はじめに
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この記事の3つの要点
- 性被害者自身が監督・被写体となり、普通なら迫れないギリギリまで「被害者」に肉薄する特異なドキュメンタリー映画
- ドアマンとの電話のシーンに号泣させられ、女性からの匿名のメールに怒りを覚えさせられた
- 制作過程で法律的・倫理的な問題はあるが、それでも、作品が持ち得る影響力を考えると、広く観られるべき映画だと思う
自己紹介記事


記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません
映画『Black Box Diaries』は、性被害を受けた伊藤詩織自身が監督を務め、「あの日以降」を隅々まで描き出す衝撃のドキュメンタリーだ
映画の後半、ホテルのドアマンの男性との電話のシーンでは号泣させられてしまった。そしてきっと、同じように感じた人が多かったのだろう。客席からも鼻をすする音が断続的に響いていた。

本作『Black Box Diaries』について語る上での私の大前提
さて、本作『Black Box Diaries』についてあれこれ書く前に、まずは本作に対する私のスタンスを明らかにしておきたいと思う。
まず、「事件に関して、私は基本的に伊藤詩織氏の証言を信じる」という話から。性犯罪には元々物証が少ないと思うのだが、彼女が巻き込まれた事件でもやはり「客観的な事実を示す証拠」は存在しないようだ。だから、あの時あの場所で何があったのかは誰にも分からない。伊藤氏と加害者とされる山口氏の証言は異なっているようで、となれば、我々外部の人間に出来ることは結局「どちらの証言を信じるか」という選択しかないだろう。そして私は、伊藤詩織氏の証言を信じているというわけだ。

また、「当時の法律に抵触する行為があったかは不明だが、倫理的に咎められる行為があったことは間違いない」とも考えている。事件が起こった2015年当時には「不同意性交等罪」は存在せず(2023年に成立)、「強姦罪」や「強制性交等罪」という罪名だった。そしてこれらの罪の場合、「同意がなかった」というだけでは成立せず、「暴行・脅迫・心神喪失」といった要件が必要とされたのである。

つまり、「強姦罪」「強制性交等罪」で起訴され無罪になったとしても「暴行・脅迫・心神喪失は無かった」というだけであり、同意がないSEXが行われた可能性は十分にあるのだ。個人的には、山口氏の行為は「不同意性交等罪」に該当するのだろうと考えている。
そしてもう1つ。「私は本作『Black Box Diaries』を許容する」とも書いておこう。この点に関しては記事の後半で詳しく触れるが、要点だけ書いておくと、「『Black Box Diaries』には制作上の問題があり、そのため当初は公開館も少なく、さらに伊藤詩織が批判されてもいるが、そういった事実をひっくるめて、私は本作を許容する」という意味である。本作の制作過程における伊藤詩織のいくつかの行為には法律的・倫理的な問題があるが、「しかしそうだとしても、本作は広く観られるべきではないか」と考えているというわけだ。
ただこの点に関しては、100%の自信はない。ドキュメンタリー映画を好んで観る人間としてはやはり、彼女の制作のスタンスには「いかがなものか」と感じてしまう部分があるからだ。決して全面的に賛成しているわけではない。「あらゆる事柄を総合的に判断した上で、『許容せざるを得ない』と思っている」というのが正直なところだ。この点に関しては批判があって当然だし、批判している人に対しても「まあ、そうだよね」と思う。

というわけで、これらのことを前提にしつつ、私はこれから文章を書いていくつもりだ。この時点で「自分の感覚とは合わない」と感じる人もいるだろうし、そういう方はこれ以降の文章を読んでもきっとイライラするだけだと思うので、ここで読むのを止めていただくのがいいだろう。
伊藤詩織が巻き込まれた事件について概説する
さて、知っている方は読み飛ばしてもらって構わないが、まずは伊藤詩織と彼女が巻き込まれた事件についてまとめておこうと思う。彼女は2015年4月に、著名なジャーナリストであり、当時TBSのワシントン支局長だった山口氏に強姦されたと警察に被害届を提出した。そしてその2年後の2017年5月29日、彼女は顔出しでの記者会見を決断する。捜査が進展せず膠着状態に陥っていたことも理由の1つだった。こうして伊藤詩織は、「顔出しで性被害を訴えた希少な日本人女性の1人」として認知されるようになる。

