【変人】学校教育が担うべき役割は?子供の才能を伸ばすために「異質な人」とどう出会うべきか?:『飛び立つスキマの設計学』(椿昇)

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 教師はいずれ不要になるが、教室が必要であることには変わりない
  • 若者の言葉はどんどんと貧弱になっていく
  • 「型を学ぶ」という古典的なやり方こそ重視すべき

子どもの頃に、変わった大人ともっと出会いたかったなぁとよく考えます

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

「教育」は何を目指し、何を成すべきではないのかを『飛び立つスキマの設計学』から考える

「現在の教育」からは遠ざかるべき?

本書の著者は、長く高校の美術教師として勤めた後、アートを切り口として様々な活動を行う芸術家に転身した。教育関係のプロジェクトと関わることもあり、本書では教師としての自身の経験も併せながら、「教育」とはどうあるべきかを様々に問うていくのだ。

著者の問題意識が要約されているこんな文章がある。

教育現場のストレスが多様な生き方を選択する可能性を閉ざし、クリエイティブな人間がどんどん世の中から消え、人々の対話がネガティブになり、誰もがアイデアを提案することの愉しさを忘れるような社会になってゆく未来を見たくはなかった(からこの本を書いた)。

教育現場における様々な問題は、結局、「子どもを押し込めている」「子どもに押し付けている」という点に尽きると捉えているということだ。

未来が不透明と言われるなか、指導者に必要な論理は、豪雨を降らせる高度経済成長期の「教えねばならない」という強迫観念から逃れ、若芽を信じて密林にスキマを開け、自発性の成長を待つ「邪魔しないという勇気」なのではないだろうか

子どもたちの才能を引き出すために「教育」は何ができるか。その観点から、本書は書かれている。

確かに、子どもの頃のことを考えると、とても窮屈だったことを思い出す。直接的にそう言われたことがあったかは覚えていないが、教室で私が常に感じていたのは、「はみ出すな」という空気だ。教師やクラスメートが、そういう雰囲気を作り上げていたのだと思う。学校というのは軍隊教育がベースになっていると聞いたこともあるので仕方ないのかもしれないが、その窮屈さは、本来伸ばすべき「個性」や「才能」を摘み取ってしまうものでしかないだろう。

著者は、「教師はいずれ不要になるだろうが、教室は必要だ」と主張する。つまり、「教える主体」は必要ないが、「様々な人間が関わり合って学ぶ場」は必要ということだろう。

そのために必要だと著者が考えているのが、「余白(スキマ)」である

「正しい答え」が分かっている人しか手を挙げない日本の教室

子どもの頃はなんとなく、「正しい答え」が分かっていないと手を挙げてはいけないような気がしていた。ここには様々な要因があるだろうが、この空気によって「間違えることは良くないことだ」という認識が当たり前のように刷り込まれていく。

しかし、それでいいのだろうか?

僕は「場」って、許容する寛容さとか、再チャレンジが何回もできるとか、「環境」だと思うんですよ

確かに今から思えば、子どもの頃に「もっとどんどん失敗しろ」と言ってくれる大人がいたら良かった、と感じる。大人になってから失敗するのは、なかなか大変だ。だったら、子どもの時に、目一杯失敗しておく方がいい。

そういう意味で私は、子どもの頃に、もっと変な大人に出会いたかったと感じる。

著者が勤務していた高校での、こんな描写がある。

ようやく状況が落ち着き始めると、高校で教員組織に馴染めないヤサグレの教師たちが美術教官室にたむろしだした。校長や教頭といった指揮系統から何も指示がない以上何もしなくても良いのだが、「組合が気持ち悪い」と逆らってたような音楽教師のMやS、英語教師で小説家のHなど数名が、箱入りインスタントラーメン(たぶんどん兵衛)をかき集めては、頼まれもしない高校の復興計画を練り始めたのだ。
とにかく組織で平時は役立たずの人間と思われている連中は、このような危機的状況が起こると創造性を爆発させる

また著者は、高校に教育実習に行った際、朝礼中にウイスキーの水割りを飲んでいる美術教師がいたとも書いている。

現代なら、親からのクレームがもの凄いだろう。そしてだからこそ、そういう「変わった大人」は、学校にはなかなかいられなくなってしまう。「余白」が削られてしまっていると感じる。

しかし、ちょっと違った世界を見ることも「教育」の一環と言えるだろう。

「正しくて綺麗なものだけを子どもには与えましょう」という主張が正解だと、特に親は信じているかもしれないが、本当にそうだろうか? 醜いものを知らなければ理解できない美しさもあるのではないか? と私は考えてしまう。

