【煌めき】映画『HAPPYEND』が描く、”監視への嫌悪”と”地震への恐怖”の中で躍動する若者の刹那(監督:空音央 主演:栗原颯人、日高由起刀)

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「HAPPYEND」公式HP

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「南海トラフ巨大地震が”まだ”起こっていない近未来」を舞台にして、現代日本の延長線上にありそうな様々な社会変化を設定した物語
  • 社会問題に関心を抱き始めたコウと、変わらず音楽漬けで何も考えていないように見えるユウタの関係性の変化が興味深い
  • 「『仲直り出来ること』を前提としない関係性」が、私にはとても現代的に思えた

ユウタを演じた栗原颯人が絶妙な雰囲気を醸し出していて、目を惹く存在だったことも印象的である

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

映画『HAPPYEND』では、「学校内での監視」と「地震への恐怖」を飛び越えようとする若者たちによる青春の躍動を描き出す

劇場で流れた予告映像で本作『HAPPYEND』の存在を知り、その時点で何となく「面白そうな映画だな」と思っていたのだが、実際に観てみると想像以上に魅力的で素敵な作品だったメチャクチャ物語が展開していくわけではないし、というかむしろ「これと言って何も起こらない」というような内容である。ただ、舞台設定や、ほとんど新人を起用したという役者の雰囲気がとても良く、それらが作品全体の”粒立ち”みたいなものを際立たせていたように思う。

本作『HAPPYEND』を取り巻く最大の制約条件である「地震」

本作の舞台は、近未来の日本。とはいえそこまで先の未来ではなく、全体の雰囲気は我々が生きている世界とそう変わらない。そんな本作には、「パノプティ」というシステムが登場する。主人公たちが通う学校に導入されたもので、「カメラで違反を検知し、違反した個人に罰点を課す」という仕組みだ。既に中国では実装されていたと思うので実用可能な技術であり、作中では「どこにでもあるわけではないが、システムとしては既に周知されている」みたいな感じだと思う。

さて、この「パノプティ」という名称は間違いなく「パノプティコン」から採られているはずだ。これは、18世紀の哲学者ベンサムが考案した「監視に最適な刑務所の構造」のことであり、「中央に監視所があり、そこから監房が一望出来る」ようなものを指す。東京拘置所も、この「パノプティコン」を念頭に設計されているはずだ。

割と早い段階でこの「パノプティ」が登場するので、「作中では、このシステムが重要な役割を果たすのだろう」と私は感じたのだが、思いのほかそうでもなかった。こんな仰々しいシステムを導入した学校を舞台にしながら、本作ではさほど中心軸にはならないのだ。あくまでも、「作中を生きる若者たちを外的に拘束する制約条件の1つ」という描かれ方に過ぎない。

そして、本作において「パノプティ」以上に強く描かれる制約条件が「地震」である。

さてここで、本作に関する記事を紹介しておこう。映画を観終わった後スマホを見ていた時にたまたま表示されたもので、本作監督である空音央と、映画監督濱口竜介の対談である。別に本作『HAPPYEND』について検索していたわけではないのだが、恐らく、濱口竜介の作品を調べる機会が結構あったので、オススメに表示されたのだと思う。

そしてこの記事の中で、空音央は次のように語っていた

映画の種は、いずれ起こるといわれている南海トラフ地震が、もうしばらく起こらなかった社会はどうなっているんだろうか、という思いつきといいますか、思考実験でした。

私たちは2024年に初めて、「南海トラフ巨大地震の前兆かもしれない」という警告を経験した。いつ起こってもおかしくはないと言われているわけだが、本作は「そんな地震がまだ起こってはいない世界」が舞台になっているというわけだ。作中でも何度も緊急地震速報が発令されていたが、大した揺れではないか、まったく揺れないかのどちらかである。作中世界の住人は、今の私たち以上に「巨大地震が来るぞ!」と言われ続けているはずだし、そうであればあるほど、オオカミ少年の話ではないが、「地震に対する鈍感さ」みたいなものが強まってしまっているのではないかとも思う。

しかし一方で、本作の舞台は高校である。そして、「生徒の安全を第一に考える」というスタンスを持っているべき学校側としては、「今日地震が来てもいい」ように準備を積み重ねるしかない。つまり本作では、「地震地震ってうるせぇよ」と感じる生徒側と、「そうは言っても対策は必要だ」という学校側(大人側)との間の大きな溝が浮き彫りにされているというわけだ。

