【生き方】改めて『いま、地方で生きるということ』を考える。「どこで生きる」は「どう生きる」に直結する

目次

はじめに

この記事で伝えたいこと

「どこで生きるか」ではなく、「どう生きたいか」で住む土地が決まるのが良い

犀川後藤

どんな場所ででも生きられる「自由」の可能性を垣間見せてくれる

この記事の3つの要点

  • 「幸せになりたい」という気持ちこそが、「幸せ」を奪う生活を生み出しているのかもしれない
  • 東日本大震災やコロナ禍から考えさせられる「どこでどう生きるのか」という問い
  • 何にも縛られず、どこででも生きられることこそ「自由」なのだろう
犀川後藤

「自由に生きること」に中途半端にしか足を踏み入れられない私には、身軽な人生を体現できる人が羨ましく見えます

この記事で取り上げる本

いか

この本をガイドに記事を書いていくようだよ

自己紹介記事

犀川後藤

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

『いま、地方で生きるということ』から、「生きること」について考えてみる。どこで、どのような生活をしたいですか?

何のために、私たちは「生きたい」と感じるのか

本書は、「生きること」や「生活」について、著者自身や周囲の人たちの人生を踏まえながら描いていく作品です。結論めいたなにかが提示されるような本ではなく、著者自身も迷い、悩み、放浪しながら、「地方」というキーワードを核に据えて、様々な事柄に触れていきます

本書では東日本大震災の話も扱われるわけですが、私たちはさらにコロナ禍を経てきました。「どのように生きていくか?」という問いがより身近な問題として立ち上がってきたと言えるでしょう。人生に対して何を求めているのか、何が必要不可欠なのか、どうであったら豊かであると実感できるのか。一人ひとりがそのような思いに囚われたのではないかと思います。

本書は、改めてそんなことを考えるきっかけになるだろう作品です

犀川後藤

コロナ禍は、改めて「生きていくのに必要なもの」を浮き彫りにさせたって感じがする

いか

人によってそれが何なのかは異なるけど、その差が如実に可視化されるようになったって感じかな

そんな問いに向き合っている人たちに、著者のこんな文章を読んでみてほしいと思います。

走る車から見える被災地の風景を眺めながら、「僕らは幸せになるために生きているんだろうか?」ということを幾度か思った。
「幸せになりたい」というアイデアを手放しさえしれば、どこでも十分に生きてゆけるんじゃないか。むしろそのアイデアによって、がんじがらめに不自由になっているんじゃないかな。

この文章から、本書のテーマは「地方で生きていくこと」ではなく、「どこででも生きていけること」だと言っていいでしょう。「住む場所」を含め、「何かに縛られている状態」はやはり不自由なのであり、そこから抜け出せればもっと生きやすくなるのかもしれません。そしてその究極として著者は、「『幸せになりたい』というアイデア」も手放し得るのではないか、と書いているのです。

いか

まあ、さすがにそれはなかなか極端な話ではあるけどね

犀川後藤

ただ分からなくはないっていうか、「自分が『幸せ』だと考えていた人生」以外にも、想像していなかった「幸せ」はあるって気がするし

(どこで暮らしてゆくか? という場所の選択に、あまり頓着はないんですか?)――ないです。このお店をひらいて思ったんですけど、住んでいる人たちが「自分の街を良くしていきたい」と思っている場所なら、自分もその一員になって、暮らしを良くしていけるものなんじゃないかなって。

(コミットするのは。)……地域ではないな。土地でもないね。
場所というより「機会」みたいなものかな。自分は「機会」に身を置いて、そこで暮らしている感じがする。自分のいるところで生きている。「行ってそこで何かをする機会」に、俺は身を置いている気がする。

本書には、「生活」の力点を様々な場所に置く人たちが登場します。本書を読むと、「生活を行う拠点」をどのように決めるのかという判断が色々あってもいいのだと感じられるでしょう。

私自身は、仕事や社会に対する適性の低さや、映画館や美術展など文化的なものへの関心などにどうしても縛られてしまうため、現時点ではやはり都市部での生活をなかなか捨てきれません。しかしその一方で、本書で描かれているようなフラットさに憧れる気持ちもあります。「アドレスホッパー」まで行くとちょっと極端ですが、どこでどう生きていくのかという選択を、その時その時の気分によって変えていくみたいな生き方には羨ましさを感じてしまうのです。ただ、冷静に考えて、自分にはまず向いていないだろうと感じます。やはり私には、そういう軽やかさは身に着けられそうにありません。

