【あらすじ】映画『国宝』は圧巻だった!吉沢亮の女形のリアル、圧倒的な映像美、歌舞伎の芸道の狂気(監督:李相日、原作:吉田修一、主演:吉沢亮、横浜流星、高畑充希、寺島しのぶ、森七菜)

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「国宝」公式HP

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この記事の3つの要点

  • 「血」なんかのために何かしらが決まってしまう状況は、私にはあまりにも不合理に感じられる
  • 「客観的な評価」が存在し得ない「歌舞伎」において、「芸の良さ」とは一体何を指すのだろうか?
  • 1年半もの稽古を積んだという吉沢亮・横浜流星の演技が圧倒的で、馴染みのない歌舞伎のシーンにも惹き込まれてしまった

役者の演技、圧倒的な映像美、そして「血」に翻弄される主人公を追う物語、そのすべてが圧巻で圧倒的だった

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

映画『国宝』は「圧巻!」としか言いようがない驚愕の作品だった。歌舞伎の世界を舞台にした、「血」と「芸」を極限まで突き詰めた物語と主人公・喜久雄の生涯に圧倒させられる

公開前から話題沸騰、そして公開後も注目され続け、この記事を書いている時点でさえ大絶賛が止まらない、邦画史上でもかなり上位に食い込むだろう超話題作。私は公開直後に観に行き、その凄まじさに圧倒させられた。私は割と「良いに決まっている作品」を避けがちなのだが(常に「意外性」を求め続けているため)、しかし本作『国宝』はやはり観ないわけにはいかない。そして、「本当に観てよかった」と感じたし、多くの人に体感してほしいと思える作品だった。

「血」なんかのために何かしらが決まってしまう状況に、私は強く違和感を覚える

本作においては、「血」という要素が非常に重要になってくる。「血筋」という意味での「血」だ。「どんな血筋に生まれたか」が、歌舞伎の世界においては重視される。「そういう世界なのだ」と知っているからそういうものとして受け入れているが、やはり私はそのような状況に違和感を覚えてしまう。それは決して歌舞伎の世界に限らず、「血筋」や「生まれ」が関係するあらゆる状況に対してそう思う。「『血』が何なんだよ」と、私はどうしても感じてしまうのだ。

以前観た『犬王』というアニメ映画は「能楽(猿楽)」をモチーフにした作品なのだが、作中に確か、「観阿弥の血筋の子の演技がまるでダメ」という描写があったように思う。観阿弥とは、物語の舞台となる室町時代に活躍した天才能楽師だが(よく観阿弥・世阿弥のペアで名前が出てくる)、そんな天才の血を引いていようが「芸の才能」まで引き継げるとは限らないというわけだ。まあそんなことは当然だよなと思うけれども。

また、話は少しズレるかもしれないが、映画『グランツーリスモ』のことも思い出した実話を基にした作品で、「プレイステーションのゲーム『グランツーリスモ』の上位プレイヤーをレーサーとして教育する」という狂気のプロジェクトがモチーフになっている。実際にゲーマーがレーサーになったようで、フィクションを超越したような事実のぶっ飛びっぷりにも驚かされた。

それで、確か映画の最後に、「このプロジェクトによって、才能ある者にレーサーの道が開かれた」みたいな字幕が表示されたのだが、この意味が理解できるだろうか?

F1に限る話ではないが、スポーツにはお金が掛かることが多いはずだ。モータースポーツなんて、「ただ参加するだけ」で莫大なお金が必要になるわけで、だからこれまでは「その大金を用意できる人々」の中だけで行われてきた。要するに、かなり門戸が狭かったのである。しかし、「グランツーリスモプロジェクト」が実際にレーサーを輩出したことで、「モータースポーツの世界との接点がない才能ある人物」の存在が可視化されるようになった。そしてそのお陰で「才能ある者」にもチャンスが広がったというわけだ。