そしてその記者会見と時を同じくして、アメリカで、ハリウッドの有名プロデューサーであるハーヴェイ・ワインスタインの性加害問題が取り沙汰され、世界的に「#MeToo運動」が広がった(ちなみに、ハーヴェイ・ワインスタインを追い詰めた女性記者2人の奮闘を描いた映画『SHE SAID』もとても興味深い)。こうして彼女は、「#MeToo運動に先駆けていち早く声を上げた人」として世界的にも知られていくのである。その後彼女は、自身の経験を綴ったノンフィクション『Black Box』を出版。そしてさらに今回、自身を被写体としたドキュメンタリー映画が公開に至ったというわけだ。

さて、当時の報道を覚えている人は、この性犯罪には「政治」が絡んでいることも記憶しているだろう。加害者とされる山口氏は、当時首相だった安倍晋三と非常に仲が良いと言われていた。そして、「その事実が、山口氏の不逮捕という忖度へと繋がったのではないか?」という疑惑が取り沙汰されていたのだ。
実際、山口氏に対する逮捕状は出されており、後は逮捕するだけという状態になっていたという。しかし、成田空港で逮捕に備えて待ち構えていた現場の捜査官に、上層部から「逮捕するな」と命令が下ったそうだ。結局捜査官は、目の前を通り過ぎる山口氏をただ見ていることしか出来なかったという。このような話は当時盛んに報じられていた。そして、ここからは憶測の話になるが、「この不逮捕の指示は、山口氏と仲の良い安倍首相への忖度だったのではないか?」疑われていたのである。
つまり、「レイプ事件」に「政治」が関わっていたかもしれないというわけだ。そしてそんな状況に巻き込まれてしまったのが伊藤詩織なのである。大雑把ではあるが、これが事件やその後の展開の概況だ。そして、そんな自身を被写体にして作られたのが本作『Black Box Diaries』である。

本作『Black Box Diaries』で最も号泣させられたシーン
本作を観て感じたことは色々とあるのだが、まずは、冒頭で少し触れた「号泣させられたシーン」について書いてみることにしよう。
それは、刑事裁判で「不起訴相当」と判断された後に起こした民事裁判の1審判決がもうすぐ出るというタイミングでのことだった。ホテルのドアマンから当日の詳細な情報を聞き出すことが出来たのだ。
本作では冒頭で、事件当日の防犯カメラ映像が流れる(これが「制作上の問題」の1つでもあるのだが)。そこには、酔っ払って意識がほとんどなさそうに見える伊藤詩織を山口氏が無理やり立たせてホテルに向かわせようとする姿が映っているのだが、まさにその時ドアマンとして勤務していた男性から証言が取れたのだ(ただ、民事の1審が結審するというタイミングまでどうしてそのドアマンから情報が取れなかったのかは分からない)。

伊藤詩織は彼に法廷で証言してほしいと考えるが、しかしその考えに弁護士は反対だった。どうも、裁判官の交代を危惧していたようだ。追加の証言を組み込めば審理の日程が遅れ、それによって裁判官が交代する可能性がある。そんなリスクを負うよりも、今の裁判官のまま結審を迎えた方が良いんじゃないか、というのが弁護士の判断だったそうだ。しかし彼女は自分で色々考え、最終的にドアマンに法廷での証言をお願いしようと決断する。

そして本作では、その依頼を電話で行う様子が映し出された。彼女はドアマンに、「この日の裁判は公開で行われるため、証言をしてくれるとしたら、あなたの存在やその証言がマスコミを通じて伝わってしまう」という懸念に触れた上で、「どうしても裁判官にあなたの話を聞いてほしいから、是非証言をお願いしたい」と伝える。それに対してドアマンが、「気持ち良く、出来ることは何でもやろうと思っています」と返すのだ。そしてさらに続けて、次のようなことを言っていた。
特に心配事はありません。名前も出してもらって大丈夫です。伊藤さんが味わった苦しみに比べたら全然なんてことはないので。
それに以前から、性犯罪の罪が軽いと思っていたんです。まさか自分がこんな風に性犯罪の裁判に関わるなんて思いもしませんでしたけど。だから僕は、あの日の当直が自分で良かったなって思ってるんですよ。

