【思考】『翔太と猫のインサイトの夏休み』は、中学生と猫の対話から「自分の頭で考える」を学べる良書

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 本当の「哲学」は、子どもの頃にしかできない
  • 「答えの出ない問いについて考え続けること」こそが「哲学」である
  • 「今が夢じゃないって証拠はあるか」など、具体的な4つの問いについて対話する

決して易しくはないが、中高生でもチャレンジできる、というか、中高生にこそオススメの1冊

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』は、「哲学する」とはどういうことかを説く、中高生から読める「哲学入門」だ

本書と同じ永井均の著書に、『<子ども>のための哲学』がある。タイトルから、「子ども向けの哲学入門書」だと感じるかもしれないが、まったくそんなことはない。もの凄く難しく、大人でも簡単には読み進められない作品だ

一方、『翔太と猫のインサイトの夏休み』は、子どもでも読める作品である。「読んで理解できるか」は読む人次第だが、少なくとも、子どもでも読めるような体裁で書かれている作品であることは間違いない。「中学生の翔太」と「猫のインサイト」が対話する、という形で進んでいくので、非常に読みやすいだろう。内容は決して易しいとは言えないが、扱われるテーマは「生きている中でふと頭に浮かんでしまうかもしれないもの」であり、とっつきやすさもあると思う。

『<子ども>のための哲学』でも本書でも、著者は一貫して、「本当の哲学は、子どもの頃にしかできない」と書いている。だからこそ、幸運にも子ども時代にこの本に巡り合う機会を持てた人は、是非手にとって読んでみてほしい。

読んですぐ理解できる必要はない。大人になっても理解できないかもしれない。しかし、「理解できるかどうか」が重要なのではない。「スタートラインに立てたことを確かめる」、あるいは「既にスタートを切っていたことを理解する」という点にこそ価値があるのだ。

「哲学」と聞くとカント・ニーチェ・孔子などが頭に浮かぶかもしれない。しかし、そういうものとはまったく異なる「哲学」が本書では展開される。

読み終わった時、中には「自分はごく自然に『哲学』をやっていた」と感じる人も出てくるかもしれない。そういう意味でも興味深い作品だと言える。

「答えのない問いについて考え続けること」こそ「哲学」だ

先ほど書いた通り本書は、翔太とインサイトが対話する形で進んでいく。中学生と猫の会話なので、難しい言葉もさほど出てこない。また彼らは、ある具体的な「問い」を前にして「どのように考えるべきか」を話している。そしてその対話の端々に「哲学とは何か」みたいな話題が組み込まれる構成も分かりやすいと思う。

そしてそのような記述を読み解くことで、「考え続けることが哲学なのだ」という本書の主張を理解できることだろう。

「哲学」というとどうしても、「カントは何を考えたのか?」「ニーチェはなぜこんなことを言ったのか?」など、過去の哲学者・思想家たちの考えについてあーだこーだ思考する、というイメージになってしまう。一般的に「哲学」とはそのような意味で理解されているはずだ。

しかし著者は、本書の中で繰り返し、「哲学とは思想ではない」と書いている。「哲学」というのは「主張の内容」を指すのではなく、「その主張をする際にどうしてもついて回ってしまう枠組みそのもの」のことだと言うのだ。

この説明のために、以前読んだ『こうして世界は誤解する』に書かれていたことを紹介しよう。

『こうして世界は誤解する』の中で著者は、「独裁政権下で起こっている出来事を報道することは難しい。何故なら『独裁政権下である』という事実こそが最も報じられるべきことだからだ」と主張していた。そしてその説明のために、「檻に入れられたホッキョクグマ」を引き合いに出す。

檻の中に閉じ込められたホッキョクグマは、恐らく、野生にいる時とはまったく違う振る舞いを見せるだろう。イライラしているように見えたり、落ち着きなく歩き回ったりするかもしれない。

さてここで、檻を映さずにホッキョクグマだけカメラに収めることを考えよう。その映像を見た人は、「イライラした、落ち着きのないホッキョクグマなんだな」と受け取るに違いない。そういう性質のホッキョクグマなのだろう、と。「檻」が映されないのだから当然だ。しかし実際には、檻の中に閉じ込められているからこそそんな振る舞いをしてしまうのである。

「独裁政権下に生きる人々」を「ホッキョクグマ」、「独裁政権下という状況」を「檻」に置き換えれば、状況は理解しやすくなるだろう。報道では「独裁政権下に生きる人々」を映し出すが、それは「檻を映さずにホッキョクグマを撮影するようなもの」だ。本当に報じなければならないのは「独裁政権下という状況」の方なのだが、それはなかなか難しい、ということが書かれている(なぜ難しいのかは、上の記事を読んでほしい)。

話を戻そう。永井均が言う「その主張をする際にどうしてもついて回ってしまう枠組みそのもの」も同じようなものだと考えればいいだろう。哲学者や思想家の本を読めば、そこには「主張の内容」が書かれている。しかしそれは、「檻に入れられたホッキョクグマ」のようなものだ。実際には、「その『主張の内容』がどんな『檻』の中にあるか」が重要なのであり、それこそが「哲学」だと著者は主張する