また本作では、総理大臣である鬼頭がもの凄く悪く描かれている。鬼頭は作中において中心的な人物ではないのではっきりとは分からないものの、恐らくその評判の悪さも「地震」に関係があるのだと思う。作中である学生が、「地震のためとか言って緊急事態条項を発令する鬼頭はもう独裁者だよ」みたいなことを言っていたからだ。鬼頭は恐らく、国民からの支持が得られないだろう政策を「地震」を建前にして無理やり押し通しているのだと思う。もちろん、そんな政治にうんざりしているのは学生だけではなく、作中の日本では政府に対する市民デモが頻発している

あるいは本作では、「警察が在日朝鮮人であるコウの特別永住者証明書を提示させようとする」という場面が何度か描かれる。地震の話とは関係ないように思えるかもしれないが、これも地震を背景にした描写だと捉えるのが自然だろう。この「特別永住者証明書」は、現在の日本でも既に「携帯義務が無くなった」そうで、だから仮に職務質問を受けたとしても、警察に提示しなければならないわけではない。作中の世界でも同じルールであるようだ。しかし、もちろんそのことを理解しているはずの警察官は、コウに何度も提示を求めるのである。

さて、本作の舞台となる高校には「外国人」が多い。といっても「外国人」というのはなかなか定義の難しい言葉だが、本作では、良くない形で分かりやすい分類が登場する。ある場面で教師が、「日本に帰化していない者は、この時間、教室から出るように」と言って、出席番号を読み上げるのだ。どうも、30~40人ぐらいのクラスの中に、帰化していない生徒が10人以上いるらしい。本作のメインの登場人物5人の内3人も帰化していない組だ。

そして恐らくだが、この状況はこの高校に限ったことではないのだと思う。作中の日本では恐らく、「それが当たり前」になっているはずだ。となれば、そういう描写こそなかったものの、「人口が大幅に減ったため、移民の受け入れを本格的に進めている」と考えるのが自然だと思う。そうでもなければ、1クラスに10人以上の「未帰化者」がいる状況は説明できないだろう。

で、この「『外国人』が多い」という状況が「地震」と関係してくるのである。作中で鬼頭総理大臣が、「地震の際にはデマや差別が起こる」みたいに話していたし、先ほど紹介した対談記事の中でも、「関東大震災の時に起こった朝鮮人虐殺」に言及されていた。つまり、「地震による直接的な被害」だけではなく、「社会構造が変化した日本で起こり得る2次的3次的な被害」も見通した内容なのである。

さらに言えば、監督の空音央はそもそもアメリカ生まれなのだそうだ(というか、鑑賞後に知ったのだが、彼は坂本龍一の息子なのだという)。どの国の国籍を有しているのかは知らないが、アイデンティティ的には「日本人」だと思うし、一方で、ずっとアメリカで生まれ育ってきたという背景を踏まえれば「外国人」的なスタンスも持っているはずである。そのような「日本人でありながら日本を外から眺める」みたいな視点が、本作にも色濃く反映されているように感じられた。本作ではまず、このような「制約条件」がかなり興味深く描き出されていくのである。

本作は近未来を舞台にしつつも、視覚的にはほぼ「私たちが生きている日本」と変わらない。ただやはり、見えにくい部分での変化は色々とあって、そしてその変化は間違いなく、「現代日本の延長線上にあるもの」に感じられた。私は本作を観ながら、「本作で描かれる未来予測は、私よりも年下の世代がイメージする世界なんだろうな」と考えていたのだが、空音央は33歳だそうで、私の想像は当たっていたと言える。残念なぐらい悲観的な予測ではあるが、「きっとこんな風になってしまうんだろうな」という風に感じさせる世界でもあったなと思う。

メインで描かれるのは、コウとユウタの絶妙な関係性

本作『HAPPYEND』は、そんな「制約条件」の下で、制約など存在しないかのように躍動したいと考えている若者たちがどんな風に日々を過ごしているのかを描き出す物語である。

メインで描かれる5人組は、実に「やんちゃ」だ。恐らく、通っている高校の中でもかなり「イキっている」側なのだろう。とはいえ、同級生や後輩に絡んでいくというよりは、「5人で馬鹿騒ぎをしている」という印象が強い。違法営業のクラブに不法侵入して警察から取り調べを受けたり、夜の学校に忍び込んで音楽制作をしたり、校長の愛車に驚きのイタズラを仕掛けたりとやりたい放題だ。