凄いものだなと思う。彼はこの時点で、ずっと同じホテルで働き続けており、さらに、会社からは証言することを止められていたそうだ(これが、民事裁判の結審直前までドアマンの証言が得られなかった理由かもしれない)。しかし彼は色々と悩み考えたのだろう、最終的には「自分の証言が何か役に立つなら」と、不利益を被る覚悟で証言する決断をしたのである。
自分がもし彼と同じ立場にいたとして、同じ決断が出来るだろうかと考えてしまった。私だって当然、気持ちとしては「こんなの許しちゃいけない」と感じるはずだ。しかしだからといって、自分の人生が大きく変わってしまうかもしれないという状況では、容易には結論を出せないだろうなとも思う。ドアマンにしても簡単な決断じゃなかったとは思うが、しかしそれでも最終的には大きな一歩を踏み出したわけで、その勇気にはボロ泣きさせられてしまった。
本作中で「最も酷い」と感じた匿名のメールについて
一方、観ていて最も酷いなと思ったのが、彼女の元に届いた匿名のメールの内容である。

そもそもだが、伊藤詩織は顔出しで記者会見を行ってから様々な誹謗中傷を受けてきた。「ハニートラップだったんじゃないか」「被害者にしては、記者会見時のスーツの胸元が開きすぎていた」などなど、色んなことを言われたという。しかし彼女は、そういう批判に対して次のような決意を抱いていた。
そんなことで屈してしまったら、「名乗り出たら誹謗中傷に晒されるだけ」という前例を作ることになる。

そのような想いで批判とも向き合い、「負けないように」と気を張っていたようである。
それで、その匿名のメールは、彼女がノンフィクションを出版した後に届いたのだという。女性からのもので、「同じ女性として恥ずかしい」と書かれていたそうだ。覚えている限りの内容を再現すると、全体としては次のような文面になる。
同じ女性として恥ずかしいです。あなたは、自分に非がないとでも思っているのですか?
私は厳しく育てられてきたから、危険な状況を避けられます。
仮にあなたの言うことが真実だとしても、私は男性が気の毒に思えます。

シンプルに「すげぇこと言うな」と感じた。もちろん、「本当に女性からのメールなのか?」という点には慎重になるべきだと思うが、もしこれが本当に女性から届いたものだとするなら、「えっ、マジで何言ってるの?」としか思えない。
このメールの主は恐らく、「『危険かもしれない』と思いながらついて行ったにせよ、『危険に気づかなかった』にせよ、いずれにしてもあなたに責任がある」みたいなことを言いたいのだろう。しかし私は、この主張はおかしいと思う。もし彼女が「外国旅行の際の心得」みたいな話をしているなら理解できるが、問題になっているのは性暴力の話だ。そして性暴力に関して言うなら、圧倒的に女性の側に危険があるし(男性が被害に遭うこともあると理解しているが)、そして問題の本質は「女性にとって危険な外的環境が存在している」という事実にこそあるはずだろう。しかしメールの主は、「女性なら、そういう事実を大前提として行動すべきだし、それが出来ないなら女性の側が悪い」と主張しているのだろうし、それは私には問題の本質を見誤っているように感じられてしまうのだ。
もちろん、「『女性にとって危険な外的環境が存在している』という事実を大前提として行動すべき」という話はその通りだろう(これを男である私が書くのは不甲斐なさがあるが)。しかし、「それが出来ないなら女性の側が悪い」という主張は間違っているはずだ。メールの主が本当に女性なら、「女性同士が共闘して『女性にとって危険な外的環境』を無くす」という方向に進むべきじゃないかと思うのだが、そうならないのは本当に不思議である。「女の敵は女」とはよく言ったものだが、この場面で改めてそんな風に感じさせられた。このような「共闘できなさ」みたいなものが問題をより一層複雑にしているなと思う。

「性犯罪被害者自身が監督を務め、自身にカメラを向けている」という構図の特異さ
さてそれではここで、改めて本作『Black Box Diaries』の特異さに触れておくことにしよう。本作は、「性犯罪被害者自身が監督兼被写体」という構図のドキュメンタリー映画である。そしてこのような作品は、海外の事例を含めてもかなり異例と言えるのではないかと思う。

