【驚異】数学の「無限」は面白い。アキレスと亀の矛盾、実無限と可能無限の違い、カントールの対角線論法:『無限論の教室』(野矢茂樹)

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

著:野矢茂樹
¥715 (2022/11/23 18:55時点 | Amazon調べ)

この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「無限」には「実無限」と「可能無限」という2種類の捉え方が存在するなんて本書で初めて知った
  • 私が数学の証明の中で最も好きな「カントールの対角線論法」を、「可能無限」派が認めていないという事実に驚かされた
  • 「可能無限」派は、「√2」のことを「数」ではないと考えている

「可能無限」派の主張はかなり異端的に感じられるが、本書は「『数学』にも『価値観』が入り込む余地がある」と感じさせてくれる興味深い1冊だ

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

本書『無限論の教室』で初めて「無限」に種類があることを知ったし、「実無限」と「可能無限」の話には驚かされた

皆さんは「無限」というものについて考えたことがあるだろうか? 「『無限』って言ったら、あの『無限』のことだろ」と思った方、それでは、「『無限』には種類がある」と聞いて何を言っているのか理解できるだろうか? 私は本書を読んで初めてその事実を知った。まさか「無限」に複数の異なる捉え方が存在するとはまったく想像もしていなかったのだ。

本書には、「『カントールの対角線論法』を否定する」という主張が登場する。本書を読む以前から私は「カントールの対角線論法」の存在を知っており、数学の証明の中で一番好きなのだが、まさかそれを「認めない」なんて状況が存在し得るとは驚きでしかなかった

本書で扱われる「無限」は、確かに「数学」の領域に属する話なのだが、語られている内容は「哲学」のように感じられるかもしれない。数学でも物理でも、分野によっては、まさに「哲学」としか受け取れないような主張がたくさん登場するものだ。本書には、恐らく理解不能に感じられる話も多々出てくるだろうが、そういう点も含めて楽しんでもらえたらいいと思う。

本書の構成をざっと説明しておこう。基本的に、物語のように展開される作品だ。大学生の「僕」が、タカムラさんという女の子と2人で、タジマという講師による無限論の講義を聞いているという設定になっている。一般向けの数学書として非常に読みやすい「数学ガール」シリーズのように、本書も会話を中心にして「無限」の話が展開されるので、かなりとっつきやすい作品だと言っていいだろう。

それでは以下、私が興味深いと感じた話について書いていきたいと思う。

「実無限」「可能無限」とは一体何か?

本書の内容でとにかく驚かされたのは、「無限論には2つの立場がある」という主張だ。それまでまったくそんな話を聞いたことがなかったので、メチャクチャ驚かされた。その2つというのが「実無限」と「可能無限」である。タジマ先生は基本的に「可能無限」の立場に立っており(恐らくそれが、著者自身の立場でもあるのだと思う)、本書は全体として「『実無限』は幻想に過ぎない」と主張する内容になっている。

では、「実無限」と「可能無限」は何がどう違うのだろうか。この説明のために、まずは横に長い1本の線を思い浮かべてほしい。そしてその線上のどこかに点を1つ打ち、「0」と記入する。0より右側がプラスの数、0より左側がマイナスの数という、いわゆる数直線である。

さて、この数直線上に適切に目盛りを刻むと、そこには「無数の数字が存在する」と捉えられるだろう。例えば、「-10~+10」まで目盛りを刻んだとする。この場合、「1」「7」のような整数はもちろん、「2.56」「1/3」といった有理数や、「√2」「π(パイ)」のような実数も、この数直線上のどこかに「存在する」と考えるのが自然であるように思う。というか、私はそんな風に考えていた。

このような捉え方のことを「実無限」と呼ぶ。「この数直線上には、ある範囲内に収まるべき数が『点』として『存在する』」と考えるのが、「実無限」の立場というわけだ。

しかし「可能無限」派はそのようには考えない。そのようには考えないということはつまり、「数直線上に数が『点』として『存在する』わけではない」ということだ。では、「可能無限」の立場ではどのように考えるのだろうか。

