【人権】フランスの民主主義は死んではいないか?映画『暴力をめぐる対話』が問う「権力の行使」の是非

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「暴力をめぐる対話」公式HP

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この記事の3つの要点

  • 武器を持たない丸腰のデモ参加者を”過剰な暴力”で制圧する警察の振る舞いが様々な動画に収められている
  • デモ映像に登場する人物や、社会学者・弁護士・警察関係者などが一同に介し、「暴力」や「民主主義」について深く討論を行う
  • 日本を含めたあらゆる国で「民主主義」が危機に瀕している今、ここで議論される内容は全世界的に重要と言えるのではないかと思う

「暴力は国家のみが保持すべき」という大前提は許容するしかないと思うが、その上で、「『権力による暴力』はどの程度許容されるべきか」についての議論は必須だと改めて感じさせられた

自己紹介記事

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記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

民主主義を早くに根付かせたフランスでは、民主主義はもう死んでいるのではないか?映画『暴力をめぐる対話』が浮き彫りにする権力との緊張関係

本作ではとにかく、フランスという国のヤバさが映し出される。トランプが大統領になったアメリカも相当マズいと思うが、本作『暴力をめぐる対話』が映し出すフランスの姿もまた相当にヤバいと思う。日本ではさすがにここまでの状況にはならないとは思うが、「民主主義の危機」という意味では、決して他人事ではいられないだろう。

映画『暴力をめぐる対話』は、「『警察による暴力』を映した映像を観ながら討論する様」をそのまま映し出すドキュメンタリー映画だ

本作『暴力をめぐる対話』は、「映像を観ながら議論する人々」をカメラに収めただけのなかなか異色のドキュメンタリー映画である。そして彼らが観ているのは、いわゆる「黄色いベスト運動」と呼ばれる市民デモの映像だ。「黄色いベスト運動」という名前は、本作を観る前の時点でなんとなく知っていたし、ニュース番組の中で「警察と黄色いベストを着た市民がパリの街で衝突する映像」が度々取り上げられていたなとも思う。

本作では、2018年11月から2020年2月に掛けて撮影された映像が流される。そしてデモの映像に映っている人物を始め、社会学者、弁護士、警察関係者などが一同に介し、映像を観ながら討論している様子を捉えたのが、本作『暴力をめぐる対話』というわけだ。討論の様子をそのままドキュメンタリーとして提示するというのは、劇場公開される映画としてはかなり珍しいように思う。

さて、ではその「討論」の主題は何だろうか? それは「警察による暴力」である。

デモの映像を見れば誰もがそう感じると思うが、フランスの警察は市民に対しかなり酷い扱いをしていたデモに参加しているとはいえ市民であり、さらに、程度問題はあるものの「デモそのもの」は権利として認められているはずだ。そんな市民に対する扱いとしては、ちょっと考えられないぐらい酷かったなと思う。

さて、警察側にも当然言い分はあるのだが、まずはデモの映像を素直に捉えた場合の一般的だろう印象について書いておこう。デモ参加者は基本的に武器を所持していない。これまで、デモ参加者による銃の所持は一度も確認されていないそうだ。確かに、デモ参加者の振る舞いは暴力的だ。素手で警官を殴り、また集団で襲いかかって威圧もする。さらに、「金持ちの象徴」であるブランド店を破壊したりもしていた。それらはもちろん褒められた行為ではないし、やり過ぎだとも思う。とはいえ、警察の振る舞いはさらに輪をかけて過剰だというのが私の印象である。

警察は「デモによる暴動の鎮圧」と「治安維持」を大義名分に暴力を行使するのだが、武器を持たない丸腰の人間に対するものとしてはちょっとやり過ぎだと思う。なにせ、使用が禁止されているゴム弾で怪我を負ったり、催涙弾の爆発で手を失ってしまった者もいるくらいなのだ。映画の最後には、「2018年11月から2020年2月の間だけでも、2つの命、5つの手、27個の目が失われた」という内容の字幕が表記された。「治安維持」で片付けるには、ちょっと犠牲のバランスが合わないように思う。