「性犯罪被害者」を被写体にしたドキュメンタリーはこれまでも色々と作られてきたと思うが、当然それらは「他者が被害者にカメラを向ける」という構図にならざるを得ない。そして、そこにはやはり限界が生まれてしまうだろう。これはドキュメンタリー全般に関係する話だと思うが、「被写体にどこまで肉薄できるのか?」の判断はとても難しいはずだからだ。当然、被写体が性犯罪被害者であればその難しさは格段に増すことになるだろう。
しかし、被害者自身が監督であれば、その限界は無いに等しくなると考えていいと思う。「自分が許容できるギリギリ」までカメラを向け続けられるからだ。この点は、本作が持つかなりの特異さだと私には感じられる。

そしてこの話を踏まえた上で、伊藤詩織が顔出しで臨んだ記者会見の中でしたある発言が本作全体を貫く思想の1つになっているように私には思えた。彼女は記者からの質問に答える形で「どうして顔出しで記者会見しようと考えたのか」について説明するのだが、彼女はこんな風に返していたのである。
私は、被害者が被害者らしく振る舞っていなければならないみたいな雰囲気に違和感を覚えていました。
私は何も悪いことをしていないし、このまま沈黙していたら法律も変わらない。だからです。
この「被害者らしく振る舞わない」という彼女のスタンスが、本作全体に通底しているように感じられたのだ。そして個人的には、そのことが凄く良かったなと思う。

これは性犯罪に限る話ではないが、私たちは普段から色んなレッテルを貼りながら他者を捉えているはずだ。「被害者らしく」「障害者らしく」「スポーツ選手らしく」みたいな感じである。そして「被害者らしく」の話で言うなら、事件を取り上げるニュース番組やドキュメンタリーなどではやはり「被害者らしい振る舞い」みたいなものが求められているように思う。「悲しんでいる」「憤っている」と伝わるような映像の方が「被害者を取り上げるのに相応しい」みたいな感覚になりやすいだろう。
しかし、「被害者=監督=被写体」である本作においては、そういう先入観も乗り越えられる。監督が別にいれば、「監督が望む被害者像」が求められる可能性もあるが、自身が監督であるが故に、彼女は本作において「被害者」ではなく「伊藤詩織」として存在し続けられているように思う。そしてそれはとても良いことだと感じられた。また、彼女は様々な場面で「自分より後の世代」について言及していたが、この「被害者らしい振る舞い」みたいな部分にも同じようなことが言えると思う。「被害者だからといって、被害者らしく振る舞う必要はない」という前例になろうとしているように見えたのである。
またこの話に関連して、私は以前観た映画『私はモーリーン・カーニー』のことを思い出した。実際に起こった事件を基にした作品なのだが、作中に「よき被害者」という表現が出てくるのだ。主人公であり被害者でもあるモーリーン・カーニーは、「被害者然り」とした振る舞いをしない。そしてその点について、確か裁判中だったと思うが、「よき被害者」という表現で彼女が非難される場面があったのだ。『私はモーリーン・カーニー』はフランス映画(フランスが舞台)なのだが、恐らくフランスに限らず世界中で同じような見られ方が存在するのだと思う。

本作『Black Box Diaries』を観た人の中にはもしかしたら、「元気そうに振る舞えてるじゃん? ってことは、そもそも被害なんて無かったんじゃないの?」みたいに感じる人もいるのかもしれない。そういう人はまさか、「被害者は四六時中悲嘆に暮れているべきだ」などと考えているのだろうか? ンなわきゃあない。ってかそもそも、辛い部分を見せていないだけかもしれないし、あるいは、敢えて元気に振る舞うことでどうにかやり過ごそうとしているなんて可能性もあるだろう。そういう意味で本作は、「『被害者らしさ』という押し付け」をぶち破る作品と言えるんじゃないかとも思う。

直視しなかったからこそ耐えられた辛さ
さて、「敢えて元気に振る舞うことでどうにかやり過ごそうとしているなんて可能性もあるだろう」と書いたが、本作には彼女が近い話をする場面があった。これは確か、民事裁判の準備が進行していくタイミングでの発言だったと思う。
これまで私がどうにか生きてこられたのは、ジャーナリストとして自分のことを客観的に捉えていたからだと思う。
でも、自分のことを被害者だと自覚すると、苦しくて耐えられない。まだ自分と向き合えてはいない。

