【発見】映画『小学校~それは小さな社会~』(山崎エマ)が映し出すのは、我々には日常すぎる日常だ

目次

はじめに

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この記事の3つの要点

  • 「掃除」や「給食の配膳」など「教育以外の活動」を児童が行わない諸外国では、「日本式教育」は特異的に見えているらしい
  • 「コロナ禍の小学校に密着する」という超ハードルの高い撮影をやり切って生み出された作品
  • 地域や世代の違いによっても「当たり前」は異なるはずなので、観た人同士でそういう会話をするのも面白いだろう

日本の公立小学校に通い、中学高校はインターナショナルスクールに、そしてアメリカの大学に進学した監督が「日本式教育」をじっくりと描き出す

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

「私たちが経験したごく当たり前の小学校生活」を映し出すだけの映画『小学校~それは小さな社会~』は、日本以外の国の人には「衝撃的」に見えるらしい

日本で生まれ育った者には「当たり前」過ぎる日常を捉えた本作『小学校~それは小さな社会~』は、一体何が評価されているのだろうか?

本作『小学校~それは小さな社会~』は、ごくごく一般的な公立小学校の日常風景を捉えただけの作品である。私も含め、日本で生まれ育ってきた人(国籍に限らず)にとっては正直、「当たり前の光景」でしかないと思う。後で触れるが、コロナ禍に撮影が行われたこともあり多少の例外はあるものの、そのことは別に大した問題ではないはずだ。映し出されている大枠の日常、つまり、「掃除」「給食の配膳」「運動会の練習」などは、地域や年代によって多少の違いはあるにせよ、「大体こんな感じだったよね、小学校って」と誰もが感じるのではないかと思う。

しかしそんな映画が、フィンランドではたった1館での上映から始まって20館にまで拡大、4ヶ月に渡るロングランを記録しており、さらに、他にも様々な国で公開され、評判を集めているのだそうだ。では一体、この「当たり前でしかない光景」の何に反応しているのだろうか?

さて、私は鑑賞後に本作の公式HPを見て初めて知ったのだが、「TOKKATSU」という英語が存在するのだという。もちろん日本語由来なのだが、元の言葉が何か分かるだろうか? これは「特活」、つまり「特別活動」から来ているのだそうだ。ではそもそも「特別活動」とは何なのか。それは「教科・学科外の活動」であり、分かりやすいところで言えば「掃除」や「給食の配膳」などを指している

そうどうやら、「児童が自ら掃除や給食の配膳をする」というのは、世界的に見るととても珍しいことなのだそうだ。全然知らなかった。「TOKKATSU」という単語が生まれるくらい、「教科・学科外の活動も行う」という「日本式教育」は世界的に注目されているのである。そのため、「私たちには当たり前だった日常」がただ映し出されているだけの映画が、色んな国で評価されているというわけだ。

そんな映画を撮影したのが、監督の山崎エマである。彼女はイギリス人の父を持つハーフなのだが、日本で生まれ育ち日本の公立小学校を卒業した。しかし、中学・高校はインターナショナルスクールに通い、さらにアメリカの大学に進学したのだそうだ。そんな彼女を紹介する文章が公式HPに掲載されており、本作の制作動機にも関わってくると思うので紹介しておくことにしよう。

ニューヨークに暮らしながら彼女は、自身の“強み”はすべて、公立小学校時代に学んだ“責任感”や“勤勉さ”などに由来していることに気づく。

「6歳児は世界のどこでも同じようだけれど、12歳になる頃には、日本の子どもは“日本人”になっている。すなわちそれは、小学校が鍵になっているのではないか」との思いを強めた彼女は、日本社会の未来を考える上でも、公立小学校を舞台に映画を撮りたいと思った。

日本で生まれずっと生活していると、「日本の小学校が特殊だ」と感じる機会はなかなかないだろう。しかし彼女は、後に「日本的教育」から離れたことで「日本的教育」の特殊さに気づくことが出来たのである。そんなわけで、本作のようなドキュメンタリーが生まれたというわけだ。

