏で比べても「韓国」「台湾」に大きく水をあけられているのだ。私の個人的な感覚としても「日本の報道はかなりヤバい」と思うし、それはもちろん、「日本の政治」に対する絶望感から来るものでもある。

「世界報道自由度ランキング」の下位要因は色々考えられると思うが、映画に絡めた話をすれば、「許認可制」の仕組みが挙げられるだろう。映画の中では、ヨーロッパや韓国の仕組みが紹介されていた。それらの国では「独立した第三者機関」が公平性などを判断して放送事業の免許を与えるという制度になっているのだそうだ。つまり、そもそもの仕組みからして、「時の政権の関与する余地は無い」ということである。

日本の場合、「放送法の解釈変更」が撤回されたとはいえ、テレビ放送が「総務省の免許事業」であることに変わりはない。そのため、「放送法の解釈変更」なんてまだるっこしいことをせずとも、「国の圧力によって放送が歪められる」可能性は全然残されているのだ。実際、過去にそのような出来事が起こっている

1968年、TBSの報道番組『ニュースコープ』のエースキャスターだった田英夫の降板が決まった。この背景には、自民党の圧力があったと言われている。そのため、この解任劇をきっかけとして、一部のTBS社員が「報道の自由は死んだ」という喪章をつけてストライキに入ったそうだ。

結局、ストライキによって状況が変わることはなかったため、志を同じくするTBS社員が一斉に退社し、その後「テレビマンユニオン」を立ち上げた。そしてこの「テレビマンユニオン」こそ、田原総一朗と共に「放送不可能。」シリーズを作っている制作会社なのだ。それを知るとより一層、彼らがこの映画に込めた想いが理解できるのではないかと思う。

ジャーナリズムにとって最も重要なことは、「現内閣、現首相を批判すること」であり、そのことは本作でも指摘されていた。しかし、「放送法の解釈変更」に関するゴタゴタによって、日本では一層、その重要な役割が軽視されるようになったようにも思う。ヌルい報道ばかりに接してきたことで、国民の側が「報道ってそういうものなんだろう」と感じるようになっているのかもしれない。あるいは逆に、「ジャーナリズムが成すべき真っ当な批判」が「単に悪口を言っている」みたいに受け取られ、「批判する側が悪い」みたいな風潮が生まれてしまう可能性さえ考えられるだろう。

「ジャーナリズムの役割」について、マスコミだけではなく私たち国民も改めて認識し直すべきだと感じさせられた。

映画を観てもイマイチ理解できなかったこと

上映後にトークイベントが行われたのだが、質疑応答の時間はなかったもしあれば聞きたいと考えていたことがあるので、その点について触れてこの記事を終えようと思う。

さて、以下に書く話は、もしかしたら「政治の世界では当たり前のこと」なのかもしれないし、単に私の「知識不足」を晒すだけになるかもしれないとも思う。しかし私は、「政治に詳しくない人間」の1人として、「恐らく世間の人もこういうことは理解していないだろう」と感じている。永田町界隈では「当たり前」かもしれないが、世間的には恐らくそうではないはずなので、詳しい方がいたら教えてほしい。

疑問は2つあるのだが、1つ目は「政権、あるいは省庁による『法律の解釈変更』は、そもそも法律的に認められているのかどうか」である。

私は、「最高裁判所が『法律の解釈変更』を行えること」については理解している。正しい捉え方かどうか分からないが、「立法府ではない裁判所が解釈変更を行う」という仕組みは真っ当に感じられるので、特に問題はないように思う。しかし今回の「放送法の解釈変更」は、立法に関わる政権によって行われているのだ。それは、三権分立的な意味においてそもそも許容されていることなのだろうか?

作中で繰り返し言及される内部文書でも、この「放送法の解釈変更」については、「専門家を呼んで議論すべきだ」と指摘されている。それほどの大掛かりな「解釈変更」が政権から強制されていたのである。もちろん、専門家と議論するような手続きは踏んでもらいたいところだが、しかしそれ以前の話として、「そもそも『法律の解釈変更』は法的に認められた行為なのか?」という点が気になったというわけだ。

さらに、1点目と関係する話ではあるが、「法律の解釈変更」が認められているのだとして、「それは『省庁』の判断で行うことなのか?」という点も疑問である。映画ではとにかく、「政権側が総務省に無理やり解釈変更を迫った」という描かれ方になっているのだが、そもそも「政権の判断で解釈変更できるなら、総務省を動かそうとしなくてもいい」はずだろう。そして、政権の独断では出来ない仕組みになっているのなら、「じゃあ、省庁にはその権限があるのか」という疑問が出てくるというわけだ。

要するに、「『法律の解釈変更』が許されているのだとして、その『主体』は一体どこにあると定められているのか」という話なのである。

「解釈変更の是非」についても「解釈変更の主体」についても、作中では詳しく触れられなかったので、「そもそも前提が上手く理解できないまま話が展開されていた」という印象になってしまった。「『法律の解釈変更』は認められており、その『主体』は各省庁である」みたいな説明がなされていれば、状況をより捉えやすかっただろうが、「前提として何が許容されているのか」が判然としなかったため、「どの行為が『横紙破り』だったのか」についても上手く捉えきれなかったというわけだ。この辺りは、もう少し説明があっても良かったかなと思う。

最後に

さて、大事なことなので何度でも繰り返すが、「『放送法の解釈変更』は『撤回』された」のであり、テレビ局は「免許停止」を危惧することなく番組作りが可能な状況に戻ったというわけだ。しかしその事実は広く知られていないし、そして、このことがテレビ制作の現場で共有されなければ、テレビ番組が変わるはずもない。「ジャーナリズム」の根幹に関わるため、マスコミに大いに関係すると言える話なのだが、もちろん、私たちには無関係なんてはずもない。「世界報道自由度ランキング63位」の国に住まざるを得ない状況は、ある意味で私たち自身が生み出しているとも言えるからだ。

「放送法の解釈変更」という単語だけ聞くとなかなか関心を持ちにくいかもしれないが、「私たちが普段接している情報が、どのように作られ届けられているのか」に直結する話だと理解できれば、関心度はかなり高まるはずだと思う。私たちにも大いに関わる世界の話が描かれる作品であり、多くの人が知るべき事実だと私は感じた。

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