それを短く説明すると、「数直線をどこかで切断した場合に、数としての『点』を取り出すことが可能であり、その『可能性』が『無限』に『存在する』」となる。

意味が分かるだろうか? ざっくり説明してみよう。

例えば、数直線を「3」のところで切断すると、「3という点(数)」を取り出すことができる。しかし「可能無限」派は、「その『3という点(数)』が数直線上に元から存在していた」とは考えない。「3」のところで切断すれば「3という点(数)」を取り出すことはできる。しかし最初から「3」という点(数)が数直線上に存在しているわけではない、というわけだ。

この違いを、トランプを例にして捉え直してみよう。52枚のトランプをシャッフルした後で、裏向きのままテーブルにダーッと綺麗に広げ、その中から1枚引くことを考える。引いたカードは「ハートの3」だとしよう。この場合、「実無限」的に考えれば、「マーク4種類、1~13の計52枚のカードが元から存在し、その中から『ハートの3』を選びだした」という説明になるだろう。しかし「可能無限」派の場合は、こんな捉え方になるんじゃないかと思う。「裏返しになったトランプは、マークも数字もまったく決まっていない。そして、トランプを1枚選んだ時に、初めてそのカードが『ハートの3』であることが確定した」と。

トランプを用いたこの説明は私が考えたものであり、恐らく「実無限」と「可能無限」の違いを適切に説明できてはいないだろう。しかし、意識したことはなかったものの「実無限」派だった私には、「可能無限」派の主張は、先のトランプの喩えと同じぐらいの不可思議さを感じさせられた。「そんな捉え方も存在するのか」と驚かされたのである。

しかし、「可能無限」派のように考えることにメリットも存在すると知り、受け取り方が変わった。例えば、有名な「アキレスと亀のパラドックス」も、「可能無限」の立場で考えればパラドックスでもなんでもなくなるのである。

「アキレスと亀のパラドックス」とは、足の速いアキレスと足の遅い亀がハンデ戦の徒競走を行うという話だ。亀がアキレスより前の位置からスタートし、アキレスが亀を追い抜けばアキレスの勝利となる。時間制限もゴールもなく、単に「アキレスが亀を追い抜けば終了」という条件なのだが、アキレスはいつまでたっても亀に追いつけないというのがこのパラドックスのポイントだ。なぜなら、アキレスが亀のスタート地点に辿り着いた時には、亀はその少し先を走っているし、アキレスがさらに亀がいた地点に辿り着いた時には、亀はやはりもう少し先に行っているからである。アキレスは必ず「亀が少し前にいた地点」を後から通過しなければならず、そのためアキレスは亀に永遠に追いつけない、ということになるわけだ。

もちろん、実際には亀を追い抜けないはずがないので、この考え方はどこかおかしいことになる。しかし、その矛盾を指摘するのはなかなか難しい。これが、有名なパラドックスとして知られる「アキレスと亀」である。

このパラドックス、「実無限」派にとってはなかなか難問だ。「実無限」派は、数直線上に無限の数が存在すると捉えるのと同様に、「空間を無限に分割することができる」と考えるため、上述のような矛盾が起こってしまうことになる。しかし「可能無限」派は、「空間を無限に分割することができる」とは考えない。「なんらかのものが『無限』に存在する」と考えるのではなく、あくまでも「可能性が無限に存在する」と捉えるに過ぎないからだ。

その違いは、こんなふうにも説明できる。アキレスが、先述した数直線上を走っているとしよう。この状況を「実無限」的に考えると、アキレスの行為は、「有限の時間で無限個の数を数える」ことに相当すると言える。「実無限」派は、数直線上に無数の数が存在すると考えるのだから、「-10~+10」の数直線を走る間でさえ、アキレスは無限個の数を通過することになるはずだ。しかし、やはりそれは奇妙な話だろう。一方、「可能無限」的に考えると話は変わってくる。「数直線上に無限個の数があるわけではない」のだから、そもそも矛盾は生まれないのだ。なかなかイメージは難しいが、「『可能無限』的に考えると、そもそも『アキレスと亀』のパラドックス自体が成立しない」という発想は、実に興味深いと感じた。