また、こんな例も提示する。

イタリアの有名な幼児教育システム「レッジョ・エミリア」では、小学校に行く前の段階から児童たちがその日何を学ぶのかを話し合いで決めている

これも、「子どもにはこれを学ばせましょう」と規定されている環境では成立しない「余白」といえるだろう。

本書を読んで私は、あらためて、子どもの頃にもっと変わった大人に出会いたかったと感じたし、「教育上良くないかもしれない」とされていることにも触れさせてほしかったと思った。

言葉がどんどん貧弱になっていく

著者は本書で、若者の言葉に対する感覚がどんどん薄れていることへの危機感を繰り返し語っている。

「対話」する力が恐ろしく貧弱になっていることは明白で、ゆえに集団になった時に問題解決に向かって話し合うということができない。また、語彙の不足が原因で自分の不安や不満の遠因を論理的に探査できず、感情だけがネガティブに亢進して下向きのスパイラルに落ち込んでしまう。幼児は十分に自分の感情を表現できない時には、自己発散で泣き喚くなどの行動に出るが、これくらいの年齢になるとそのエネルギーを全部内向させるから始末が悪い

本を読まなかったり、SNSばかり見ていたりすることによる弊害は様々に語られているだろうから、ここで繰り返すことはしないが、アーティストである著者も、

しかし我々の周囲で魅力的な仕事をしている人々を見ると、まずは日本語で考える力と文化的教養の深い人たちであることは疑う余地がない

と語るように、どんな分野であれ「言葉」を疎かにしてはいけないと感じさせられる。

本書には、実に興味深いこんな話がある。著者自身も関わったという、学生に演劇をやらせるワークショップの話だ。

課題をやっておきなさいというような生ぬるいものではなく、トッププロが夜中まで一緒に付き合うのだ。こうして意味もわからぬ不条理劇のセリフを覚えた後、彼らには実に不思議な現象が起こった。まともな文章を書けなかった学生たちが、驚くほど論理的で批判的な文章を急に書くようになったのだ。明らかに対話の内容が変化し、プレゼンテーションの姿勢も変化した。いったいいままでの大学の講義は何だったのかと思う激変が起こったのだ。「丸暗記」というイノベーションとは正反対のような方法が、素材を厳選してプロが徹底して付き合うことで現代に有効な方法として蘇ったと実感する

昔は寺子屋などで、漢文を音読して丸暗記させた、という話も聞いたことがある。このようなやり方は、現代の「教育」の枠組みではなかなか生まれないだろう。しかし、「言葉」がどんどん貧弱になってしまう現状には、何か対抗策を打ち出さなければならないはずだ。そういう意味でも、今の「教育」はなかなか真価を発揮できていないと言えるだろう。

「型を学ぶこと」の重要性

著者は、「型を学ぶこと」の重要性についても繰り返し書いている。

それこそイノベーションですよね。古典や型を学ぶ。そして圧倒的な量をこなすこと。それが一度抜け落ちてからじゃないとね

七歳までに論語とか、書とかずっと変わらないものを教える。山でどんぐり拾うとかも石器時代からやってるでしょ。それを仕込んで、しっかりとした人間の原型をつくっておけば、社会は命脈を保つ。

正直私は、自分が学生の頃には、この「型を学ぶこと」の重要性を理解できていなかった。今は、多少は分かっているつもりだ。「型を学ぶ」というのは、「頭の中で意識しなくても、手や身体が勝手に動くレベルまで染み込ませること」であり、例えば私の場合、今こうして書いている文章を通じて、その重要性を実感している。長年文章を書き続けたお陰で、頭であまり考えずに文章が書けるようになったからだ。

また、「型を学ぶ」ことで、そこを軸として個性を付け足していくことができる。個性というのは、基本が定まっているからこそ活きるものであり、基本がないまま個性だけを伸ばしていくことはなかなか難しい。ヘタウマな絵を描く漫画家も、実際にデッサンをさせたらメチャクチャ上手い、みたいなことだと思う。

子どもの頃は、新しいものに関心を持ちがちだし、同じことを繰り返しやることは退屈にしか思えないものだ。だからこそ、「教育」の現場で強制的に「型を学ばせる」というのも重要だろう。

恐らく私は、子どもの頃に「型を学ぶこと」を強制させられていたら反発していたと思う。しかし、大人になってから、その重要さに気づいたはずだとも感じる。自主性と強制のバランスを考えなければならない、という点はなかなか難しい

最後に

教育というのは、成果が確認できるまで長い時間を要するものであり、良し悪しを判定するのが難しい。しかし同時に、時代の変化に合わせて教育が変わっていかなければならないことも事実だ。

我々が生きている世界は、ますます大きく変化していくことだろうし、そういう社会では、これまでの「正解を教える」という教育では対応しきれないだろう。本書に書かれていることが正しいかどうかはともかくとして、「教育のあり方」を考える一つの参考としては、非常に刺激的な作品だと思う。

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