【レビュー】実写映画『秒速5センチメートル』が描く「魂が震える人と出会うこと」の煌めきと残酷さ(監督:奥山由之、原作:新海誠、主演:松村北斗、高畑充希、森七菜、青木柚、木竜麻生、上田悠斗、白山乃愛)

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「劇場用実写映画 秒速5センチメートル」公式HP
いか

この映画をガイドにしながら記事を書いていくようだよ

今どこで観れるのか?

公式HPの劇場情報をご覧ください

この記事で伝えたいこと

主人公の2人、遠野貴樹と篠原明里の関係性は凄く羨ましく見えました

犀川後藤

私も「お互いが『魂が震える人』だと認識している関係」に憧れます

この記事の3つの要点

  • 「いずれ離れ離れになってしまうなら、2人は出会うべきではなかっただろうか?」とずっと考えていた
  • 早くに「魂が震える人」と出会ったがために、それ以外の関係性に何も感じられなくなってしまった遠野の「残酷な人生」が描かれている
  • 会話も演技もとにかく素晴らしく、また主題歌『1991』の「ジジッ」というノイズにさえ意味を感じてしまった
犀川後藤

実写版を観た後で原作を観ましたが、実写の方が素晴らしいと感じたほど良かったです

自己紹介記事

いか

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

実写映画『秒速5センチメートル』は本当に素晴らしかった。原作を超えてるんじゃないか。「こんな出会いが出来たら」という希望と残酷さを描き出す作品

私は基本的に「ストーリー」にしか興味がないが、本作は「雰囲気の良さ」だけで名作に仕上がっている

本当にメチャクチャ素敵な作品でした。これはホント観て良かったなぁ。

いか

ただ正直、松村北斗が主演じゃなかったら観てない可能性あったよね

犀川後藤

初めて予告を観た時、「松村北斗なら観るか」って感じになったもんなぁ

私は、実写映画を観た時点では原作に触れたことがなく(その後、実写映画公開記念としてテレビ放送されたものをTVerで観ました)、『秒速5センチメートル』という作品に対する思い入れは何もなかったので、単に「実写化した」というだけだったら「ふーん」という感じでスルーしていたかもしれません。ただ、主演が松村北斗であること、さらに監督が、少し前に観た映画『アット・ザ・ベンチ』の人だと知って、それで「なるほど、だったら観よう」と思いました。ホントに、映画『アット・ザ・ベンチ』はちょっと衝撃的な面白さだったので、「あの監督が撮るなら」と感じたのです。

そしてやはり素晴らしい作品でした。

さて私は、小説でも映画でも何でも、「物語」に触れる場合は基本的に「ストーリー」、つまり「話の筋」にしか興味がありません。極端に言えば、映像が美しくなくても、役者の演技が下手でも、衣装や音楽に光るものがなくても、「話の筋」さえピカイチなら全然評価できる、ぐらいに思っているというわけです。

犀川後藤

まあ、映画の場合はさすがに、「役者の演技」があまりにも下手だと「厳しいな」って感じたりもするけど

いか

その下限値はやっぱりちょっとあるよね

ただ、本作『秒速5センチメートル』には正直、ストーリーらしいストーリーはありません。いや、無いわけではありませんが、少なくとも「話の筋」で惹きつけるような物語ではないでしょう。普段の私なら、さほど興味を抱けない作品と言っていいかもしれません。ただ私は、究極的には「ストーリー」さえどうでもよくて、「雰囲気さえ良ければそれでいい」みたいに感じることがあります。まさに本作もそのような作品で、「雰囲気の良さ」しかないと言ってもいいぐらいの作品でした。「シーン毎の『空気感』だけを切り取って並べました」みたいな作品で、そしてそんな本作がとにかくもの凄く素敵に感じられたというわけです。