さて、このような話を持ち出すまでもないだろうが、これらからも「『血』と『才能』にはまるで関係がない」ことが理解できると思う。しかし歌舞伎の世界では「血」が重視される。もちろん歌舞伎というのは「伝統」であり、単なる「才能合戦」の世界ではない。だから「血」という「『才能』の指標としてはまったく無意味だが、「ある意味で『絶対的』と言える指標」を曲げないことで「伝統」としての格式を保っている、みたいな側面はあるだろう。であればその事実は尊重するが、ただそれはそれとして、「血」と「才能」が同じ土俵で語られるような状況にはやはり違和感を覚えてしまう

特に、本作で描かれる「『血筋』を持たない者の『天才性』」を判断するような場合には

歌舞伎における「芸の良し悪し」とは、一体何を指すのだろうか?

さて、少し「血」とは違う話をしよう。「歌舞伎における『芸の良し悪し』」についての話だ。

F1の場合は非常に分かりやすいだろう。完全な勝負の世界で、タイムによって勝敗が決まる。だから「速いタイムを出せる者」が求められるし、そういう人間が「良い」とされるだろう。どんな生まれだろうが、多少素行が悪かろうが、人間性に難ありだろうが、「速いタイム」を出せさえすれば、F1においては「勝者」である。

しかし、歌舞伎のような「芸」の世界ではまた少し違うだろう。F1における「タイム」のような客観的な評価基準が存在しないからだ。いや、あるのかもしれないが、しかしそうだとしても、それは「歌舞伎の世界」の中で閉じている「歌舞伎を演じる者」と「歌舞伎を観る者」の世界で完結しており、「客観的」とはなかなか言いにくいように思う。

「バレエやミュージカルも同じだろう」と感じるかもしれないが、やはりそこには差がある。「血」にこだわっていることとも関係する話だが、歌舞伎は日本でしか行われていない(海外公演とかそういう話ではなく、「外国人の参入が事実上不可能」という意味である)。一方、バレエやミュージカルなどは世界中で行われている。そして、「バレエならここ、ミュージカルならここ」というような「目指すべき頂点」が共有され、多くの人たちがそこを目掛けて鍛錬を重ねているのだろう。世界中で激しい競争が行われているのだから、公式に明文化されているかどうかはともかく、そこには一定の「客観的な評価基準」が生まれ得るし、だからこそ、その「良し悪し」も客観的に判断できるはずだ。

しかし歌舞伎の場合そうはならない。基本的には「血筋」の者だけで伝承される「伝統文化」であり、バレエやミュージカルなどとは異なるものだ。「だからダメ」みたいな話では全然ないし、歌舞伎を貶める意図などまったくない。ただやはり、どうしても歌舞伎の「芸の良し悪し」は客観的なものにはなり得ないと思う。私の印象では、「『歌舞伎を演じる者』が『良いもの』として提示した芸を『歌舞伎を観る者』が『良いもの』として受け取る(べき)」みたいな関係性さえあるように感じている(このような構造は、宝塚歌劇団などにも当てはまるだろうか)。

さて、歌舞伎の話だと少し理解しにくいかもしれないので、例えば「アフリカで行われている部族の祭り」みたいなものを想像してほしい。その祭りでは「神様に捧げる舞」が披露され、その舞はその担い手の血筋の者しか踊れないとする。ではこのような場合、その舞を観光客として見に行った私たちにその「良し悪し」の判断など出来るだろうか? 仮にその舞が、音楽にまるで合っていなくて、キレがまったくないようなものだったとしても、部族の長が「これぞ我らの素晴らしい舞である」と言えば、「なるほど、この部族ではこれが『良い』とされているのだな」と受け取るしかないはずだ。つまりここには、「客観的な評価」など存在し得ないことになる。

そして私には、歌舞伎にも同じような側面があるように思えるし、それ故に「歌舞伎における『芸の良さ』とは一体何なのか」が気になるのだと思う。歌舞伎は基本的には、「血筋の者」以外の外部の人間に門戸を開いていないのだから、バレエやミュージカルなどのように「その世界で駆け上がりたいと願う者を落とすための基準」みたいなものを用意する必要がない。そしてそうであれば、「芸の良さ」を言語化する必然性も無かったはずである。