いか

「適応する能力」は割と高いのに、「『適応したい』っていう気持ち」が欠けてるんだよね

犀川後藤

その気持ちを普通の人並みに持つことができたら、かなり自由に生きられると思うんだけどなぁ

どういう仕事でもいいんですよ。たとえば、嫁さんの実家はガソリンスタンドですけど、そこから「来て働いてくれないか?」と言われたら僕は行く。で、その中で役割を見出せばいいと思っていて、僕自身には「こういうことをやりたい」というのは本当にないんですよね。
だから自分が住むべき場所も、その時その時で決まっていく。

“活きる”というか、俺の持っているものを活かせるというか。腹の据わり方とか、気合とか、ぶれない何かとか。
支援という感じで来ているわけじゃない。「使ってくれ」「使えるよ俺」という感じで、「ここのために」というのもない。俺が活きる場所やと思ってきてる。
自分の意志で動いている感じも少なくて、なるようになっていることに乗っかっているというか。自分がやっている感じはあまりないから、あんまり責任感とかないんだよね。

「どう生きるか」に付随するだろう様々な思考が、色んな形で本書に詰め込まれています。生き方について考えている人に、新たな視点を与えてくれるのではないかと思います。

震災後における「地方」の存在感と、「縛られない生き方」

3月11日以降の時間を通じて、「どこで暮らしてゆこう?」「どこで生きてゆけば?」ということをあらためて考えている人は、多いのではないかと思う。一方「どこで生きていても同じだ」という気持ちになっている人も多いかもしれない。どこでも構わなくて「要はどう生きるかでしょう?」とか

冒頭でも書いた通り、さらにコロナ禍を経験したことで、改めて人生を見直す人が増えているのではないかと思います。コロナ禍で定着したリモートワークによって、住処を地方に移しても今までと同じ生活が可能となる人も出てきたはずです。SDGsというスローガンが環境に対する意識を変え、都会での生活からシフトしようと考えている人もいるでしょう。

犀川後藤

私自身は、リモートワークにあまり惹かれないんだけどね

いか

社会的に「リモートワークは良いもの」みたいな風潮だけど、「そうかなぁ」って感じよね

彼は多くの人が「田舎には仕事がない」と言うけどそんなことはないんだ、と話していた。それは勤め先がない、つまりいわゆる会社のような求人口がないだけの話で、人手が足りなくてできずにいる仕事はもう山ほどあるんだと。
だから地域に入って、そこで暮らす人々と出会いながら、昔でいう便利屋のように働いてみればいい。彼らが困っていることを何でも手伝ってみるといい。給料はもらえなくても、生きてゆくための食料は手に入るだろうし、信頼を得れば居場所もできてゆくだろう。

私自身は、先程書いた通り、「『適応したい』という気持ち」がもの凄く低く、上述のような「地方での生活」は難しいだろうと思っています。私は、今は東京に住んでいますが、数年前まではある地方都市に住んでいました。便利かつ居心地の良い環境ではありましたが、しかしやはり「馴染む」という点における自分の欲求の薄さに気づき、ドライな人間関係の中で成り立っている都会の方が居心地が良いと今は感じています。

頭の中で考えている時には、「地方での生活」を望ましく思う感覚を抱くのですが、やはり、「実際には自分には向いていないんだろうなぁ」という残念な気分になってしまうのです。思考と身体の感覚がついていかないところがあって、自分でも「もう少し何かが違っていたらなぁ」と感じてしまいます。

いか

結構自由に生きてきたけど、本当の意味では自由にはなりきれない中途半端さがあるよねぇ

犀川後藤

こういうこと、20代の頃にはちゃんとは理解できてなかったけど、さすがにもう諦めてる

「何に」という点があまり具体的とは言えませんが、私の現状は「何かに縛られている」と言っていいでしょう。本当は、何物にも縛られずに、どこででも自由に生きていられる自分だったら良かったのにと感じます。

何かに依存しているかぎり当然そこでリスクがあがる。(中略)「いつここを去っても大丈夫」な状態にならなきゃいけないんだなと。本当にポータブルに。地球の裏側に行っても成り立つような仕事やスキルを持ちえてないと自由になれないんじゃないか。

「依存したくない」という意識は子どもの頃からかなり強くて、今でも、「社会の当たり前」「常識」みたいなものを含めて、「自分の動きを封じようとするもの全般」に対する警戒心を持って生きています。ただそれでも、やはり「仕事」からは逃れられません。最近は「FIRE」と呼ばれる、人生に必要な分のお金を稼いで早くリタイヤするみたいな生き方がもてはやされていますが、私はきっとそんな風にはなれないでしょう。「仕事」に縛られながら、これからも生きていくしかないと思っています。

