【奇跡】ホンダジェット驚愕の開発秘話。航空機未経験のホンダが革命的なアイデアで常識を打ち破る:『ホンダジェット』(前間孝則)

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • NASAでさえ理解していなかった航空理論を、自動車メーカーのホンダが見出した奇跡
  • 試作機の飛行テストが成功したからこその苦悩
  • 世界的企業GE社も驚愕した「本田技研工業」の異次元の企業文化

技術的にも社風的にも、ホンダでなければ成し遂げられなかっただろう歴史的偉業

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

「ホンダジェット」はいかにして誕生したか?革命的な技術革新とホンダの英断に迫る

「航空機の歴史における革新的な案」と評価された「主翼上のエンジン」

2015年から運用が開始された、ホンダ開発の小型ビジネスジェット機「ホンダジェット」。販売初日に100機が売れ、その後出荷数世界一を達成するなど、ビジネスとしても高く評価されるこの「ホンダジェット」だが、その最も革新的な点はエンジンにある

「ホンダジェット」のエンジンはなんと、主翼の上にあるのだ。

一般的なビジネスジェット機の場合は、機体の側面にエンジンがついている。しかしホンダは、様々なチャレンジを続けた結果、主翼の上にエンジンを載せる方がより効率が良いと発見する。そして、世界初となる「主翼上のエンジン」を実用化させるに至ったのだ。

この発明は、

航空機の歴史における革新的な案

と評され、

航空先進国の欧米の研究者、技術者といえども、この三賞を合わせて同時に受賞した人物はいない。ホンダジェットの設計責任者であり開発リーダーでもある藤野が、これらの栄誉ある賞をすべて受賞したことは、間違いなく世界が彼の功績を認知して高く評価したことを意味している

と、航空機業界では並ぶもののない評価を得ている

しかしこの設計は本当に繊細なようで、

実際のホンダジェットの機体でいえば、主翼上のエンジンの位置が、それこそわずか数十センチさらには数センチ異なるだけで、干渉抵抗がまったく違ってきます。本当に細かいところまで最適な位置を探さないと抵抗が下がらない

というほどだという。「主翼の上にエンジンを載せる」というアイデア1つで実現に至ったわけではないのだ

そもそもこのアイデアはどれほど突飛なのか。それを実感させてくれる、こんな文章がある。

出すのはやめたほうがいい。NASAですら、いろいろな研究をしてきて、こういうことをまだわかっていないのだから、発表した後に、『こんなのダメだ』と酷評されたら、お前の航空機設計者としての生命は終わりだぞ。もちろん、ホンダジェットの未来も無くなる可能性がある

「こういうこと」というのは、「エンジンを主翼に対して最適な位置に配置することで、高速飛行時の造波抵抗を減少させる理論」のことだ。NASAでさえ分かっていないということは、世界の航空機メーカーのどこも知らないということでもある。そんなとんでもない理論と実用機を、ホンダは生み出してしまったのだ。

そこには当然、「航空機メーカーではない、自動車メーカーのホンダが実現した」という驚きもある。航空機メーカーからすれば信じがたい偉業だろう。

「ホンダジェット」のプロジェクトが動き始めたのはなんと1986年、プロジェクトリーダーである藤野が入社して3年目というタイミングだった。藤野は突然「航空機をやれ」と命じられ、社内でも極秘裏に開発が進められることになったのだ。その後2003年に初飛行を成功させるわけだが、開発を始めた当初は、

そもそもチームの誰ひとりとして実際に航空機を設計したこともつくったこともない

という状態だった。そんなホンダが今では、

世界を見渡してみても、機体とジェットエンジンの両方をすべて丸ごと自前で開発・生産している主要なメーカーは見当たらない

というほど唯一無二の存在になっている。まったくの異業種でありながら、航空機というかなり参入のハードルが高い分野で、誰も真似できない存在にまで上り詰めた「技術のホンダ」の凄まじさが実感できることだろう。