「可能無限」派は「カントールの対角線論法」を許容しない

本書の記述で一番衝撃だったのは、「『可能無限』的に考えると『カントールの対角線論法』は認められない」という主張だ。これには本当に驚いた。「カントールの対角線論法」は、文系の人でも頑張れば理解できるレベルの話なのだが、「よくもまあこんなことを思いついたものだ」と感心させられるような証明であり、数学の中で私が一番好きな証明だ。それが「可能無限」の立場からは否定されるというのだから驚いてしまった。

「カントールの対角線論法」は、「無限の濃度」に関する証明だ。というわけでまずは「無限の濃度」の話をしよう。

突然だが、「整数」と「偶数」とではどちらの方が多い(正確には「濃度が濃い」)か考えてみてほしい。例えば、「100までの整数」と「100までの偶数」であれば、「整数」の方が「偶数」の2倍存在する。当たり前だ。だったら、「無限の整数」と「無限の偶数」を比較した場合も、「無限の整数」の方が2倍多い(2倍濃い)と考えるのが自然だろう

しかし、カントールという数学者はそうは考えなかった。彼は「一対一対応」という考え方を用いて、「整数」と「偶数」の濃度が同じであることを示したのだ(この話はまだ「カントールの対角線論法」とは関係ないので注意してほしい)。

「一対一対応」とは、その名の通り、「一対一の対応を付けられる」という意味である。そして、一対一の対応を付けられる場合は「濃度が同じ」だとカントールは考えた。

例えば、以下のように「整数」と「偶数」を並べてみよう(どちらも正の数とする)。

整数:1 2 3 4  5  6  7 ……
偶数:2 4 6 8 10 12 14 ……

この場合、「整数」と「偶数」をどこまで並べても必ず「一対一の対応」を付けることができるだろう。どこかで「一対一の対応」が付かなくなるような区切りが現れることは絶対にない。だから「整数」と「偶数」の濃度は同じだというのがカントールの結論である。納得しにくい話かもしれないが、ここではとにかく「カントールはそのように定義した」と考えてほしい。

そしてカントールは同じようにして、今度は「整数」と「実数」の濃度を比較してみることにした。そして、その際に生み出した手法こそが「カントールの対角線論法」なのである。

基本的な考え方は、先程と同じだ。「整数」と「実数」に「一対一の対応」が付けば同じ濃度、付かなければどちらかの濃度が濃い(普通に考えれば「実数」の濃度の方が濃い)ということになる。

では、どんな風に比較すればいいだろうか

カントールはまず、「『整数』と『実数』の濃度が仮に『同じ』だとしたらどうなるか」と考えてみることにした。濃度が同じなら、「整数」と「偶数」の議論と同じように、「『すべての整数』が『すべての実数』と対応する表」を作れるはずである。例えば、以下のように対応がつけられたとしよう。

整数 実数
1   1.0056897……
2   8.6987881……
3   0.0300144……
4   9.9915586……
5   2.0006547……
︙  ︙
︙  ︙

6以降のすべての整数についても、このような対応がすべて付いていると仮定してみるのである。

さてここから、実数の「対角線」に並ぶ数字を拾うことにしよう。これこそが「対角線論法」の真骨頂である。「1.0056897……」の「1」、「8.6987881……」の「6」、「0.0300144……」の「3」、「9.9915586……」の「1」、「2.0006547……」の「6」……という風に、斜めに並ぶ数字だけを拾い、さらにそれらを順番に並べて新たな小数を作ると、「1.6316……」となるのだが、理解できるだろうか? さらに、この新たに作った小数の各桁に「1」を加えると、「2.7427……」という小数が出来上がる。これで準備は完成だ。

整数 実数
1   1.0056897……
2   8.6987881……
3   0.0300144……
4   9.9915586……
5   2.0006547……
︙  ︙
︙  ︙

