【才能】映画『トノバン』が描く、「日本の音楽史を変えた先駆者・加藤和彦」のセンス良すぎる人生(「♪おらは死んじまっただ~」「♪あの素晴しい愛をもう一度~」の人)

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」公式HP

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 自主制作のLPレコードに収録されていた『帰って来たヨッパライ』が「オールナイトニッポン」を通じて大ヒットしデビューしたという特異な経歴
  • 「ザ・フォーク・クルセダーズ」「サディスティック・ミカ・バンド」と、加藤和彦が率いたバンドにまつわる興味深いエピソードの数々
  • 他人の才能を見抜いて開花させる能力にも秀でていた、まさに天才

加藤和彦のことはまったく何も知らずに観たのだが、実に興味深い人物だった

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

観ながら「『帰って来たヨッパライ』の人か!」と感じたぐらい加藤和彦については何も知らなかったが、映画『トノバン』はメチャクチャ面白かった

映画を観るまでまったく存じ上げなかった加藤和彦は、音楽業界で凄まじい評価を得ている人だった

本作『トノバン』を観ながら最初に驚いたのは、「『♪おらは死んじまっただ~』の曲の人なのか」ということそんな基本的な情報さえ知らないまま本作を観る人などまずいないだろう。ちなみに、「♪あの素晴しい愛をもう一度~」の人でもあると知ってさらに驚かされた時代を超えて認知されている、まったく違うタイプの曲を生み出したなんて凄いものだなと思う。

そんなわけで私は、本作を観ながらずっと「どうして加藤和彦本人は登場しないんだろう?」とさえ感じていた既に亡くなっていることも知らなかったからだ。作中で使われていた過去映像の中に、肩書きが表記されない人物が1人だけいて、「恐らく彼が加藤和彦なのだろう」と思ったのだが、映画を観終えるまで確証はなかった。そして本作は、そんな程度の知識しかない人間が観ても十分楽しめる作品である。

ちなみに、加藤和彦は「トノバン」という愛称で知られており、それが本作のタイトルにもなっているわけだが、作中では「どうして『トノバン』と呼ばれているのか?」という説明はなかった。恐らく、「加藤和彦のことを知っている人なら常識的な知識」なのだろう。私は知らなかったのでネットで調べたのだが、スコットランド人のフォークロックミュージシャンである「ドノヴァン」という人物から付いた名前なのだそうだ。まあ「ドノヴァン」のことも知らないので、「へぇ」としか思えないのだが。

さて本作中では、加藤和彦が作曲してきた様々な曲が流れるのだが、現代の感覚でも「斬新」「カッコイイ」と感じるんじゃないかと思う(私は普段音楽を聴かないので、その辺りの感覚に自信はないのだが)。例えば2025年の今、加藤和彦が作った曲を「謎のアーティストの新曲」として発表したら、全然受け入れられるような気がする。加藤和彦は「日本の音楽史を変えた先駆者」と評されているそうなのだが、その評価に相応しい仕事をしてきた人なのだろうなと感じた。

そしてそんな人物を取り上げるドキュメンタリー映画だからこそ、出演者も豪華である。泉谷しげる坂崎幸之助つのだ☆ひろなどのミュージシャンはもちろんのこと、シェフ・三國清三デザイナー・コシノジュンコなど異業種の人も出てくるし、声だけの出演も含めれば坂本龍一松任谷正隆吉田拓郎と、錚々たるメンツなのだ。そしてそんな面々が口々に、加藤和彦の才能を絶賛していたのである。

あれほど「イコール音楽」だった人はいないと思う。

ワンアンドオンリーですよね。

あの当時、圧倒的なセンスがあったし、同時代では頭一つ飛び抜けていた。

音楽だけではなく、ファッションも食も一流だった。

凄い舌を持ってるなと思った。

あんな人にこれまで会ったことがない。

とにかく「べた褒め」という感じだった。音楽だけではなくあらゆる分野で「一流」だったそうで、そういう意味でも稀有な存在だったのだと思う。

加藤和彦が率いたバンドがメジャーデビューした経緯と、そのデビューCDが大ヒットした理由

さて、加藤和彦についてまったく何も知らなかった私は当然、「♪おらは死んじまっただ~」というフレーズがあまりにも有名な『帰って来たヨッパライ』が彼のデビュー作だということも知らなかった。正確には、彼が組んだバンド「ザ・フォーク・クルセダーズ」のデビュー曲である。しかも彼らは『帰って来たヨッパライ』をインディーズで発表し、それが話題となりデビューを果たしているのだ。これは、1967年当時にはちょっと「あり得ない」状況だったという。

