【感動】映画『ぼくとパパ、約束の週末』は「自閉症への理解が深まる」という点で実に興味深かった

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

監督:マルク・ローテムント, 出演:フロリアン・ダーヴィト・フィッツ, 出演:セシリオ・アンドレセン, 出演:アイリン・テゼル
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この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「電車内でペンネを食べるシーン」から理解できる、「ルールは絶対に守りたい主人公」が抱える困難さ
  • 「自閉症の人が体感しているだろう聴覚世界を再現する」という演出もあり、「これは辛いだろうなぁ」と実感できる
  • ドイツの3部までの全サッカーチームをチェックすることにした親子のドタバタの奮闘記が描かれる

実話を基にした作品であり、だからこそ余計に愛おしく感じられるような物語なんじゃないかとも思う

自己紹介記事

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親子でサッカースタジアムを巡る実話を基にした映画『ぼくとパパ、約束の週末』は、自閉症に対する理解がとても深まる作品でもある

なかなか面白い映画だった。とてもシンプルなストーリーによって感動的な人間ドラマを描き出す作品であり、本作は基本的にそういう点で評価されているのだろうと思う。しかし私は個人的に、「自閉症に対する理解が深まる」という点で本作が興味深く感じられた

さて、色々と書いていく前に、まずは用語の注意点に触れておこう。「自閉症」と聞くと、私ぐらいの世代(私はこの文章を書いている時点で42歳である)だと「一切喋らず、コミュニケーションが取れない」みたいなイメージになるように思う。確かにそういう自閉症もいるのだが、本作で描かれる自閉症児は活発に喋るしコミュニケーションも取れる。実は、かつて「アスペルガー症候群」と呼ばれていた人たちが、今は「会話が可能な自閉症」という形に分類されているのだそうだ。「自閉症のイメージが違っていた」という人は、この点を理解しておくと良いだろう。

さて、そんな「会話が可能な自閉症児」であるジェイソンには「ルールを厳守する」という性質があり、そのルールも彼自身が決めている。作中では、「肉を食べるのは週に2回まで」「僕の身体に触れていい人は僕が決める」などが挙げられていた。そしてそんなルールの中に、「食べ物は捨てない」「僕の皿の料理には誰も触れさせないし、シェアも禁止」というものがある。ある場面でこれが大きく関わってくるので何となく覚えておいてほしい。

さて、ジェイソンはとにかく「持続可能性」にかなり敏感で、父親に「車じゃなくて電車に乗れ」と言うくらいだ。また、「肉の消費」について家族にまで制約を課すのも、「肉1kgを作るのに、1万5000リットルもの水を使用する」と知ったからである。彼は、地球を長生きさせるために自分の行動を制約できるタイプなのだ。

そんなわけで、ジェイソンには色々と細かなルールがあり、「それらを厳密に守らなければならない」と考えているのである。どう考えても大変そうだが、そういう性質を持って生まれてきてしまったのだから仕方ない、という感じだろうか。

「自閉症の理屈」がメチャクチャ分かりやすく描かれる「電車内でパスタを食べるシーン」

さて、そんなジェイソンの行動で、「なるほど、自閉症の人はこういう世界で生きているのか」と感じさせられたのが「電車内でパスタを食べるシーン」である。この時の出来事については、ジェイソン自身も後に「自身の行動原理」を説明する際に言及しており、「自閉症の人がどんな理屈で行動しているのか」がとても分かりやすく理解できるシーンと言えるのではないかと思う。

本作の舞台はドイツなのだが、ドイツの高速鉄道にはどうやら「車掌が席まで注文を取りにきて、座席で料理が提供される」というタイプのものがあるようで、ジェイソンは「パスタ(日本人的には「ペンネ」だろうか)」を頼んでいた。そしてこだわりの強い彼はここで、「パスタとソースは分けて盛り付けてほしい」と強く訴える。ジェイソンにとっては、「提供された時点でパスタにソースが掛かっている」なんてことは到底許容できないのだ。

さて、車掌はジェイソンの希望通り、ペンネとソースを分けて盛り付けてくれた。しかし当然と言えば当然だが、車掌はジェイソンのこだわりの強さを理解できておらず、皿の上のペンネ3つに少しだけソースが付着してしまっていたのである。とはいえ、普通は気にするようなことではないし、車掌も当然「これぐらいのこと問題ない」と判断したのだと思う。

しかしジェイソンにとっては大問題だった。彼はすぐに癇癪を起こし、そして目の前にいる父親に「解決して!」と強く迫ったのだ。

実はここに、ジェイソンの「食べ物は捨てないし、シェアも禁止」というルールが大きく関わってくる。ジェイソンは、「ソースが掛かってしまったペンネ」なんて絶対に食べたくない。しかし、その料理を捨てることも、他の人にシェアして食べてもらうことも、彼のルールに抵触するのである。こうしてジェイソンは袋小路に陥ってしまうのだ。

