【価値】レコードなどの「フィジカルメディア」が復権する今、映画『アザー・ミュージック』は必見だ

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「アザー・ミュージック」公式HP

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

今どこで観れるのか?

公式HPの劇場情報をご覧ください

この記事の3つの要点

  • 私が「映画館でしか映画を観ない」と決めている理由
  • 「デジタル的なもの」には「制約」が存在しないから、私にはどうにも馴染まない
  • 世界中にファンを持つレコード店「アザー・ミュージック」でさえ、時代の流れに抗うことは出来なかった

「便利さ」を追求する流れは、当然「制約」を排除していくことになるが、それでいいのかと立ち止まって考えてみたい

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

伝説のレコード店の閉店までを映し出すドキュメンタリー映画『アザー・ミュージック』から、「モノ」と「デジタル」の関係を考える

私は長い間書店で働いてきた。アルバイトという立場でありながら文庫と新書の売り場を任されていたこともあり、「モノを売る」こととはかなり真剣に向き合ってきたつもりだ。そして、伝説のレコード店「アザー・ミュージック」が閉店するまでを映し出す本作を観て改めて、「モノを売ること」や「モノがデジタルに駆逐されていくこと」などについて色々と考えさせられた。この記事では、そのような話に触れていこうと思う。

まず大前提として、私は決して「音楽・映画のサブスク」や「電子書籍」などを否定してはいない。私自身は、それら「デジタル的なもの」にあまり馴染もうという気はないのだが、世の中がそちらの方向に動いていくのは当然だと考えている。プラットフォーム側が何か不正のような形で勢力を拡大させているとか言うのであれば話は別だが、世の中の需要に合わせて規模が拡大しているのであれば健全でしかないだろう。レコードや紙の本などは「フィジカルメディア」などとも呼ばれるが、そのようなフィジカルメディアの需要はが減っているのだろうし、そうであればそれ自体は仕方ないことだと思う。

「仕方ない」と表現しているように、私はやはり「フィジカルメディア」の方に良さを感じている。なので、「デジタル的なもの」は、好き嫌いで言うなら「好きではない」なのだが、良い悪いで言うなら「悪くはない」という感じだろう。これが私の基本的なスタンスだ。

さて、そのような「外的な環境の変化」は需要と供給のバランスで決まるので、「なるようにしかならない」と考えている。それよりも私が気になっているのは「意識の変化」の方だ。「フィジカルメディア」から「デジタル的なもの」に移行することによって、人々の意識も大きく変わっていると言えるだろう。そして私には、今顕在化し始めているそのような「意識の変化」が、あまり良いものには思えないのである。

というわけで、その辺りの話を深めていきたいと思う。

「映画館でしか映画を観ない」と決めている理由

私は基本的に、「映画館でしか映画を観ない」と決めている。この点に関しては、例外だったケースを紹介する方が早いだろう。まずは、以前働いていた書店の同僚から借りたDVD2本。「良い映画だから観てほしい」と勧められ、パソコンのプレーヤーで観た。そしてさらに、コロナ禍で映画館が閉まっていた時期に、アップリンクという映画館が運営していた「オンラインの映画館」みたいなサービスと契約して映画を観たこと。これが、「映画館以外で映画を観た例外」だ。あと、自分の中で「映画を観た」という経験にカウントしていないのだが、金曜ロードショーなどテレビで映画が放送される際に観ることもある(これは「鑑賞後に感想を書くかどうか」の違いであり、テレビで観た場合は感想を書かないので、「映画を観た」とはカウントしていない)。

そして私の記憶では、これ以外に「映画館以外で観た映画」は無いと思う。この記事をUPしている時点で991本の映画を観ているのだが、そのほとんどを映画館で観たというわけだ。また今のところ、AmazonプライムやNetflixなどを契約する予定はない。

さて、このような話を聞くと、「『映画館で映画を観る』という体験に価値を置いているのだろう」と想像するのではないかと思う。しかし、別にそんなことはまったくない。そういう観点で言えば、私は別に「パソコンやテレビの画面で映画を観る」のでも全然いいのだ(スマホでは絶対に観たくはないが)。では、何故映画館で観ることに決めているのか。それは、映画鑑賞に限る話ではないのだが、「『制約』にこそ価値がある」と考えているからだ。