彼女はもちろん日本的な感覚を持っているので、日本で生まれ育った人が本作を観た場合には「当たり前だよね」という感想になる。しかし彼女は同時に外国人視点も持っているので、恐らくだが「外国人には奇妙に見えるポイント」も熟知しているのだと思う。そのため、日本人(今後もこの記事においては、「日本人」という表記は「日本で生まれ育った人」という意味に受け取ってほしい)にはまったく違和感のない映像に外国人は違和感を抱きまくる、みたいなことになっているんじゃないだろうか。

私は今ここで説明してきたようなことをまるで知らないまま本作を観たわけだが、知った上で観る方がより興味深く鑑賞できるかもしれない

コロナ禍に膨大な時間カメラを回し続けて作られた作品

先ほど少し触れた通り、本作の撮影はコロナ禍の真っ只中に行われている。「意図的にコロナ禍を狙った」なんてことはまずあり得ないと思うので、不可抗力でそうなってしまっただけだろうが、ある意味ではそのことによって、日本人にとっても興味深さがプラスされていると思う。コロナ禍のまさに規制が厳しかった時期に小学生の子どもを育てたりしていない限り、「コロナ禍における学校生活」を知る機会などなかなかないはずだからだ。

しかし本当に、コロナ禍の子どもたちは大変だっただろうなと思う。みんなマスクしているのは当然として、「給食の時間はシールドを立てて黙食」みたいなことも知識としては知ってはいたが、「入学式の校歌斉唱の際に『心の中で歌って下さい』とアナウンスがあったこと」にはかなりビックリした。「確かにそういう対策しかないか」と思いつつも、「心の中で歌う」というフレーズの響きがちょっと異様な感じがしてしまい、驚かされてしまったのだ。

また、クラスを半分に分けて「登校組」と「リモート組」に分けるなどの対策も行われていたが、「小学生のリモート授業」なんてメチャクチャ大変だっただろうなと思う。子どもや親も慣れない状況に四苦八苦しただろうが、先生も相当苦労したはずだ。そんなわけで本作では、「概ね当たり前の日常」が映し出されつつ、「観客の誰も経験したことがない小学校生活」も垣間見えるわけで、表現が適切ではないかもしれないが、そういう部分はかなり興味深く観れるのではないかと思う。

そしてさらに言えば、どう考えたって死ぬほど大変だっただろうコロナ禍の時期に、ある意味で「余計な仕事」でしかない「撮影スタッフの受け入れ」を決断した小学校もやはり凄い。この企画は、撮影をOKしてくれる小学校が見つからなければ始まらないわけで、まずはその部分でメチャクチャ苦労したんじゃないかという気がする。また公式HPには本作へのコメントが多数掲載されているのだが、その中に、「ジャーナリスト・フジテレビ解説員 鈴木款」という人が、次のように書いている文章があった。

「よくこんな映像が撮れたなあ」学校の取材は難しい。この作品ができたのは監督スタッフの熱意が先生や子どもたち、保護者に伝わり信頼関係がつくられたからだ。

恐らくだが、「学校の取材は難しい」というのは、実際に取材をしたことがあるからこその実感なのだと思う。ただでさえ学校の取材は難しいのに、さらにコロナ禍だったのだ。先ほど「コロナ禍を狙ったわけではないはず」という推測に触れたが、そうだとすれば「企画を立ち上げ、資金を集め、色々準備をしていたらコロナ禍になってしまった」みたいなことなのだと思うし、だとすれば、通常の何倍もの労力が必要になったのではないかという気がする。そんな想像を抱かせる作品だった。

本作の制作にあたって、監督は現場で4000時間を過ごしたそうだ。仮に1日10時間と計算しても1年以上である。恐らくそうやって、教員や児童たちと信頼関係を築いていったのだろう。さらに、実際の撮影は1年の内の150日間、カメラを回した時間は700時間に及んだという。