本作には随所で、彼女が手書きで綴っていたのだろう英語で書かれた日記の一部が表示されるのだが、先の発言の後にも「止まるのが怖いから走り続ける。自分と向き合いたくないから」みたいな文章が表示された。
さらにもっと後の場面ではあるが、
どう痛みに耐えたらいいのか、分からなくなってしまいました。
と号泣しながら語る場面もある。民事裁判の準備をする過程で、自身が受けた被害について改めて自覚させられたのだろう。さらに、「裁判では加害者と対峙しなければならない」という事実も意識されるようになり、彼女はどんどんと追い詰められていったようだ。

しかし彼女はその後、これも英文の日記の記述だが、こんな風に書いていた。
誰の中にもモンスターはいる。
でも、私の中のモンスターは私を殺さなかった。
これで彼と向き合える。
どうにか恐怖と闘い、襲い来る不安感に打ち勝ったようである。このような葛藤についても本作では映し出されていた。
父親との会話、そして民事訴訟の判決日と重なったある出来事
他にも印象的だったのは、家族との関わりだ。例えば映画の冒頭、どういう状況だったのか説明はなかったのでよく分からないが、音声だけで妹との会話が流れる。恐らく電話越しなのだろう、妹が「顔出しして記者会見なんかしたら『被害者』ってレッテルを貼られちゃうよ。お姉ちゃんにはそんな風になってほしくない」みたいなことを言っていた。

あるいは、父親とのやり取りについて語る場面もある。伊藤詩織は、「絶対に反対されるから」という理由だったと思うが、記者会見のことを直前まで家族に言わなかったそうだ。で、ついにそれを告げたタイミングで父親からこんな風に言われたという。
相談じゃなくて、もう決めてるんだろ?
それでも私は反対だ。
結婚して、子どもを生んでというような、普通の幸せを歩んでほしい。

個人的な感想では、「なんともステレオタイプな主張で、説得するにしても、こんなんじゃ話にならんやろ」と感じた。ちなみに父親のこの反応を踏まえて、彼女は「『沈黙』は私にとって幸せではない」と口にする。まあ、そうだろうな。そういう感覚は結構理解できるつもりだし、「幸せ観」みたいなものを押し付けられるのも不愉快だし、父親とのこのやり取りは私としても大変不快だった。まあ、私も父親になればこんなことを言っちゃう人になるんだろうか。

さて、話は変わるが、私は本作を観て、「そうか、民事訴訟をやってたのか」と思ったし、さらに「既に判決も出ていたのか」とも感じた。彼女のSNSなどを追っていればそういうことも知れただろうが、国内の報道という意味ではまったく取り上げられなかったように思う。少なくとも私は、そんな報道に触れた記憶がない。
というかそもそも、伊藤詩織が顔出しで記者会見した翌日でさえ、テレビで取り上げたのは日テレだけ、新聞もかなり小さな扱いだったそうだ。本作には「記者が集まって座談会をする」みたいな映像もあったのだが、そこで「むしろ、その扱いの小ささが違和感だった」という意見が出されていた。やはり、「当時の首相である安倍晋三への忖度が働いていたのではないか」と邪推したくもなってしまうだろう。
それで、本作を観て初めて知ったことは多いのだが、その中でも驚かされたのは、伊藤詩織が起こした民事訴訟の判決が確定した日の出来事である。なんとまったく同じ日に、安倍元首相が銃撃されたのだ。なんという偶然。銃撃事件が無かったとしても、伊藤詩織の判決がメディアで取り上げられることはなかったかもしれないが、何か執念めいたものが感じられるなと思う。

本作『Black Box Diaries』の制作上の問題点について
というわけで、内容の話はこれぐらいにしておこう。それでは続けて、本作『Black Box Diaries』の制作過程における問題点についてざっと触れておきたいと思う。私は、本作鑑賞前の時点では「防犯カメラ映像の使用などで何だか揉めてるようだ」ぐらいのことしか知らず、映画を観終えてからざっと調べただけなので、あまりに付け焼き刃である。正確ではないことを書くかもしれないので、正しい情報は検索するなどしてご自身で調べてほしい。
ちなみに、制作上の問題がまとまった記事は検索すれば色々と出てくるが、以下に私が参考にしたnoteを1つ紹介しておく。