さて、私が本作を観る直前に放送していた『ボクらの時代』(フジテレビ系)に、主演の松村北斗、監督の奥山由之、原作の新海誠が出演していたのですが、その中で松村北斗が、「新海誠作品には『エモい』という言葉では表現しきれない何かがあるけど、その何かをピッタリ表現する言葉はないし、だから『エモい』って言うしかない」みたいな発言をしていました。そしてその感覚は、まさに本作にもそのまま当てはまるだろうと思います。「『エモい』なんて言葉で表現できている気はしないのだけど、でも他に適切な言葉はないし、だから「『エモい』って言うしかない」というわけです。そしてそれは、まさに「空気感」に対する評価という感じがするし、その見事な「空気感」を最初から最後までずっと映し出し続けているという点に、本作の凄まじさがあるのだと思います。

犀川後藤

その上で、「アニメ版のシーンの再現」にもかなりこだわったらしいから、ホント凄いことやってるよなって思う

いか

「大人気の原作を実写化する」ってプレッシャーもあっただろうし、大変だっただろうね

遠野貴樹は小学生の頃に「魂が震えるような人」に出会った

さて、実写映画を観た後で原作に触れた私は、実写化によって一層輪郭が濃くなった要素があるなと感じました。それが「『魂が震えるような人』と出会った」という描写です。そして私は本作を観ながら、このことばかりずっと考えていました

基本的に時系列通りに展開する原作と違い、実写映画では松村北斗演じる「大人になった遠野貴樹」の物語から始まります。なので、原作を観ていなかった私は、「遠野が小学生の頃に忘れられない人と出会った」みたいなことを知らないまま物語を追っていたし、さらに「その人が『魂が震えるような人』だった」という事実も少しずつ理解していったという感じです。

さて、そんな遠野は大人になった今、システムエンジニアとして働きながら、それ以外の時間をほとんど死んだように過ごしています。そもそも何かに追いまくられているかのように仕事をしているし(仕事が好きというわけでもなさそうなのに)、時折家にまで仕事を持ち帰っていました。そして仕事をしていない時は、例えば同じ会社で働く恋人と一緒にいる時でさえ、まるで心がそこに存在していないかのような雰囲気を醸し出しているのです。

いか

こういう雰囲気を松村北斗はホント絶妙に醸し出すよね

犀川後藤

松村北斗自身が陰キャっていうか、なかなかポジティブにはなれない人だって要素も大きいんだろうけど

そしてそんな大人の遠野とはまったく異なり、小学生の頃の彼は活き活きしています転校生の篠原明里と仲良くなったからです。2人はお互いに惹きつけられます小学生が出会う言葉では、それは「好き」という表現でまとめるしかなかったでしょう。しかし私は彼らの関わり方を見ながら、「お互いが『魂が震える人』と出会ったんだな」と感じました。

さて本作には、大人になった明里が印象的な言葉を口にする場面がありました。仕事の関係で知り合った女性と、「子どもの頃は全然友達がいなかったけど、1人だけ仲良くなれた人がいたんです」と遠野のことを思い浮かべながら話す彼女が、「彼とはもう長いこと会っていない」と口にします。それに対して相手の女性が「じゃあ、良い思い出だ」と話を受けるのですが、明里はそれにこんな風に返していました

いや、思い出というよりは、今も日常です。

いか

このセリフ、メッチャ良かったよね

犀川後藤

「誰かにそう思われてたい!」って感じちゃうなぁ

作中では、ある人物が「会えないと気持ちも離れちゃうのかな」と口にするのですが、少なくとも明里の場合はそんなことはなかったのでしょう。小学生の頃に離れ離れになって以降一度も会えていない(いや、中学生の頃に一度は会っているのか)存在を、それでも「今も日常です」と言い切れるほどに、彼女の気持ちはずっと遠野の方を向いているというわけです。

そんなの、「魂が震えている」としか言いようがないよなと思います。そして、そんな2人の関係性が、私にはとても羨ましく見えたというわけです。

「好き」「愛してる」「尊い」と「魂が震える」は何が違うのか、上手く説明は出来ませんが、私には明確な違いがあるように感じられます(「尊い」は「魂が震える」と近い感じがしますが、ただ「尊い」は私の中で「関われない、触れられない存在」に対して使うイメージがあるので、その点で少し違う印象です)。そして恐らくですが、人生の中で「魂が震える人」に出会えない人だって全然いるでしょう。明里は2人の関係を「太陽と月」に喩えていましたが、そんな風に「相手の存在が自分を成立させてくれている」みたいに思えるような関係にはなかなか出会えるものではありません。仮に自分が相手にそういう感覚を抱けたとしても、相手も同じぐらいそう思ってくれているとは限らないでしょう。そういう意味でも、2人の関係は奇跡的なものに感じられたというわけです。