「試作機完成後」の苦難

やっと初飛行に成功したとの安堵感と同時に、これでもってホンダにおける小型機の開発プロジェクトが終わりになるのでは、との思いが頭をもたげてきて、先行きに対する不安を覚えました

これは、試作機のフライトが成功した直後の藤野の感想である。一読して意味が分かるだろうか? 私は、試作機が完成したのに先行きが不安になる理由が想像できなかった

そこには航空機ならではの事情が関係している。

航空機は、電化製品やバイクなどと違い、売った後も整備やアフターサービスが不可欠だ。つまり、航空機を作るだけではなく、その整備やアフターサービスの態勢も整えなければならないということだ。また当然だが、量産するとなれば新たに工場の建設も必要である。しかし小型ジェット機の売上は景気変動に左右されるし、車と比べれば圧倒的に出荷台数が少ない。そのため、工場を建設して量産体制を整えてもビジネスとして成り立つのか分からないのだ。

たとえ実験機(試作機)づくりに巨額の資金がかかったとしても、そこで止めれば、それまでの出費で終わらせることができる。ところが事業化して量産・販売するとなると、そうはいかない

確かにその通りだ。初飛行の際にはマスコミに向けて、

これは実験機であり、ビジネスプランは持っていない。あくまで技術を確認するための初飛行であり、今後も飛行試験を続けていきます

と、ビジネスとしての展開を見据えているわけではないのだと釘をさすように言っている

この経営判断には、上層部も相当に悩んだようだ。本書には、

会社の首脳陣すら決めかねていたが、むしろ、開発プロジェクトの中止に大きく傾いていた

というような表現が随所に登場する。プロジェクトリーダーの藤野は開発に成功したのだが、その後に続く「小型ジェット機をビジネスにする」というステップに進むまでには相当時間を要することになってしまったのである。

それだけ慎重になる理由も分からないではない。ジェットエンジンの世界的な巨大企業でさえ倒産してしまう世界だからだ。

やはり1970年代、世界三大ジェットエンジンメーカーの一つ、英ロールス・ロイス社も、大型エンジンの開発が低迷して事実上倒産し、国有化されて再建を図った。
世界的な名門の巨大企業が、一つの航空機やジェットエンジンの開発あるいはビジネスに失敗したことで倒産してしまう。なにしろ、数年前に市場投入された新型機のボーイング787は開発費だけで1兆8000億円にも達しているのである。量産を前提とする工業製品において、このようにリスクが高くて巨額の開発費を要するものはほかには見当たらない。

このような厳しい世界に、まったくの異業種から参戦すべきなのか。二の足を踏むのも無理はないだろう

他にも、こんな懸念があった。

アメリカで売り出したはいいが、もし事故などを起こして人命が失われたりすると、圧倒的な売上を占めるオートバイや自動車の信用を傷つけ、販売にダメージを与えて大きなマイナスになるのではないか。やはり試作機の段階に止めるべきではないか

確かにその通りだろう。軌道に乗るかどうか分からない小型ジェット機の事業で死者を出してしまえば、ホンダを支えるオートバイや自動車の販売にも影響が出るかもしれない。そのリスクを負ってでもビジネスに乗り出すべきなのだろうか。

会社がその決断を下すまでの間、藤野は相当悩んだ。

先が見えないまま、新たなコンセプトに基づく具体的なプランをまとめ上げるまでの一年半ほどは、今までの大変さとは違う、これまでで最も辛い時期でした。サポートも得られず、いっそのこと、会社を辞めてしまおうかと迷ったこともあります。いろんなことを考え悩みました

それはそうだろうと思う。初飛行を成功させたことでプロジェクトは縮小、プロジェクトメンバーの多くは異動となり、藤野自身は実験データを取り続ける日々を過ごしていたのだ。事業化の話が進展しないまま、藤野には他社からの引き抜きの話が来て揺れる。しかし、チャンスを見つけてはアピールを続け、ついに社長が決断。事業化へと舵を切ることができたのである。

