はじめに
この記事で取り上げる映画
「ヒプノシス レコードジャケットの美学」公式HP
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この記事の3つの要点
- アイデアを生み出す天才だったがややこしい人間でもあったストームと、ストームのアイデアを完璧に具現化したポーのタッグが凄まじいクリエイティブを生み出した
- 「ヒプノシス」が関わった驚異的なクリエイティブの数々について
- ぶっ飛んだ時代を駆け抜けた彼らは、どうやってレコードのジャケットデザインの世界に足を踏み入れたのか?
自己紹介記事


レコードジャケットの天才デザイナー集団の来歴を描いた映画『ヒプノシス』は、一時代を築きつつ衰退した彼らの“一瞬の煌めき”を回顧する
実に興味深い映画だったなと思う。本作を観るまで「ヒプノシス」が何なのかは知らなかったのだが(人名かと思っていた)、一応「レコードのジャケットデザインの話」ぐらいのことは理解していた。とはいえ、別にレコードジャケットに興味があるわけでもない。そもそも普段から音楽を聴く習慣がまったくなく、本作で取り上げられているバンドの曲にしても、「どこかで聴いたことがあるな」程度にしか知らなかったぐらいだ。

しかし本作は、そんな人間が観ても面白く感じられる作品だった。

「ヒプノシス」の創業者たちは、レコードのジャケットデザインでいかに一世を風靡し、そして衰退していったのか
それではまず、「ヒプノシス」が何なのかについて説明しておこう。これは、1960年代から80年代にかけて、レコードのジャケットデザインで他の追随を許さなかったデザイン事務所の名前である。創業したのは、ストーム・トーガソンとオーブリー・”ポー”・パウエルの2人。ストームは2013年に亡くなったが、ポーはまだ健在であり、本作はそんなポーの証言を中心に、かつてヒプノシスと関わっていたデザイナーやミュージシャンなどからも様々に話を聞くことで、当時の「熱狂」を明らかにしようとする作品である。
私はやはり、本作で紹介されたレコードジャケットをこれまで目にしたことがないと思う。ただ、現代的な感覚でも「うわっ、カッコいいじゃん」と感じさせるようなデザインであり、凄く素敵だった。メインで取り上げられるアルバムジャケットがいくつかあるのだが、その中でもシンプルで挑発的だなと感じたのは、「牛の写真以外、バンド名もアルバム名も載せない」という、ピンク・フロイドの『原子心母』。当時としてもかなり尖ったアイデアだったそうで、レコード会社などは猛反対したらしいが、ヒプノシスもピンク・フロイドも押し切ったそうだ。とはいえ、今ではどちらも「失敗だった」と思っているみたいで、ただ、「色々チャレンジしてたら、そりゃそういうこともあるよね」ぐらいの感覚のようである。

ストームとポーの役割は明白で、「ストームが出したアイデアをポーが実現する」というスタイルだった。ストームは、とにかくアイデアを生み出すことにかけては天才的だったようで、ヒプノシスの絶頂期には、「あるアーティストに提案したものの採用されなかった『ボツ案』が、数週間後には別のアーティストのジャケットになっている」なんてことも日常茶飯事だったそうだ。本作に登場する多くの人が彼のことを、「アイデアの宝庫」「1000万人に1人」「本物の天才」と大絶賛していた。
しかしその一方で、人間的には相当ややこしいタイプだったようだ。こちらについても多くの証言が存在し、「とにかく失礼」「無愛想」「怒りっぽい」「攻撃的」「口論好き」「見栄っ張り」「迷惑」と散々な言われようだった。とにかくアーティスティックな人間だったらしく、予算のことなど端から無視して自らのアイデアを具現化することばかりに注力したり、さらに、「ヒプノシスらしくないならやらない」と、あのビートルズにさえNOを突きつけたりするようなスタンスだったそうだ。また、「広告」を毛嫌いしていたため、広告代理店が台頭するようになるとさらに揉め事が増えていったという。

