【終焉】資本主義はもう限界だ。インターネットがもたらした「限界費用ゼロ社会」とその激変

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

著:ジェレミー・リフキン, 翻訳:柴田 裕之
¥1,980 (2021/06/17 21:50時点 | Amazon調べ)

この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 資本主義によって、産業革命は促進され、人類社会は豊かになった
  • IoTの登場が、限界費用をほぼゼロまで押し下げている
  • 資本主義の衰退により、「シェア」を基本とした「協働型コモンズ」が台頭する

「物質的利益」で結びつくことが難しい時代の変化は、個人にとってはとても面白い

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

『限界費用ゼロ社会』が突きつける、第三次産業革命が突きつけた資本主義の矛盾

資本主義はこれまで、どのように成長してきたのか?

本書は、「技術革新によって資本主義が限界を迎えた」と主張する作品だ。そしてまず、資本主義が技術革新とともにどう成長していったのかが丁寧に描かれていく。

重要なポイントは、「財を生み出すための費用」がもの凄く高かった、ということだ。石油・電力・道路などのインフラの整備によって財を成す者が多かったが、それらはイメージできる通り、圧倒的な資金力がなければできない事業でもある。だからこそ、垂直統合型の巨大資本が生まれ、そのような少数の大企業が経済を支配するようになっていく。

この流れは、経済発展においては必然だったと言える。

また、これらインフラの整備は、技術革新の歴史でもある

インフラには三つの要素が必要で、そのそれぞれが残りの二つと相互作用し、システム全体を稼働させる。その三つとは、コミュニケーション媒体、動力源、輸送の仕組みだ

第一次・第二次産業革命では、この3つの要素それぞれで革命的な進化が遂げられ、その相互作用によって産業革命が一層推し進められていったのだ。

そしてそのような中で、インフラ整備だけではなく、様々な製品も生み出されていく。資本主義の基本にある前提というのは、「製品の需要が高まれば、より安く作れるようになる」である。製品を生み出すコストは、最初こそ高いが、需要が高まればより大規模で効率的な生産が可能となり、1製品当たりのコストは劇的に下がっていくものだ。

本書ではまず、このような「資本主義」の背景が語られていく。そして「インフラの整備には莫大な金が掛かる」「製品の製造コストは需要と共に下がるがゼロにはならない」というのが、「資本主義」の大前提だったと確認されるのだ。

インターネットの登場によってもたらされた「限界費用ゼロ」の衝撃

しかし、インターネットの登場によって、この状況が変わる。特に「IoT(モノのインターネット)」が世界を一変させたと言っていい

例えば、インフラの整備で考えてみよう。インフラには、「コミュニケーション媒体」「動力源」「輸送の仕組み」の3要素が必須であり、これらを低コストで手に入れる方法はこれまで存在しなかった。しかし現在なら、「コミュニケーション媒体」はインターネット、「動力」は再生可能エネルギーを分散型システムで連携させたスマートグリッド、「輸送の仕組み」は3Dプリンタ(輸送不要な仕組み)で代替可能だ。

つまりこれは、大規模な投資を必要としていたインフラの整備も、かなり低コストで行うことができるようになっているということを示している。

同じことが製品の製造についても言える。技術革新は目覚ましい。「製造コストは需要と共に下がる」という資本主義の前提を、限界まで推し進めることができるようになっているのだ

企業は常に熾烈な競争を生き抜いている。だから、製造コストは常に下がる方向に圧力がかかる。つまり、インフラの整備コストが劇的に下がったのと同じ理由で、製造コストも、経済学が想定しているよりも遥かに下がっていくことになるのだ。

整備コストや製造コストが下がることは、良いことのように感じられる。消費者としては、安く使用したり購入したりできるからだ。

しかし、果たしてそうだろうか?