「映画館で映画を観る」という行為は、様々な「制約」をクリアして成り立つものである。公開期間が限定されているからその期間内に観なければならないし、サブスクと比べれば鑑賞料金も高い(状況にもよるが)。映画館に足を運ばなければならないし、そのための電車代も必要だ。そして「過去の名作」は、4Kリマスター版などが劇場公開されない限りそもそも観る機会がない

どう考えてもめんどくさいし、私自身もそう思っている。「制約」ばかりだ。そして、このような「制約」をクリア出来なかった作品は、結局観れないまま終わってしまう。普通に考えたら、「それの何がいいんだ?」と感じるかもしれない

しかし、このような「制約」を甘受することで、私は「『自分で作品を選ぶ』という権利を手放さずに済んでいる」と考えている。

さて、私はサブスクで映画を観たことはほぼないが(例外は、先に紹介したアップリンクのサービス)、サブスクの場合どのようにして観る映画を決めるだろうか? サブスクには「登録されている映画しか観られない」以外の制約は一切存在しないのだから、古今東西様々な映画を選び放題だ。しかし、そんな無限とも思えるリストの中から、観る映画をどのように決めればいいのか。やはり基本的には、「ランキングで上位になっている」「レビューがもの凄く高い」などの「情報」を必要とするはずだ。「元からこの映画を観たいと思っていた」というパターンもあるだろうが、それだって結局「情報」だろう。つまりサブスクの場合、「何らかの『情報』がなければ映画を選べない」と言っていいように思う。

そして私は、そのような「自分で作品を選んでいる」とは感じられないやり方で観る映画を決めたくないのだ。

そんなわけで私は、「映画館でしか映画を観ない」という「制約」を自身に課すことで、一気に選択肢を絞っている。なにせ「映画館で映画を観る」場合は当たり前だが、「今公開している映画」しか観られないのだ。そして、それは大した数ではない。そのため私は、「その中から主体的に観たい映画を選ぶ」ことが可能だと考えているのである。これは「制約」による効果と言えるだろう。

「デジタル的なもの」が出てくる前は皆、このように物事を決めていたはずだ。それは、例えば「書店」を例に取っても理解できるだろう。Amazonなどのネット書店やKindleなどの電子書籍が出てくる前は、「書店で本を買う」しかなかった。そしてその場合、「自分が訪れた書店に置かれている本しか買えない」という「制約」の中で何かを選ぶことになる。この時私は、「主体的な選択をしている」ように思えるのだ。

しかし、ネット書店で本を買う場合はどうだろう。やはり、無限とも思える選択肢が存在する。その場合も当然、「アルゴリズムにオススメされた」「ランキング上位」など、何らかの「情報」に頼らざるを得なくなるし、それは私には「主体的な選択」には思えない。そのため私は、そういう選択を回避したくて、敢えて「制約」のある状況に留まるようにしているというわけだ。

もちろん、「デジタル的なもの」が新たな選択の可能性を広げることだってあるだろう。例えば、私は音楽をほぼ聴かないので正しい理解なのか自信はないが、Spotifyは確か「ランダムに音楽が流れてくる」みたいな設定が可能なはずだ。そしてそれによって、まったく存在を知らなかった曲に出会える可能性もあるだろう。あるいは、「サブスクの広がりによって、世界的に『日本の昭和の歌謡曲』が注目されている」みたいな話も聞いたことがある。それは「主体的な選択」とは異なるものの、「良い出会い」ではあると思う。

だから冒頭でも書いたように、私は決して「デジタル的なもの」を否定してはいない。ただ、「『デジタル的なもの』が広がったことによって、『主体的な選択』を手放しているように感じられること」に違和感を覚えてしまうのである。

「『制約』にこそ価値がある」という感覚が、改めて注目されているのではないか?

最近、特に若い人にレコードが人気だという話を聞く。また、人気アーティストが新曲をレコードやカセットテープなどでも発売するみたいなこともあるようだ。もちろんそれらの楽曲だって、サブスクで聴けるはずだ。しかしそれでも、わざわざ「フィジカルメディア」で発売するぐらい需要があるということだろう。

「フィジカルメディア」もまた、「制約」に塗れた存在だ。売り切れてしまえば手に入らないし、壊れれば再生出来ない。また、壊れはしなくても「消耗品」であることに変わりはないので、音楽なら聴けば聴くほど劣化していくことになる。サブスクと比べたら「制約」だらけだ。しかし、そんな「制約」だらけの「フィジカルメディア」がまた注目を集めているわけで、これは「サブスクには『制約』が存在しない」ことの反動とも言えるのではないかとさえ感じている。

