【平和】巣鴨プリズン収監のBC級戦犯だった冬至堅太郎の貴重な記録から知られざる歴史を紐解く映画:『巣鴨日記 あるBC級戦犯の生涯』

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「巣鴨プリズン以外では日記を書くことさえ許されなかった」「BC級戦犯の裁判記録は基本的にアメリカが持ち帰った」ことを踏まえると、冬至堅太郎に関する記録は非常に貴重である
  • 戦争が起これば、誰もがBC級戦犯として裁かれる可能性があるという事実は認識しておくべきだろう
  • 「戦勝国による裁判の記録」を再検証する意味とは?

冬至堅太郎という1人の個人の生涯を通じて、謎多きBC級戦犯の実相が明らかにされていく

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

映画『巣鴨日記 あるBC級戦犯の生涯』は、巣鴨プリズンに収監されていた冬至堅太郎に焦点を当て知られざる戦後史を描くドキュメンタリー

実に興味深い作品だった。本作には「『BC級戦犯』についてあまりにも知られていない」という問題意識がベースにあるのだが、確かに知らないことばかりだったなと思う。

あまりにも知られていない「BC級戦犯」の実相を、冬至堅太郎の記録から浮き彫りにしていく作品

多くの人が「A級戦犯」という言葉は聞いたことがあるだろう。これは、東條英機ら28人の「戦争犯罪人」を指すもので、戦犯の中でも特に責任が重い者たちのことである。ちなみに、「A級戦犯」の内の7人が絞首刑に処せられたそうだ。この辺りの事実は比較的よく知られているのではないかと思う。

さて、「A級」があるならA級以外もあるはずで、それが「BC級戦犯」である。私はこの言葉にどこかしらで触れたことがあるような気もするのだが、しかしほぼ何も知らなかったと言っていい。そして本作では、「『BC級戦犯』については、世間的にはほぼまったく知られていない」と説明されていた。私は学生時代「歴史」の授業を諦めた人間なので何とも言えないが、恐らく、学校で習う知識にも含まれていないということなのだろう。そして本作は、そんな「BC級戦犯」に焦点を当てる作品である。

BC級戦犯もA級戦犯と同様に「戦争犯罪人」を指すのだが、A級戦犯が主に「戦争主導者」だったのに対して、BC級戦犯は「捕虜を虐殺した者」とされていたようだ。「戦争犯罪」と呼ばれ得る対象は「捕虜虐殺」以外にも色々と存在するのだろうが、この「A級戦犯」「BC級戦犯」というのは「戦勝国アメリカが敗戦国日本を裁く上での分類」であり、そのため「捕虜虐殺」を中心に「戦争犯罪」が認定されたということらしい。

BC級戦犯と認定されたのは、民間人を含む5700もの人たちであり、7ヶ国に設置された49の法廷で裁判が行われた。そして最終的に920人が処刑されたのだそうだ。日本では唯一、米軍に接収されていた横浜地方裁判所内でBC級戦犯を裁く「横浜軍事法廷」が開かれ、ここでは51人に死刑判決が下ったという。

そしてそんな横浜軍事法廷で死刑判決を下された1人が、本作における主人公と言っていいだろう冬至堅太郎である。彼はBC級戦犯として32歳の時に巣鴨プリズンに収監されたのだが、その獄中での生活を日記という形で残していた。本作『巣鴨日記 あるBC級戦犯の生涯』は、そんな貴重な記録をベースに制作された作品である。1946年から1952年に掛けての6年間分の日記が現存しており、本作中でも何度も引用されていた

しかし、本作で冬至堅太郎に焦点が当てられるのは、日記が残っているからというだけではない。なんと、横浜軍事法廷における冬至堅太郎の裁判記録が日本に残っているのである。

裁判はアメリカ主導で行われたため、当然、その記録はアメリカが本国へと持ち帰った。もちろんそれらの資料はアメリカの公文書館などで保管されているだろうし、手続きを踏めば閲覧も可能だろうが、アメリカまで行くことも含め、そこには様々な制約が存在する。しかし冬至堅太郎の裁判記録は日本に残っているため、本作の制作においてかなり自由度高く使用することが出来たというわけだ。日記と裁判記録という資料が残っているからこそ、冬至堅太郎という人物について深く掘り下げることが出来たのである。ちなみに、何故日本に残っているかと言えば、彼の弁護を担当した横浜弁護士会の桃井銈次が、何度も提出要請を受けながらもそれを無視して保管し続けたからだそうだ。