これが、ジェイソンが抱えている「困難さ」の一端なのである。

私たちも普段の生活の中で、「これだけは譲れない」「この意見は絶対に押し通す」みたいに感じていることはきっとあるだろう。しかし、色んな事情から上手くいかないこともある。「自分の意見を押し通したら、その状況そのものが無くなってしまう」とか、「絶対に譲れないと主張し続けたら、全員から嫌われて何も進まなくなる」みたいなことはあり得るし、そういう場合は「ある程度は仕方ない」と妥協する選択をしたりもするはずだ。しかしジェイソンはそんな判断をしないルールは絶対であり、仮にルール同士が矛盾し合って袋小路に取り残されたとしても、それでもルールを曲げようとしないのである。

ここで、ジェイソンがいかにルールを貫き通すのかがはっきりと伝わる場面も紹介しよう。かなり後半の展開なので具体的には触れないが、「父親がある事情から仕事で大ピンチに陥り、挽回するためには息子のルールに付き合ってなどいられない」みたいな状況でさえ、ジェイソンは父親の指示を無視し、「自分のルールに沿わないから」と従わない姿勢を見せるのだ。彼にとっては「父親が仕事で大変な状況に陥っていること」などどうでもよくて、何よりも「自分自身のルールを守ること」が最優先なのである。

だからこそ、「ソースが付いたペンネは食べない」「食べ物は捨てないし、シェアもしない」という完全に相反するルールが正面衝突したような状況で、「どう行動すべきか分からない」とフリーズ状態に陥ってしまうのだ。彼らが行動不能に陥るのは「ルール同士がぶつかり合っているから」なのであり、そのことが非常によく理解できるシーンだったなと思う。

もちろん忘れてはならないことだが、「自閉症」といっても様々で、色んな人がいる。本作の最後にも、「自閉症が必要とする支援は様々で人によって違う」と字幕で表記された。ジェイソンは「ルール同士の衝突」によってパニックを起こしてしまうわけだが、そういうタイプではない人だってもちろんいるはずだ。「1つの状況を理解したからといって全体を分かった気になってはいけない」という点には注意が必要である。ただそれでも、まず1つ理解することは、スタートとしては良いことだとも思う。

「騒がしい場所」が苦手な主人公がスタジアムに足を運ぶ困難さ

さて、本作にはもう1つ、自閉症を理解するための演出が組み込まれている。それが「ジェイソンが感じている聴覚の再現」だ。

自閉症の人は、聴覚が鋭敏になる傾向があるのだという。その事実は以前から何となく知ってはいたものの、ただ、どのような聴こえ方なのかは当然分かっていなかった。そして本作ではある場面で、「世の中の様々な環境音が、ジェイソンにはどのように聴こえているのか」を再現しているような演出がなされていたのだ。

恐らく多くの人が、「こんな聴覚世界だったらシンプルにしんどいだろう」と感じるのではないかと思う。

何かの本で読んだが、そもそも人間は様々な音をそのままの音量で聴いているわけではないという。例えば、心理学の世界で有名な「カクテルパーティー効果」は、「周囲の声が聴こえにくい状況でも、自分の名前や自分が必要としている情報ははっきり聴こえる」みたいな状況を指すのだが、このように我々の脳は様々な音を「必要か必要でないか」で判断し、「必要な音」が大きく聴こえるように調整しているのである。

それで恐らくだが、自閉症の場合、そのような脳の調節機能が働かないんじゃないかと思う。つまり、「私たちには『脳の補正が利いているお陰で大した音量に聞こえていない音』が、まさにその音そのままの音量で聞こえている」みたいな感じなのかもしれない。これはあくまでも私の勝手な予想に過ぎないが、理屈はともかく、「こんな聴覚世界の中で生きていたら、そりゃあ気も狂うだろう」と感じさせられた。

そして本作では、そんな性質を持つ少年が、「騒音の塊」と言っていいだろうサッカースタジアムに自ら足を運ぶ決断をするわけで、これまた大変な状況である。しかもスタジアムに入るにはセキュリティを兼ねたボディチェックがある。「僕の身体に触れていい人は僕が決める」というルールを設けるぐらい「触られること」が苦手なジェイソンには、苦痛でしかない。それでも彼は、ドイツ国内に存在する1部から3部までの56あるサッカーチームすべてをスタジアムで観戦すると決めたのだ。

本作は実話を基にした作品であり、映画の最後には「ジェイソンとミルコは、今もスタジアムを回っている」と表記された。息子と同じ時間を過ごせる喜びはもちろんあるだろうが、ジェイソンに付き合うのはまあ大変だろうなとも思う。