犀川後藤

私も、「好き」「愛してる」みたいなのは別にいいから「魂が震える」みたいな関係をずっと望んでるんだよなぁ

いか

そう感じられる人に出会えて、相手も同じように思ってくれてるとしたら、それでもう人生完璧だよね

小学生の時点で「魂が震える人」と出会ってしまったことの残酷さ

しかし一方で私は、「小学生の頃にそんな存在に出会えてしまったことは、ある意味では残酷なんじゃないか」とも思っています。

スマホやSNSがある現代ではまた状況は違うでしょうが、本作は「1991年に遠野と明里が出会った」という設定なので、「物理的に距離が離れた相手」のことを身近に感じるのは相当難しかったと言っていいでしょう。遠野も明里も「親の仕事の都合で転校せざるを得ない」という状況にあり、それ故に出会えたとも言えるわけですが、やはりそのせいで離れ離れにもなってしまいます大人になってから出会った相手であれば、基本的には自らの意思で相手との関係を決められるわけですが、子どもの頃にはそうではない様々な不確定要素が絡んでくるというわけです。

だから、子どもの頃に「魂が震える人」と出会えたとしても、否応なしに離れ離れにならざるを得なくなるかもしれず、そしてそれは、スマホがなかった時代にはほとんど「悠久の別れ」だと言っていいと思います。そんなの、とても残酷ではないでしょうか? だからこそ、「どうせ離れ離れになってしまうくらいなら、最初から出会わなければ良かったのではないか」と感じずにはいられませんでした。

犀川後藤

これって、私がよく思う「メチャクチャ美味いものを食べたくない」って話に近いんだよなぁ

いか

「凄く美味しいものを食べると、普段食べてるものが劣ってるように感じられちゃう」みたいなことね

さて、私がそんな風に感じたのには、遠野が口にしていたある感覚も関係しています。彼は恋人から「転勤族だったから引っ越しが好きなんだね」と言われるのですが、実はそうではありません。かつて遠野は明里に、「好きな家に住んで、そこからずっと引っ越したくない」と言っていたのです。しかし、大人になった遠野は実際のところ、定期的に引っ越しを繰り返しています。そしてどうやらそれは、「いつでも他人と離れられるようにするため」のようなのです。そのことは、ある場面でこんな独白をしていたことからも理解できるのではないかと思います。

誰かに近づきすぎないように。
1箇所に留まらないように。
誰といつ離れ離れになっても平気でいられるように。

作中でこの独白が出てくるのは、「小学生の頃に出会った明里が『魂が震える人』である」と私が理解する前のことで、だから正直私には、「遠野がどうしてこんな感覚を抱いているのか」がしばらく理解できませんでした。ただ、「『魂が震える人』との別れの残酷さを経験している」のであれば納得できるなという感じです。

犀川後藤

遠野ほどじゃないけど、私も「誰といつ離れ離れになっても」みたいな感覚は全然理解できるなぁって思う

いか

他人のことを絶望的に「つまらない」って感じちゃうことが多いから、余計にね

遠野は恐らく、「明里のような人と出会うことは二度とない」と考えているはずだし、それはきっとその通りでしょう。それぐらい、明里との「親和度」みたいなものが強かったというわけです。そしてそうだとすれば、「それなら、明里以外の人との関わりなんて何の意味もない」と感じるのも当然だと思います。

遠野自身はそんな風には言っていませんでしたが、恐らく彼にとっても明里は今も「日常」であり、強く意識される存在なのでしょう。だから、明里以外の誰と関わっていても、「そうじゃないんだよなぁ」みたいな気持ちが強くなってしまうのだと思います。とはいえ、別に孤独を好んでいるわけでもないだろうし、だから他者との関わりは求めてしまうわけですが、ただその代わりに「いつでも離れられるように」なんて風に考えているということなのでしょう。相手に深入りせず、「いつでも『今いる場所』を離れられる」ぐらいの身軽さを持ちつつ、今も「明里との日常」を生きているのだと思います。