それは、資本主義経済の最終段階において、熾烈な競争によって無駄を極限まで削ぎ落とすテクノロジーの導入が強いられ、生産性を最適状態まで押し上げ、「限界費用(マージナルコスト)」、すなわち財を一単位(ユニット)追加で生産したりサービスを一ユニット増やしたりするのにかかる費用がほぼゼロに近づくことを意味する。言い換えれば、財やサービスの生産量を一ユニット増加させるコストが(固定費を別にすれば)実質的にゼロになり、その製品やサービスがほとんど無料になるということだ。仮にそんな事態に至れば、資本主義の命脈とも言える利益が枯渇する

本書の主張がここに詰まっている。つまり、「限界費用がゼロになれば、資本主義は成り立たなくなる」ということである。

確かに我々はもう、その予兆を感じる世界に生きているはずだ。世の中のあらゆる便利なもの、自分の生活を豊かにするものが無料で手に入る。スマホのアプリも、音楽も、映像も、写真も無料で使え、服や食べ物だって仕組み次第では無料のものがある。

もちろんそれは、「限界費用がゼロになっている」からではなく、廃棄されるものを無くす動きだったり、広告費で収支をプラスにしていたりと、様々な収益構造で成り立っているのだと思う。しかし、そういう仕組みが成り立つのもインターネットの登場が大きかっただろうし、このような流れは、本書が指摘する「限界費用ゼロ」への過渡期なのだとも感じる

著者が想定する「協働型コモンズへの移行」

ではこのまま資本主義は終わりを迎えるのだろうか? もちろんそんなことはない。資本主義は非常によくできた仕組みであり、無くなることはないだろう。ただ本書では、これまでと同じような形では機能しなくなっていくだろうと指摘する

その場合、社会はどう変わっていくのか?

著者はここで、「協働型コモンズ」という仕組みが新たに社会を動かしていくことになる、と示唆している。

そもそも「コモンズ」とはなんだろうか?

現代のコモンズは、生活の最も社会的な側面にかかわる場であり、何十億もの人々が関与している。それはたいがい民主的に運営される、文字どおり何百万もの自主管理組織から成り、慈善団体や宗教団体、芸術団体や文化団体、教育関連の財団、アマチュアスポーツクラブ、生産者協同組合や消費者協同組合、信用組合、保険医療組織、権利保護団体、分譲式集合住宅の管理組合をはじめ、公式あるいは非公式の無数の機関がそれに含まれ、社会関係資本(社会における人々のネットワークや信頼関係)を生み出している

そして、「協働型コモンズ」についてはこう書いている。

資本主義市場は私利の追求に基づいており、物質的利益を原動力としているのに対して、ソーシャルコモンズは協働型の利益に動機づけられ、他者と結びついてシェアしたいという深い欲求を原動力としている

これでもまだ分かりにくいかもしれない。一番イメージしやすいのはおそらく「COOP(生活協同組合)」で、「生協」という呼び方の方が馴染み深いだろう。

この「生協」、どのような仕組みで運用されているか知っているだろうか?

生協は「生活協同組合」の略で、数ある「協同組合」の一つです。
消費者一人ひとりがお金(出資金)を出し合い組合員となり、協同で運営・利用する組織です。

日本生活協同組合連合会

生協というのは、「参加します」という意思を表示して「出資金」を出し、そのお金を元にみんなで助け合いましょう、という組織である。これが、「物質的利益」ではなく、「他者と結びついてシェアしたいという深い欲求」を原動力とした「協働型コモンズ」だ。

資本主義が普通に成り立つ世界では、「物質的利益」で関わることは当然だろう。しかし、資本主義が限界を迎え、資本主義の命脈たる利益が枯れることで、「物質的利益」で関わることが難しくなる。だからこそそのような世の中では、「結びつき」や「シェア」といった繋がりが重要になってくるわけだ。

「オンラインサロン」などで結びつきを求めたり、所有ではなくシェアのサービスが増えたりと、まさに現代は「協働型コモンズ」の土壌が広がりつつある時代だと言えるだろう。

