【ドラマ】「フェルマーの最終定理」のドラマティックな証明物語を、飲茶氏が平易に描き出す:『哲学的な何か、あと数学とか』

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • ソフィー・ジェルマンという数学者は、女性が学問を禁じられていた時代に奮闘した
  • 自殺を思いとどまったヴォルフスケールという大富豪は「フェルマーの最終定理」とどう関係したか?
  • 「ゲーデルの不完全性定理」が数学者たちに絶望を与えた理由は?

「数学の証明」が、これほどのドラマを生むことはなかなか無く、そういう意味でも「フェルマーの最終定理」は特別です

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

飲茶『哲学的な何か、あと数学とか』で描かれる、「フェルマーの最終定理」に関わった様々な人物の奮闘

この記事で「フェルマーの最終定理」にどう触れていくか

「フェルマーの最終定理」に関する記事は、書いたことがある。

上の記事では主に、「フェルマーの最終定理」に関する数学的な側面に触れた。「フェルマーの最終定理」とはどんな予想なのか、「志村=谷山予想」との関係、「岩澤理論」が果たした役割などだ。

今回の記事では、以前の記事では書かなかったことに触れていこうと思う。「フェルマーの最終定理」に関しては、様々な人間ドラマが知られており、数学的な側面に触れずとも書けることが多々あるのだ。

今回は、「フェルマーの最終定理」そのものについての説明も省略する。「フェルマーの最終定理」がどんな風に誕生し、どんな予想なのかについて知らないという方は、上の記事を先に読んでほしい。

『哲学的な何か、あと数学とか』にも当然、数学的な記述は出てくるが、数多あるだろう「フェルマーの最終定理」関連本の中では、かなり少ない方だと思う。人間ドラマに特に焦点が当てられており、数学が苦手な人にも楽しめる作品になっている

ソフィー・ジェルマンという女性数学者

フェルマーの死後、「フェルマーの最終定理」として知られるようになった予想には長く大きな進展がなかったが、最初に証明を大きく前進させたのが、ソフィー・ジェルマンという数学者だ。彼女がどのように「フェルマーの最終定理」に斬り込んでいったのかという数学的な部分についてはこの記事では触れない。その代わりにこんなエピソードを紹介しよう。

当時は「数学」に限らず、女性が「学問」をするなど考えられない時代だった。しかしソフィーは数学を愛し、数学の研究を志したいと思った。そんな彼女がいかにして親の目をかいくぐり、普通だったら女性が入学できない学校に性別を偽って潜り込み、さらにどんな奇跡的な出会いによって数学研究に従事できるようになったのかという奮闘が描かれていく。

「女性」だからという理由で学問が許されなかったというのも、今の感覚からすれば驚きではあるが、さらにそんな状況の中で、それまで誰も進展させられなかった「フェルマーの最終定理」に斬り込んでいった女性がいたという事実もとても興味深い

また本書には、ガウスとのエピソードも紹介されている。ガウスは、当時数学に携わっていたすべての人間が「神」と崇めるほどの天才数学者であり(現在でもその凄まじい功績が多数知られている)、ソフィーももちろんガウスを崇拝していた。そしてそんなガウスに、自身が女性であるとバレてしまうのだ。本書の書きぶりもあるのだろうが、非常に微笑ましい顛末を迎えるエピソードで面白い。

ヴォルフスケールという大富豪

本書には、「フェルマーの最終定理」に関してこれまで知っていたことも含め様々なエピソードが出てくるのだが、このヴォルフスケールの話は本書で初めて知ったし、「フェルマーの最終定理」に関わるエピソードの中でもかなり好きなものだ。「フェルマーの最終定理」というのは、数学にさほど興味のない人でも名前だけは知っているという、数学の話題としてはかなり珍しいものだが、その理由の一端がこのヴォルフスケールにあるのだと知れたことも良かった。

「フェルマーの最終定理」に絡んでいる人物なのだが、ヴォルフスケールは数学者ではない。学生時代に数学をかじってはいたが研究者の道には進まず、その後ビジネスマンとして成功した人物だ。また元々、資本家である名家の出身でもあるようだ。

そんな人物がどのように「フェルマーの最終定理」と絡んでくるのか。

彼はある時、世をはかなんで自殺をしようとしていた。死ぬ日を定め、その日までに必要な準備をすべて終わらせ、心置きなくこの世を去ろう、と考えていたのだ。しかし、有能なビジネスマンだった彼は、自分が定めたタイムリミットまで余力を残してすべての準備を終えてしまった。あと数時間ではあるが、自分が定めたタイミングで死にたいと考えた彼は、何かで時間を潰そうとした

その時彼が手にしたのは、クンマーという数学者が書いた本で、「フェルマーの最終定理」に関わるある理論が載っていた。そして彼は最後の数時間を、その理論が正しいかどうかのチェックにあてようと考えたのだ。

しかしいざ取り組んでみると、どうもその理論には誤りがあるように感じられる。学生時代の血が騒いだ彼は、その理論と真剣に向き合い格闘した。

そしてやっとその修正の目処がつき始めた頃には、彼が死のうと予定していた時刻をとうに過ぎてしまっていた。死ぬタイミングを逸した彼は、そのまま自殺を取りやめる。そしてその後ビジネスに成功し、巨万の富を稼ぐことになるのである。