さて、私が鑑賞した回では、上映後に監督らによる舞台挨拶が行われた。この記事でも随時、その中で語られた話に触れるつもりだ。それで、舞台挨拶にはある大学教授も登壇したのだが、彼女は「巣鴨プリズン以外に収監された者は、日記のような形で記録を残すことも許されなかった」と言っていた。つまり、冬至堅太郎はたまたま巣鴨プリズンに収監されたため日記を書くことが出来たのだし、さらに担当弁護士がアメリカからの要請を無視する気骨ある人物だったお陰で、非常に重要な資料が日本に残ったというわけだ。作中では彼以外の人物の資料もそれなりには出てくるものの、やはり冬至堅太郎の日記・裁判記録が無ければ何も進まなかったように思う。そしてもしそうなら、こうして劇場公開される形で映画が作られることもなく、我々がBC級戦犯について知る機会も減ってしまったはずだ。というわけでまずは、本作のようなドキュメンタリー映画が作られたその背景みたいなものに驚かされてしまった

しかし、資料があっても取材が簡単だったわけではない。というのも、これは監督が話していたことだが、「死刑を免れたBC級戦犯も、『戦争犯罪人として裁かれた過去がある』という事実を積極的には話したがらない」からだ。まあそれは当然だろうなと思う。恐らく、家族でさえ「父親(祖父)がBC級戦犯だった」(BC級戦犯が全員男性だったかは知らないが)なんてことを知らない可能性も全然あるだろう。それ故にBC級戦犯については一般的にはまったく知られていないのだし、そしてだからこそ冬至堅太郎の資料や本作『巣鴨日記 あるBC級戦犯の生涯』はとても貴重なのだと思う。

「『戦争』が起これば、誰もが『BC級戦犯』になり得る」と理解しておくべき

さて、この記事でも当然、冬至堅太郎について詳しく触れていくわけだが、しかしその前に書いておきたいことがある。それは「戦争犯罪とは一体何か?」という話だ。

舞台挨拶に登壇した大学教授は本作にも出演しており、次のような発言をしていた。

「戦争犯罪」と聞くとどうしても「犯罪」の方に力点を置きがちだが、実際には「戦争」の方に着目すべき。

さて、この発言は一体何を示唆しているのだろうか? それは、「BC級戦犯は決して、自らの意思で捕虜虐殺を行ったわけではない」ということだ。BC級戦犯として裁かれた者の多くは「上官に命令されて捕虜を殺害した」のである。そしてそんな人たちが、裁判を経て死刑判決を受けてしまったというわけだ。

令和の現代では、「上官の命令は絶対」という感覚はなかなか理解できないかもしれないが(昔は運動部などで体育会系のキツさが残っていただろうが、さすがに現代ではそれもほとんど無くなっている気がする)、「戦時下」においては上官が命じたことは必ず実行しなければならなかった。つまり、自分の意思とは関係なく「犯罪」に加担してしまった人たちがBC級戦犯として裁かれていたというわけだ。そしてもちろんそれは、「戦争」が背景にあったからである。

つまり、今後日本が戦争に巻き込まるようなことがあれば(今の世界情勢を踏まえるとあり得ないことではないだろう)、誰もがBC級戦犯になる可能性があるのだ。また前述した通り、BC級戦犯には民間人も含まれていたので、そういう意味でも、国民全員に関係する話と考えていいだろう。

さて、この点に関連して、舞台挨拶の中で監督が語っていた「取材の苦労」についての話が興味深かった。

そもそもだが、BC級戦犯に関する資料が日本の公文書館で公開され始めたのが1999年頃だったという。私の感覚では「大分遅いな」という感じである。しかも公開されたというその資料は、人名は基本的に黒塗りのいわゆる「ノリ弁状態」だった。これでは取材のスタートが切れない。また、どうにかして個人の特定に成功したとしても、その本人は亡くなっていることがほとんどである。だからその子孫に連絡を取ることになるのだが、やはり「親族がBC級戦犯だった」という事実は聞こえが悪いからだろう、取材を断られることが多かったという。

