【?】現代思想「<友情>の現在」を読んで、友達・恋愛・好き・好意などへのモヤモヤを改めて考えた

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「『友達』は『残余カテゴリー』」だからこそ、私は「恋愛」よりも「友情」の方が良いと思える
  • 「『好意に基づく関係性』の方が上位である」という感覚がもたらす息苦しさ
  • 「関係性が不安定」だから「名前を付けて安定させたい」のではないかという考察

仲の良い友人が本書の存在を教えてくれたお陰で、とても興味深い思考を展開することが出来ました

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

「現代思想 <友情>の現在」は、私が昔から抱いていた男女間のモヤモヤについて、情報の整理と深い指摘をしてくれる特集だった

「現代思想」の本特集を読もうと思った理由と、私の友人の話

私には、6年前ぐらいに知り合った、「人生で一番仲良くなった」と感じている友人がいる。そしてその友人から、「現代思想 <友情>の現在」の写真と共に「めっちゃおもしろい……刺さりまくり」というLINEが届いたのが、本書を読もうと思った直接的な理由だ。

さて、友人からのこのLINEには、「私が読んで良いと感じた」というだけではなく、明らかに「犀川さんにも絶対に刺さるはず」という意味も含まれている。というのも、本書に書かれているようなことを普段からよく話しているからだ。我々にとっての「日常会話」とも言える内容なのである。また、お互いにかなり感覚が共通してもいるので、先程のLINEには「犀川さんも読んでみたら?」という意味が込められていると判断できるというわけだ。

「何を当たり前のことを書いているんだ」と感じるかもしれないが、そんな話をしているのには理由がある。というのもその友人は「12歳年下の女性」だからだ。この記事を書いている時点で私が41歳、彼女が29歳である。一般的に、「そんな年齢差のある異性間には『友人関係』は成立しない」と判断されるだろう。まあ、それは当然だと思う。そもそも人によっては「男女の友情は成立しない」と考えているだろうし、また、92歳と80歳みたいな関係なら12歳差など大した問題ではないだろうが、41歳と29歳の場合には普通、まともな関係性が成り立たないと思われて当然だと自分でも理解している。

では、ここで想起されているだろう「困難さ」とは、一体どのようなものなのだろうか? つまり、「何故『41歳と29歳の異性間には友人関係が成り立たない』と思われるのか」ということだ。この点については、少し意味合いは異なるのだが、本作中のこんな文章によっても説明出来るのではないかと思う。

第一に、アセクシュアルにとっての友情が恋愛と地続きの性的関係として誤読されてしまうケースである。例えば、アセクシュアルの男性が女性と恋愛的でも性的でもない友人関係を築こうとする際、女性への性的欲望を当然のこととする男性のセクシュアリティに対するステレオタイプによって、女性たちに警戒されたり、そうした意向を疑われたりすることがある(Cupta 2019:1206)。他方でアセクシュアル女性の場合、男性に性的魅力を与えるという伝統的な女らしさの期待のもとで、特定の服装やふるまいが一方的に性的な文脈に回収されて理解されてしまう(Cuthbert 2019:855; Cupta 2019:1206-1207)。

佐川魅恵「親密さの境界を問い直す」

唐突に「アセクシュアル」という単語が出てくるが(ちなみに私は「アセクシャル」という言い方に馴染んでいるので、以下、私が書く文章中では「アセクシャル」と表記する)、馴染みがないという方も多いだろう。これは「異性愛」「同性愛」などの「セクシャリティ」の一種であり、「他者に対して恋愛感情・性的欲求を抱かない」というタイプを指している。この概念を私の記事で初めて知ったという方には信じがたい話に思えるかもしれない。ただ、割と昔から知られていた概念のようで、私は15年ぐらい前に、当時働いていた職場の同僚から「私はアセクシャルなんです」と打ち明けられた経験がある。

さて、先の引用は「アセクシャルが異性の友人を作る際の困難さ」について記したものであるが、これは広く「異性の友人を作る際の困難さ」と読み替えることもできるだろう。そして私はここ10年ぐらい、こういう「困難さ」を日々実感しながらどうにか「異性の友人」を作ろうと頑張ってきたし、それなりには上手くいっていると自分では思っているのである。