相当な労力が費やされたわけだし、そしてそんな作品が「ごく一般的な日本人には『当たり前』に見える」というのも、面白いポイントと言えるかもしれない。

「当たり前」の中にいくつかあった、私が驚かされた描写について

さて、私が本作で最も好きなのは、「教師が児童を泣かせるぐらい怒っていたシーン」である。この学校では毎年、「新1年生を迎える演奏会」を行っており、「楽器を演奏する児童は挙手制、希望する人が複数いればオーディションを開く」というやり方をしているようだ。そして「オーディションで選ばれたにも拘らず、普段から練習しているようには思えない女の子が、そのことについて教師から厳しく問い詰められる」みたいなシーンがあったのである。

正直私の中には、「教師は親からのクレームを恐れて、子どもたちを厳しく指導しない」みたいな印象があったし、さらにこの状況はカメラで撮影されてもいるわけで、そういう色んな要素が絡まり合って「ちゃんと怒るんだなぁ」という感覚になった。個人的にはとても良いことだと思う。作中にはこのシーンに限らず、「教師が児童に厳しく接するシーン」が随所に存在する。そしてそのことは、「教師と児童、そして教師と保護者の間に信頼関係がきちんとあること」を示していると思うので、そういう意味でも素敵だなと感じた。

さらに作中には、「先生たちの本気」が垣間見える場面もある。「厳しい指導」がしにくい時代になっているような印象を持っていたが、やはり教師には「厳しくすべき場面では厳しくしないと」という感覚があるようで、その線引きについて話し合っていたのだ。さらに、修学旅行なのか林間学校なのか分からないが、旅館のような場所で先生たちが「指導とは?」みたいな議論を熱く行っているシーンがあったりと、「教育に対する熱量」が感じられたのも凄く良かったなと思う。

あと、これは私が通っていた学校にはなかったので驚いたのだが、「下駄箱への靴の入れ方を児童が採点する」なんてシーンがあった。たぶん日々当番が決まっていて(あるいは、それ専用の係があったりするのだろうか?)、「◯◯さんは花マル、◯◯さんは三角」みたいな評価をチェックシートに書いていたのだ。さらに最終的に、靴箱の様子をタブレットで撮影までしていた

そしてそんなチェックがされているからだろう、子どもたちには、自分の靴だけじゃなく、自分の靴箱の近くの靴の入れ方も直してあげるみたいな習慣が身についているようだ。この小学校だけの独自のスタイルなのかもしれないが、こんなチェックをしているなんてちょっとビックリしてしまった

さらに、何となく知識として知ってはいたものの、子どもたちが「男女関係なしの『さん』付け」で呼び合っていたことも、個人的にはとても印象的だったなと思う。先生が「さん」付けで呼ぶのはもはやルールとして決まっているのだと思うが、児童同士も「さん」付けなのは決まり事だったりするのだろうか? もちろん、先生が「さん」付けで呼んでいれば、児童同士も自然とそうなるとは思う。ただ、小学校に入る前から知っている幼馴染みたいな存在もいるはずだし、そういう場合はどうなるんだろうか。もしも「児童同士も『さん』付け」がルールとして決まっているなら、「学校外では『くん・ちゃん』付けで呼ぶ」みたいなことになるのかもしれないが、さすがにそれは不合理過ぎるように思う。あるいは、幼稚園とか保育園でももはや「さん」付けがデフォルトで、子どもたちはもう「くん・ちゃん」で呼び合ったりしないんだろうか?

私は結婚していないし子どももいないので、こんなことをあーだこーだ考えているだけなのだが、こういう部分から時代の変化が感じ取れるのもまた面白いものだなと思う。

また、これは本作を観る前から知っていたことではあるのだが、小学校(中学校もだろうか?)の机と椅子の脚にテニスボールを履かせている光景は、最初あまりにも見慣れなくてビックリした。フィクション映画で初めてその光景を目にしたので、「このテニスボールはもしかして、何かの伏線なんだろうか?」と感じたほどである。実際には、「机や椅子を移動させる際の音や振動を軽減する」ために付けているらしく「へぇ」という感じだった。私が小学生の頃にはなかったものなので、どこかのタイミングで「当たり前の光景」に変わったのだと思うが、見た目のインパクトがとても強く、初めて見たた時は本当に驚かされたことを覚えている。