しかしそれでも、BC級戦犯だった人物の子ども(ざっくり60代~80代ぐらいだろうか)は取材をOKしてくれる、みたいなケースもあったそうだ。ただそういう場合でも、さらにその孫(40代~50代ぐらいだろうか)から取材NGが出てしまうのだという。話を聞いてみると、「戦時中のこととは言え、人を殺したから裁かれているんですよね? やはりそれは印象が悪いので取材は受けたくない」みたいな反応なのだそうだ。

さて、先程の「『犯罪』よりも『戦争』に力点を置くべき」という主張を踏まえてこの話を捉え直してみると、要するに「『戦時下だった』という前提条件を正確に認識出来ていない」ということなのだろう。この点については、私も大差ないと思う。今日本に住んでいる人のほとんどは「戦争や終戦直後を経験していない」わけで、だから「平時」の基準であらゆる物事を捉えてしまう。そしてそれ故に「えっ、でも、人を殺したんですよね?」みたいな感覚になってしまうというわけだ。しかし実際には「戦時下だったからそうせざるを得なかった」だけの話である。BC級戦犯とされた人たちのほとんどは、「戦時下でなければ人を殺さなかった」はずだ。そういう人たちのことを「人を殺したんですよね?」みたいな視点でしか捉えられないのは正しくないよなと、私は本作を観て改めて実感させられた。

外国では今も戦争が行われていて、また、世界大戦が起こってもおかしくないような不安定な情勢でもある。台湾有事や北朝鮮のリスクもある中で、「日本が戦争に巻き込まれることはない」なんて断言出来る人はいないはずだ。そしてだとすれば、「自分がBC級戦犯として処罰される可能性」はについても想定しておくべきだろう。BC級戦犯についての情報に触れる際には、この点を的確に理解しておくことが重要なのだと強く感じさせられた。

冬至堅太郎が逮捕・起訴された経緯

さて、私はここまで「BC級戦犯の多くは『上官の命令』によって捕虜を虐殺したに過ぎず、その犯罪行為は仕方ないものだった」みたいな話を長々と書いてきたのだが、実は冬至堅太郎のケースはそれには当てはまらない。彼は自らの意思で米兵を殺したことがはっきりしているのだ。というわけでここからはしばらくの間、彼がどのような経緯で巣鴨プリズンに囚われ死刑判決を受けるに至ったのかに触れたいと思う。

福岡の和文具店で生を享けた堅太郎は、東京商科大学(現・一橋大学)を卒業後すぐに召集された中国に3年間いた後、福岡の西部軍司令部に主計中尉として臨時召集される。そしてそこで運命の日を迎えることとなった。1945年6月19日の福岡大空襲である1500トンもの焼夷弾が降り注いだ福岡の街では、死者・行方不明者合わせて1000人以上という多大な被害が生まれた。そしてその被害者の中に、最愛の母・ウタがいたのである。

さて、堅太郎が所属していた西部軍司令部の近くには九州中から集められた米兵の捕虜を収容する場所があり、堅太郎はある日たまたま、そこでB29の搭乗員の処刑が行われているのを目にした。その際、母親を米軍に殺された堅太郎は「私こそ処刑人としてふさわしい」と考え、自ら銃剣を手にして4人の米兵を殺害したのである。

その後終戦を迎えると、冬至堅太郎は「自分は恐らく戦犯として捕えられるだろう」と考えるようになっていく。もちろん周囲の人間は「逃亡」や「嘘の証言」を勧めたのだが、彼にはそんなことをするつもりはなかった妻も子どももいる身でありながら、捕まることを覚悟で「真実を唯一の道として選ぶ」ことを決めていたのである。

こうして彼は1946年4月に土手町刑務所に勾留され、その後巣鴨プリズンに移された。そして横浜軍事法廷での裁判を経て死刑判決を受けたのである。

裁判に際して冬至堅太郎は、担当してくれることになった桃井弁護士から「厳しい闘いになる」と言われていた。やはり「自らの意思で米兵を殺したこと」が致命的だというのだ。もちろん、堅太郎自身もそのことは理解していたが、その話とは別に、彼はある希望を抱いていた。それは「『処刑者』としては罪を負うが、『殺人者』として追及されたくはない」というものである。冬至堅太郎はあくまでも「最愛の母を殺した連中を処刑した」という認識だったのであり、「殺人者として裁かれることは納得できない」と考えていたというわけだ。彼のこの希望が実際の裁判でどのように扱われたのか(あるいは扱われなかったのか)は本作を観ているだけではよく分からなかったが、いずれにせよ、結果として彼は死刑判決を受けたのである。