ちなみにだが、私は決して「アセクシャル」ではない。少なくとも、私はそう自覚している。つまり、「異性のことが恋愛的に好きだと感じるし、性的欲求もある」というわけだ。ただ私はあるタイミングで、「異性との恋愛はやめて友人になろう」と決めた「恋愛という関係性」が圧倒的に向いていないと気付いたからである。世の中には「猫好きなのに猫アレルギー」みたいな人がいるが、私もそういう感じなのだと思う。恋愛に対しての感情や欲は無くはないが、あまりにも向いていないと自覚したため、「恋愛関係にしない方が自分にとってプラスなのではないか」と考えるようになったというわけだ。

そして先述した友人は、そんなマインドに切り替えてから出会った友人であり、その中でも一番と言っていいぐらい仲良くなれたと私は思っている。彼女もまた、「『恋愛したい』と思いつつ、生理的に無理」という、私とはタイプは異なるものの「恋愛」に対して困難さを抱えている人で、そんなこともあり、本書で書かれているようなテーマについてよく話しているというわけだ。

ちなみに、この記事(正確には「この記事の元になった文章」)はその友人にも読んでもらっている。「この記事の元になった文章」も、内容的にはこの記事とほぼ同じなので、冒頭の記述もほとんど変わらない。普通なら、「一番仲良くなったと思っている」みたいに言及しているその本人にそんな文章を読まれるのは恥ずかしいし、「ちょっと変な感じになるかも」みたいな懸念が生まれたりもするだろう。私も、普段ならそんな風に考えると思うが、「彼女ならまあ大丈夫だろう」と判断している。そういう意味でも、なかなか特殊な形で仲良くなれた人だなと感じるし、それぐらい感覚の合う人と出会えて良かったなとも思う。

「友達」が「残余カテゴリー」であることの良さ

それでは内容について言及していくことにしよう。

本作は様々な人物による「友情」をテーマにした文章が収録された作品だ。主な執筆者は「学者・研究者」である。そのため、すべての文章が面白かったなんてことはない。特に後半に行けば行くほど、内容的に高度だったり、テーマ的に興味が持てなかったりするものが多くなっていった。ただそれはそれとして、本書に目を通すことで、「世の中には色んな研究テーマが存在するんだなぁ」と実感出来ることは興味深いポイントだと思う。「建設業に従事する沖縄のヤンキー的人間関係」「バンドマンの友人関係」「ママ友のLINE分析」「合唱曲と卒業ソングを用いた友情分析」「ホストクラブの人間関係」などなど様々な研究が存在するのである。中には「オッペンハイマーと湯川秀樹の初邂逅」についての文章もあり、その幅の広さには驚かされた

その中でも個人的に最も共感できたのが、本書冒頭に収録されている中村香住と西井開の対談「すべてを『友情』と呼ぶ前に」である。中村香住はレズビアン、そして西井開は「『非モテ研究会』の発足人」という立ち位置で対談を行っており、それぞれジェンダー的な観点から社会学の研究を行っているそうだ。先述した友人も、やはりこの冒頭の対談が一番良かったと言っていた

さて、この対談の中だけでも様々なことに言及されているのだが、まずは対談冒頭のこんな文章から引用してみたい

(前略)恋人・家族・仕事上の関係、地縁、血縁のいずれにも当てはまらない人間関係が、すべて「友情」や「友達」という言葉に押し込められていることに、小さい頃から違和感を覚えてきました。私はグループで仲良くすることもたまにはありますが、基本的には一対一で人との関係性を取り結ぶタイプなので、それぞれ異なるはずの関係がすべて同じ「友達」という言葉で説明されなくてはならないこと、いわば「残余カテゴリー」としてこの言葉が使われることに疑問を抱いてきました。(中村香住)