先述した通り、私が「デジタル的なもの」を好きになれない理由は、「『制約』が存在しないから」だ。もちろん、「デジタル的なもの」は基本的に「『制約』をいかに取り払うか」という方向に進化していったはずなので、「『制約』が存在しない」という状態は正しい。もちろん多くの人がその「便利さ」みたいなものを享受しているのだろう。しかし私は、少しずつではあるだろうが、「『制約』が存在しないことのデメリット」みたいなものを実感する人が増え、いずれ可視化されていくのではないかとも考えている。

例えば、「BeReal」というSNSの存在にその端緒を感じることが出来るだろう。このSNSは「写真の加工が不可能」であり、さらに「投稿は1日1回のみで、突然通知が来てから2分以内に写真をアップしなければならない」という、「制約」だらけのSNSである。アメリカで生まれたこのSNSが、今は日本の学生を中心に流行っているのだそうだ。

しかし、どうしてこんな「制約」の多いSNSが注目されているのだろうか。そこにはどうも、「SNS疲れ」が関係しているようである。写真の加工機能などが豊富なSNSでは、「盛れてない写真をアップすると『イケてない』と判断される」のだという。つまり、既存のSNSでは「加工機能があるのに盛らずに写真をアップしている奴」みたいな見られ方になるのだろう。また、もちろんいつでもどこでもSNSの投稿が可能なわけだから、「映える写真」が撮れる場所・時間を調べたり、そこに行ったり”しなければならない”。そういうことに疲れてしまうということなのだと思う。

一方「BeReal」の場合、自ら選択できることがほとんどない。これはもちろん「制約」なのだが、しかし、「『制約』が存在しないこと」の大変さを実感した世代には刺さっているのだと思う。まさに「『制約』に価値を感じている状態」と言えるだろう。

「フィジカルメディア」で曲を発売するアーティストが増えつつあることも含め、このような「『制約』の存在を打ち出すやり方」はこれからもどんどんと出てくるのではないかと思っている。そのような流れがいつ頃から加速していくのか、それはもちろん私には分からないが、「そのような流れが来る前に閉店せざるを得なくなってしまった」のが「アザー・ミュージック」だったと言えるのではないだろうか。

「アザー・ミュージック」の凄まじさ

私は本作を観るまで「アザー・ミュージック」というレコード店の存在は知らなかったが、音楽ファンにとってはある種「聖地」と言っていいほどの伝説的な存在だったようだ。そして本作は、世界中にファンを持つNYイーストビレッジの「アザー・ミュージック」が、2016年に閉店するまでの最後の日々と、同店がその21年間の歴史の中で音楽業界とNYの街に与えた貢献を振り返るドキュメンタリーである。

本作には様々な人物が登場するが、誰もが皆「アザー・ミュージック」の凄さについて語っていた

「アザー・ミュージック」に行くことは宗教的な体験に近い。

世界中探してもどこにもない。

次元が違う。

あの店で売られるならそのバンドは見込みがある。

NYを象徴する店。

また、インタビューを受けた客が、「空き地になっても来るよ」「(閉店が)辛すぎてセラピストがいる」と語ったり、あるいは店員の1人が、「この店がなければ、今頃弁護士だった」と言っていたりもした。

その中でも私が一番グッと来たのが次の言葉である。

はみ出し者たちが闘う店だった。

とにかく、働くスタッフは「変人」だらけだったそうだ。聴いている曲数はハンパではなく、客の1人が「ちょっと勉強してからじゃないと入りにくい」と語るほど、その知識量は凄まじかったという。そんなスタッフを、経営者は履歴書も見ずに採用するため、遅刻グセが酷かったりと社会人として問題のある人物も多かった。しかし経営者は、「僕らの感性とは違う新しい色を足せるかどうか」だけが唯一の採用基準だと語っており、恐らくそれ故に、多くのファンを獲得する店になれたのだと思う。またレコード店には少なかった女性店員も積極的に採用したことで、女性1人でも入りやすい雰囲気になったそうだ。

共同経営者のクリスとジョシュは、

人々の音楽の捉え方を変えたい。

最高の音楽を最高のファンに届けたい。

と、その熱い想いを語っていた。そのため、まったく無名な地元のバンドを積極的に取り上げたり、あらゆるレーベルに断られたバンドの曲を置くこともあったそうだ。また、委託販売用の棚も設置されており、そこに自作CDを置くミュージシャンも多かったという。そして、実際にそこから有名になっていく者もいたのである。