討論に参加した「被害者」や「低所得者」は、「警察はエリートしか守らない」「自分たちは、警察が権力を行使するための実験場にいる」みたいな表現で警察を非難していた。また、ある学者は「フランスにおける警察による暴力は過剰さを増している」みたいなことを言っていたし、普通に考えれば「警察の振る舞いの方がヤバい」という見方になるはずだと思う。

警察側の人間は討論の場で反論するような主張をしていたが、個人的にはあまりしっくり来るものではないと感じた。「警察がデモ参加者に襲われている映像」に対して「この時の警察の振る舞いの何が過剰な暴力なんだ?」みたいなことを言ったりするのだが、全体としてはそういう「警察がデモ参加者に襲われている状況」の方が圧倒的に少ない(少なくとも映画で扱われていた限りは)。また、「ネット上にアップされているのは警察が暴力を振るっている場面ばかりだが、その前後はどうなってるんだ?」みたいなことも言っていた。要するに、「作為的に切り取られているだけだ」という主張である。しかし、本作中で使われているデモの映像はかなり長回しのものであり、これもまた的を射ていないように感じられた。

誤解がないように書いておくが、私は決して「デモ側に問題が無い」などと主張しているのではない。デモ側も大いに問題だ。ただ、「デモ側と警察側の問題を比較した場合に、圧倒的に警察側の問題の方が大きい」というのが私の感触なのである。

では、マクロン大統領はこの状況にどのような反応を示しているのだろうか。彼はどうやら、「フランスは法治国家なのだから、警察による暴力など存在しない」と主張しているようだ。いや、さすがにそれは無理があるだろう。本作で使われているものも含め、証拠の映像が多数存在しているからだ。それら個別の映像に対してマクロン大統領がどんな主張をしているのかは分からないが、いずれにせよ、政権側は「暴徒を抑え込むためには必要な措置だった」という主張をどうにか押し通そうとしているのだと思う。

デモの映像を実際に観てみないとなんとも言えないだろうが、私の感触としては「フランス、マジでヤベェな」という感じだった。これほどまでに圧倒的な「暴力」を警察(権力)が行使しているにも拘らず、その現状を認めないばかりか、そのまま押し通そうとしているのだから。

ちなみに、ある人物が話していたのだが、国際的な「民主主義ランキング」において、フランスの評価は格下げされてしまったのだという。元々は「完全な民主主義」だったのが、今は「欠陥のある民主主義」という評価になっているそうだ。この討論には国連の関係者も参加していたのだが、彼は現在のフランスの状況を踏まえ、「『人権の国フランスでここまでやれるなら、自分たちももっとやっちゃっていいんじゃないか』と考えるアフリカ諸国が出てきてもおかしくない」みたいな懸念を示していた。

本作を観るまで全然知らなかったが、フランスの民主主義は相当危険な状況に陥っているようである。

「民主主義の根本」を問う、ある女性参加者の視点

さて、ここで少し本作の構成や討論の雰囲気に触れておこうと思う。

本作で映し出される討論の内容はかなり高度だった。ハンナ・アーレントやマックス・ヴェーバーの引用がバンバン出てきたり、現実の問題から離れた「理論」についての話になったりと、かなり難解なやり取りが多かった印象だ。私は普段、映画館でメモを取りながら映画を観ているのだが、普段なら出来る「字幕の内容を理解し、同時にメモする」という作業がかなり難しかった。それぐらい、まず「理解する」という点で躓いてしまうような高度なやり取りが展開されていたのである。

その上で本作は、さらに挑戦的な構成になっていた。というのも、状況や討論参加者について一切何も説明しないのだ。フランス制作の映画だから、「黄色いベスト運動」についての説明がないのは当然だろうが、恐らく一般的に広く知られてはいないだろう人物も多数討論に参加しているにも拘らず、字幕などでその肩書きが表記されたりはしない。映画の最後で討論参加者の紹介はなされるものの、まさに討論をしている最中には、彼らが一体誰で、どのような立場の人物なのかまったく理解できないのだ。さらに討論の中身についても、「今何が議題に上がっているのか?」みたいなことを整理するような情報はまったくない。ひたすら「参加者による発言」だけが映し出されるというわけだ。