親子がスタジアム巡りをすることになった理由と、主人公の「融通の利かなさ」

では、ジェイソンは一体何故、苦痛ばかりのサッカースタジアムに足を運ぶことにしたのだろうか? その理由は、「推しチームを見つけるため」である。

ある日、ジェイソンは学校で「どこのファン?」と聞かれた。彼は「アインシュタインのファンだ」と答えたのだが、同級生たちに笑われてしまう。この質問は当然、サッカーチームについてのものだったからだ(しかし”当然”、ジェイソンにはそんな質問の意図は理解できない)。ジェイソンは改めて「決めてない」と返したのだが、同級生たちは「そんなのゆりかごにいる時にはもう決まってるんだから、こいつはゆりかごから落ちたんだ」と馬鹿にしてくる。

そのことが頭に残っていたのだろう、自宅で祖父母がテレビでサッカー観戦をしている時に、ジェイソンは突然「推しを決めたい」と言い出した。父は父で、そして祖父母(母の両親)は祖父母でそれぞれ地元のチームをジェイソンに勧めるのだが、彼は推しを見つける方法を既に考えていた。「全部観てから決める」というのだ。

父親は「そりゃあいい」と賛同した。というのも、ジェイソンは学校でよく問題を起こし、注意を受けていたからだ。そこで父親は、「毎週末スタジアムに連れて行くから、学校では大人しくすると約束出来るか?」と取引を持ちかけた。校長からは「こういう状況が続くなら、特殊学校への転校も検討してもらうことになる」と言われており、対処が急務だったのだ。

しかし、ジェイソンが口にした「全部」の意味を理解していなかった父親は、「とんでもない提案をしてしまった」と後悔することになる。父親は当然「1部リーグ全部」だと思っていたはずだが、ジェイソンはなんと3部まで全部観るつもりでいたのだ。こうして、「毎週末に連れて行く」と約束してしまった父親は、56チームの試合を観に行くことになったのである。

さて、ジェイソンは「スタジアム観戦におけるルール」も決めた。というかそれは、「推しを見つけるための基準」でもある。「サポーター席に座る」「何があっても最後まで観戦する」というのはまあ普通だが、「選手が円陣を組まない」「シューズの色が地味」など特殊なルールもあった。そしてジェイソンは、自分が決めた基準すべてを満たすチームじゃないと推さないと決めているのだ。

そんな風にしてジェイソンと父親は、ドイツ中のサッカースタジアムに足を運ぶことになったのである。

本作では当然、サッカー観戦をしているジェイソンの姿が描かれるのだが、その様子もとても面白い自閉症には「言葉を言葉通りに捉える」という性質もあるようで、つまり冗談が通じない。だから、例えばサポーターが「何やってんだクソが。帰れ!」みたいな野次を飛ばすと、近くにいたジェイソンは「クソには足がないから帰れないよ」と冷静にツッコミを入れるのである。そういう「ズレている感じ」もとても面白い。ちなみに本作では、ジェイソンから突っ込まれたサポーターが即座に、「帰れこの豚!」と言い方を変えていたのも面白かった。

さらにもう1つ、サポーターが歌っていた応援歌の歌詞に対するツッコミも興味深かったなと思う。歌詞の中に「永遠にNo.1」というフレーズがあり、僕は「絶対にジェイソンは突っ込むだろうな」と感じた。どうしてか分かるだろうか? 「永遠」というのは未来のことであり、そして「未来はどうなるか分からない」のだから、「永遠にNo.1」という表現はそもそもおかしい、とジェイソンは指摘するのだ。確かに、それはその通りである。

しかし面白いことに、ある場面でジェイソンはなんと、自分が口にしたこの指摘を逆手に取られ、父親に言い負かされてしまうのだ。このシーンは、とても素晴らしかった。なにせ、頑なに意見を変えようとしなかったジェイソンが態度を改めたのである。論理的であることを重視するジェイソンは、「感情的な説得」にはまったく応じようとしない。しかし、「自分の過去の発言と矛盾した行動を取るわけにはいかない」みたいに考えたのだろう、父親の指摘を受けて割とすんなりスタンスを変えたのだ。描写としても痛快だったし、また、ジェイソンの理屈を理解する上でも興味深く感じられるシーンだった。

監督:マルク・ローテムント, 出演:フロリアン・ダーヴィト・フィッツ, 出演:セシリオ・アンドレセン, 出演:アイリン・テゼル
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最後に

さて、私は基本的にスポーツ全般に興味がないのだが、本作は「ドイツ中のサッカースタジアムを巡る物語」なので、サッカーファンにはそういう観点からも楽しめるのではないかと思う。ドイツまではなかなか行けないからなぁ。

作品全体としては「心温まる物語」という感じで、本作はそういう映画として評価されていると思うのだが、個人的には「『自閉症』への解像度が高まった」という意味で非常に興味深く感じられる1本だった。色んな人に広く勧めやすい作品である。

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