いか

結構絶望的な状況だよね

犀川後藤

私なら耐えられないかもしれない

つまり私は、「遠野は『魂が震える人』との出会いと別れを経験したが故に、それ以降の人生を死んだように生きざるを得なくなった」のだと思っているし、やはりそれは健全な状態じゃないよなとも感じました。もしも明里と出会っていなければ、日常のちょっとしたことにも心が反応したかもしれません。ただ、明里と過ごした時間があまりにも濃密で激しく彼の心を揺さぶったために、多少の揺れでは反応出来なくなったのだと思います。

映画の冒頭で、遠野のこんな独白が流れました。

いつの頃からだろう。まるで信じられなくなってしまった。
かつてあんなにも信じていたこの世界のことを。

この時も私はまだ、どうして遠野がこんな風に感じているのかが全然理解できなかったのですが、彼のこの感覚もやはり、「明里との距離が物理的に離れてしまったことで自分の世界が次第にくすんでいき、大人になる頃には灰色になってしまった」みたいなことなのだと思います。誰も悪くないし、どこかに悪意が存在するわけでもありません。しかしそれでも、結果として遠野の世界は暗く閉ざされてしまったというわけです。やはりそれは、とても残酷なことに感じられました。

犀川後藤

でもそうだとしても、やっぱり私は「魂が震える人」との出会いを期待しちゃう

いか

もうそれぐらいしか、人生に期待できることがないんだよね

長く会っていなかった「魂が震える人」と、大人になってから再会したいだろうか?

さて、別の「残酷さ」として、こんな問いについて考えることも出来るでしょう。これは「小学生の時点で『魂が震える人』と出会ってしまったこと」と関係するわけですが、「その相手と大人になってから再会したいのか?」という話です。

人は大体、大人になる過程で考え方や価値観などが固まっていくだろうし、もちろん見た目的な意味でも変化が少なくなるでしょう。だから、大人になってから出会った人であれば、たとえ10年ぶりに再会となったとしてもさほど躊躇せずに済むんじゃないかと思います。一方で、30歳の遠野(作中で「30歳になりました」と口にする場面があります)が子ども時代のある時点から一度も会っていない明里との再会を考える際は、やはり躊躇が生まれるでしょう。確かに小学生の頃には「お互いにとって『魂が震える人』だった」かもしれません。ただ、お互いが大人になった今もそうであり続けているかは何とも言えないはずです。

あなたなら、そういう相手との再会を望むでしょうか?

いか

これはかなり悩ましい問題だよね

犀川後藤

確かに私も、躊躇しちゃうだろうなって思う

観客視点では、遠野のことも明里のこともどちらも見えているので、「再び出会い直せば、2人は素敵な関係になれるはずだ」と素直に思えるはずです。ただ、当人同士は簡単にそうは思えないでしょう。十数年ぶりに再会したとして、もしも自分の心があの頃と同じようには動かなかったら。いや、それどころか、「なんか違うぞ」みたいに感じてしまったらその恐怖は計り知れないように私には思えます。完璧な再会になるかもしれないけれど、同時に、残酷なまでに「無」あるいは「幻滅」に至る可能性もあるわけです。

「だったら、再会なんて望まずに、自分の中の完璧なイメージを保ったまま壊さない」みたいな判断もかなり妥当だと言えるように思います。私も、そんな風に判断してしまうかもしれません。

いか

実際には、大人になってから出会った人でもそういうことって起こり得るしね

犀川後藤

だから、遠野の立場でも明里の立場でも、「再会」はちょっと恐ろしいよねって思う

2人とも、ある例外を除けば、「相手と積極的に再会しようとする行動」を取っていないように見えます。恐らくですが、本気で再会を望めば、連絡を取り付けるぐらいのところまでは辿り着けたでしょう。ただそうはしなかったわけで、つまり少なくとも遠野の方は、やはり「恐れ」を抱いていたのではないかと思います。