「ホンダ」だからこそ成し得た技術開発と事業化

事業化を決断したホンダは、その後GE社と手を組むが、

「このようなやり方が許容される会社など、世界を見渡しても、ホンダをおいてほかにはないだろう」とGEからも散々いわれました

と藤野は語っている。それほどまでにホンダという会社は、普通とはまったくマインドの異なる企業文化があるということだ。

そこにはやはり、創業者である本田宗一郎のスピリットが関係している。

本田宗一郎は1962年の時点で既に、社内報で航空機の開発・生産に言及していた

1962年6月、本田宗一郎は航空機の開発・生産に乗り出そうとしていることを全従業員に伝えた。
「いよいよ私どもの会社でも軽飛行機を開発しようと思っていますが、この飛行機はだれにも乗れる優しい操縦で、値段が安い飛行機でございます」

本田宗一郎自身が、航空機への夢を抱いていたのだ。藤野もまた、「本田技研工業」という社名に対して次のような想いを持っている

歴代トップの誰もが『ホンダはパーソナルモビリティーのカンパニーである』と口にされてきました。だから、『本田自動車』とはいわないで、『本田技研工業』といってきたのだと思います。われわれ社員もまた、ホンダは自動車会社というよりは広くパーソナルモビリティーを追求する会社だと思っています

彼はこう首脳陣に主張し、事業化へのGOサインを勝ち取ったのだ。

しかし、日本で航空機の開発を行うにあたって様々な障害にぶつかった。開発費が巨額であること、あるいは、日本で自動車の需要が高まっていく時期に航空機まで手が回らなかったことなどに加えて、

また、通産省も大蔵省(現・財務省)もメーカーとともに、失敗した“YS-11”のトラウマを引きずっていて、足並みも揃わなかったのである

という事情もある。YS-11とは、日本が初めて作った国産の旅客機だ。様々な事情から上手くいかなかったYS-11の記憶が、日本での航空機開発を及び腰にさせていたのである

藤野が就職活動をしていたのは、まさにYS-11の失敗の記憶が色濃かった時期であり、

たとえ日本の大手航空機メーカーに入ったとしても、米軍機のライセンス生産とか、ボーイングとの共同開発に甘んじるような仕事ばかりでは魅力が感じられない。ダイナミックな仕事はできないのではないか。そう考えて迷わず自動車会社に入ったのです

と語っている。航空機への想いを抱きつつ、日本では大きな仕事はできないだろうと考えてホンダに入社した藤野がいたからこそ、このプロジェクトは完遂したとも言えるかもしれない。

またホンダには、技術者出身の社長が多いことも大きく影響した。6代目社長の福井威夫も技術者出身である。

六代目社長に就任した福井威夫は、引き継いだホンダジェットの開発をさらに推し進めるのだが、やがて、事業化するか否かの重い決断を迫られることになる。彼もまた、無類のレース好きであった。このような資質の持ち主が歴代の社長を務めなければ、大きなリスクを伴うホンダジェットの開発から事業化に至るまでの迷いと逡巡の20年間は、耐えられなかったであろう

確かに、技術者だからこそ理解できることがあるはずだ。予算やバランスシートだけからは判断できない、技術者だからこその信念や確信がトップにも息づいているからこそ、チャレンジングなことができると言える。

また技術者出身の社長だからこそ、

研究開発に対して金をちびったらいかん

という感覚を共有することが可能なのだ。このスタンスこそが「技術のホンダ」を支えているのだろうとも感じる。

藤野道格は何故、航空業界の常識に立ち向かうようなチャレンジができたのか

ピッチングモーメントは空気中の剥離が影響するのですが、翼あるいは飛行機を設計する人の考え方は、空気流の剥離をできるだけ起こさせないというのが基本でした。しかし、深く考えてみると、剥離を起こさせないということが、果たして第一条件なのかどうか。もちろん剥離は最小限であるのが望ましいですが、剥離が起こっても実際の機体にペナルティーがほとんどなければ、逆に剥離をうまく使ってピッチングモーメントを軽減できるのではないかという点に着目したのです