そんなわけで著者は、「哲学するのに本を読んではいけない」と断言するのだ。

ではどうすればいいのか。著者は、「とにかく自分の頭で考えろ」と言う。さらに、「何について考えるか」も大事になってくる。その「問い」には「答え」が存在していてはいけない。少なくとも、「これ以外に正解は存在しない」というような、何か定まった「答え」が既に存在するものではダメなのだ。著者は、「その問いの前に立って呆然とする」ような「問い」でなければいけない、と書いている。

なかなかそんな問いに出会うことは難しい。特に大人になってからは。だからこそ、「本当の哲学は、子どもの頃にしかできない」のだ。大人になってしまえば疑問に感じなくなるような、大人をハッとさせるような疑問を、子どもはなんでもないことのように口にすることがある。まさにそのようなものこそ、「哲学のための問い」に相応しい。

その「問い」について考え続けたところで何も良いことは起こらないだろうし、世界はきっと何も変わらない。しかしそれでも、なぜだか分からないけれどもどうしても囚われてしまう「問い」。大人に聞いても答えが分からないし、考えても考えてもどこにも行き着かないように思えるが、それでもどうしても手放すことができない「問い」がある。

あなたがもしそういう人なら、あなたはもうだいぶ前から「哲学」をやっていると言えるだろう

本書『翔太と猫のインサイトの夏休み』で扱われる4つの「問い」

本書では、中学生と猫が対話をするにあたり、4つの「問い」が設定される。そしてその「問い」について、夏休みに入ってから眠りにつくと毎晩夢を見るようになった翔太が、その夢の中でインサイトと哲学談義をするのだ。

ここからその4つの「問い」について書くことにしよう。しかし、前述した通り、「哲学」は「自分の頭で考えること」が何よりも大事だ。だからこそ、本書で展開される議論についてはほぼ触れない。『翔太と猫のインサイトの夏休み』を未読のままこの記事を読んでくれているなら、以下の4つの「問い」に自分なりに考えを深めてから本を読むのもアリだ。もちろん、いきなり本を読んでも構わないが、どうせなら「自分の頭で考えること」を実践した上で本書に臨んでみるのも面白いだろう

それでは、4つの「問い」を紹介していく。

1つ目は、「今が夢じゃないって証拠はあるか」だ。観たことがある人は、映画『マトリックス』の設定をイメージすればいいだろう。自分たちももしかしたら、「本当の現実」では機械に繋がれてただ寝ているだけなのかもしれない。あるいは、「培養液に浸かった脳に刺激が与えられている」だけかもしれない。そうではないことを、私たちは何らかの手段で確かめることができるだろうか?

2つ目は、「たくさんの人間の中に自分という特別なものがいるとは」だ。これはちょっと難しい問いかもしれない。

例えば、「自分が『心』を持っていることは自分が一番よく知っている。じゃあ、他人にも自分と同じように『心』があるとどうして信じていられるのか」という「問い」にあなたはどう答えるだろうか。あるいは、「自分が見ていない時には他人は存在していないのではないか」と考えたことはないだろうか。このような事柄について、「ロボットに心はあるのか」や「本当に脳がすべての感覚を支配しているのか」など、自他の存在から様々な思考が展開されていく。

3つ目は「さまざまな可能性の中でこれが正しいと言える根拠はあるか」だ。「問い」だけ読むと難しいが、要するに「『正しさ』はどのように決まるのか?」という思考である。

「ナチス」や「オウム真理教」は「間違っていた」と判断されるだろうが、それらが「正しい」と判断され得る可能性はあるだろうか? 何かを「正しい」と捉える時、その確信はどのようにしてやってくるのか? これは、私たちの実生活にも直結する「問い」だと言っていいだろう。

最後は「自分がいまここに存在していることに意味はあるか」だ。「ぼく」という存在は、どんな要素で明確化されるのか? 何がどうなっていれば「ぼく」は「存在している」と言えるのか? 「存在すること」を起点に、様々な思考が展開されていく。

最後に

考えるための「問い」は、本書で紹介されているものである必要はない。本書は、思考の「視点」や「深さ」の指標と捉えればいいと思う。そんな見方をしたことがなかった、そんな深くまで考えたことがなかった、という実感を得られれば、自分なりに「問い」を深堀りする際の役に立つことだろう。

もちろん、大人が読んでもいい。著者は「大人になってしまえばもう『哲学』はできない」と主張するが、著者の考えるレベルに到達できなかったとしても、その過程に十分価値を見出すことができるはずだ。

世の中にはあまりにも情報が多いので、「いかに効率良く検索し、コスパ良く情報にたどり着いて吸収するか」ばかりが求められがちになってしまっている。しかしそんな時代だからこそ、「検索しても答えの出てこない問いを、自分が納得いくまで考え続ける」という時間の使い方に大きな価値が生まれるのではないかとも思う。

その際の伴走者として、本書は非常に頼もしい

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