さて、「少なくとも遠野の方は」と書いたのには理由があって、明里の方はどうやら「恐れ」ではない感覚を抱いていたようだと示唆されるからです。ある状況で遠野は、人づてに「明里の真意」を聞く機会があったのですが、そこに込められた「想い」にはかなりグッときてしまいました。しかも、このシーンは原作にはなく、実写化において新たに加えられた要素です。ホントによくもまあ、原作の雰囲気を壊さないまま、こんな素敵なシーンを挿入できたものだなと感じました。

「遠野との再会」について明里が本心ではどう思っているのかは何とも言えません。会えるなら会いたいのか、あるいは「絶対に会わない」と決めているのか、はっきりとは分からないでしょう。ただ、「今も日常です」と口にするくらいには気になる存在なことは確かなわけで、だからこそああいう彼女の判断に至っているわけです。実に素敵だったなと思います。

いか

明里のこのセリフを聞いてしまったからこそ余計に、観客としては「再会してほしい!」ってなるよね

犀川後藤

こんな風に観客の気持ちを動かしていく感じも上手いよなぁって思う

「遠野くんは私のことなんか見ていない」と分かってしまった花苗

さて本作では、さらに別の種類の「残酷さ」も描かれています。原作では「コスモナウト」という中盤のストーリーに当たるパートで、種子島で展開される物語内での描写です。

高校生になっても転勤族だった遠野は、ある時点から種子島に住むことになりました。そしてそんな遠野に惹かれたのが、同じクラスの花苗です。他の人とは明らかに違う雰囲気を醸し出す彼のことが気になり、どうにか接触の機会を増やしたいと、下校時間が偶然被ったように装って一緒にスクーターで帰るみたいな日々を過ごしています。

ただ花苗は、「遠野くんには、東京に彼女がいるんじゃないか?」と疑っていました。というのも、ふとしたタイミングで誰かにメールを送信している感じがするからです。でももちろん「彼女いるの?」なんて聞けないし、一方で遠野への想いは溢れていきます。友人からも「気持ちを伝えるしかないよ」みたいに言われていました。そんなわけで、花苗も少しずつ勇気を溜め込んで「気持ちを伝えよう」みたいなモードになっていくのです。

いか

ホント、花苗を演じた森七菜が絶妙に素晴らしかったよね

犀川後藤

高校時代の遠野を演じた青木柚も元々好きな俳優だから、この種子島パートも凄く良かった

さてそんなある日のこと。花苗のスクーターが故障したので商店に置かせてもらい、2人は歩いて帰ることにします。遠野は別にスクーターで帰れるのに、「ちょっと歩きたいからさ」なんて言って短くもない距離を一緒に歩いて帰ってくれるのでした。そしてそんな風にして2人で歩いている時、彼女は思わずといった感じで涙を流しますこの涙の意味は正直正確には理解できていないのですが、私は「『ちょっと歩きたいからさ』が優しい嘘すぎるから」みたいに感じました。つまり「嬉し涙」という解釈なんだけど、どうなんだろう?

ただその後いろいろあって、家に帰った花苗は再び大粒の涙を流します。これははっきりと「悲しみの涙」でした。そして泣きながら彼女はこんな独白をしていたのです。

遠野くんは私のことなんか見てないんだと、同時にはっきり気がついた。

いか

まあ、あの場面ではそう感じてもおかしくはないかもね

犀川後藤

ただ、別に遠野が悪いわけでもないだろうし、これもホント「やるせない」って感じのシーンだよなぁ

遠野くんは凄く優しいけど、でもそれは私だからそうしてくれているわけじゃなくて、ただ遠野くんがそういう人ってだけ」みたいに感じてしまったのでしょう。花苗が遠野を好きになったことを含め、この状況も別に誰も悪くないのですが、しかしそれでもはっきりと「残酷さ」が存在するなという感じでした。そして私は、「もし遠野が『魂が震える人』と出会っていなかったら、また全然違っていただろうな」という気がしているのです。