「限界費用ゼロ」は、我々が社会を変えていける世の中になったことを意味する

限界費用がゼロになるということは、社会の変革に我々が意思を持って参加できる時代になるということでもある。

どういうことか。

かつてはインフラの整備を行うのに、莫大な費用がかかったが、同時に、利益も莫大だったことだろう。また、参入障壁が高いからこそ、コストを下げなければならない圧力も低かったかもしれない。大企業が独占しやすい環境だった、ということだ。

しかし現代では、技術革新によってインフラ整備のコストが劇的に下がり、そしてそれに伴って得られる利益も下がっているだろう。そしてだからこそ、これまでは大企業にしかできなかったことが、個人でもできるようになっている

現代では、個人がプロシューマー(生産も消費も共に行う人)となり、ピア・トゥー・ピア(個人同士のやり取り)でモノやサービスを流通させることができる。農業の世界に若い人が入り、農協などを経由せずに自前で販売ルートを確保する、というようなことが、以前に比べれば劇的に簡単になっている。そして、そういう個人の動きが、巨大資本まで脅かすような時代なのだ。

本書にはそのような例が様々に載っている。具体例については是非読んでほしい。

このように、限界費用がゼロに近づくことは資本主義の根幹を揺るがすが、同時に、個人がより積極的に社会に関与できるということでもある。まさに、「協働型コモンズ」のような仕組みが成り立ちやすい時代であり、理念を持った個人が、巨大資本に頼らずとも社会を変えていけるという、非常に面白い時代になっているのだ。

著者が指摘する「協働型コモンズの問題点」

しかし、「協働型コモンズ」にも問題点がある。考えてみれば当然なのだが、「インフラの資金はどこから調達するのか」は大きな壁だろう。

協働型コモンズでは、売り手と買い手に代わってプロシューマーが登場し、所有権はオープンソースのシェアにその座を譲り、所有はアクセスほど重要ではなく、市場はネットワークに取って代わられ、情報を作成したり、エネルギーを生産したり、商品を製造したり、学生に教えたりする限界費用はほぼゼロとなる。そこで肝心の問いが浮かんでくる。これらをすべて可能にする新しいIoT(モノのインターネット)インフラの資金はどうやって調達されるのだろうか?

確かに個人にできることは増えた。しかしその実現のためには、やはりある程度のインフラ整備が必要となる。例えば、スマートグリッドの仕組みを使えば、ランニングコストを可能な限り圧縮しながら、発展途上国に電気を送ることはできるかもしれない。しかしそのためには、初期コストとして、3Dプリンタを調達したり、その3Dプリンタで何かを作ったりする費用が必要になる。そのためのお金はやはり調達しなければならない。

ただ著者は、状況は大きく変わるだろう、と見ている。例えば、世界中で風力発電と太陽光発電のインフラが相当大規模に整備されているようだが、これは「固定買取制度」という、再生可能エネルギーを行政や政府が一定以上の金額で買い取るという制度が存在するお陰だ。同じように、人々の行動を促進させるような制度によって、一気に変わる可能性がある、と見ているようだ。

資本主義の衰退は、理念を持つ個人にとって刺激的な世界を現出させているのである

著:ジェレミー・リフキン, 翻訳:柴田 裕之
¥2,200 (2022/02/03 23:13時点 | Amazon調べ)

最後に

本書は、日本語訳は2015年、原書は2014年の発売であり、既にこの作品で描かれていることが実現していたりもするだろう。読むと確かに、ここ最近の時代の変化を見事に捉えていると感じられる。

限界費用は明らかにゼロに近づいており、それは資本主義の限界を示唆している。そして大事なことは、「協働型コモンズ」が唯一の正解だとは限らないということだ

私たちは、「資本主義が、資本主義自体が持つ矛盾によって崩れ去る」という稀有な体験をする世代になるだろうし、その後の世界がどう変わっていくのか、興味深く感じられる。

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