彼らに対しては「刹那的」という印象が強く、「その瞬間の楽しさをいかに追求するか」みたいなことに全精力を注ぎ込んでいるような感じがある。私は正直まったく共感できない生き方だが、いつの時代にもそういう若者はいるものだろうし、さらに言えば、今よりもっと閉塞感がキツくなっているだろう作中世界においては、「馬鹿騒ぎでもしていないととてもじゃないけどやってられない」みたいな感覚があったりもするのかもしれない

さて、冒頭で私は「物語は大して展開しない」と書いたが、「物語」という観点から本作を捉えるなら、「校長の愛車へのイタズラ」が1つ大きな転換点と言えるだろう。というのも、この出来事がきっかけで校内に「パノプティ」が導入されることになったからだ。さらに、この5人組は元々教師たちから目をつけられていたのだろう、少し違った形でも「排除」を経験することになる。そんなわけで、「社会を取り巻く変化」に加え「5人組を取り巻く変化」にも晒されながら、それらに対して彼らがどう反応し、どんな風に前進していくのかが、「物語」の1つの大きな軸になっているというわけだ。

そして5人組の中でも特に重点的に描かれるのが、コウとユウタの関係性である。彼らは「幼稚園からの仲」であり、「初めてのオナニーも一緒にした」というほど関係が深い。また、2人とも音楽に対する感性・感度・技量みたいなものがとても高く、残りの3人が「あの2人はいつか音楽で世界に行く」と言っているほどだ。そういう意味でも強い関係性を持つ2人なのである。

しかし物語が進むにつれて、2人の間に少しずつズレが生まれていく。そしてそこに、ここまでで色々と書いてきた様々な「制約条件」が関係してくるというわけだ。この辺りの展開がとても上手かったなと思う。

さて、5人組はいつもアホみたいなことばかりしているのだが、コウは学校での成績がとても良く、「大学の奨学金がもらえるかもしれない」という位置にいるようだ。そんなわけで彼は、他の4人とは違って社会に対する関心も比較的強く持っている。5人でカフェにいる時には、他の4人が興味を示しもしなかった街頭デモの様子を窓越しに見ていた。あるいは、5人組の1人であるアタちゃんが教室で「将来警察官になろうかな~」と騒いでいた時に、「警察なんて国と富裕層だけを守る、武器を持った官僚だよ」と叫んだフミと、その後仲良くなったりするのだ。社会の変化とそれに対する違和感を、常にきちんと捉えようと意識している人物という感じである。

一方、ユウタは「音楽」のことしか考えていない。というか、仲間にはそのように見えている。コウが仲間のトムに「ユウタの何も考えてない感じ、俺無理だわ」と口にした際、トムもそれに賛同していたし、そんなトムは、高校卒業後にアメリカに移り住むことがだいぶ前に決まっていたにも拘らず、その話をユウタにだけは伝えられていない。ユウタにはどこかそう思わせるような雰囲気があるのだ。

自身の「在日朝鮮人」というアイデンティティも関係しているのだとは思うが、何らかの形で社会に参画することへの関心が高まりつつあるコウと、子どもの頃から変わらずに、ただ何も考えずに馬鹿騒ぎしているだけのユウタ。2人はお互いに「こんな友達いないだろ?」と確認するほどの関係性にありながら、大人になっていく過程で価値観のズレが表面化していくことにより、少しずつ不協和音が強まり始める。そして本作では、その「悪化」を静かに、しかし絶妙な深さで描き出していくというわけだ。

本作は全体的に「コウ視点」で進んでいく。つまり、「コウの目には世界がどう見えているのか?」がベースになっているというわけだ。コウは様々な場面で自身の考えや感覚を口に出していくし、周囲の人間とそれを共有しようとする。確かにコウは、ある種の「意識高い系」だとは思うのだが、とはいえ「普通」から大きく外れた人物ではないはずだし、比較的「作中世界におけるスタンダード」寄りの人物として描かれていると思う。

一方ユウタは、最初から最後まで何を考えているのか分からない人物として描かれる。コウとユウタは時折、いつもの調子を封印して真面目な議論を交わすこともあるのだが、しかしそういう場面でもユウタは、「今話していることは、果たして本心なんだろうか?」と感じさせるような物言いしかしない。観客がユウタの真意を掴みきれないのは当然として、コウにしても恐らく、昔からずっと一緒だった彼の考えを捉えきれていないのではないかと思う。