今度は空力干渉を最小限にするというより、むしろ、この空力干渉を使って抵抗をさらにマイナスに(低減)できることがわかってきました

こういう技術的な内容がきちんと理解できるわけではないのだが、これらの記述から、藤野が「航空業界の『当たり前』を打ち崩したことで新たな発見が生まれた」と分かるだろう。

ここには当然、藤野のずば抜けたセンスと才能、そして努力が関係してくるのだが、他にもこんな要素が絡んでくる。

実はこれらの機体の基本設計思想は、60,70年代の延長線上にあって、基本的な形や全体のコンフィギュレーション(構成)も、十年、いや五十年一日のごとく相変わらず、胴体の脇にエンジンが付いている形態です。決して性能が抜群にいいとか、革新的な技術を使っているというわけでもないのです

確かに航空機は昔から形が決まっているし、そもそも本書には、

機体の形状の99%はすべて機能で決まってしまう

とさえ書かれている。しかも、参入障壁が高いが故に少数の企業でしか作られない。そういう状態にあるから、「より良いアイデアを追究しよう」という発想にならなくなってしまうのではないか、という指摘だ。

さらに、こんな問題もある。

自分が一番難しいと思ったのは、確かに、これらの専門的な勉強に10年、20年かかり、それだけでも大変なことではあるのだが、その専門分野を長く勉強していると、いつのまにか勉強すること自体が仕事になってしまう。新しい発想というよりも、今までに読んで学んだ論文や理論に従って、この設計はおかしいとか、学んだ知識を他の人に教えることが仕事になってしまうというか。たとえば、評論家のように、これはすでにNASAで試験がなされていて、こういう結果が出ているからダメだとかなって、飛行機とはこういうものだ、という固定観念にとらわれてしまう。それは怖いことです

航空機というのは「安全に飛ぶこと」が至上命題であり、そのために学ばなければならないことが膨大に存在する。そしてそれらを学んでいく内に、「自分が学んでいること、学んできたことが『絶対的な真理』のようになってしまう」というわけだ。習得に時間が掛かる分野であるが故の問題だと言える。

そしてだからこそ、ホンダのような未経験の新規参入企業が、「技術で正面突破する」という正攻法で闘える余地が残されている、というわけだ。

その辺りのことを理解していた藤野は、「ホンダジェット」のプロジェクト初期から明確なビジョンを持っていた。しかしそれはなかなか受け入れられなかったという。

あえて未知なる技術を幾つも盛り込んだホンダジェットの狙いや意味、技術的な価値、小型ビジネスジェット機業界における位置付けなどを、直属の上司だけでなく、同僚にもなかなか理解してもらえない日々が続きました。ですから、経営会議の後の一年半から二年にわたり、チームの中では議論百出で大揉めでした

それでも藤野は、

他のメーカーがつくったものと同じようなものを、これから新規参入しようとするホンダがつくって、何か意味があるのか?

と訴えて、自分たちが進むべき道を明確に示したという。

また、当初から藤野は、「ホンダジェット」の事業化にこだわっていた

「人の役に立ち、使ってもらうものを開発する」というかねてからの希望に手応えを感じられないからだ。「航空機をやるというのなら、絶対に売るところまでもっていくべきだし、やり抜くべきだ」というのが、このときに抱いた彼の決意だった

そしてだからこそ、何よりも事業化を優先した。技術的にチャレンジすべき部分はもちろん挑戦するのだが、事業化の足かせになると判断すればその挑戦を諦めもする。このようなバランス感覚があったからこそ、プロジェクトを最後まで導くことができたのだ。

そんな藤野を始めとする、プロジェクトメンバーたちの奮闘の記録を、是非読んでみてほしい。

最後に

本書を読んで改めて感じたのは、「圧倒的な技術」は1つの「物語」である、ということだ。一企業の開発物語にここまで心を打たれるのは、技術に対するリスペクトや、技術と向き合う者たちへの敬意を持ってしまうからだろう。

決して技術だけでは成し得なかった大プロジェクトではあるが、「技術のホンダ」の名に恥じない歴史的偉業であることは間違いないだろう。そんな壮大な物語を、是非体感してほしいと思う。

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