中村香住+西井開 すべてを「友情」と呼ぶ前に

これは「人間関係的なものに違和感を覚えるようになったきっかけ」として語られているもので、その主張には私も概ね賛同できる。私も「基本的には一対一で人との関係性を取り結ぶタイプ」であり、大人数の集まりなどにはあまり適性がない。また、「『じゃない関係性』が『友達』と呼ばれている」みたいに思う感覚も同じである。

しかし1点だけ違うところがあった。中村香住は「『友達が残余カテゴリーであること』に不満を抱いている」わけだが、私はむしろ「『友達が残余カテゴリーであること』に良さを感じている」のである。

さて、私のその感覚を説明するために、本書中の別の文章からこんな引用をしてみよう

恋って再生産に次ぐ再生産で、もはや恋をしたことがなくても型みたいなのがあって、とりあえず作り手も受け手もそれをどれだけ上手にその型のまま演舞できるかという、武道めいたものを感じる。恋愛武道が悪いわけじゃないけど、歌を聴いて「これは詞ではなく、型だよなぁ」と思ってしまうことも、正直ないわけじゃない。その模倣しやすい友情歌詞の「型」がまだ少ないから、まだまだ足りないのかなぁと思ったり。これは鶏が先か卵が先かみたいなもんだけど。(児玉雨子)

児玉雨子+ゆっきゅん「ラブソングのその先へ」

この文章は、作詞家であるらしい2人がやり取りした往復書簡からの抜粋である。児玉雨子は「恋愛ソング」が多い理由について、「『恋愛』には『型』が存在するから供給が多いのではないか」と分析しており、それと比較する形で、「『友情』には『型』があまりないから『友情ソング』の供給が少ないのではないか」と指摘しているのだ。

そして、この作詞家2人がそう言及しているわけではないが、「『友情』に『型』が少ない理由」はやはり、「『友達』が『残余カテゴリー』だから」だろうと思う「じゃない関係性」をすべて「友達」と呼んでいるからこそ、「友達」には分かりやすい「型」が存在しないというわけだ。

そして私には、「型が存在しないこと」が「友達」の最大の良さに感じられている。そのため、「友達が残余カテゴリーであること」をポジティブに捉えられるのだ。

「残余カテゴリー」ではないからこそ、「恋愛」には向いていなかった

さて翻って、私が「恋愛に向いていない」と考えるようになった理由も、この「残余カテゴリー」という発想で説明できるだろう。「恋愛」は「残余カテゴリー」ではないので「型」がたくさん存在する。そしてそれ故に、私は「恋愛」に向いていないというわけだ。

「恋愛」になるとどうしても、「こういう時にはこういうことを『した方がいい』『しなければならない』『すべきである』」みたいな話が多くなる。誕生日やら記念日やらなんやらと、そういう話は色々とあるだろう。しかも難しいのは、「そうしなければ、『相手のことが好きではない』というメッセージとして受け取られてしまい得る」という点である。私にはどうにもこの辺りの感覚が馴染めなかった

例えば、「プレゼントをあげる」という行為を例に挙げてみよう。私は個人的に、「『あげたい』と思った時にあげる」のが一番良いんじゃないかと思っている。むしろ、「誕生日や記念日じゃない日に、『似合うと思ったから』みたいな理由であげるのがいいんじゃないか」とさえ考えているのだ。しかし「恋愛」においてはどうしても、「誕生日や記念日にプレゼントをあげる”べき”」みたいな雰囲気が感じられてしまう。私は、そういう「強制されている雰囲気」がどうにも好きになれないのだ。「したいからしている」のではなく、「しなければならないからしている」みたいな感覚に囚われてしまうので、いつも嫌だなと思っていた。まさに、「『型』を演じている」みたいな意識を強く持たされてしまうというわけだ。

一方、「友達」の場合にはそういう「型」は少ない。あるとしても、「困った時には助ける」ぐらいじゃないだろうか。もちろん人によっては、「友達なんだから◯◯してよ」みたいな考えを持っていたりもするとは思うが、今の世の中ではそういう風潮はさほど強くないと考えている。つまり、「『友達』という関係性を継続させるために“しなければならないこと”はかなり少ない」という印象を持っているのだ。そしてだからこそ私は、「友達が残余カテゴリーであること」が心地よく感じられるのである。