というわけでまずは、加藤和彦が音楽の世界で知られるようになったデビュー前後の話から始めようと思う。

さて、「ザ・フォーク・クルセダーズ」は「結成時」と「メジャーデビュー時」とではメンバーが異なっているのだが、まずは「初代ザ・フォーク・クルセダーズ」がどのように結成されたのかから始めよう。当時はもちろんSNSなど無かったわけで、知らない人との交流は雑誌上で行われていた。そして「初代ザ・フォーク・クルセダーズ」は、大学生だった加藤和彦が男性ファッション誌『メンズクラブ』内の「MEGA PHONE」という読者交流欄でメンバーを募集して結成されたバンドである。そのまま加藤和彦の地元・京都で活動を行っていたのだが、メンバーの何人かが受験やら就職やらで入脱退を繰り返し、その後正式に解散しようということになったようだ。

その際、「どうせ解散するなら、記念にLPレコードを録音してから終わりにしよう」という話になった。当時、あるバンドが自主制作でLPレコードを作ったという話を耳にしており、それなら自分たちにも出来るはずだと考えたのだ。またここには「中央に対するアンチテーゼ」という意味合いもあった。当時、文化の中心はやはり「東京」だと考えられていたため、京都で活動していた彼らは「『東京以外でだって面白いことは出来る』という気概を示してやろう」と思っていたのである。こうして、僅か300枚の「解散記念LPレコード」を作ることになった。タイトルは『ハレンチ』。そしてこの中に、『帰って来たヨッパライ』と、後に物議を醸すことになる『イムジン河』が収録されていたのである。

さて、普通ならここで終わりだろう。「ザ・フォーク・クルセダーズ」は解散したのだから、これ以上進展のしようがない。しかし何と、解散記念で作った『ハレンチ』が思わぬ状況を引き連れてきたのである。

その説明のためにまず、本作『トノバン』の冒頭のシーンについて説明することにしよう。本作は、あるラジオの収録現場から始まった2022年10月3日午前1時から放送された「オールナイトニッポン」である。「オールナイトニッポン」は1967年10月3日午前1時に始まった番組だそうで、2022年のこの日の放送はちょうど55周年記念だった。そして、初代パーソナリティである斎藤安弘が一夜限りの復活を果たし、始まった頃の雰囲気に近い「オールナイトニッポン」の放送がスタートしたのである。

さて、この「オールナイトニッポン」が本作とどう関係するのだろうか。55周年記念放送でももちろんリスナーからお便りを募集しており、その中に「また『帰って来たヨッパライ』を流して下さい」というリクエストがあったのだ。「オールナイトニッポン」と『帰って来たヨッパライ』は実は切っても切れない関係にある。というのも、「オールナイトニッポン」がこの曲を何度も繰り返し流したことで人気に火が付いたからだ。

そもそも、「300枚しか製作されなかった『ハレンチ』を聴いた者が、ラジオにリクエストを出す」というのがまず奇跡的である。さらに、始まったばかりだった「オールナイトニッポン」には、「面白い曲なら、1日に何回流したっていいじゃないか」みたいな勢いがあったというのだ。そしてそれ故に、『帰って来たヨッパライ』はラジオでしこたま流され、爆発的な人気を博すことになったのである。

曲が人気になれば、バンドに注目が集まるのは当然だ。こうしてレコード会社各社が、どこの誰とも分からない「ザ・フォーク・クルセダーズ」にアプローチを試みるようになった。そんなこともあって、結果的にバンドは再結成することになったのである。

バンドの初期メンバーがこの時のことについて、「自主制作のレコードが品切れたことが申し訳なかった」と話していた。聴きたいと思ってくれるファンの元に届けられないことへのもどかしさを感じていたそうなのだ。だから、色んなレコード会社からオファーがあった中で、最も早く発売してくれるという東芝レコードと組む決断をしたのだという。そして、初代とは少し異なるメンバーでバンドが再結成され、メジャーデビュー曲として『帰って来たヨッパライ』の発売に至ったというわけだ。ちなみに、作中では言及されていなかったのだが、公式HPによると、『帰って来たヨッパライ』は「オリコン史上初のミリオンヒット」というとんでもない売上を記録したという。