こんな風に「当たり前」の中にもグラデーションがあるので、そういう部分を見つけて誰かと話してみるのも面白いかもしれない。

一切何の説明もしない構成と、「どんな風に撮影したんだろう?」という疑問

本作の特徴としては、「一切何の説明もしない」という点が挙げられるだろう。例えば、「教師が教室でルンバを走らせている」みたいな場面があるのだが、説明が無いので正直状況が良く分からなかった。なんとなく、「長期休みに入った後で大掃除を兼ねてルンバを走らせている」と受け取ったが、これが「学校のルール」なのか、あるいは「その教師が独自にやっていること」なのかもよく分からない。そもそも「教室にルンバ」というのもメチャクチャ違和感があったし、そういう部分も含めて印象的なシーンだった。

ただもしかしたら、「日本公開版では説明を省いている」みたいなことなのかもしれない。いや、そもそも「日本公開版」と「日本以外公開版」の2種類が存在するのかさえ知らないまま書いているのだが、「日本人には説明しなくたって大体分かるだろうし、説明があったらむしろ煩わしいんじゃないか」みたいな理由で説明を省いているみたいな可能性もあるんじゃないかと思う。ただ何となくだが、外国人に対しても説明なしで見せているような気もする。根拠は特にないが、「TOKKATSU」が注目されているのであればその理解はある程度広まっているとも考えられるし、あるいは、「日本式教育の良さって、説明しなくたって伝わるよね」みたいに監督が感じているとしたら、「敢えて説明を省く」みたいにした可能性もあるだろう。

さて一方で、撮影そのものに対して不思議に感じる部分もあった。まずは「子どもたちがカメラに全然興味を示さないこと」だ。もちろん、「カメラ目線的なシーンは意識的にカットしている」のだろうし、またそもそも「長くカメラを回していれば、その存在が当たり前になってくる」という側面もあるとは思う。でも、本作は「1年間の小学校の様子」を映し出しているし、だとすれば「カメラにまだ慣れていない時期に撮った映像」だって使われているはずだ。それに、いくら慣れるといったって、小学1年生があんなにもカメラの存在を気にせずにいられるものなのかとも思う。また作中では度々、放送部の男女の姿が映し出されるのだが、この2人の雰囲気も凄く良かったし、この感じを「目の前にカメラがある」という状況で醸し出せているのは、個人的にはちょっと驚きだった。

また、「音声をどう録っているんだろう?」とも思う。「先生や児童にピンマイクでも付けているのか?」と思うぐらい、カメラから遠く離れた場所でのやり取りも記録されているのだ(もしかしたら、先生だけには付けている可能性はあるかもしれないが)。カメラに映らない場所でデカいガンマイクを構えているとも思えないし、そもそもそんなんじゃ拾えないぐらい遠くのやり取りもちゃんと録れている。これは、同種の密着系ドキュメンタリー映画でもよく感じることではあるのだけど、未だにどうやっているのかよく分からない

そんなわけで、確かに「当たり前」が記録されている映画ではあるのだが、細かく見ていくと「どうなっているんだろう?」と感じるような場面もあり、興味深く鑑賞出来るのではないかと思う。

最後に

私は以前、中学生に密着した『14歳の栞』というドキュメンタリー映画を観たことがある。こちらもとても良い作品だったのだが、映画『14歳の栞』は「人物」に焦点を当てていたのに対し、本作『小学校~それは小さな社会~』は「環境としての小学校」に着目している点が大きく違うと言えるだろう。

そんなわけで本作は、「日本の小学校はどのような環境なのか」がとても良く伝わる内容になっているし、それ故に外国人も興味を示しているということなのだろう。「外国人は何に惹かれているのか」を想像してみると、また違った面白さが見えてくる作品ではないかと思う。

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