晩年彼は、「ヴォルフスケール賞」という自身の名を冠した賞を作った。これは、「フェルマーの最終定理を証明した者」に賞金が与えられるというもので、その額10万マルク、現在の価値に換算するとなんと日本円で10数億円にもなるというから驚きだ。

実は彼が賞を作った当時、「フェルマーの最終定理」は一般的には忘れ去られていた。数学界でも、「あまりにも難しすぎて、手を出してはいけない」という扱いだったのだ。しかし「ヴォルフスケール賞」によって、再び注目が集まることになる。

特に、この多額の賞金に釣られたアマチュア数学家が「フェルマーの最終定理」に挑戦するようになったという。そして最終的にワイルズという数学者が証明を果たすまで、これらアマチュア数学家から送られてくる「誤った証明」への対処に、苦労させられることになる。

「フェルマーの最終定理」の存在を多くの人が知っているのも、元を辿ればこの「ヴォルフスケール賞」に行き着くのだろうと感じた。ただの数学の予想ではなく、「証明できれば10数億円の賞金が手に入る」という情報とセットなら、人々の関心を広く集めただろうと思うからだ。

「ゲーデルの不完全性定理」ショック

「ヴォルフスケール賞」によって再び「フェルマーの最終定理」に注目が集まることになったわけだが、ゲーデルという天才数学者が発表したある理論がその熱狂にブレーキを掛けてしまった、という話も興味深かった。

「ゲーデルの不完全性定理」として知られるこの理論は、直接的には「フェルマーの最終定理」とは関係がない。しかし「フェルマーの最終定理」に挑戦しようとする数学者たちの出鼻を挫くという意味で非常に重要な役割を果たすことになった。

「ゲーデルの不完全性定理」に関しては別で記事を書いているので、詳しく知りたい方はそちらを読んでほしい。

この記事では、「フェルマーの最終定理」との関わりだけに焦点を当てるが、簡単に表現するとゲーデルは、「数学の命題には真偽を判定できないものも存在する」と主張した。実際に1963年に、「『連続体仮説』という命題の真偽は証明できない」ということが証明されている。

ゲーデルがこう発表するまで数学者は、「数学の命題は、真(正しい)なのか偽(間違い)なのか判定できる」と捉えていた。それがどれほど難問であろうが、それが数学の命題である限り、「真か偽かを判断できる」と考えていたわけだ。これは自然な発想だろう。

しかしゲーデルは、そうではない可能性を示唆してしまう。つまり、「自分がまさに今取り組んでいる命題が『証明不可能な問題』かもしれない」という恐怖を、数学者たちに与えることになったのだ。

「フェルマーの最終定理」にしても、「超難問だが頑張れば証明できるはずだ」と思うからこそ多くの者が取り組んできた。しかし、もしかしたら「証明不可能な問題」である可能性もある。そう知ってしまえば、決して長くはない数学者人生(数学者は特に、若い時期にしか大きな成果が挙げられないと言われている)を「フェルマーの最終定理」に費やすのは蛮行だと感じられてしまうだろう。

こうして、「ヴォルフスケール賞」によって盛り上がった「フェルマーの最終定理」熱は、「ゲーデルの不完全性定理」によって萎んでしまうことになるのだ。

しかしその後、「志村=谷山予想」との関係が示唆されることで、再び「フェルマーの最終定理」は復活する。そして最終的には、「志村=谷山予想(の一部)」を証明することで、「フェルマーの最終定理」が正しいことが示される、という流れになっていくのである。

この辺りの流れは、先ほども紹介した記事に書いたのでそちらを読んでほしい。

このように、数学的な記述を一切せずとも、「フェルマーの最終定理」の証明物語はドラマに溢れているのだ。人間ドラマとして是非、「フェルマーの最終定理」の歴史に触れてほしいと思う。

最後に

最語に、「フェルマーの最終定理」との直接の関わりは薄いのだが、本書で初めて知ったある事実に触れて終わろうと思う。それが「平行線公準」に関するエピソードだ。

「平行線公準」に関する具体的な話は、以下の記事で触れたので読んでほしい。

本書でも、この「平行線公準」に関して記述されており、「ヤーノシュという数学者が『平行線公準を前提としない幾何学が存在しうる』ことを示した」という風に書かれている。

しかし私の記憶では、それを示したのはガウスだったはずだ。おかしい、と思いながら読み進めていたら、その理由が判明した。確かにガウスが示したのだが、ヤーノシュはそのことを知らなかったのだ。

ここには、ガウスという数学者の非常に厄介な性格が関係している。

ガウスは、自身の考えをあまり発表しなかったようだ。そして、誰か数学者が何らかの考えを発表すると、「あぁ、それについては自分ももう既に考えていた」と言って、その数学者を上回る知見を放り投げてくるのである。

「平行線公準」に関しても同様で、ガウスはヤーノシュよりも先にたどり着いていたのだが、それを発表しておらず、当然ヤーノシュも知らなかった。そしてヤーノシュは自分のオリジナルな発見だと思って発表するわけが、実はガウスに先を越されていたと後で知ることになるのだ。

このガウスの性格は同時代の数学者を戦々恐々とさせたそうだ。当然だろう。自分が成果を発表しても、それは「ガウスが発表していないだけの成果」であるかもしれないのだから。ガウスが何故そんなやり方をしたのかよく分からないが、罪な男だと思う。

このように、数学者にまつわる興味深い話も満載の作品であり、数学そのものが得意ではないという人にも楽しめる作品だ。是非読んでほしいと思う。

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