【恋心】映画『サッドティー』は、「『好き』を巡ってウロウロする人々」を描く今泉力哉節全開の作品だった

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

いか

この映画をガイドにしながら記事を書いていくようだよ

この記事で伝えたいこと

誰もが皆、「スパッとは割り切れない『好き』」を抱えている

犀川後藤

作中に登場する女性たちは特に、そんなややこしさに塗れています

この記事の3つの要点

  • 「公認の二股状態」にある脚本家・柏木の周辺で「好き」が混線していく物語
  • 一緒にいたいのは「自分を好きになってくれた人」か、それとも「自分が好きだと思える人」か
  • 柏木の高校時代の同級生が出てきてから、物語はそれまでとは違ったギアで動き出していく
犀川後藤

「変すぎるラストの展開」も含め、「奇妙なんだけど妙なリアルさが漂う」という「今泉力哉印」が素敵な作品

自己紹介記事

いか

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

映画『サッドティー』は、「好き」が迷宮入りしていく人々の群像劇をコミカルに描き出す今泉力哉らしい作品

先日初めて、今泉力哉監督作のオールナイト上映イベントに参加してきましたイベント自体の感想は、映画『退屈な日々にさようならを』の記事で書きましたのでそちらをご覧下さい。

いか

良いイベントだったよね

犀川後藤

また機会があったら行ってみようかなって思う

さて、私が参加したオールナイト上映では、『退屈な日々にさようならを』『街の上で』『サッドティー』の3作が上映されました。イベントに参加する前の時点で映画『街の上で』では観ていたので、初見は2作品。そして今回は、映画『サッドティー』の感想を書いていこうと思います。

まず内容紹介から始めていきますが、映画『退屈な日々にさようならを』と同様、なかなか説明が難しい作品でして。頑張ります。

映画『サッドティー』の内容紹介

物語はカフェから始まる。アルバイトの女性がオーナーのボンさんに「好きです」と告白するのだが、その話はすぐに終わり、常連客である脚本家・柏木へと焦点が移っていく。新たに入ったアルバイト・棚子が親しげに柏木に話しかけ、「なんか面白いことがあったら声掛けて下さいよー」などと言っているのだが、この柏木、なかなかクセの強い男である。

というのも、二股をかけているのだ。いや、これだけでは大した話ではないだろう。しかし彼はなんと、「どちらの女性も、柏木の二股を公認している」という状態にあるのだ。柏木は、緑の家を訪れては不機嫌そうに脚本を書き、また夕子の家に行ってはダラっとくつろいだりしている。緑も夕子もそのことを知っており、というか、柏木と夕子が付き合っていることを知りながら緑が告白したことで、このような状態になったようだ。そしてそのことを、周囲の人間も当たり前のように知っている

さて、物語には色んな人物が出てくるのだが、ボンさんの妻が通うネイルサロンで働く夏は、本作においてなかなかの重要人物だ。彼女は結婚を控えており、それを機にある過去を精算したいと考えている。彼女は10年ぐらい前にアイドルのような活動をしていたのだが、その時代の彼女のことを今も熱烈に好きでい続けてくれるファンの存在を知ってしまったのだ。そのファンが書いているブログをたまたま見つけてしまい、「どうにかしたいと思ってる」みたいなことを、友人である緑や園子に話していた

そんな園子には早稲田という彼氏がいる。にも拘らず、園子は「柏木のことが好き」という感情をあまり隠そうとしない。周囲の人間も、「園子は早稲田と付き合っているけど、本当は柏木のことが好き」だと理解しているようだ。そんな園子はいつも考えている一緒にいるなら、「自分を好きになってくれた人」と「自分が好きだと思える人」のどちらがいいだろう、と。

さて、その早稲田は、園子へのプレゼントを買おうと訪れた古着屋で店員さんに一目惚れしてしまった。早稲田は柏木に対して「二股なんかあり得ない」と説教をするような人物であり、だから、彼女がいながら別の人に惹かれてしまった自分に戸惑う。そして彼は、「やっぱり『好き』は1人だけに向けるべきだ」と結論づけ、行動を起こすのである。