また彼は「裁判では証言台に立ちたい」と桃井弁護士に相談していたそうだ。しかし実際には、彼のように直接米兵に手を下した者は証言台に立たせてもらえないことの方が多かったという。彼は結局、自分の口からは何も説明できないまま判決の日を迎えたのである。

本作ではこのようにして、冬至堅太郎の来歴から死刑判決を受けるまでの詳細が、記録や証言などによって再構築されていく

「戦勝国による裁判の記録」を再検証することの意味

私は以前、『東京裁判』というドキュメンタリー映画を観たことがある。A級戦犯の裁判の記録映像を基にした作品だ。そして私はそんな作品を観て、「東京裁判が思いがけずフェアに行われていた」という事実を知って驚かされた。民主主義の国らしく、アメリカの弁護士が「彼らには正当な裁判を受ける権利がある」と言ってA級戦犯の弁護を買って出たというのだ。しかもそれだけではなく、フェアな裁判になるように彼ら弁護士がかなり奮闘したという。私にはかなり意外に感じられた。

さて、だからといって、BC級戦犯の裁判もフェアに行われたのかは私には分からない。作中では、冬至堅太郎の裁判記録を検証している横浜弁護士会のある弁護士が、「しっかりした議論がなされていなかった可能性はあるでしょう」と話していた。しかしそれでも彼は、「この裁判には意味があった」と断言する。「裁判が行われたからこそ記録が残っているのだし、記録があるからこそ検証できる」からだそうだ。確かにそれはその通りだなと思う。

また舞台挨拶の中で監督が、「過去の裁判記録を検証する意味」について同弁護士が語っていたという話を紹介していた。その最大の目的は「過去の惨禍を検証すること」だという。日本国憲法には、「(前略)政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」という記述がある。しかし、「戦争の惨禍が起ることのないやうにする」ためにはまず、「戦争の惨禍」が何であるのかをはっきりさせなければならないはずだ。そしてそのためには、過去の検証が不可欠である。そんな話だったそうだ。監督はこの話を聞いて、「これまで、『どうして戦争のことを伝えようとするのか』と聞かれても答えられずモヤモヤすることが多かったが、それがすっきりした」みたいなことを言っていた。

さて、ここで少し冬至堅太郎から離れるが、あるBC級戦犯が裁判において「米軍による無差別空襲は国際法違反だ」という点について争ったという話が出てくる。岡田資という人物で、結局彼にも死刑判決が下ったのだそうだ。ただ、「部下を庇った」と紹介されていたので、彼の部下は死刑判決を免れたのかもしれない

それで、この「無差別空襲は国際法違反」という話については、『東京大空襲』というドキュメンタリー映画の中でも少し言及があった気がする。戦争のルールを規定した国際法では確か「民間人を殺すこと」を禁じているはずで、そのような観点から考えれば、「『無差別空襲』は国際法違反である」という主張も筋が通るんじゃないだろうか。しかし、本作『巣鴨日記 あるBC級戦犯の生涯』ではこの点に関して詳しく触れられなかったので、どういう議論が展開されたのかはよく分からない。ただやはり、「戦勝国による裁判なので、この点に関しては特に触れられずスルーされた」と考えるのが自然だろうか

「平和」のために、私たちは何をしなければならないのだろうか?