遠野の恋人・水野との「距離のある関係性」

そして同じことは、会社の同僚でもある恋人・水野に対しても言えるでしょう。水野は職場ではほぼ誰とも話さずコミュニケーションを絶っているのですが、遠野の前では違った雰囲気を見せています。「水野から遠野に向けられた気持ちのベクトルは割とはっきり見える」みたいな感じです。一方で、その逆はよく分からず、遠野は常に「心ここにあらず」みたいな雰囲気を醸し出しています。ただ水野はどうも、そんな彼の気持ちを自分寄りに動かそうと強く思っているわけでもないようで(本心は分かりませんが)、そのままの遠野のことを受け入れているように見えました。「恋人同士」というイメージからはかなり距離を感じるような関係性というわけです。

犀川後藤

これはこれで1つの形として全然アリだと思うから、最初は別に違和感を抱かなかったんだけど

いか

こういう関係性で成立している恋人とか夫婦も全然いるだろうしね

彼女にとって遠野との関係がどうだったら理想的なのかははっきりとは分かりませんでした。ただ1つ明確に言えるのは、「『自分に特段の関心が向けられていない』とある程度理解した上で、それでも一緒にいたいと思っている」ということです。そしてそうであればやはり、彼女は遠野に対して強い想いを抱いていると考えていいのだと思います。

ただそんな彼女が遠野に、ちょっと釘を刺すみたいな言い方をしていたシーンがあって、それが凄く印象的でした。彼女は面と向かって、「私と一緒にいるの、ラクだけど楽しくないでしょ?」みたいに口にしていたのです。遠野は理解出来なかったようで「どういう意味?」と返すのですが、それに対して水野は自身の話をします

彼女が会社で喋らないのは、「あの子はそういう人だから」という印象を植え付けることで「コミュニケーションコスト」を出来るだけ下げたいと思っているからだと話していました。彼女は職場を「ラクだけど楽しくない」と感じていて、それで最小限の労力でやり過ごそうとしているのです。そんな自分のことを「まあまあズルいよね」と評していました

犀川後藤

私も職場ではまったく同じ理屈でほぼ喋らないからメチャクチャ理解できるわ

いか

「不機嫌だから黙ってるんだ」みたいに見られるとめんどくさいから、「元々喋らない人なんだね」って思われるようにしてるんだよね

そしてやはり、彼女が遠野に向けた言葉には「あなたもズルいよ」という言外の意味が含まれていると捉えるべきでしょう。水野は「働き続けるため」に「コミュニケーションコスト」を下げる行動を取っているわけですが、同じことを遠野は「誰かと一緒にいるため(というか、せめて孤独にはならないため)」に行っている(と彼女は感じている)わけで、そのズルさを指摘している場面だと私は受け取りました。

とはいえ、遠野の気持ちも分からないではありません。彼は人生の早い段階で「魂が震える人」と出会い、否応なしに離れ離れになったことで、それ以外の人に興味を抱けなくなってしまったわけです(あくまでも私の仮説ですが)。そしてそんな自身の性質は、「遠野に惹きつけられる人」を傷つけてしまいもします。つまり遠野の中には、「相手のためを思って距離を取っている」みたいな気持ちもあるんじゃないかとも想像出来るのです。

いか

もちろん、そんな気持ちは相手には絶対に伝わらないけどね

犀川後藤

それが遠野なりの「優しさ」だとして、ホント意味のない優しさだよなぁ

会話の絶妙さ、そして役者の素晴らしい存在感

鑑賞後に見たネット記事には、監督の奥山由之が脚本家に対して、「原作ではモノローグが多いけど、実写化に際してはなるべくモノローグを減らしたい」みたいにオーダーした、というようなことが書かれていました。そんなわけで本作では原作と違って会話によるやり取りが多いのですが、本当にその会話が素晴らしかったです。先述した映画『アット・ザ・ベンチ』も「会話の圧倒的な素晴らしさ」が印象的な作品で、この監督は「会話の雰囲気」を撮るのが上手いんだろうなと思います。