柏木の周囲でそんな「好きのベクトル」が錯綜していたある日、柏木の高校時代の友人・朝日が訪ねてくることになった。いや、別に柏木に会いにくるというのではない。彼は、毎年恒例だという「海に花束を投げる”儀式”」のために近くまでやってくるそうで、だから柏木の家に泊めてほしいというのだ。

そしてこの男が、思いがけない状況を引き連れてくることになる……。

「恋愛の周りでウロウロする人たち」を描き出す物語

映画『退屈な日々にさようならを』は、「今泉力哉っぽくない作品」だったことにまず驚かされたのですが、本作『サッドティー』では、私がこれまで観てきた今泉力哉作品の雰囲気に近い「恋愛のウダウダ」が描かれていました。また、映画『街の上で』『窓辺にて』などは、「中心となる人物が定まっていた」のに対して、本作は多くの人たちの人生が交錯する群像劇で、その点はとても新鮮だったなと思います。様々な人間の「ちょっと変わった人生」が折り重なり、関係ないように思われた人たちの間にも思いがけない関わりが生まれていくという複層的な展開は、とても面白かったです。さらに、そういう構成によって「『好き』に迷宮していく感じ」も滲み出ていて、物語全体のテーマとも上手く噛み合っている気がしました。

いか

こういう群像劇ってホント、どこから物語を考えるんだろうね

犀川後藤

中心的な人物・展開が無いから、余計にどうやって生み出したんだろうって思う

特に本作で焦点が当てられるのは、恋愛においては昔からよく議論されてきただろう「自分を好きになってくれた人を好きになる」か「自分が好きだと思える人を好きになる」かという話です。作中に登場する女性は大体、この問いの周りでぐるぐるしているような気がしました。内容紹介で書いたように、園子はまさにこの問題に直接的に悩んでいるし、夏は、昔の話ではあるけれども、「アイドル時代の自分を推してくれている人」のことが気にかかっています。それに緑は「彼女がいることを知りながら、それでも好きだから柏木に告白した」のだし、夕子も「緑との浮気を知りながら一緒にいる選択をしている」わけで、なかなかややこしいと言えるでしょう。「好きならそれでいいじゃん!」みたいなシンプルさとは程遠い状況であり、皆それぞれ少しずつ違った形でモヤモヤしているというわけです。

そんな中、作中で唯一「恋愛」にほぼ巻き込まれない存在として描かれるのが、カフェで働く棚子です。まったく巻き込まれないわけではないんですが、園子・夏・緑・夕子のような重さはありません。本作において彼女は、「物語を駆動させる役割」を担っていると言っていいでしょう。登場人物たちは少しずつ関係性が重なるものの、全体的には「他人同士」でしかないので、「そんな彼らが物語の大団円を迎えるために棚子の存在が必要だった」というわけです。「関係ない他人同士を集結させる」という役割を担うこともあり、やはりちょっと変わった性格をしています。私は基本的に「変な人」が好きなので、そういう意味で棚子はとても良いなと思いました。

いか

でも最初、「ボンさんに告白した女性」が棚子なんだと思い込んでて混乱したよね

犀川後藤

ホントに人の顔を上手く認識出来ないんだよなぁ

さて、そんな物語は、「朝日が柏木の家にやってくる」という展開を境に違うギアが入ったみたいに突き進んでいくことになります。まあこれが実に変な展開なのですが、一方で朝日の存在は、本作を成立させるために無くてはならないものです。棚子が「状況に誘い込む役割」だとしたら、朝日は「状況を作り出す役割」であり、「物語の主軸を生み出す存在」とも言えるでしょう。朝日が作中で何をするのかについてはこの記事では触れませんが、彼の「役割」が理解できた時は、心の中で笑ってしまいました。「お前か!」という感じです。

ちなみに、朝日を演じた役者の演技はちょっと変わっていました。演技でやっているのか、あるいは役者の素に近いのかよく分かりませんが(有名な役者が出てくる映画ではないので、「演技経験の浅い人が出演している」という可能性も想定しています)、朝日が「絶妙な変さ」を醸し出している点が印象的だったなと思います。正直、身近にいたら嫌悪感を抱いてしまいそうなキャラクターなのですが、本作『サッドティー』の世界においてはとても絶妙な存在感であり、その造形もとても良かったです。