何にせよ、「より良いものを生み出す」みたいな執念がとにかく強く、その点に対する妥協の無さが、色んな場面で軋轢として浮き彫りになっているという感じだった。作中ではある人物が、「あれだけ素晴らしいものを長い間作り続けるのは、本当に特別な人間にしか出来ないことだ」と言っており、やはり類まれな才能と存在感を持つ人物だったのだろうなと思う。
ただ80年代に入ると、そんな絶頂を極めたヒプノシスにも翳りが見え始める。本作ではポーが、「10ccの『Look Hear』が、ヒプノシスが予算青天井でジャケットを制作できた最後だと思う」と話していた。大きく「ARE YOU NORMAL?」と書かれた中に、浜辺に置かれたカウチに羊が載った小さな写真が配されたデザインだ。『Look Hear』の発売が1980年らしいので、その頃までは無制限で制作が行えたということなのだろう。
この点に関しては、ヒプノシスの事務所の向かいにあったスタジオを使っていたSEX PISTOLSのメンバーの証言が興味深かった。彼は、「ヒプノシスは敵だった。時代遅れのバンドのジャケットをやっていたから」みたいに言っていたのだ。また、その後登場したある人物は、「リアリティがあるかどうかが、パンク以前以後の大きな違いだ」「ピンクの豚を空に飛ばすなんてことをやっていたら、15歳の若者には響かない」とも話していた。「ピンクの豚を空に飛ばす」というのは、ヒプノシスが手掛けたあるジャケットデザインのことを指している。要するに、「時代の移り変わりによって、『カッコいい』の基準が変わった」ということなのだろう。ヒプノシスのデザインは確かに一世を風靡したが、時代の変化には逆らえなかったのである。
ヒプノシスの場合、「『ストームがやりたいこと』が時代に受け入れられていた」のであり、さらにストームは「自分がやりたいこと」を優先するタイプだったので、「時代に合わせる」みたいな選択をするつもりなどなかったのだろう。それはそれで、潔いスタンスではないかと思う。
また、作中ではそこまで詳しく触れられはしなかったが、「レコードジャケットよりもMTV(MV)の方が重視されるようになった」という変化もまた、ヒプノシスには大きな打撃になったようである。「『カッコいい』の基準」は常に移ろうものだが、「メディア」の変化の方は「時々起こる大激変」という感じであり、予測も対策も難しいだろうなと思う。

ただ、最近またレコードの人気が高まっているという話も聞くし、だとすれば、改めてヒプノシスのデザインが再評価されたりもするかもしれない。あるいは、もう既にされているからこそ、本作のような映画が作られたということなのだろうか。先述した通り、個人的には「素敵だな」と感じるデザインが多かったし、現代的な感覚でも受け入れられるような気がしている。さらに、「フォトショップなんかが無い時代に、これを切り貼りだけで作っていたのか!」みたいな驚きも加わるはずなので、そういう視点でレコードジャケットを捉え直してみるのも面白いんじゃないかと思う。

ヒプノシスによる斬新なデザインの数々
それでは、本作で紹介されていたヒプノシス制作のレコードジャケットについていくつか触れていくことにしよう。
まず最もインパクトがあると感じたのが、ピンク・フロイドの『炎〜あなたがここにいてほしい』である。スーツ姿の男性2人が握手している様子を真横から捉えた写真なのだが、一方の男性の背中が燃えているのだ。CGなど無い時代であり、当然、本物の火を使って撮影されている。スタントマンを起用しての撮影だったのだが、「静止した状態で火をつける」というのはそもそもかなり危険なのだそうだ。しかし撮影は何度も行われ、スタントマンが「もうやらないからな!」とキレるまで、「最後あと1回だけ」と粘りに粘って撮り続けたそうである。

また、レッド・ツェッペリンの『線なる館』のジャケット撮影もかなり大変だったという。不思議な地形を持つ、北アイルランドのジャイアンツ・コーズウェイで撮影が行われたのだが、不幸なことに雨続きだったため、望むような写真は撮れなかったそうだ。しかしポーがその場で機転を利かせ、「あとでコラージュすればいい」という判断に切り替えたことで、結果的に撮影は30分で終わったし、さらに、実に不思議な魅力を放つジャケットに仕上がりもしたのである。