そのような世界において、「芸の良さ」とは一体何を指すのか。私は本作『国宝』を観ながら、ずっとそのことばかり考えていた

歌舞伎には「客観的な評価」が無いからこそ、喜久雄は思い悩んだのではないだろうか

本作『国宝』のベースとなる物語は、「任侠の一門で生まれ育った喜久雄が、数奇な運命によって上方歌舞伎の名門である丹波屋の部屋子となり、その跡継ぎである俊介と共に女形として切磋琢磨する」である。そして喜久雄は、「血筋の者」である俊介を凌駕するほどの才能を見せ、「部外者」でありながらその存在感を強めていく

しかし物語の後半で、喜久雄は「干された」みたいな状態になってしまう。そこに至るまでの過程に色々なことが起こるのだが、結局のところ、本質的には「親がいないこと」が最大の要因だと言っていいだろう。

別の場面でのことだが、喜久雄の才能に惚れ込んで丹波屋に引っ張り込んだ二代目半二郎が彼に、次のようなことを言っていた

この世界では、「親がいないのは首がないのと同じ」ってよく言ってな。ただお前は、どんな辛い状況になっても、芸で生き抜いていけ。

作中では何度か「血」に関する言及がなされるのだが、このシーンもその1つだ。「血筋の者」ではない喜久雄は、その「血」のせいで良い扱いを受けられないのである。

しかし恐らく観客は、「喜久雄が干されている」という状態にかなり疑問を感じるのではないかと思う。なにせ喜久雄は「干された」という状態になるまでに、女形として圧倒的な才能・存在感を示していたからだ。いや、私には歌舞伎の評価は別に出来ないのだが、本作では明らかにそのように描写されている。特に、具体的な状況には触れないが、「二代目半二郎が喜久雄をもの凄く高く評価していることが一発で伝わるシーン」さえ本作にはあるのだ。丹波屋は上方歌舞伎の中でも名門であり、そしてその看板役者である二代目半二郎は歌舞伎の世界においては重鎮と言っていいはずだ。そんな彼が喜久雄の圧倒的な才能を認めたのだから、「客観的な評価」はともかく、「歌舞伎の世界の評価」として喜久雄は認められていると考えていいんじゃないかと思う。

にも拘らず、喜久雄は「親がいない」というだけの理由で干されてしまう役がもらえないどころかセリフさえないみたいな状態になってしまうのだ。もちろん、「父親が任侠だった」という事実が世間に知られたことも無関係ではないだろう。しかし作中ではそのことよりも、やはり「親がいない」という点がより重視されていた印象がある。不思議な話だなと思う。

そしてそんな「評価」がなされる世界において、「芸の良さ」とは一体何を意味しているのか。考えば考えるほど分からなくなってくるなと思う。

こういうことを考える時にいつも思い出される話がある。漫画家・高橋留美子へのインタビュー記事の中で例として出されていた「『尻を叩いて美しい音を出すこと』が評価される星で生まれた者」の話だ(実際のインタビューマンガは以下のリンクより)。

https://x.com/Computerozi/status/1323112720216981504

さて、宇宙のどこかに「『尻を叩いて美しい音を出すこと』が評価される星」が存在するとしよう。その星では「尻を叩いて美しい音を出せる者」はヒーロー扱いされており、大谷翔平レベルの国民的な人気が得られる。で、何らかの理由でその人物が地球にやってきたとして、その人は母星と同じような人気が得られるだろうか? もちろんそんなはずがないだろう。地球では「尻を叩いて美しい音を出すこと」はまったく評価されないからだ。むしろ「なんか変なことをしてる奴」ぐらいに思われて軽蔑される可能性すらあるだろう。