こうして、京都で細々とバンド活動を続けていた加藤和彦らは衝撃のデビューを果たし、一躍時の人になっていくのである。

加藤和彦と彼が率いたバンドにまつわる様々なエピソード

さて、先程少しだけ触れた通り、第2弾シングルとし発表するはずだった『イムジン河』は、色んな事情から発売中止となってしまう。また、再結成した「ザ・フォーク・クルセダーズ」をすぐに解散したり、そうかと思えば、作詞を担当していたバンドメンバーの北山修とすぐに曲を発表したりと色んな紆余曲折を経ながら、加藤和彦は次に「サディスティック・ミカ・バンド」を結成した。相変わらず私は何も知らなかったので、鑑賞後に調べて新たに知ることも多かったのだが、本作に出演していたつのだ☆ひろは、この「サディスティック・ミカ・バンド」のドラムを務めていたそうなのだ。本作においては、そういうことも「観客は当然知っているだろう」という前提で作られているので、加藤和彦について知らない人間が観るには「説明不足」という印象が強くなる。もちろん、私のような人間に合わせる必要などないので、これは別に文句のつもりではないのだが。

そんなわけで加藤和彦は新たなバンドを組んだわけだが、この「サディスティック・ミカ・バンド」がイギリスでライブを行うことになった経緯がとても興味深かった

本作には実に多様な人物が登場するのだが、中でも「最も関係なさそうな人」に思えるのが「学生時代に輸入雑貨店『Yours』でアルバイトしていた人」だろう。何でそんな人が出てくるのかと思ったのだが、「Yours」というのは当時芸能人や著名人がよく足を運んでいた店だったそうで、その中に加藤和彦もいたのだという。そのアルバイト店員は加藤和彦に話しかける勇気など持ち合わせていなかったのだが、ある日ちょうどいいきっかけがあることに気づいた。店内に置かれていたイギリス発行の新聞に、日本でしか発売されていない「サディスティック・ミカ・バンド」のアルバムのレビューが掲載されていたのである。

これは良いチャンスだと思ったアルバイト店員は、勇気を振り絞って加藤和彦に話しかけてみた。すると加藤和彦は、イギリスの新聞に取り上げられているという事実に驚き、「これちょっと借りていい?」と言って、レコード会社に確認するために新聞を持っていったそうだ。このやり取りが直接的なきっかけだったのかは映画を観ているだけでは判断できなかったが(あるいは、「東芝レコードがバンドをイギリスに売り込んだから新聞に載った」と考える方が自然だろうか)、いずれにせよ「サディスティック・ミカ・バンド」は、当時の日本のバンドとしては異例の「イギリスでのライブ」を実現させたのである。

またイギリスでのライブよりも前の話になるのだが、ビートルズなどの大物をプロデュースしてきたイギリスの音楽プロデューサーのクリス・トーマスを日本に呼んでアルバム制作を行った際のエピソードも実に興味深かった。加藤和彦もかなりの完璧主義者みたいだが、クリスもなかなかのものだったようで、東芝レコードでのレコーディング初日は「スピーカー合わせ」で終わったそうである。スタジオ内に備え付けられていたスピーカーの左右の出力がおかしいことに気付き、社内にあった30個ほどのスピーカーをすべてスタジオに集めさせ、最適なスピーカーの組み合わせを探るところから始めたというのだから、なかなかのものだろう。

このように、加藤和彦や彼が率いたバンドにまつわる様々なエピソードが紹介されるのだが、中でもなかなかのインパクトだったのが「『サディスティック・ミカ・バンド』が解散するに至った経緯」である。ただこれも作中ではあまりきちんとは説明されなかったため、鑑賞後に知った事実も含めて説明したいと思う。

そもそものきっかけは、クリス・トーマスと仕事をしたことだった。そしてどうも、「サディスティック・ミカ・バンド」のボーカルであり加藤和彦の妻でもあったミカがクリス・トーマスと不倫関係に陥ったそうである。そのため、ミカは加藤和彦と離婚、バンドも抜けることになった。そして、ボーカルが抜けたため、バンドも解散するという運びになったのだろう。

ちなみにミカの本名は福井光子だそうで、実はこの名前、本作『トノバン』の冒頭の方で一度出てくる。「ザ・フォーク・クルセダーズ」の初期メンバーの1人が、「加藤和彦との出会いは、福井光子のボーイフレンドとしてだった」みたいなことを語っていたのだ。つまり加藤和彦は、大学時代に出会った面々と「ザ・フォーク・クルセダーズ」を組み、また同じく大学時代に出会った福井光子と「サディスティック・ミカ・バンド」を組み、さらに結婚もしたのである。やはり、「才能のある者の近くには才能を持つ者がいる」ということなのだろうか。

