【嫉妬?】ヒッグス粒子はいかに発見されたか?そして科学の”発見”はどう評価されるべきか?:『ヒッグス 宇宙の最果ての粒子』

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

講談社
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この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「ヒッグス粒子」の発見はなぜ大きな話題となったのか?
  • 「ヒッグス粒子」の発見はどれほど難しいのか?
  • 「ヒッグス粒子」の発見に貢献した研究者はなぜノーベル賞を受賞できなかったのか?

この記事では「ヒッグス粒子」そのものの説明はせず、その舞台裏にスポットライトを当てます

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

『ヒッグス 宇宙の最果ての粒子』で扱われる「ヒッグス粒子」の発見から学ぶ、現代科学の規模の大きさと、「科学の評価」の難しさ

本書は、科学者が執筆する本としては珍しく、「科学的な記述」が少ない。もちろん、「ヒッグス粒子」という不可思議な存在について説明されているし、その説明のために科学的な記述は出てくる。しかし、本書のメインはそこにはない。

ヒッグス粒子の探索は単に、基本的粒子や難解な理論がどうのという話ではない。予算、政治、嫉妬の物語でもある。計画には非常に多くの人々、前例のない規模の国際協力、そして少なからぬ数の技術的ブレークスルーが関わっている。そんな途方も無い計画を実現させるには、ある程度、ずる賢さや取り引き、そしてときには、いんちきも必要となってくる

本書の内容は、「ヒッグス粒子をいかに発見したか」がメインであり、つまり「科学書」というより「ドキュメンタリー」に近いと言える。そこでこの記事でも、「ヒッグス粒子」そのものや、その説明のために必要な「標準模型」などについて詳しくは書かない。「ヒッグス粒子」の発見物語を通じて、現代科学の現状に触れていこうと思う。

ちなみに、本書の「科学的な記述」はかなり易しく書かれていると思うので、文系の方でもチャレンジできるだろう

「ヒッグス粒子」の発見とその意味

これまでけわしい道のりを経ながらもなんとかLHCの完成まで関係者を導き、LHCの建設計画で他の誰よりも責任のあったウェールズの物理学者リン・エヴァンズは、これら二つの実験の申し分のない一致を目の当たりにして、「あっけにとられた」と告白している

本書にはこんな風に書かれている。

この「あっけにとられた」には、「探すのが困難なものが本当に見つかった」という驚きもあるだろうが、別の感情も含まれているはずだ。それを的確に表現しているのが、科学者の大栗博司である。

ヒッグス粒子発見の宣言を聞いて、「自然界は本当に標準模型を採用していたのだ」という驚きと感動をかみ締めました

『強い力と弱い力 ヒッグス粒子が宇宙にかけた魔法を解く』(大栗博司/幻冬舎)

人間がその思考力だけでたどり着いた「ヒッグス粒子」という「妄想の産物」が、この世界の仕組みとして本当に採用されているのだ、という驚きである

本書の原書は、「ヒッグス粒子が発見された可能性が高いと考えられる」という時点で出版されている。本書の出版の後、「ヒッグス粒子の発見は間違いない」と確定され、その後「ヒッグス粒子の発見」はノーベル賞を受賞した。

「ヒッグス粒子」の発見は、科学の話題としては異例だと感じられるほどメディアでも大きく取り上げられた

本書を読めば、「”科学者”がヒッグス粒子の発見に湧くのは理解できる」と感じるだろう。「標準模型」の最後のピースを埋める存在として予言され、その予言者の一人であるピーター・ヒッグスが、

セミナーを聴くために部屋にいた83歳のヒッグスは明らかに感動した様子で、「生きてるうちにこの瞬間が来るとは思わなかった」と語った

と言うほどに発見が難しいとされていたものをついに見つけたのだから、歓喜するのも当然だ。

科学者ではなく、世間が大きく騒いだのには、「ヒッグス粒子」の通称である「神の粒子」という呼び方にも関係するだろう。メディア的には、非常にキャッチーで、「何か重要な発見がなされたのだ」と伝えやすかったのだと思う。

また、当時メディアではよく、「ヒッグス粒子は質量の起源である」という”不正確な情報”が流れていた。このことも、「神の粒子」の重要性をなんとなく伝える役割を果たしただろう。実際には、「ヒッグス粒子」は物質の質量の1%程度は担っているが、99%以上は別の効果によるものであり、「ヒッグス粒子が質量の起源」という表現は正しくない。

さて、この「神の粒子」という表現だが、「質量の起源」という情報とも相まって、「ヒッグス粒子は非常に重要な存在=神」と名付けられたと考えるだろう。しかしそうではない。実際はこうだ。

ある科学者がヒッグス粒子に関する本を出版する際、「くそったれ(God damn)素粒子」というタイトルにしたかったそうだ(あまりに発見されないからイラついていたのかもしれない)。しかし出版社がこのタイトルを受け入れず、最終的に「神の(God)素粒子」に落ち着いたのだという。これが広まって「神の粒子」と呼ばれるようになった、とされている。

では、「ヒッグス粒子」の発見は、科学的にどんな意味を持つのだろうか?