それでは、この「2.7427……」という小数が、先程の対応表の中に存在するか考えてみてほしい。元々、「『整数』と『実数』の濃度が『同じ』」であり、「すべての実数がこの対応表に載っている」と仮定したので、「2.7427……」という小数もこの表に存在していなければならないはずだ。しかし、実際には存在しないことが分かる。

何故そう言い切れるのか。では、「2.7427……」という小数を、表の上から順に比較してみよう。「整数1と対応する小数(1.0056897……)」とは「左から1番目の数字」が、「整数2と対応する小数」とは「左から2番めの数字」が、「整数3と対応する小数」とは「左から3番めの数字」が必ず違っているだろう。「2.7427……」という小数はそのようにして作り出した数なのだから当然だ。つまり、この「2.7427……」という小数は、「整数nと対応する小数」と「左からn番めの数字」が必ず異なるのである。

なので、新たに作り出した「2.7427……」という小数は、先程の対応表の中には絶対に存在しないことが分かるのだ。「すべての実数が載っていること」を前提にして作った表に存在しない実数を生み出せてしまったのだから、「『整数』と『実数』の濃度が『同じ』」という最初に設定した前提が誤っていることになる。つまり、実際には「『整数』と『実数』の濃度が『違う』」のであり、「整数」よりも「実数」の濃度の方が濃いというわけだ。

これが「カントールの対角線論法」である。なんとなくでも理解していただけただろうか?

では、「可能無限」派は何故「カントールの対角線論法」を受け入れないのか。その理由はシンプルで、「可能無限」派はそもそも、「1.0056897……」のような「……」で表される小数を「数」として認めていないからだ。

「実無限」派は、「すべての数が数直線上の点として存在している」という立場なので、「1.0056897……」のようなどこまでも続く小数でも、「『……』の部分がどうなっているか分からないが、『……付きの小数』も数直線上のどこかにあるはずだし、当然『数』として認める」と考える。しかし「可能無限」派は、「数直線を切断した時に『数』を取り出せる『可能性』が無限に存在する」とという立場だ。そして、「……付きの小数」は、数直線の切り方が指定されていないという判断になり、だから「そんな『数』は存在しない」という結論になるのである。「カントールの対角線論法」では、「……付きの小数」を「数」として扱っているため、「可能無限」派としては許容できない、というわけだ。

なかなか面白い考え方だと感じた

「可能無限」派は、当然「√2」も「数」とは捉えない。小数に直すと「1.41421356……」となるからだ。では「数」ではないならなんだというのか。「√2」の各桁の数字は、ある規則(「開平法」と呼ばれている)によって導くことができる。だから「可能無限」派にとって「√2」は、「開平法に付けられた名前」ということになるのだ。例えば、「√2>1」(ルート2大なり1)という式があるとして、「実無限」派はこれを「√2は1よりも大きい」と読む。私もそう読むし、普通はそうだろう。しかし「可能無限」派は、「√2という開平の仕方によって、1よりも大きな数を作ることができる」と読むのだそうだ。ほえ~という感じである。

また、このように思考することで、「可能無限」派は「『実数』という集合は存在しない」とも考えるのだそうだ。「実無限」派が「実数」と捉える√2を「数ではない」と考えるのだから、「実数」という集合も認めるはずがないだろう。なかなか異端的な発想だと思う。とはいえ、「答えが必ず定まる」と思っていた数学という分野において、「価値観の違いによって見解が異なる状況」が存在するなどと想像したことがなかったので非常に驚かされた。とても面白い主張である。

著:野矢茂樹
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最後に

当然と言うべきか、「可能無限」の立場を取る者はかなり少数派なのだそうだ。実際、「数直線上には無限に『数』が存在する」「√2は『数』である」と考えて特に支障はないのだから、「可能無限」という特殊な考え方をする必要はないように思えてしまう。しかし、「実無限」的な世界の捉え方が唯一のものという考えも決めつけでしかないし、「可能無限」的な解釈の余地もあるのだと本書を読んで実感できた

「数学」という学問分野に対して新たな視点をもたらしてくれた、非常に興味深い作品である。

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