ただ、コウにも観客にもユウタの真意がはっきりと理解できただろう場面が1度だけ描かれる。かなりラスト付近の展開なのでこの記事では具体的に触れはしないが、あのシーンがあったお陰で、コウも観客も「ユウタは決して何も考えていないわけではない」と実感できたのではないかと思う。もちろんそれは、私たち受け手側の「想像」に過ぎないし、実際のところはどうなのか分からない。ただあの瞬間、コウとユウタの関係性の中でギアチェンジが起こったみたいな感覚にはなれたんじゃないかなと思う。

「『仲直り出来ること』を前提としない関係性」がとてもリアルに感じられた

コウとユウタの関係性で言えばもう1つ、「ズレが大きくなってはいくが、決定的に壊れもしない」という点がとても印象的だったなと思う。「ストーリーの展開」という意味で言うなら、「コウとユウタの関係性を1度徹底的にぶっ壊した後、再生の過程を描く」という方が物語的だしドラマティックにもなるだろう。しかし本作ではそのような展開にはならない。コウとユウタの関係性は、他の3人の目からも明らかなぐらいに悪化していくのだが、しかし決定的に壊れたりはしないのだ。

そこにはきっと様々な要素が関係しているだろう。そもそも「幼稚園からの仲」という強い結びつきがあるし、さらに「一緒に音楽をやっていきたい」という希望も持っているはずだ。あるいは、「社会問題に傾倒していくコウの変化は一時的なものに過ぎない」とユウタが考えていた可能性もあるだろう。ただ中でも大きな要因は、あくまでも私の印象にすぎないが、「『壊れてしまったら元には戻らない』とお互いが理解していたこと」ではないかという気がした。

先ほどトムについて、「アメリカ行きをユウタにだけは伝えられずにいる」という話に触れたが、そう感じさせるくらいユウタには「何か言った時にどんな反応になるのか分からない」みたいな雰囲気がある。だから、そんなユウタと仲違いをした場合に、「どうしたら仲直り出来るのか」がイメージ出来なかったんじゃないかと思う。「幼稚園からの仲」なのだから、これまで喧嘩したことがないとは思えないが、子どもの頃はお互いに単純で、仲直りも容易だったのかもしれない。しかし大人に近づくにつれて、「人間性」の部分でのズレが可視化されるようになり、それに比例する形で「仲直りの困難さ」も意識されるようになった、みたいな可能性はあるだろう。

そして私には、このような「『仲直り出来ること』を前提としない関係性」がとてもリアルに感じられた。凄く「今っぽい」気がしたのだ。

特に昔のスポーツ漫画なんかでよく描かれていたと思うが、一昔前の男同士の関係性に対してはなんとなく、「ぶつかり合って関係性にヒビが入っても、最終的には分かり合えるし仲直り出来る」みたいな感覚を比較的多くの人が持っていたような気がする。でも恐らくだが、今の若い世代はそんな風には感じられないだろう。そもそも私は、若い世代の方が他者との関係性における様々な「配慮」が優れていると感じることが多いのだが、それはきっと、「配慮せずに振る舞って相手との関係性が壊れてしまったら、立て直す方法がない」と考えているからではないかと思う。そして、割とそれが当たり前の感覚になっているんじゃないかという気がしているのだ。

そしてそれと同じような感覚が、コウとユウタの関係性からも感じられた。どことなく、「お互いが本能的に『最悪』を回避しようとしている」みたいなギリギリの緊張感が漂っている気がするのだ。お互いのチューニングが合っている時には、街中で「愛してるよ~」と大声で叫べてしまえる一方で、噛み合わない時には「余計な衝突」が発生しないように最大限の気を遣う。そんなスタンスが強く現れていたのが教室でのあるシーン普段はコウの隣に座っているユウタが、ちょっと離れたところに座っているクラスメートに「席替わって」と頼むのである。これはたぶん、「近くにいたら無駄な衝突が生まれてしまう」みたいな感覚からくる、ある種の本能的な回避行動だったのだと思う。そんな風にして「決定的な決裂」をお互いが慎重に避けようとしているみたいな雰囲気が感じられて、それが私にはとてもリアルに感じられたのだ。