で、どんな問題があるのかをシンプルにまとめるなら、「許可取りをしなかった」という話に集約されるだろう。何の許可取りを怠ったかというと、「防犯カメラ等の映像と証言・録音データ等の使用」についてである。
そして非常に重要なのが、「この制作上の問題を真っ先に指摘したのが、伊藤詩織と一緒に民事訴訟を闘った弁護士だ」という点だろう。これはかなり特異的な展開と言っていいのではないかと思う。

弁護士が指摘したのは、「『裁判でしか使用しない』と約束して提出してもらった防犯カメラ映像を、ホテル側に無断で映画に使用した」という点である。弁護士はもちろん、法的に有効な書面を用意してホテル側とやり取りしたはずなので、「裁判でしか使用しない」という約束を破って映像を使用している事実は、何らかの法律に抵触するのだと思う(もちろん倫理的にも大いに問題があるだろう)。

また本作には、タクシー運転手の映像が使われていたり、警視庁の捜査官の音声が流れたりするのだが、それらの映像・音声についても本人の許可を取っていないのだそうだ。こちらについても、肖像権の侵害など法的な問題もきっとあるはずだが、それ以上に倫理的な問題の方が大きいように思う。そしてそのような問題について弁護士が指摘したというわけだ。
問題があることは確かだが、それでも本作を許容したいと考える理由
もちろん私は、先に挙げたような問題を「良くないこと」だと認識している。しかし同時に、「そうだとしても、本作『Black Box Diaries』は許容されてもいいんじゃないか」とも考えているのだ。
さて、私はそもそも、「法的に問題があっても、実害が無いあるいは少なければ、状況次第では許されてもいいんじゃないか?」という価値観を持っている。もちろん法律は守った方がいいが、「法律を守るよりも重要なことがある」とも考えているというわけだ。そして、「法律を守らないことによる実害が最小限に抑えられる」なら、その行為は個人的には許容したいと考えている(あくまでも「個人的には」だが)。

しかし実は、「防犯カメラ映像の無断使用」には大きな実害が存在する。それが、「今後民事訴訟において、防犯カメラ映像の提出がなされなくなるのではないか」という点だ。伊藤詩織がドキュメンタリーに無断使用したことで、「今後も同じようなことが起こるかもしれない」と防犯カメラの所有者側が提出を拒む可能性があるというわけだ。確かに、それは大きな問題だなと思う。
ただ一方で、「本当にそうだろうか?」と感じている自分もいる。というのも、これは私が何か認識を間違えているだけかもしれないが、「警察から提出を求められたら拒めないはず」だからだ。伊藤詩織が映像を無断使用しようが、この点には特に影響しないだろう。さらに、伊藤詩織は「刑事裁判で不起訴処分になったため、やむを得ず民事訴訟を起こした」だけであり、刑事事件としてちゃんと立件されていれば、そもそも「民事訴訟のために防犯カメラ映像を手に入れなければならない」なんて状況にもならなかったはずである。
つまり、「性犯罪をこれまで以上にきちんと警察が捜査し、世の中も性犯罪に一層厳しい目を向ける」みたいな状況が実現すれば、「民事訴訟のために防犯カメラ映像を借りにくくなる」なんて実害はそもそも存在しなくなるように思うのだ。そしてさらに言えば、本作『Black Box Diaries』はまさにそのような社会を実現しようという意図も込めて作られた作品のはずだろう。だとすれば、「本作の制作過程に法律上の問題が存在する」としても、「本作が社会に与える影響が非常に大きい可能性がある」ことを考慮して、一般人としてはそれを許容しても良いのではないかと思う(法的に問題があるなら、伊藤詩織は処罰を受ける必要があるとは思うが)。

だから私としては、法的な問題よりもむしろ倫理的な問題の方がクリティカルに感じられた。正直なところ、「いやいや、普通に許可取ったら良かったんじゃない?」と思ってしまった部分はある。ただ、彼女の気持ちも分からないではない。「使用してもいいか」と許可を求めて返答が「NO」だったら、その素材は絶対に使えないからだ。そうだとしても本来は、相手と誠意を尽くして交渉し許可を得るのが筋だが、彼女は映画を成立させるために「映像・音声が使えない」という状況になることはどうしても避けたかったのだろう。だから「とりあえず使うことにして、問題が発生したら対処しよう」と考えたのだと思う。