松村北斗、高畑充希、森七菜などは「役者の技量」なのかもしれないけど、例えば小学生時代の遠野を演じた上田悠斗は初演技だったらしいし、明里を演じた白山乃愛もそこまで場数を踏んでいるわけではないでしょう。それでも、「演技をしている」なんて雰囲気を感じさせないやり取りをしていて、凄く良かったなと思います。とにかく、まずは何よりも本作の「会話」全般に惹かれたという感じです。

犀川後藤

映画『アット・ザ・ベンチ』を観て改めて、「会話が面白かったら成立しちゃうよね」って思った

いか

何よりそれがホントに難しいことなんだろうけどね

さて、私は割と以前から松村北斗を推しているのですが、本作では「松村北斗が松村北斗的に存在している感じ」があって、それも凄く良かったなと思います。「役者が、役としてではなく役者のまま存在している」みたいな捉え方は、一般的には「悪い評価」と受け取られるだろうし、私も大体そういう意味で使いますが、今回はそうではありません。本作の主人公・遠野貴樹があまりにも松村北斗感の強い存在だったので、「松村北斗そのものの佇まい」は大正解だったと思っています。松村北斗は、映画『夜明けのすべて』でも割と「何かしらのマイナスを抱えた暗い人物」を演じていたし、そういう雰囲気が凄く似合う役者です。そしてそれはやはり、「彼自身がそういう人物である」という事実とは無関係ではないはずだし、だからこの配役は素晴らしかったなと思います。

また先述した通り、青木柚のことは昔から好きで、本作でも良い存在感を発揮しているなと感じました。映画『うみべの女の子』『サクリファイス』では「何を考えているのかよく分からない雰囲気」を醸し出す役を演じていて、本作でもそういう感じをナチュラルに出していたなという印象です。

さらにこれも既に触れましたが、森七菜がホントに最高でした。青木柚が演じた遠野とは違い、彼女が演じた花苗はメチャクチャ分かりやすく感情を表に出す役柄で、でも「遠野くんの前ではちゃんと抑えなくちゃ」みたいにも考えているわけです。しかしそれでも抑えきれない想いが溢れ出てしまうわけで、森七菜はそういうグチャグチャっとした心の動きを絶妙に表現していたなと思います。映画『国宝』でも良い存在感を放っていましたけど、ホント良い役者だよなぁ。

あと、水野を演じた木竜麻生も凄く素敵でした。遠野との恋人関係は、その在り方を考えればシンプルに「よそよそしい印象」になってもおかしくないはずですが、そんな違和感を抱かされることはありません。そしてそれは、木竜麻生の演技によるものだと感じました。

さらに、ラスト付近で改めて遠野と関わるシーンも凄く印象的だったなと思います。この場面で彼女が発した「遅くはないのか」というセリフには、「決定的に壊れちゃったから元通りになることはないけど、でもちょっとは印象変わったよ」みたいなニュアンスが含まれている感じがありました。まあ、「だから何だよ」って話ではあるのですが、ただこの2人の関係値的には意味のあるやり取りだったなという感じがして、凄く良かったです。

犀川後藤

木竜麻生は、本作の直後に観た映画『見はらし世代』でも凄く良かったんだよなぁ

いか

全然違う雰囲気だったけど、絶妙な存在感って感じだったよね

あと個人的には、中田青渚はいつ見ても気になっちゃう存在で、出番こそ少なかったけどとても素敵でした。映画『街の上で』を観てメチャクチャ惹かれた役者で、まだ大作映画で大きな役をもらう感じではないですが、ちょいちょ見かける度に「おっ、いた」みたいになる存在です。また、宮﨑あおいも何とも言えない絶妙な雰囲気を放っていたし、白山乃愛も素敵な存在感で、とにかく役者がメチャクチャ良かったなと思います。あと、書店の店長役として又吉直樹が、システムエンジニアの同僚としてダウ90000の蓮見翔が出てきたりして、そういうところも楽しかったです。

米津玄師による主題歌『1991』に含まれる「雑音」にはどんな意味があるのか?