つまり本作は、とにかく徹底して「デモの映像」と「討論」のみを提示する作品であり、そのことによって一層難解さは増していると言えるだろうが、個人的には面白い趣向だと感じた。

さて、そんな討論において、私が個人的に最も納得感を抱いた主張が、高齢の白髪女性のものである。彼女についても討論中は誰なのかさっぱり分からなかったのだが、最後の紹介では「公法 名誉教授」と記載されていたと思う。「公法」というのは、「憲法」や「刑法」など、私たちが普段「法律」と読んでいるもの全般を指していると捉えればいいだろう。そして彼女は、大雑把に次のような主張をしていたのだ。

民主主義というのは「社会分裂」を容認する仕組みだ。だから警察は、「多様性の保証」に努めるべきである。

「意見の相違が存在する状態」こそが民主主義なのであり、全員の意見が一致していたとしたら、その民主主義には何か問題がある。何かが自由を侵害しているのです。

この主張は、討論全体のテーマである「警察による暴力」からは少し外れているかもしれないが、しかし、結局のところ問題の本質は「民主主義とは何か?」にあるわけで、そういう包括的な意味で投げかけられた意見だと思う。そして、私はこのシンプルな主張に強く賛同させられた。まさにその通りという感じだ。

「黄色いベスト運動」に対するフランス政府のスタンスは、「自分たちに反対する者はすべて敵」という感じなのだと思う。日本でも、安倍晋三が首相だった頃は特にそういう印象が強かった気がする。そしてフランス政府は、そんな「敵」を排除しようとして警察権力を行使しているのだ。このような構図であることは認めざるを得ないだろう。討論の参加者の1人も、「これは政治的な問題なのに、あらゆる声明や対処が”非政治的なもの”に置き換えられている」という言い方で政府を非難していた

民主主義である以上、必ず「自分に反対する者」は存在するそんな存在を「敵」と捉えるのであれば、民主主義など成り立つはずがないだろう。しかしそのような「民主主義の根幹」が、フランスだけではなくあらゆる国で成立しなくなっているように感じられる。公法の専門家である白髪の女性は、「暴動は民主主義の生命線」という表現を使っていた。民主主義が正しく成り立つためには、「暴動(の可能性)」は必要不可欠というわけだ。だからこそ、そんな「暴動」を公権力によって押さえつけてしまうのは間違いだと私は思う。

相手に「お前は暴力的だ」と正当に主張できるのは一体誰なのか?

さて、もちろん「治安維持を疎かにしていい」なんて話をしたいのではない「暴動」を野放しにすれば、「民主主義の危機」以上に社会に問題が生まれ得るだろう。だから対処する必要があるのだが、とはいえ、「武器を持たない人間をゴム弾で撃つ」ことが「治安維持」として正解だとも思えない。なかなか難しい問題である。

この点に関連して、ある人物がなかなか興味深い論点を提示していた。それは、「『お前は暴力的だ』と正当に主張できるのは誰なのか?」である。これは実に面白い問いだと言えるだろう。

「黄色いベスト運動」における問題というのは結局、「両サイドが『お前は暴力的だ』と主張している」という点にあると言っていい。警察は「デモ側が暴力的だから、治安を維持するにはこちらも暴力を行使するしかない」と言っておりデモ側も「警察が暴力的だから、それに対抗するにはこちらも暴力的にならざるを得ない」と主張している。どちらかの主張が正しいのだとして、果たしてその「正しさ」はどのように判定されるのだろうか?

確かに、この点がクリアになれば、感情的に相手を非難することなく善悪を判断出来るだろう。しかし作中では、この問いに明確な答えを出す参加者はいなかったように思う。確かに難しい問いである。「どんな場合であれ、『権力側の暴力』のみが合法である」などとすれば権力の暴走を抑えられないし、かといって「何が『許される暴力』で何が『許されない暴力』なのか」という基準を示すのも難しい

マックス・ヴェーバーの言葉だったと思うが、討論の冒頭で「国家とは、合法的に暴力を保持するものだ」というような言葉が表示される。恐らく、討論参加者のほとんどが(そして観客の多くも)、この主張そのものには賛同出来るはずだ。ただ、「そうだとしても今のフランス警察のスタンスは許容できない」という点が問題なのであり、それこそが討論の焦点なのである。「『暴力の保持』を前提とする国家に対し、どのようなアプローチを取れば現状の抑制・改善に繋がるのか」が最も重要な問いであり、本作ではそれらについて多くの人が理論的に、あるいは現実サイドから様々な意見を出し合う討論が行われていたというわけだ。