もちろん、そんなやり方許されはしないだろう。特に、伊藤詩織は記者という、相手との信頼関係無しには成立しない仕事をしているのだからなおさらだ。それはドキュメンタリーの監督も同じで、「現実をそのまま切り取る以上、実際に使用するかどうかに関係なく、素材の入手・使用に関しては、その当人との信頼関係をきちんと醸成して許可を得なければならない」と私は考えている。そういうことを無視して取材やドキュメンタリー制作を行っていいなんてことにはならないはずだ。
とはいえ、先述した通り本作は「被害者自身が監督・被写体であるため、普通なら踏み込めない領域まで『被害者』に肉薄できている」という特異さを有しているし、それ故に本作は「社会に訴えかける力強さやエモーショナルさ」に溢れているとも思う。そしてそのような「作品の特異さ」まで含めて総合的に判断することで、私は「良くない点は多々あるが、それでも全体としては許容されてもいい作品なんじゃないか」と考えているというわけだ。

当然のことながら、「当事者本人からの指摘や、『使わないでほしい』といった要望」が出てきた時点で厳正に対処しなければならないと思っている。私は別に、「証言者・関係者の自由や権利の侵害を放置してもいい」なんてことを言っているわけじゃないのだ。さらに、特に映像や音声の場合は「それらが使われた映画が公開された時点で侵害が発生してし得る」と言えるわけで、だから本来的には「公開前に当事者からの指摘・要望を受け入れる態勢」が存在していなければならなかったはずだ。この点にもやはり問題があるなという感じはする。
なので、冒頭で書いた通り、私は決して「100%伊藤詩織を擁護する」みたいな主張をしているわけではない。良いか悪いかで言えばかなり悪いし、同じようなやり方を他の人が真似していいとも考えてはいない。ただ、事件自体の酷さや作品自体が持ち得る影響力などを考慮した場合、「制作過程に不備があるからという理由で、作品全体が許容されなくなってしまうのはもったいないように思う」と思う。
その判断には、「扱われているのが性犯罪である」という点も関係している。「密室で起こった出来事であるため、『何があったのか』を立証するのが困難」という性犯罪の性質を踏まえると、無断使用に踏み切った判断も多少は擁護され得るように思う。また、作中で指摘されていたが、「日本は『性暴力被害後進国』と呼ばれている」「日本の司法制度は国連からも是正勧告がなされている」みたいな事実も存在している。性犯罪に限らないが、「司法だけに任せていて本当に大丈夫だろうか?」という問題も併せて考える必要があるというわけだ。だから繰り返しになるが、「伊藤詩織がしたことを他のドキュメンタリー映画でも許容すべき」などと考えているわけではない。あくまでも、本作に限った例外的な判断である。
正直、この辺りのことは自分でも整理し切れていないし、今後自分の考えが変わる可能性さえあるなとも感じているが、少なくとも現時点ではこのように考えているというわけだ。非常に難しい問題だなと思う。


最後に

本作『Black Box Diaries』を私が観た時点では、日本でたった1館でしか公開されていなかった。その後、公開館が拡大されるという記事を目にしたし、実際に広がったみたいだが、やはり色んなゴタゴタのせいで日本での上映には障害が存在するようだ。記事の中で書いた通り、私は、「色々あるにせよ、広く観られた方が良い映画」だと考えているし、観た上でみんなが賛否両論意見を出し合えばいいんじゃないかと思っている。
さて最後に。配信で観る人のことを意識してのメッセージなのだろう、冒頭でこんな文章が表示された。
世の中には、性暴力の被害者が数多くいます。
本作では、性暴力についての描写があります。
どうか自分のペースでご覧ください。
苦しくなったら、深呼吸をしましょう。
これは、私が体験したことです。

そして、映画の最後にはこんな表示がなされていた。
すべてのサバイバーに本作を捧ぐ。
やはり、伊藤詩織は常に「自分と同じような被害を受けた人たち」のことを考えているのだろう。本作が、そんな当事者の元にも不自由なく届く環境が早く整うといいなと思う。








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