そして私は、あらゆる「芸」はこの話と同じ可能性を有していると考えている。「評価基準が共有されていない世界ではまったく評価されない」というわけだ(まあ、当たり前の話だが)。例えば、地球上から「一度でも歌舞伎を鑑賞したことがある人」と「歌舞伎に関する記述がある本」すべてが消されたと考えてみよう。この場合、「歌舞伎を評価すること」はかなり難しくなるのではないかと思う。評価基準が消えてしまえば、何を「良い」と判断すればいいかわからなくなるはずだ。

もちろんこれはバレエやミュージカルでも同じかもしれない。とはいえ、バレエもミュージカルも世界中あらゆる場所で公演が行われているので、それらを比較することが出来る。さらに、ピラミッドのような構造と、その中で切磋琢磨がなされる環境も存在するのだ。だから、既存の評価基準の一切が失われたとしても、そこからまた新たな評価基準を確立することは出来るんじゃないかと思う。

しかし恐らく歌舞伎の場合はそうはいかないはずだ。「ピラミッドの頂点」しか存在しないような世界では、比較も評価も困難である。そしてそのような特殊な世界だからこそ「血」というある種の”絶対性”が重視されるのだろうし、それ故に喜久雄は葛藤させられるというわけだ。現実のあり方としてはとても不合理だと思うが、物語の舞台としては実に魅力的な環境だと思う。

さて、先程「鑑賞経験者と本がすべて消えた世界」の話をしたが、それと少し似た話を思い出した。映画『蜜蜂と遠雷』の中で主人公の1人が口にしていたことである。彼は、「世界に自分1人しかいないとしても、僕はきっとピアノを弾くよ」と言っていたのだ。そして私は、ある意味でこれこそが「芸の究極」ではないかと考えている。「鑑賞者からの評価」などまったく無視して、「自分がそうしたいからそうする」みたいなあり方こそが、結局のところ、「芸の良さ」として評価されるのではないか。というか、「それこそが『芸道』であってほしい」みたいな気持ちが、どこか私の中にはあるのかもしれない。

そして、「血」を持たない喜久雄が“進まざるを得なかった”道についても同じように考えられるのではないかと思う。喜久雄は、ある場面で娘に「神さんと話してたんやない。悪魔と取引してたんや」と言っていた。では、喜久雄は悪魔と一体どんな取引をしたのか。それは、「もっと歌舞伎を上手くやらせて下さい。そのためやったら、他の何もいらしまへん」である。彼が言う「上手く」が何を指すのかはっきりとは分からないが、やはりそれは「観客に『上手い』と思ってもらう」みたいなことではなく、「自分が、あるいは『芸道の神様』が『上手い』と認めるようなそんな芸がしたい」ということだろう。「客観的な評価」が存在し得ないからこそ、「血」に守られていない喜久雄は、「絶対的な評価」みたいな方向へと突き進むしかなかったのだと思う。

そしてそんな風に考えると、喜久雄の行動スタンスも理解しやすくなるだろう。彼は、ありとあらゆるものを踏み潰していく覚悟で「己が信じる『芸道』」を爆進していくのである。

映画『国宝』の内容紹介

物語は1964年の長崎から始まる。立花組の新年会の最中だ。そしてそこに、大阪の歌舞伎役者である丹波半二郎が顔を出す組長とはどうも昵懇の仲であるようだ。そして半二郎が着くと、すぐに余興が始まった歌舞伎の「関の扉」をやるらしい。

しかし、余興レベルのクオリティだと思っていた半二郎は、出てきた女形の存在感に驚かされる。横に座る組長に、「随分芸達者な芸子がいたものだな」と驚きを伝えると、「いや、恥ずかしながら、あれは私の倅でして」と返ってきた。芸の心得など無いということだろう。にしては、素人とは思えない振る舞いだ。その存在感に圧倒された半二郎は、組長に「倅に会いたい」と伝える喜久雄というらしい。