「アザー・ミュージック」はそもそも、タワーレコードの真正面という凄まじい立地にあった。しかし、曲によっては大手レコード店よりも遥かに多く販売したのだという。「Ninja Tune」というイギリスのインディペンデントレコードレーベルの、アメリカにおける売上の半分が「アザー・ミュージック」だと語られる場面もあったほどだ。歴代で最も売れたのは「ベル・アンド・セバスチャン」という曲スコットランド出身のインディーズバンドの曲らしいが、そんな曲が21年間の歴史の中で最も売れているというのだから、ちょっと常軌を逸していると言えるだろう。

マイナーなものに光を当て続けた」という意味でも、アンダーグラウンドやカウンターカルチャーにとって「アザー・ミュージック」は無くてはならない存在だったのだ。

無くてはならない店も、時代の変化には抗えなかった

しかし、そんな世界中に知られる店でさえ、時代の流れには抗えなかったのである。

本作を観ていて驚かされたのは、2003年には既に、経営者2人の報酬がゼロだったということ。家賃やスタッフの給料を支払うと何も残らなかったそうなのだ。というのも、レコードの販売こそ順調だったものの、それまで経営を支えていたCDの販売減を補えるほどではなかったからである。

2007年にはMP3のダウンロード販売を行うオンラインストアを開設したのだが、残念ながら売上は振るわなかった。「アザー・ミュージック」では、目当てのものが品切れだった客に「タワーレコードにはあるかもしれない」と案内していたそうだが、客は大抵「大型店では買いたくない」と言うのだという。しかしそんな客にとっても「iTunesはクールだった」そうで、オンラインでの販売に「アザー・ミュージック」が入り込む余地はなかったのである。

経営者の報酬がゼロというのは、もはや経営としては成り立っていないと考えるべきだろう。しかしそれでもクリスは、「ここが閉まったら、スタッフはどうなる?」という想いから営業を続けていたのだそうだ。先程書いた通り、「アザー・ミュージック」のスタッフは変人揃いだったため、「この店以外の場所ではまともに働けないのではないか」と考え、閉店の決断に躊躇していたのだ。しかしそんな様子を見ていた妻から、「じゃあ、あなたはどうなるの?」と言われてしまう。それぐらいクリスは、常に自分のことを後回しにしていたと妻は語っていた。そうして閉店の決断に至ったのである。

「アザー・ミュージック」と比較するのはおこがましいが、私も書店員時代に、「まだ広くは知られていない本」を広める努力をしていたつもりだ。そして本作を観て改めて、「カルチャーが健全に存在するためには、『アザー・ミュージック』のような発信拠点が必要不可欠だ」と感じさせられた

音楽も映画も本もすべて「嗜好品」であり、最終的には「私はそれが好きだ!」という感覚だけを重視すればいいと私は思っている。何が言いたいかというと、「他人のオススメなんかに耳を貸す必要はない」ということだ。しかしそれがなんであれ、最初は誰もが「初心者」であり、まったく知識の無いところから荒野を進んでいかなければならない。そしてそのような「初心者」をあらゆる可能性へと導いてくれる「先導者」みたいな存在はいてもいいし、「アザー・ミュージック」はまさにそのような発信をし続けた拠点だったと言っていいだろう。

そして、そのような拠点を失ってしまうことは結局、カルチャーの衰退にも直結するはずだと思う。私は先程、「『制約』に価値を見出す流れが生まれるかもしれない」みたいなことを書いた。しかしそうなった時点で既に、レコード店や書店が世の中からほとんど消えてしまっている可能性もあるだろう。

そして、そうならないための選択が取れるのは、「フィジカルメディア」がまだどうにか踏ん張っている時代に生きている私たちだと思う。「フィジカルメディア」が無くなり「デジタル的なもの」だけになった世界は、豊かに感じられるだろうか? 未来がどうなるかは分からないが、やはり私は「フィジカルメディア」が残ってほしいと思う。そしてまさに今、「フィジカルメディア」はその瀬戸際に立っているのだと、私たちは認識しておくべきなのである。

最後に

私たちは、「便利さ」という分かりやすい指標に飛びつきがちで、それによって失われている「制約の価値」を見落としがちだ。多くの人はきっと、「『制約』なんか無くしてもっと便利になればいい」ぐらいに考えている気がするが、それが行き着いた世界では同時に、「豊かさ」が失われてしまっているかもしれない

だから少なくとも私は、これからも出来る限り「制約」の存在を愛したいと思う。

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