さて、もちろんミカ(福井光子)との別れは加藤和彦にとって大きな打撃だっただろうが、悪いことばかりではなかった。というのも彼はその後、作詞家の安井かずみ(ずず)と出会ったからだ。2人は結婚し、公私ともに支え合う良い関係になったという。つまり結果から言えば、ミカとの別れはむしろ良いことだったとさえ言えるのかもしれない。

加藤和彦の凄まじいプロデュース能力

加藤和彦はこのように、自身の音楽活動も積極的に行っていたわけだが、個人的にはむしろ「プロデュース能力」の方に凄さを感じた。加藤和彦との関係性は忘れてしまったが、ある人物が作中で「『良いモノを発見する能力』が高いことは知っていたし、彼が進む方向に乗っかれば良いモノが出来ることも分かっていた」みたいなことを言っており、そういう「先導者」みたいな能力値が凄まじく高い人だったのだろうとな思う。

中でも印象的だったのが、松任谷正隆と山下達郎の会話である。本作では「ラジオの音源を流す」という形で2人のやり取りが紹介されるのだが、その中で山下達郎が「どうして加藤和彦が松任谷正隆を連れてきたのか、未だに俺は知らないんだよなぁ」みたいなことを口にしたことをきっかけに、加藤和彦の思い出話が始まっていく。松任谷正隆は、まだまったく無名の頃に山下達郎のスタジオレコーディングに参加することになったのだが、その経緯についての話である。

松任谷正隆がアマチュアだった頃に出場した何かのコンテストの審査員に加藤和彦がいたのだそうだ。彼は「そのコンテストで勝ったのか負けたのかもう忘れちゃったけど」と言っており、勝敗は記憶に残っていないようだが、コンテストの終わりに加藤和彦から声を掛けられたことは覚えているという。「数日後にスタジオで収録があるから来て」という話で、その日はピアノを弾いて1万3000円もらって帰ったそうだ。

松任谷正隆は、「もうこれで終わりだろう」と思っていたという。しかしその後、加藤和彦から再度連絡があり、「テイチクに来てくれ」と言われる。「テイチク」というのは、今もあるのかは知らないが、当時としては誰もが知る音楽スタジオで、行ってみるとそこにはなんと山下達郎がいたのだそうだ。こんな経緯から松任谷正隆は、「初めてのレコーディングが山下達郎」という形でキャリアをスタートさせることになったのである。加藤和彦はコンテストでの演奏だけから松任谷正隆の才能を見抜いたのだろうし、その眼力は確かだったというわけだ。

また別の人物も面白い話をしていた編曲家として活動するある人物は、元々はただのバンドマンだったのだが、ある日「レコーディングするから」と加藤和彦から声がかかる。彼は、「加藤和彦がアレンジした曲を演奏するだけ」だと思って現場に向かったわけだが、スタジオ入りしてみるとなんと、「イントロがまだ決まってないんだよねぇ」と言われたのである。そのため成り行きでアレンジに関わることになり、その日から編曲家としての人生も始まっていったのだという。

そして坂本龍一も「まったく同じ経験がある」と話していた。恐らくだが、「こいつなら出来るだろう」と見込んだ人間に無茶振りすることで才能を引き出そうとしていたんじゃないかと思う。いや、それは良く解釈しているだけで、実際には「自分でアレンジを考えるのがめんどくさかっただけ」なのかもしれないが。しかし実情はともかく、「加藤和彦のプロデュース能力」によって才能が開花した人がいることは確かだし、そういう点でも才能を発揮した人物なのだと理解できた。

なんとも凄まじい人物なのである。

最後に

加藤和彦が最前線で活躍していたのは私が生まれる前だったはずなので、詳しく知らなくてもおかしくはないと思っているが、知れば知るほど実に興味深い存在で、また溢れんばかりの才能があった人物なのだなとも実感させられた。183cmとかなりの長身で、さらにファッションセンスも抜群だったそうなので、20~30代当時の加藤和彦がそのまま現代に現れたとしても、するっと馴染めてしまうんじゃないだろうか。先述した通り、その音楽性も恐らく現代で通用するように思うし、本当に「時代を先取りした生き方」をしていたんだろうなと思う。

そんなわけで、加藤和彦の魅力に溢れたとても興味深い作品だった。

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