犀川後藤

もう少し、「社会人としての適性」があったら良かったのにって思うことはある

いか

でもその場合、「今自分が面白いと感じている人との関わり」も恐らくなかっただろうから、難しいところだよね

つねづね「仕事」という言葉の意味が換金労働に限定されがちな状況をつまらなく感じていた自分にとって、そうではない仕事の姿、ただ「働き」と呼ぶ方がふさわしい動きのあらわれが嬉しい。

「生活のためには働かなければならない」という言葉をあたり前のように口にする人が、やや多すぎる気がするのだけど、もしそれが「お金が要る」というだけの話なら、とりあえず該当する(お金の)重力が強い場所を避けることはできる。くり返しになるがその分布は決して一様ではないし、社会的につくりだされている側面も大きいので。

「お金」に依存しているつもりはありませんが、「余計な思考」に時間を取られないために、多少のお金は必要だと考えています。「お金がない」という状態は、目の前の現実への対処や将来に対する不安などに「余計な思考」が割かれてしまうので、私としてはその状況を避けたいところです。「地方」での生活は、上手くすればお金をほとんど必要としないのかもしれませんが、その場合でもやはり、「余計な思考」からは逃れられそうにありません。そういう意味で私は、「お金」から自由になることは難しいだろうと思っています。

犀川後藤

それこそ、ベーシックインカムとかで、額は少なくても毎月一定金額手に入るならそれがベストかも

いか

「必ず毎月入ってくる」なら、その範囲内でどう生きるかは工夫次第だもんね

ただ、本書に書かれているこんな感覚は理解できるつもりです。

この街で暮らしてゆくことの良さを訊ねると、「大都市のように商品が揃っていないので、探さないと見つからないし、手に入らないものもある。けど探す時も使うときも、自分で工夫しなければならないことが多いのが僕は楽しいです」と答えてくれた。

私は、自分が許容できる限り、なるべく「不便側」に留まるように意識しています。便利さに足を踏み入れることで、「それ無しでは生きていけない」という感覚に陥ることが昔から大嫌いでした。あらゆる意味で便利な世の中になっていますが、私はなるべく「あれば便利」ぐらいに留め、便利さを日常の中に組み込みすぎないように意識しているつもりです。

今私が、自分の生活の中で「どうしても手放せない」と感じているのは、パソコンとキーボードぐらいでしょうか。とにかく、「文章を書く」というのが私の日常の大きな部分を占めており、それにはどうしてもパソコンとキーボードが必要不可欠です。とてもじゃないですが、こんな長い文章、スマホでなんか打ち込んでいられないですし。パソコンとキーボードとネットが繋がる環境さえあれば、最悪スマホは手放してもいいかもしれないと思えるほどです。

いか

LINEとかもパソコンにDLしてやれちゃうしね

犀川後藤

「電話番号を所有していない」っていうデメリットさえ解消できればスマホはなくてもいいかも

ホントに、私のこのような感覚は、本書の核となる「どこででも生きていけること」にかなり沿うものだと感じるので、つくづく、自分の「自由にはなりきれない中途半端さ」は非常に残念だなと感じます。

最後に

そのお爺さんは詩も書くし、踊りもやっていたし、自分の感性で工芸品もつくっていて、なんだかものすごく豊かなんですよ。ほんとに僕らが目指しているものが集約しているというか。
自分でつくり出して、遊んで、食料もつくって。しかも技術は高くて、人に喜ばれることができる。もう「すげぇなあ」と。どこにも依存していない。本当に自由な感じがして。どこか違う国へ行っても、この人は何かできるんだろうなって。

この文章を書いている時点で、私は39歳。さすがにここから、人生が大きく変わることはないだろうと思っています。気分的には常に「どんな変化があっても『面白い方』を選択する」という心構えを持っていますが、そもそも外から変化がもたらされる可能性の低さを感じているところです。

どう生きたいとも、どう死にたいともあまり考えていませんが、可能な限り「未来よりも今の楽しさを優先する人生」を生きたいと思っています。その時その時の気分や変化を見逃さず、「とりあえずの一歩」が踏み出せる自分でありたいものです。

本書は、そんな「生き方」の選択肢を様々に垣間見せてくれる作品だと言えるでしょう。

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