あるいは、ウィングスの『Wings Greatest』の撮影もなかなか凄かった。レコードジャケットだけ見ても伝わりにくいが、このジャケット写真は、「オークションで落札したどデカい像を、大金を掛けて雪山の上まで運んで撮られたもの」なのである。ポール・マッカートニーの発案だという。頂上付近の、居間ぐらいの面積しかない場所での撮影だったのだが、高所恐怖症だというポーは6時間もそこにいたそうだ。しかしポーは「作品のためなら地の果てだって行く」と口にしていたし、恐怖心なんかよりも作品制作を優先するという気概を常に持っていたそうである。
さて、そんなヒプノシスを何よりも有名にしたのが、ピンク・フロイドの『狂気』のジャケットだった。理科の教科書に載っているような「プリズムによる分光」をシンプルにデザインしたもので、このアルバムはなんと、全世界で6500万枚も売れたそうだ。このときも、いつものようにヒプノシスがいくつか案を提示したのだが、その際ピンク・フロイドのメンバーは、「違う 違う 違う これだ!」と、プリズムのデザインを見て全員一致で賛同したのだという。「他の案のことなんかいいからこれで進めてくれ」みたいに言われたストームは、その言い方にちょっと引っかかりを感じていたそうだが、ともかくデザインはすぐに決まり、そしてアルバムは世界的な大ヒットを記録したというわけだ。
そんなわけで、ストームとポーのコンビは、様々なトラブルや障壁を経験しながら素晴らしいアートワークを生み出し続け、その名を歴史に刻んだ。ある人物はストームについて「先駆者ではなくオリジナルだった」という表現を使っており、また別の人物はポーのことを「ストームにとってロケットのような懐刀だった」と評していた。そんな最強の2人が出会いタッグを組んだからこそ生み出されたデザインだったということだろう。2人は「罵り合う兄弟のような関係性」だったそうで、ぶっ飛んだ気質を持つストームに、特にポーは振り回されまくったのだと思う。しかしそれでも、こんな風に一時代を築き上げる仕事が出来る相手と出会えたことは僥倖だったように思うし、羨ましさも感じさせられた。

ヒプノシスが辿ってきた来歴
では最後に、そんな彼らがどんな風に出会い、どのようにしてレコードジャケットの世界に入っていったのか、その来歴に触れてこの記事を終えようと思う。本作は基本的に時系列順にエピソードが紹介される構成のため、今から書く話は、冒頭からしばらくの間語られる内容である。
ケンブリッジ大学に通っていたポーは、何があったのか学校から追い出されてしまったのだという。当時両親は海外にいたため、ポーはイギリスで1人だった。そのためポーは、「面白そうな人たちが出入りしている建物」を見つけたこともあり、「どうにかそこに入り込んで仲良くならなくちゃ」と考えたそうである。そこには色んな人たちがいたのだが、その中にストームもいた。2人はここで出会ったのだ。また、ピンク・フロイドとして世に出る前のメンバーも出入りしており、この頃の繋がりが後に、レコードのジャケットデザインへの道を切り開くことになる。

さて、実はそこはストームの実家で、リベラルな母親は息子らが何をしていても特に気にしなかったそうだ。だから彼らは、当たり前のようにマリファナも吸っていたのだが、ある日警察がやってきた。それに気づいた仲間の多くがマリファナを持って裏口から逃げたのだが、ポーはそのまま部屋に留まったという。後にストームから「どうして逃げなかったんだ?」と聞かれたポーは、「沈みゆく船から逃げずに、最後まで闘う質なんだ」と答えたそうだ。この瞬間から2人は、その後の人生を共にするようになったのである。
その後、ストームが王立芸術院の写真学科に入学することになり、「お前も入れ」とポーにも言ってきたという。「写真なんか撮ったことない」と返すと、「俺が教えてやるから」と言うストームから「合わせる、撮る、巻き取る。その繰り返しだ」みたいな雑なアドバイスだけもらった。ただ、そんなきっかけからカメラを構えるようになったポーは、実際に写真を撮り自ら現像した際、30分前に撮った光景が見事に浮かび上がり鳥肌が立ったそうだ。そして「これこそ自分がやるべきことだ」と直感を得て、王立芸術院に半年通い写真を学んだという。
彼らはその後、メンバーと元々知り合いだったピンク・フロイドから「ジャケットのデザインをしてくれないか」と頼まれたことでこの世界に足を踏み入れる。写真は勉強したもののデザインなどしたことなかった彼らは、写真をモンタージュして色付けしたデザインも「作りながら学んだ」そうだ。初期の頃のデザインはやはり荒削りだったそうだが、それでも光るものがあったようで、その後もピンク・フロイドのレコードジャケットを中心にデザインに関わっていくことになる。