しかし「友達」も、状況次第では「『型』の多い関係性」になってしまう。この点については対談中で次のように指摘されていた

(前略)境界画定の力学が働く集団では構成員の近密度は上がるけれど、誰もがそこからはじき出されないように互いに承認を求め続けなければならない。なので承認をめぐるしんどさを抱える人が安心して過ごすには、境界を曖昧にしたような集まりや関係性のあり方が模索されるべきだと思います。しかし、欠乏感を埋めるために、さらなる承認を求め、強く結びつきたいと思えば思うほど、境界線が太く濃く引かれてしまう悪循環があります。(西井開)

中村香住+西井開 すべてを「友情」と呼ぶ前に

先程言及した通り、私は「基本的には一対一で人との関係性を取り結ぶタイプ」なので、上述の「友達グループ」のような集団に取り込まれることは今は無い。ただ、学生時代はやはりそのような関係性の中にいざるを得なかったし、だから「『その集団の構成員として相応しい』という承認を常に得続けなければその集団にはいられない」みたいな感覚も理解できる。そして、まさにこれは「型」の存在を示唆していると言っていいと思う。「友達」の場合も、集団になると「型」が形成され、「残余カテゴリー」ではなくなってしまうというわけだ。

「非モテ男性」が抱える困難さ

さて、この対談の中で西井開は、「男性が抱えている困難さ」についての言語化を試みている。それは主に、「恋愛関係を結べない非モテ男性」に関する言及であり、先程の「友達グループ」についての指摘もそのような流れの中で出てきていた。対談の中では、先述したような「友達グループ」のことを「同質性が高い集団」と呼んでおり、これまで話を聞いてきた「恋愛関係を結べない非モテ男性」たちは、「そういう『同質性の高い集団』に留まらざるを得なかった」みたいな感覚を抱いているのだという。その理由についてはいくつか理由が挙げられていた

まず異性愛主義の問題があります。小学校低学年ぐらいまでは「男女の友情」という関係が成り立っているのに、高学年くらいになると周囲から「お前何あいつとイチャイチャしてるん」とからかわれたり、制裁を受けることで、異性との友人関係が切断されていく。(西井開)

中村香住+西井開 すべてを「友情」と呼ぶ前に

加えて男性同士の一対一という関係も切断されていきます。男子が二人で仲良くしていると、ホモフィビア的制裁を受けてしまうのです。(西井開)

中村香住+西井開 すべてを「友情」と呼ぶ前に

クラスメイト、そして教師からも「お前らできているのか」とからかわれた経験があると語る男性は少なくありません。そうして一対一での関係も作りづらくなると、自分が所属するのは男性集団しかないと思い込む/思い込まされていく。(西井開)

中村香住+西井開 すべてを「友情」と呼ぶ前に

このような文章を読んで私も、「確かに学生時代はそういう状況に置かれていたような気がする」と思い出した。もちろん私は、そんな風潮に違和感を覚えていた側の人間である。

私は子どもの頃から、どうも同性との相性がとても悪かった。高校生ぐらいまで、「人間が苦手なんだ」と思っていたぐらいである。しかしその後異性との関わりが増えてきたことで、「人間」ではなく「同性」が苦手なだけだと気付けるようになった。そしてそんなこともあって私は、「異性と友人になる」という方向に進もうと考えるようになったのだ。

だから私は、何となく上手いことするっと、そういう「同質性の高い同性の集団」から抜けられたし、というかそれは単に「はみ出していただけ」とも言えるわけだが、まあ結果オーライという感じである。もしも「同質性の高い同性の集団」に囚われたままだったら、今も「人間が苦手」という感覚のまま生き続けていたのではないかと思う。

さて、別の項でも似たような言及がなされていたので紹介しておこう。

「非モテ」をテーマに、当事者グループでの実践のフィールドワークを通した男性学研究を行う西井開は、「非モテ」男性の困難の根源が女性にモテないこと自体ではなく、男性コミュニティの中でからかいなどの緩やかな排除を受けていることにあると論じる。(中略)親密な関係を築くことへの価値づけ・期待の高さゆえに、周囲から尊重・敬意を得られず孤立しているという問題が、恋人ができるという、特定の誰かとの親密な関係の獲得によって解決するという風に、誤って考えられてしまうというのだ。
社会の中で尊重を受けていないという問題を、恋人を得ることで解決できてしまうと考えることは、確かに問題の所在を取り違えている。