そんな風に考えてみると、お互いがデモや音楽活動にのめり込んでいったのも、「相手にぶつけられない衝動をどこかで解放する」みたいな気持ちが関係しているのかもしれない。相手にぶつけて関係が決定的に壊れてしまわないように、別の対象を見つけて発散させているというわけだ。そしてそんな2人の、ある種緊迫感のある関係性が、「ユウタが本心をさらけ出したかもしれないシーン」以降すっと溶けていく感じも良かったなと思う。また、「言葉じゃない形での交歓」みたいな雰囲気を、コウとユウタを演じた役者が絶妙に醸し出している感じもあって、とても素敵だった。

役者や映像などに関する感想

さて、コウとユウタを演じた2人は演技未経験なのだそうだ。冒頭でも触れた通り、5人組の内4人が演技未経験での抜擢だった。先の対談の中ではキャスティングについても触れられていたが、決して「演技未経験者を集めた」わけではなく、「役者を含めたオーディションを行い、その中で『この人しかいない』という人を選んだらたまたまノンアクターだった」そうである。こうして、「演技未経験者をどう演出したらいいか分からない」という悩みを抱えることになり、そこから、同じくノンアクターを使って映画『ハッピーアワー』を撮った濱口竜介と関わりが生まれた、ということらしい。

個人的に一番好きだったのが、ユウタを演じた栗原颯人である。ここまで言及してきた通り、ユウタには「何を考えているのか分からない」「口にしたことが本心には思えない」みたいな独特の雰囲気があるのだが、その感じを実に見事に醸し出していたように思う。そもそも佇まいがまず魅力的で、セリフがなくただそこにいるだけのシーンでも、どことなくその場を支配するみたいな雰囲気があったし、凄く良かった。馬鹿騒ぎしている時は「何も考えていないノータリン」みたいな感じなのに、ちょっとシリアスな雰囲気になると「底知れぬ何か」を秘めたような印象になっていて、その振れ幅も印象的だったなと思う。

彼にはどことなく窪塚洋介みたいな雰囲気が感じられるし、また、『サクリファイス』という映画で初めて青木柚の存在を知った時の衝撃に近いような感覚にもなった。本職はモデルらしいのだが、本人に役者を続ける意思があるのなら、かなり面白い存在になっていくのではないかという気がする。

また映像的な話で言えば、対談の中で濱口竜介が指摘していたように「引きの画」がとても多く、そのことが少なくとも私には良い印象に繋がっていた。映像そのものに対する感度が高いタイプではないのだが、本作には「画像として切り出してもそのまま成立するシーン」が多かったように思う。うろ覚えで、ネットで検索しても出てこないのだが、昔何かで「ウォン・カーウァイの映画は、どのシーンを切り取ってもポストカードになる」みたいな文章を見かけた記憶がある。そして本作『HAPPYEND』にも、少しそれに近いものを感じさせられた

あと、本作の撮影がどこで行われたのか知らないが、どのシーンにも「記名性のある建造物や風景」が映っていなかったことも良かったなと思う。「東京タワーや富士山みたいなものが出てこない」という話である。元々、時代も場所もはっきりとは明示されていない作品で、そういうスタンスで撮影場所の選定も行われたというだけのことだとは思うが、そんな「匿名性」みたいなものも全体の雰囲気と合っていて良い印象だった。

さて最後に、本作のラストシーンに触れて終わりにしよう。このシーン、凄く良かったなと思う。先ほど「街中で『愛してるよ~』と叫ぶ」という話に触れたが、そのシーンとの対比が強調された描写であり、また、「2人が別々の道を歩んでいくこと」が視覚的にはっきり示される場面とも言えるだろう。具体的には触れないが、このラストシーンにおいて、コウはユウタに対して引け目を感じており、それ故に動き出せないでいる。しかし、そんな「止まってしまった時間」を無理にでも動かそうとするユウタの行動と、それによってコウが抱いている引け目が少しだけ溶けたようにも思える雰囲気が、ほぼセリフのないやり取りから見事に伝わってくるのだ。それまでに積み上げてきた2人の関係性があってこそのラストシーンであり、さらに映像的にも美しく、メチャクチャ良いシーンだったなと思う。

最後に

何度も繰り返している通り、「物語」という意味では特段何が起こるわけでもない作品だ。しかし、「社会全体や若者を取り巻く外的要因」と、「そのような環境の中でも躍動しようとする若者たちの熱量」みたいなものが上手く混ざり合い、凄く素敵な雰囲気の作品に仕上がっているように感じられた。本作の魅力を上手く伝えられたかは分からないが、とにかく「凄く良い映画を観たな」という気分にさせてくれたし、機会があったらまた観てみたいなと思う。

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