しかしまさにその時、対立する組の連中が酒席に乱入し、突如として抗争が始まった。立花組も当然応戦するが、組長は覚悟を決めたようでその場から動かない。そして、その死に様を息子に見せるようにして銃で撃たれて命を落とした喜久雄、15歳の時のことである。

その後紆余曲折を経て、喜久雄は丹波屋に引き取られることが決まった。その才能を見込んだ半二郎が、彼を弟子として育てようと考えていたのだ。しかし、半二郎の妻はあまり良い気がしていない。丹波屋には跡取りである息子・俊介がいるし、それにそもそも、喜久雄は背中に入れ墨を背負った極道の息子である。「そんな子どもを引き取って育てるなんて」と妻は考えているのだ。しかし半二郎は、長崎で目にした女形が忘れられない。こうして喜久雄は、俊介と共に歌舞伎の修行に励むことになったのである。

彼は「ここで生きる他ない」と覚悟を決めた。そして半二郎の妻が「真綿が水を吸い込むようやわ」とこぼすほどの驚異的な成長を見せるのだ。こうして彼は、俊介と共に「女形の二枚看板」として人気を博すのだが……。

映画『国宝』の感想

吉沢亮と横浜流星の演技に圧倒させられた

とにかく「圧巻」としか言いようのない作品だった。3時間近くある映画だが長いとは感じさせないし、むしろ「もっと観ていたい」とさえ思わされてしまったぐらいだ。話題になるのも当然だろう。

私は歌舞伎を観に行ったことはないし、演目もまったく知らない。しかしそれでも、本作中の歌舞伎シーン(複数の演目がかなりしっかりと収録されている)にまったく飽きることがなかったのは凄いなと思う。まあ、「歌舞伎の良さが分かるか」と聞かれたら何とも答えようがないが、演技や映像が圧倒的でとにかく惹き込まれてしまったのだ。本作を観た人が実際に歌舞伎に足を運んでいるという話も耳にしたことがあるし、その気持ちも分かるなと思う。

本作鑑賞前に見たテレビのバラエティ番組の中で、「吉沢亮と横浜流星は、1年半も歌舞伎の訓練をしてから撮影に臨んだ」みたいなことが紹介されていた。「歌舞伎としての良さ」みたいなものは私には分からないものの、「舞台上に存在する人」としての違和感はまったく感じられなかったし、本物を観たことがないのだから説得力は無いが、「本物」みたいに見えたことも確かだ。「どれだけ訓練すればこんなレベルに達するんだ」と感じたし、やはり「役者の執念」みたいなものは凄まじいものがあるなと思う。

そしてその上で、この記事の冒頭からあれこれ書いてきたような「血」の問題が様々に思考を刺激する作品でもあるのだ。既に書いたことに付け加えるなら、喜久雄には「任侠の血」が流れており、そういう「血」の問題もまた喜久雄を苦しめるのである。

「血」の話でいえば、本作中にとても印象的なシーンがあった。喜久雄が尋常ではないほどの大舞台に立つことになった時のことである。彼は楽屋で俊介に「幕開く思たら震えが止まらん」とその不安を口にするのだが、さらに続けて次のように吐き出すのだ。

怒らんと聞いてくれるか。俺な、今一番欲しいんはお前の血ぃや。守ってくれる血ぃが俺にはないねん。

この「守ってくれる血」という表現は、その少し前の場面で半二郎が口にしていたものである。本作ではこのように、どこまでいっても「血」の問題がつきまとうというわけだ。

さて、自分の努力ではどうにもならない「血」に翻弄されるのは何も喜久雄だけではない俊介もまた同じである。彼にしても、丹波屋の家に生まれなければまた違った人生があったはずだ。別の人生を生きることなど出来ないのだから、「丹波屋に生まれたこと」が良かったのかどうかは何とも言いようがない。ただ確実に、「俊介は『血を持たなければ見られなかった世界』に足を踏み入れられた」とは言えるだろう。