筒井晴香 「友達問題」と「推すこと」

ここで指摘されているのは、「『異性の恋人がいる』ということの価値」である。この記事では今「異性愛者の男性」を取り上げているので「異性の」と書いたが、この点は集団の性質によるだろう。まあいずれにせよ、「『恋人がいる』という事実にとても高い価値が認められている」ために、「『恋人が出来れば状況が変わるのではないか』と考えてしまう」というわけだ。本質的には、「不遇をかこつ現状」と「恋人の不在」は無関係である。しかし、「同質性の高い集団」における「『恋人がいること』の価値」が高く設定されているために、「恋人が出来れば、今の悪い状況もすべて一掃されるはずだ」という思考になってしまうというのだ。この話は「恋人」だけではなく「配偶者」でも同じだろう。

そしてそんな感覚が共通理解として存在するため、「非モテ男性」は自身のことを「異常独身男性」と評したりもするのだそうだ。この点に関して西井開は、「『モテを重視していない人』が仲間内での連帯のためにこの言葉を使うケースもあるだろう」と断りを入れつつも、次のように書いている

(前略)その裏には家父長制に下支えされた異性愛規範・恋愛伴侶規範に縛られて「恋愛できなさ」について真剣に思い悩む男性が実在すること、その悩みを「異常独身男性」という自虐めいたテイストでしか表に出せない状況があることも忘れてはならないと思います。(西井開)

中村香住+西井開 すべてを「友情」と呼ぶ前に

「真剣に悩んでいるのだけど、その真剣さを悟られたくない」という気持ちが「異常独身男性」という言葉に込められているのではないか、という分析である。そういう意味で、この「悩み」はなかなか深く複雑だと言えるのではないかと思う。

「好意に基づく関係」が過大視され過ぎている

さて、ここまで書いてきた通り、私は「異性とは恋愛にするのではなく友人でいよう」と考えていたり、「異性の方が楽に関われる」と気付けるタイミングがあったりしたため、運良く「モテないこと=異常」みたいな感覚に囚われずに生きてこられた。また、人によっては「恋人・配偶者がいる」という事実が自己肯定感や自信に繋がったりするのだろうが、私の場合、そのような感覚はまったくない。むしろ、「『恋愛関係になること』より『異性と友人になること』の方が遥かに難しい」と考えているので、「異性の友人がいる」という事実の方が私にとってはより価値が高いのである。

そんな風に考えているからこそ、次のような指摘は非常に重要なものに感じられた

生きていくうえで友達の存在が極めて重要なもののように思われるのは、自発的な好意に基づく関係の価値が過大視されているせいも多分にある。むしろ、好意を伴う関係はなくとも、互いの嫌な点を受け入れ合って付き合いを続ける関係や、互いに尊重・敬意を保つ関係を得ることが重要である。それらが得られれば、互いの自発的な好意に基づく関係は、実はなくてもよいものなのではないか。

筒井晴香 「友達問題」と「推すこと」

筒井晴香はこの文章に続けて、「でも好意を気にせず生きるのは難しいよね」みたいなことを書いているので、上述の引用はあくまでも「そんな風に考えられるようになりたい」という願望のようなものと捉えるべきだとは思うが、それはともかく、私はかなり共感できた。そしてこの指摘は、冒頭で触れた「友達が残余カテゴリーであること」の話に繋がっていくと私は考えている。

さて、冒頭で私は、中村香住の主張を彼女の意図するのとは異なる形で用いた。私は彼女の主張を「『友達が残余カテゴリーであること』に不満を抱いている」とまとめたわけだが、この要約は本質的には正しくない。彼女は「『残余カテゴリー』だから残念だ」と言っているのではなく、「『友達』と呼ばれる関係性の中には、『恋人』や『家族』よりも上位だと認識可能なものもあるのではないか?」と主張しているのである。つまり、「『好意がある』から『関係が上位』というのはおかしくないか?」と言っているのだ。