「暴力」に対する「抑圧」「予防」という異なる対処の仕方

さて、討論の中でもう1つ興味深かったのが、「抑圧」と「予防」に関する話である。これは、マクロン大統領がプーチン大統領と会談する映像を観ながら展開されていたやり取りだ。

民主主義国家であるフランスでは、当然「デモの権利」が認められており、だからこそ「起こったデモを抑圧する」という対応になる。まあ当然の話だろう。しかしロシアでは違う「デモが起こる前に、予防的に人々を拘束・逮捕する」という対処になるのだ。この比較で言うなら、「抑圧」のフランスの方が圧倒的に民主主義的と言えるだろう。ただ討論の参加者から、「これからの民主主義は、『抑圧』から『予防』のスタンスに変化していくのではないか」という意見が出た。「民主主義の形」そのものが変わっていくんじゃないかというわけだ。

そしてそうだとするなら、「警察による過剰な暴力」は、その変化の途上と捉えることも出来るかもしれない。しかしそれはなかなかに恐ろしい想像であり、だからこそ余計に、デモの映像に収められた警察の振る舞いを許容したくないなと感じられてしまう。

日本での本作の公開は2022年なのだが、この文章を書いている2025年の方が一層「民主主義」は危機に瀕しているように思う。特に、ドナルド・トランプが大統領に就任して以降、その危うさが益々顕在化していると言っていいのではないだろうか。そしてそんな時代だからこそ私たちは、「『権力による暴力』をどこまで許容するか」について、改めて考えるべきなのだと思う。

討論の参加者の1人は、ルソーの社会契約論を引き合いに出し、「私は『権力による暴力』の被害を受けることを許容する。それは安全を確保したいからだ。それが社会契約である」と主張していた。確かに、理屈としては私もこの主張に賛同できる。個人の視点ではなく社会的な観点から捉えれば、「国家が暴力を独占的に有し、それによって国民の安全を担保する」というやり方が最善だろう。国家と国民がこのような「契約」を結ぶことで、民主主義国家は正常に機能するというわけだ。

ただこの主張に対して、「当事者の一方が正しく契約を履行していないのではないか?」という意見も出て、それにも納得させられた。確かに、「国家が“正しく”暴力を独占的に有する」からこそこの契約は機能するのであり、その「正しく」の部分に疑義が生じるのであれば、そんな契約成り立つはずもない

日本の場合、「警察が直接的に市民に暴力を振るう」という状況はそう多くないはずなので、このような問題はまだ顕在化していないと言えるだろう。しかし、民主主義国家が様々に揺れる中で、日本もまたこの問いから逃れられはしないとも思う。深刻な状況に陥る前に、何らかの形で国民的な議論がなされればいいなと思うが、実際には難しいだろう。一筋縄ではいかない問題だなと思う。

最後に

本作『暴力をめぐる対話』の最後に、監督による5分ほどのトーク映像が流れた日本向けに新たに撮影し追加されたもののようだ。監督は、「大規模なデモが50年以上も行われていない日本と、デモが日常茶飯事であるフランスとでは基本的な考え方が大きく違うはずだ」としながらも、「『あらゆる国で民主主義が後退している』という現実がある中で日本も他人事ではいられないはずだ」というような主旨の発言をしていた。加えて、これは映画の冒頭で説明してくれても良かったんじゃないかと感じたが、日本人には馴染みの薄い「黄色いベスト運動」の基本情報についての紹介もある

先述した通り、かなり難しい討論でついていくのが大変だったが、討論のベースとなるデモの映像はなかなかのインパクトで、SNS時代だからこそこうして表に出てきたのだろうなと思う。そしてそんな映像がきちんと残っているからこそ、客観的な事実を基に討論を行うことも可能なわけで、そういう意味でも有意義な討論と言えるかもしれない。何にせよ、色々と考えさせられる映画だった。

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