そして喜久雄は、「そんな世界を『血』を持たずに見た」のであり、そこに至るまでの壮絶な葛藤を、吉沢亮が抑制的に、しかし圧倒的に演じていたことも実に印象的だった。さらに、横浜流星演じる俊介との関係性もとても良かったなと思う。「フィクションなら普通こうなるだろう」というステレオタイプな関係性ではないからだ。「特異な環境にいるのだから特異な関係性になってもおかしくない」という背景の中で、ステレオタイプではないリアルな関係性を描き出していたところも素晴らしかったなと思う。

「帰る場所」などなかった喜久雄は「悪魔/怪物」にならざるを得なかった

特異な環境で生まれ育ち、結果的に丹波屋へと流れ着いた喜久雄には、「帰る場所」などなかった。もしも彼にそんな場所があったとしたら、喜久雄は途中で引き返していたかもしれないこのまま前進すれば、目の前にあるあらゆるものをなぎ倒し、傷つけ、ぶち壊していくことが明白だったからだ。

しかし喜久雄には「帰る場所」などなかった。だからこそ、舞台上で誰にも聞こえないぐらいの声で「すんません」と呟いたり、あるいは半二郎の妻から嫌味を言われたりしながら、目の前に広がっている(と信じるしかなかった)道を突き進む以外に選択肢はなかったのである。

そしてそれはまさに、喜久雄自身が「悪魔」になるような生き方だと言っていいだろう。喜久雄が演じている時に、舞台袖で観ていた人物が「あんな風には生きれんよな」と呟くシーンがあるのだが(決して喜久雄だけに言及した発言ではないが)、ホントにその通りだなと思う。あんな風には生きれん悪魔に魂を売り渡したのでなければ、「悪魔そのものになった」と理解するしかないような壮絶な生き方である。

ただそれは、ある意味で喜久雄が目指していたことでもあると思う。というのも、彼は子どもの頃から「美しい怪物」を目指していたのだ。

まだ学生だった喜久雄と俊介が、人間国宝であり、当代一の女形である万菊の演目を観る機会があった。そして、舞台上での万菊の姿を観て2人は「怪物」という表現を使うのだ(万菊を演じていたのが田中泯であり、その完璧な配役にも感心させられた)。この時2人は、「万菊のような『美しい怪物』になるために一生を捧げる」と決意したのだと思う。そう、「『帰る場所』などなかった喜久雄」だけではなく、「歌舞伎以外には『帰る場所』などなかった俊介」にも、喜久雄と同じように「後戻りする」なんて選択肢は存在しなかった。だから、その先にどんな地獄が待っていようとも、前進し続けるしかなかったのである。

本作は、そんな「悪魔/怪物」を志した者たちの凄まじい「芸道」を描き出す作品であり、何度も繰り返すがとにかく「圧巻」だった。ホントに、とんでもない作品を生み出したものだなと思う。

最後に

これから鑑賞する作品についての情報をいつも見ないようにしているため、鑑賞後に公式HPを読んで知ったことなのだが、本作の原作小説を書いた吉田修一はなんと、3年間も歌舞伎の黒衣を纏い歌舞伎の世界を体感してから執筆に臨んだそうである。外からはまったく窺い知ることが出来ない歌舞伎の世界を肌で感じ取ったからこそのリアリティが本作には詰め込まれているのだろう。

そしてそんな圧倒的な原作を、吉田修一とは3度目のタッグとなる李相日が凄まじい迫力と美しさで映像化しているのだ。原作も監督も役者も超一流であり、ここまで“役者”が揃うことはまずないようにも思う。もちろん、「良い映画になるのは当然」と感じる布陣ではあるのだが、しかし、そんな高い期待をあっさりと超えてくるような作品であり、その「ちょっとぶっ飛んだ完成度」に圧倒させられてしまった

「観なきゃ損」みたいな表現があまり好きではないので基本的に使わないようにしているのだが、本作は「観なきゃ損」という言い方が適切な感じがする。是非とも多くの人に”体感”してほしい作品だ。

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