彼女は対談の中で「私には『重要な他者』が数人いるのですが」と発言していたのだが、私にもこの「重要な他者」という表現はとてもしっくりくる感じがある。この「重要な他者」という表現には、「『恋人』や『家族』ではないが、『友達』と呼ぶには収まりが悪い」という感覚が含まれていると考えていいだろう。つまり、「『恋人』や『家族』と同列かそれ以上に感じられる『友達』が存在する」と言っているのである。私も同感だ

ちなみに少し脱線するが、中村香住は「『重要な他者』だと思っている相手と突然連絡が取れなくなることがある」という。そしてその際は、「数年後にまた縁があることを願って一旦身を引き、何もしない」そうで、これが私とまったく同じでとても共感できてしまった。私も同じような状況に陥ることが度々あるが、「しばらく何もしない」というやり方によってやり取りが復活した人もいる(まだそうなっていない人もいるが)。そしてそもそもだが、「重要な他者」という概念が理解されることがない(というか「ないだろうと思われている」)ので、「そういう相手とどう関わるか」みたいな話にもなかなかならない。だから、思いがけず「同じだ!」という感覚になれてとても嬉しかった

さて話を戻そう。一般的にはどうしたって「『好意に基づく関係性』の方が上位である」という感覚の方が強いはずだし、それはある意味で”圧力”のようにも感じられるのではないかと思う。そしてそれ故に、「恋人や配偶者がいる」という事実が「人間として優位」であるかのように感じられ、そうではない人には辛く感じられてしまったりもするというわけだ。

しかし私には、「『好意に基づく感覚』の方が上位である」というのは幻想にしか思えない。その理由の一端は、次のような文章からも感じ取れるかもしれない。

ただ、どのような関係性にも常に不安定性がつきものですよね。そうした不安定性を、例えば恋人なら「恋人」というラベルを貼ることによって覆い隠している側面もあるのだと思います。(中村香住)

中村香住+西井開 すべてを「友情」と呼ぶ前に

つまり、「『関係性の不安定さ』に耐えられない」から「『強いラベル』を貼って安定しているように思い込みたい」みたいな感覚があるのではないかというわけだ。もっと平たく言えば、「『好意に基づく関係の方が上位だ』という”虚勢”を張っていないと怖くてやってられない」みたいなことなんじゃないかと私は思っている。このような捉え方をすると、少し見え方が変わってくるのではないだろうか

「不安だから関係に名前を付ける」という解釈、そして「結婚観の変遷」について

さて私はというと、「名前が付かない関係性」の方が良いなと思っている。もっと正確に言えば、「他に呼びようがないから『友達』ということになっている関係性」が一番好きなのだ。先程「重要な他者」という表現を紹介したが、これもまた「一般的には存在しない概念をどうにか呼称するための名前」であって、私の中では同じように「名前が付かない関係性」に含まれる

そして当然のことながら、「恋人」や「配偶者」などと比べると、「名前が付かない関係性」は不安定になりがちだ。「恋愛」や「結婚」の場合には、「こういう振る舞いをしていれば、その関係性の内側に留まれる」みたいな要素(この記事で何度か言及している「型」と同じようなもの)が存在するわけだが、そういう要素がないからこそ「名前が付かない」のだし、不安定なのである。そして私は、「『名前を付けること』によって不安定さを覆い隠せない関係性」の方が「関係性の強度」が高いと考えているのだ。

さて、少し逆説的な話をしてみたいと思う。「恋人」や「夫婦」など「名前が付く関係性」というのは、先程の話を踏まえれば、「『名前が付くことによる安心感を得たい』という感覚」がベースにあると言えるだろう。そしてそうだとすれば、「『関係性に安定感が無いからこそ、名前を付けて安心したい』と考えている」と捉えるのが自然ではないかと思う。一方で、「名前が付かない関係性」の場合はどうだろうか。「少数派だからそもそも名前が存在しない」という側面があることは確かだが、それとは別に「『関係性に安定感がある』から名前を付ける必要がない」みたいなパターンがあったっていいはずだ。そしてそうだとすれば、「『名前が付かない関係性』の方が『高い強度』を有している」と言っても良いのではないかと思っているのである。