本作の主題歌は米津玄師が担当していて、そのタイトルは『1991』。これは、小学生の遠野と明里が出会った年ですが、同時に、米津玄師が生まれた年でもあるそうです。米津玄師はインタビューで本作『秒速5センチメートル』について、「1991年という時代設定のこともあり、余計自分ごととして捉えられた」みたいなことを言っていました。

いか

しかしホント、米津玄師はこういう「作品をまとめて締めくくる主題歌」を作らせても天才だよね

犀川後藤

「作品に対する解像度が高い」って色んな作品で言われているみたいだし

さて私は、音楽を聴く際に「歌詞」がまったく頭に入ってこない人間です。基本的には「言葉」に強く興味を持っているので、自分でも凄く不思議なんですが、歌詞の言葉を「音」としてしか捉えていない感覚があって、だから「歌詞の意味」みたいなものが全然意識されません。なので歌詞の話ではないのですが、『1991』には曲中の随所に「ジジッ」みたいな雑音のような音が入っています。予告編を観ていた時から気になっていたのですが、本編を観て、この「ジジッ」が作品全体に凄く合っているように感じられました

本作『秒速5センチメートル』では、実写化にあたりかなり新たな要素を付け加えたようで(後で原作を観てそのことに気づきました)、その1つが「宇宙的な話」です。重要な舞台としてプラネタリウムを併設する科学館が登場するし、「ある約束」を思い出すきっかけに隕石が使われたりもします。そして作中に度々登場するのが「探査機ボイジャーに載せたゴールデンレコード」で、これは「いつかどこかで遭遇するかもしれない地球外生命体に向けたメッセージ」を収録したものです。

いか

なんやかんやあって、遠野がボイジャーの話をするシーンがあるんだけど、これも良いんだよねぇ

犀川後藤

実写版では、こういう「交錯」が随所で描かれているところも上手いなって思う

さて、「ジジッ」という異音に米津玄師がどんな意味を込めたのか、その正確なところは知りませんが、分かりやすいところで言えば「ゴールデンレコードを物理的に再生している時の振動」みたいにも捉えられるでしょう。とすればそれはそのまま「遠くにいる誰かに思いを届けようとしている」みたいにも受け取れるはずです。あるいは、決して「美しい」とは言えない「ジジッ」という音は、「あまりにも綺麗すぎる形で再生されている遠野の記憶」をグチャっと塗り潰そうとしているようにも感じられるし、そうだとすればそれは、「遠野が過去の美しい記憶から決別しようとしている意思の表れ」みたいにも捉えられるかもしれません。あるいは、「ジジッ」というのは「地球外生命体からの返信の電波信号(ノイズ)」を表現していて、つまり「仮に遠くの存在から返信があったとしても、それを受け取った側は解読出来ない」みたいな悲哀を表現していたりするなんて可能性もあるでしょう。

この中に正解があるのか、あるいはまったく的外れなのか、それはどっちでも構いません。ただ少なくとも、米津玄師が何らかの意図を込めてこの「ジジッ」を組み込んだことは確かだろうし、だからこそ考察の余地があるなと思うし、私も先のような可能性について考えられたわけです。表面的に捉えるなら、「美しい映像で彩られた作品には『ジジッ』は似合わない」という判断になりそうですが、敢えて組み込んだことで作品の読み取り方に深みが増しているような感じがしました。こういう要素も凄く良かったなと思います。

いか

曲が作れて歌えるだけじゃなくて、「解釈の解像度」も高いって、才能ありすぎだよなぁ

犀川後藤

絵もメチャクチャ上手いし、才能分けてほしいよねって思う

最後に

長々と色々書いてきましたが、とにかく素晴らしい作品でした。本当に観て良かったなと思います。

映画『アット・ザ・ベンチ』では、あまりにも会話が素敵すぎて「映像はなくてもいいから、せめて音声だけ繰り返し聴きたい」と感じましたが、本作『秒速5センチメートル』では、会話も良かったのだけどそれ以上に作品全体の雰囲気が素敵すぎて、「音声はなくてもいいから、せめて映像だけ繰り返し観たい」と感じさせられました。実に良いものを観たなという感じです。

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