映画の後半では、「石垣島事件」と呼ばれる捕虜虐殺事件の話になる。最終的には、この事件に関わった者の内7人に死刑判決が下ったのだが、後半ではその1人である藤中松雄という人物に焦点が当てられるのだ。彼もまた、取り調べや裁判の記録が公文書館で発見されたり、あるいは、冬至堅太郎の日記に「死刑台に向かう直前の様子」が記されていたりと、多くの情報が残るBC級戦犯である。さらに、この「石垣島事件」に関わった者の死刑執行は、結果的にだが巣鴨プリズンにとっても大きな区切りとなったと言っていいだろう。詳しくは書かないが、冬至堅太郎にも関係するそれ以後の展開には正直、かなり驚かされてしまった。そういう意味でも「石垣島事件」はとても印象的だったなと思う。

さて、冬至堅太郎は『世紀の遺書』という本の出版にも関わっている(以下のリンクは、後に出版された簡易版である)。BC級戦犯ら701名の遺書を収録した大作であり、そして本作ではその一部が紹介されていた。恐らく、ほとんどが本意ではない形で死刑を言い渡された者だろう。そしてそんな彼らの最後の言葉は、当然と言えば当然ではあるが、「戦争には絶対反対」「恒久的な平和を望んでいる」「平和を願っていると子々孫々に伝えてくれ」みたいな主張で溢れていた。

「戦争反対」「恒久平和」みたいな言葉は、現代でも色んな場面で見聞きすることがあるだろう。しかし私にはどうにも、そういう言葉に「実感」が伴っているようにはあまり感じられない。やはりそれは、平和な日本で生まれ育った者の言葉だからだと思う。いや、別に私は「平和な国で生まれ育ったら『戦争反対』『恒久平和』みたいなことを言っちゃいけない」なんて話をしているのではない。むしろ、そういう主張はみんなでした方がいいと考えてさえいる。ただ、そこに「重み」が生まれないのは事実としてどうしたって仕方ないと思う。

一方で、遺書に「戦争反対」などと書いた者たちは、戦争という理不尽を経験し、さらに許しがたい死を目の前にした上でそういう言葉を口にしているのだ。そりゃあ「重み」が全然違うだろう。彼らが「戦争反対」「恒久平和」と書き遺したという事実に対して、私たちはもっと「重み」を感じ、真剣に受け取らなければならないと思う。

さて最後に。冬至堅太郎がある場面で口にした言葉がとても印象的だったので紹介しておこう。彼は「日本は、加害者としての国民全体の反省がない」と主張していたのだ。あるいは舞台挨拶で大学教授も、「日本はアジア各国に対する加害についても考えなければならない」と話していた。この点については私も時々考える。ただやはり、自分の中にはどうしたって「加害者意識」はないなと思うし(ただ同時に「被害者意識」も私の中にはほぼない)、自分の中からそれが湧き上がってくることもないだろうなという気がしている。「当事者ではない」という点が状況を余計難しくしていると言えるだろう。

この「加害者意識」に関しては、『蟻の兵隊』というドキュメンタリー映画のことも連想された。主人公である奥村和一は、上官の命令で終戦後も中国での内戦に参加させられた「中国残留部隊」の1人であり、そんな彼には、訓練で「罪のない中国人」を殺したという過去がある。

帰国した奥村和一は、「自分は被害者だ」という意識で主張・発信を続けていたわけだが、ドキュメンタリー映画の撮影の過程で「自身が成した加害」について改めて直視させられ、そしてそれを受けて自身の行動や思考を変えていったという。そういうことを、上映後のトークイベントの中で監督が話していた。自身の加害を振り返り見つめ直すことはとても勇気が要ることだと思うのだが、奥村和一は「加害者としての過去」もきちんと背負う覚悟を持って前に進んでいく決断をしたというわけだ。

私自身もそういうことが出来る人間でありたいなと思うし、日本という国もやはり、「都合の悪い過去」を隠すのではなく、徹底的に向き合って振り返るべきなのだと改めて感じさせられた。

最後に

私にとっては、今外国で起こっている戦争も、かつて日本が関わった戦争も、どちらもとても遠い存在に思えている。自分に関係がある出来事だとはあまり感じられない。それは仕方ないことだと思いつつ、やはり良くないよなぁとも思う。

だからこうして時々、過去の歴史に触れるようなドキュメンタリーを意識的に観るようにしている。それで何か分かった気になれるわけではないが、知らないよりは知っておいた方がいいはずだし、分からなくても分かろうとすることは大事じゃないかと思う。

それにしても、BC級戦犯については全然何も知らなかったごく一般的な人であれば私と変わらない知識レベルだろうし、そういう人にとって本作は、BC級戦犯について知るのにとても良い作品と言っていいだろうと思う。

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