もし私のこの思考が妥当だとすれば、こんな風にも考えられるだろう。つまり、多くの人が「『名前が付くこと』に安心感を抱く」という”呪縛”から逃れられれば、「人間関係がもたらすややこしさ」の多くが解消するのではないか、と。「恋愛」や「結婚」がもてはやされるのは、単に「それらに『名前』が付いているから」でしかなく、「名前が付くと安心」という感覚が”幻想”に過ぎないと理解できれば、もっとみんな人間関係に気楽でいられるのではないかと思うのである。

もちろん、こんな考えこそ”幻想”かもしれないと自分でも思うが、しかし、まったく可能性が無いとも言えないだろう。何せ本作中にも、そんな風に思わせてくれる文章が存在するのである。

このことは、恋愛がロマン主義の中で制度的結婚の外部に生まれ、結婚と対立し結婚を脅かしてきたにもかかわらず、恋愛結婚の誕生によって結婚の条件となった歴史を思えば、驚くべきことである(加藤 2004:1章)

久保田裕之 友人関係と共同的親密性

すなわち、地域共同体や親族共同体を通じた階級的地位・品性・資産を交換する家同士の政治・経済的打算であった結婚は、近代の配偶者選択における「愛の大転換」(Illouz 2012:41)によって全く別ものへと変容した。すなわち、階層構造から結婚が切り離されることで配偶者選択が性化・心理学化し、社会的規制(人種・国籍・宗教・階層)から自由な「結婚市場」と、感情的特質や性的魅力によって膨大な潜在的パートナーが競合しあう象徴闘争としての「性的界」(Illouz 2012:55)を誕生させた。

久保田裕之 友人関係と共同的親密性

これらがどのような主張なのか理解できるだろうか? 要するに、「今と昔とでは『結婚』の捉えられ方が様変わりしている」という話である。

かつて「結婚」には、「個人の意思」が入り込む余地などまったくなかった。「家」単位で行われるべきものであり、「誰と結婚したい」みたいな個人の希望など、端から無視されていたのだ。そのような中、「『制度的結婚』の外部」に「恋愛」という仕組みが生まれた。そしてそんな「恋愛」が「制度的結婚」を脅かし、「家」単位で行われるべきものだった「結婚」を、「恋愛を通じて相手を選ぶ」という「個人」単位の競争に変えたというわけだ。我々は「恋愛結婚」を当たり前のものだと思っているが、それは日本の従来の「結婚観」から大きく外れたものだったのである。

であれば、「同じような大転換がまた起こる」という考えもあながちおかしなものとは言えないのではないだろうか。

「友人関係」にも「配慮」が必要になったことで、「恋愛」の価値が下がるのではないか

もちろん、そんな大転換がすぐに起こることはないだろうし、そもそも起こらないかもしれないとも思う。ただ、「変化の兆しなのでは?」と感じさせる記述が本書の中にあった。

若者の友人関係はかつて理想とされた互いにぶつかり合い腹を割って話し合って築いていく人間関係から、高度に繊細な気配りを伴った「優しい関係」へと変化してきたと論じられた。この原因についても、制度的な地縁や血縁、学校や会社といった共同体に埋め込まれた友人関係は、その拘束力によって離脱や選択が困難であったのに対して、個人化により拘束力が弱まることで、友人関係が選択可能になる反面、一方的に解消されるリスクや、だれからも選択されないリスクにさらされることになったとされる。友人への頼み、悩みの相談、コンプレックスの吐露、相手のためを思っての忠告はもはや友情の絆を紡ぐ試練でも支援でもなく、明日自分が友人から切り捨てられるかもしれない悪手となる。こうした友人関係のリスク化は、恋愛関係同様、資源の多寡に基づく友人関係の階層化と孤立を生むとされる。