さて、そんな彼らは当時、サウス・ケンジントンにあるアパートに住んでいたそうだ。「エジャートン・コート」みたいな名前だったと思うのだが、検索してもヒットしなかった。「昔のアパートの名前なんかググったって出てこないだろう」と思うかもしれないが、実はこのアパート、ロマン・ポランスキー監督の映画『反撥』の撮影で使われたことで知られているのだそうだ。なんと、その撮影で使われた照明器具などがそのまま残されていたとかで、ヒプノシスの面々はそれらをそのまま流用して撮影に使っていたという。また当時はヒッピー革命の真っ最中であり、このアパートは「サイケデリックな奴らが集まる巣窟」みたいにも見られていたようである。
そんな時代だったこともあり、トリップして創造性を高めるために、メンバーはLSDを使い始めたそうだ。しかしLSDは副作用も大きく、仲間内に亀裂が走ったり、ストームもポーも精神科に通うようになったりと色々大変なこともあったという。ただ、当時のことを述懐するポーの口ぶりでは、「LSDのお陰で常識を超越でき、ヒプノシスは成功した」という感覚を持っているようだった。
そんな風にして少しずつレコードジャケットの仕事が増えていき、ポーはある時ストームから、「この道で行こうと決めた」と言われたそうだ。2人とも、そんな人生を歩むことになるとは思ってもみなかっただろう。ポーはある場面で、「レコードジャケットのデザインをやろうなんて思っていたか? No。そんなこと、決めたことさえなかった」みたいに話していたし、また、テレビのインタビューでストームが「裏口から入り込む」という表現を使っていたのも印象的だった。このように彼らは、覚悟や意欲といったものを特段持たないまま、流れに乗るようにしてジャケットデザインの世界に入り込んでいったのである。

彼らはその後、デンマークストリート6番街に事務所を移した。ここは、誰かが「ごみ溜めみたいな場所」と評していたようななかなか酷い環境であり、トイレがないのでシンクで用を足すみたいなクレイジーな状態だったそうだ。しかし、前の家主がピアノを残しており、処分しても構わないということだったので査定してもらうと、かなり高額で引き取ってもらえた。そのお金でカメラや照明、さらには暗室まで作ることが出来、デザインの拠点としての体裁を整えることが出来たそうだ。

そんな当時の笑えないエピソードとしては、「バスタブで印画紙を洗った」という大失敗がある。というのも、印画紙が詰まってしまい、そしてよりにもよって連休中に水が溢れ出し、階下にあった本屋を水浸しにしてしまったからだ。書店は大損害を被ったが保険が利いたそうで、「どうにか助かった」とポーは話していた。しかし本屋としてはたまったもんじゃなかっただろう。

また、ポーが言うには「60年代のロンドンは無法地帯だった」そうで、「サイズが合わないソファを窓から投げ落とし、それがタクシーの上に載ってしまってもお咎めなしだった」みたいな意味不明なエピソードを話していた。とはいえ、そういうムチャクチャな雰囲気が、ヒプノシスには合っていたのだろう。金策はかなり大変だったそうだが、彼らはどうにか金をかき集め、ヒプノシスを継続させていく。
そしてその頃、ヒプノシスのレコードジャケットが初めて大きく話題になった。1971年に発売されたThe Niceの『Elegy』である。彼らの曲を聴いていたストームの頭に「赤いサッカーボールが砂漠に並んでいる」というイメージが浮かび、それをそのままジャケットデザインとして具現化したのだ。撮影の準備は大変だったそうで、空気を抜いた60個の赤いサッカーボールをサハラ砂漠に持ち込んだのだが、現地で空気を入れるのに1個20分もかかったという。それを実際に並べるのだって相当大変だっただろう。
このデザインは、ヒプノシスにとって大きな転換点になったとポーは話していた。というのも、「単なる風景アートがジャケットデザインとして売れること」が分かったからだ。突飛なものだとしても、アーティストが気に入ればレコードジャケットとして成立する。そう実感できたことによって、ヒプノシスは飛躍していったというわけだ。
さらに1973年にも転機と言える出来事があった。ポーは「神からの電話」と表現していたが、あのビートルズから連絡が来たのだ。そして、ポール・マッカートニーが「刑務所からの脱獄」というアイデアを出し、それをストームがブラッシュアップ、そしてポーが撮影を行った『バンド・オン・ザ・ラン』のジャケットが初めての仕事となった。ヒプノシスの「ストームが爆弾を落とし、ポーがその欠片を拾って仕上げる」みたいなスタイルはこの時に確立されたのだそうだ。

こんな風にして、その圧倒的なクオリティによって時代を先導し、多くのアーティストから信頼を集め、そしてその期待に応え続けてきたのである。彼らのことはまったく知らなかったが、実に興味深く感じられる人たちだった。


最後に
配信で音楽を聴くことが当たり前になった現代においては「ジャケット」の価値はきっと薄れているのだと思うが、レコードの再評価と共にジャケットも改めて注目されているはずだ。さらに、こんなドキュメンタリーが作られているのだから、ヒプノシスにも再び光が当たったりもするだろう。彼らは令和の今、どんな風に評価されるのだろうか?
そんなわけで本作は、実に驚くべき成果をもたらした、実に驚くべき者たちの人生を描き出すドキュメンタリー映画である。


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