犀川後藤

「そこはかとなく『狂気』を滲ませる振る舞い」が印象的だったわ

いか

あれを演技でやってるなら上手いなって思うけど、どうなんだろうね

そんなわけで、物語全体は朝日の登場によって大きく駆動することになるのですが、一方で、柏木も後半になると少しずつ動き始めていきます。それまでずっと「のらりくらり」という印象を崩さず、意思らしい意思を持っていないように思えた柏木ですが、何かに触発されたのか、「自発的な行動」を取るようになるのです。

まあ、その「行動」が良いものなのかは何とも言えないし、恐らく観る人によっても変わるでしょう。ただ柏木に対してはとにかく、「結局こういう『のらりくらりした男』がモテそうだよなぁ」という印象が強まっていった感じはあります。早稲田や朝日のようなパキッとした感じの方が好印象になってもおかしくないようにも思うんですが、現実世界ではなんだかんだ柏木みたいなタイプの方が強いんでしょうね。この点もまた、「恋愛のややこしさ」と言えるのではないかと感じました。

犀川後藤

まあ柏木の場合は、「狙ってそうしてる」っていうより「そうなっちゃった」って感じの方が強いんだろうけど

いか

だから余計、「柏木みたいな奴がモテるのは納得できない」って男は感じちゃうかもね

そんな柏木ですが、個人的に「それはダメだろ」と強く感じさせられた場面があります。それは、夕子がいる状況で朝日に対して、「朝日が羨ましいよ。朝日みたいに俺にも好きになれる人がいたら良かったんだけど」と口にしたシーンです。柏木としては、「朝日に抱いている羨ましさの表明」でしかなかっただろうと思いますが、夕子には「お前のことは特に好きじゃない」としか聞こえなかったでしょう。まあ本作は、「柏木のダメさ」を描くというのも1つ重要な要素になっているので、そういう点では適切なシーンなのですが、こういう「ナチュラルに他人を傷つける人」は本当に嫌いだなと思います。でも結局、柏木みたいな奴がモテるんですよねぇ。なんかモヤモヤします。

最後に

今泉力哉作品らしく、やはり「会話」がとても素敵だったのですが、中でも「朝日と夕子が酒を飲みながら会話するシーン」は印象的でした台本が存在するとはとても思えないような会話で、正直「映画の会話」としてはとても不自然でしたが、「現実の会話」としては実にリアルだったなと思います。今泉力哉は映画『退屈な日々にさようならを』の上映後のトークイベントの中で、「『映画ってこんな風に展開するよね』みたいなお約束を外すことで、案外日常のリアリティが立ち上がってくる」みたいなことを言っていました。まさに朝日と夕子の会話もそんな印象をもたらすもので、さらに、そんな「『映画としては不自然』だけど『現実では自然』という要素」を「映画」という枠組みの中できちんと成立させる腕力みたいなものはさすがだなと思います。

この点は今泉力哉作品を観る度に感じることで、どの作品も「リアルとはいい難い奇妙さ」に溢れているのに、それでいて「どことなく普遍性を感じさせる物語」に仕上がっている点に驚かされてしまうのです。「今泉力哉印」とでも言うべきその雰囲気がどんな風に成立しているのかは結構謎で、「魔法みたいだな」と感じることさえあります

犀川後藤

特に「そんな人間関係あり得ないでしょ」みたいな状況を「成り立ってる」って感じさせる描き方が上手いと思う

いか

そういう描写のお陰で、特段それがテーマになっていない場合でも「人間関係の多様性」を実感できて良いよね

さて、本作のラストシーンは映画『街の上で』と結構似ていて、「主要な登場人物が一箇所にワーっと集まってワチャワチャっとなる」みたいな感じでした。しかも本作の場合、それがかなり奇妙な展開なので、そのラストシーンも含めた上で「リアリティがある」と感じさせるのは難しかっただろうなと思います。そんな絶妙なバランスで成り立つ、素敵な1作です。

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