久保田裕之 友人関係と共同的親密性

この文章を読んでどう感じるだろうか? 「そんな気を遣ってばかりの相手は『友達』なんかじゃない」みたいに感じる人ももしかしたら多いのかもしれない。ただ私は、サンプルこそ多くはないものの、若い世代と喋っている中で、「友人への頼み、悩みの相談、コンプレックスの吐露、相手のためを思っての忠告はもはや友情の絆を紡ぐ試練でも支援でもなく、明日自分が友人から切り捨てられるかもしれない悪手となる」みたいに感じている人が多いなという印象を抱いている。また私自身も、そのような感覚を若干は抱いていると言っていいだろう。私には、かなり共感できる指摘に感じられた

さらに、「位置情報共有アプリ『Zenly』を介した人間関係」に関する考察の中にも同じような主張がある

そしてここでより興味深いのは、友だちとの合理的な接し方に、多重の配慮がなされている点ではないだろうか。

鈴木亜矢子 位置情報を交換する若者たち

こう考えると、先に述べたBさんのアプリの使い方にも、空気を読んで「察する」配慮が見てとれる。まず相手がどこに何時間滞在しているかをアプリで確認し、相手の状況を推測する。そしてゲームや遊びに誘える状況にあると判断したら、そこで初めてLINEを使って相手にアプローチする。相手に直接打診する前に位置情報共有アプリで相手の現状を読み取り、誘うタイミングをうかがっているのだ。このように、位置情報共有アプリでは情報の受け手が能動的に働き、配慮に基づく簡略化したコミュニケーションが行われている。

鈴木亜矢子 位置情報を交換する若者たち

そしてこれらの主張を総合することで、「『友人関係』が『恋愛関係』と同じかそれ以上に難しくなっている」と言えるのではないかと思う。

最近よく「マルハラ」という言葉を耳にする。LINEなどで送られてくる、文末に「。」が付いた文章を「怖い」と感じる感覚のことだ。この「マルハラ」の是非についてはどうでもいいのだが、若い世代のこのような感覚からも、「些細な要素から相手の感情などの情報を読み取り、相手に配慮しようとする姿勢」が窺えるのではないかと思う。

そしてこのように、「『友人関係』にも多くの配慮が必要」という考えが若い世代で当たり前となり、「『恋愛』と同じくらいややこしい」みたいに感じるようになっていくとしたら、「『恋愛』なんかとてもしていられない」みたいな感覚を持つ人が増えていく可能性は十分あるはずだ。そしてそれによって少しずつ、「『好意に基づく関係』の方が上位である」という価値観が薄れていってもおかしくはないだろう。もしかしたら、「お見合い結婚」がまた主流になるなんて未来がやってくるかもしれない。「結婚観の変遷」を踏まえれば、それぐらいの変化は全然あり得るはずである。

そんな可能性を感じさせもする内容だった。

最後に

「現代思想 <友情>の現在」の記述と私の個人的な感覚をベースに、様々な話題に触手を伸ばしてみたが、いかがだっただろうか? もしかしたら、多くの人にとって「意味がわからない」と感じられる話だったかもしれない

確かに、こういう話を誰かにしてみても通じないことの方が多いし、そもそも私の価値観が一般的な感覚からずれていることも理解してはいる。ただ、記事冒頭で紹介した友人のように、メチャクチャ通じる人と出会えたりすることもあるのだ。そんなわけで私は、そういう「通じる人」とどうにか普段から関われないかといつも考えているのである。まあ、なかなか難しいのだが。

本書で扱われている話やこの記事で書いたような内容が「当たり前」であるような世の中になってくれたらいいなと思っているし、何となくだが少しずつ変化の兆しも感じてはいる。もちろん、時代がどんな風に変わろうが社会から「マイノリティ」が消えることはないし、そういう人はマジョリティに馴染めずにこれからも苦労するだろう。社会がどう変化しても、そういう現実がゼロになることはない。それでも、色んな状況が「フラット」になっているように思えるのは、とても嬉しいことである。

そして個人的にも、久々にこういうことについてガッツリ言語化することが出来て楽しかった。教えてくれた友人に感謝である。

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