ヒッグスの発見は素粒子物理学の終わりではない。ヒッグスは標準模型の最後のピースだが、標準模型の先にある物理を見せてくれる窓でもある。これから先、何年、何十年と、ヒッグスを使って様々な現象を探索し、その性質を探求することになる。それらの現象には、暗黒物質や超対称性、余剰次元が含まれる。その他にも、急速に増加しつつある新データと付き合わせて検証すべきあらゆる現象が含まれる。ヒッグスの発見は一つの時代の終わりであり、新しい時代の始まりなのだ

科学にはまだまだ謎めいた領域が山ほどあるが、それらの研究に「ヒッグス粒子」が関わっていくことになるということだ。我々一般人が科学の成果を知る時は、「これは凄い発見だ」といううところで止まってしまうが、本当はそこからが新たな始まりとなのである

「ヒッグス粒子」はどれほど探すのが困難なのか?

「ヒッグス粒子を発見」と聞くと、どんなイメージを抱くだろうか? 私もそうだが、普通は、「何を探せばいいか理解した上で、顕微鏡などのツールで目的となるものがないか探す」という感じだろう。

しかし実際は、そんな易しい話ではない

本書には、著者ではない別の科学者による、「ヒッグス粒子」探しの困難さを表現する喩えが載っている。

ヒッグス探索は干し草の山から少数の干し草を探すようなものだ。干し草の山から針を探すなら、見つければ、見つけたとすぐわかる。しかし、全部干し草だとそうはいかない。判別する唯一の方法は、干し草の山にある干し草を一本一本、全部調べるしかない。すると突然、ある長さの干し草だけが他の長さのものよりも多いことが分かる。ヒッグス探索でしていることは、まさにこういうことだ

こう聞くと、なかなか絶望的な状況だと理解できるだろう。「干し草の中から干し草を探す」というのは、まさに気の遠くなるような話だ。見ていてもずっと「干し草」しかないのだから。しかも、「探しているのがどんな長さの干し草なのか」さえ分かっていない。「干し草」を全部チェックして、「この長さの干し草だけちょっと多いじゃん」となって初めて「発見」と言える、ということだ。

しかもこの「干し草」は、「10のマイナス21乗秒」で消えてしまう。まったくイメージできないが、「10のマイナス21乗」というのは「小数点の後に0が20個続いた後に1がくる」というメチャクチャ小さな数字である。とにかく瞬時に無くなってしまうということだ。

だから科学者は、「干し草」そのものをチェックできるわけではない。「干し草が存在した痕跡」を観察して「干し草」について推測しなければならないのだ。

本書では、そんな「ヒッグス粒子」探索の過程を、推理小説に喩えている。

素粒子物理学が推理小説だ。刑事はほとんどの場合、事件現場に到着しても、事件の一部始終を記録したテープや、疑う余地のない目撃証言、あるいは署名入りの自白書などが得られるわけではない。せいぜい、部分的な指紋や小さなDNA標本などからなるランダムな少数の手がかりが得られるだけだ。刑事は、それらの手がかりをつなぎ合わせて犯罪の一部始終を再構成しなければならない。それが刑事の仕事の最も要となる部分である。
実験素粒子物理学者の仕事もこれと似ている

「ヒッグス粒子」は、スイス・ジュネーブにあるCERNという研究所のLHCという実験施設で発見された。LHCである操作を行うことで「ヒッグス粒子が生成される”かもしれない”実験」を行えるが、毎回ヒッグス粒子が生成されるわけではない。実験家は、「犯行現場に残された、誰のものなのかも分からない踏み荒らされたたくさんの足跡から、犯人のものだけ探す」ようなことをし続けるのだ。

だからこそ、実験規模はとんでもないものとなる。そもそもCERNというのは、第二次世界大戦後の国際協調の機運を背景に生まれた研究所で、LHCだけでも90億ドルもの建造費が掛かっている。世界70ヶ国から研究者が集い、ヒッグス粒子の探索だけでも、1チーム3000人の研究チームが2つあるほどだ。

このような大規模な実験は「ビッグサイエンス」と呼ばれており、ここ最近の科学研究の主流になっている。というか、ならざるを得ない。

本書に登場する科学者が、こんなことを言っている。

最近ではいかなる進歩も達成するのが非常に難しく、LHCはその象徴だ。この状況は65年前の、私が博士課程の学生だった時代と大きく異なる。当時、私は興味深い進展をもたらす実験を、一人で、しかも半年で行うことができた

私は科学のノンフィクションを結構読むが、例えばアインシュタインが生きていた時代には、実験家は個人レベルで重大な発見を成し遂げられた。物理や化学の教科書に登場するような偉人たちのほとんどは、その本人を中心とした何人かの小規模なチームでその偉業を成し遂げているものだ。

しかし現在は、後に教科書に載るようなレベルの発見をしようと思えば、個人では不可能だ(理論家は別だが)。莫大な費用を投じて作られた実験施設を使わなければ、最先端科学の研究は行えないからだ。そして、LHCもそうだが、そのような大規模な実験施設の建造は一大学や一研究機関で行えるものではなく、国家レベルで取り組まなければならなくなっている。

だからこそ、科学者にはこれまで以上に「政治力」や「資金集め」などが求められるようにもなっているのだ。冒頭で引用した「予算、政治、嫉妬の物語」という言葉は、まさに「ビッグサイエンス」ゆえである。

「ヒッグス粒子の発見」は誰が評価されるべきか?

また「ビッグサイエンス」は、「発見に対して誰が評価されるべきか?」という問題も引き起こすことになる。

実験が小規模だった時代は、評価されるべき人ははっきりしていた。実際に手を動かして実験をしたかどうかに関係なく(それは助手がやってもいい)、「こういう実験をしよう」と計画し実現に動いた人間が評価されてきたはずだ。

しかし現在ではそうはいかない。例えば「ヒッグス粒子」は、CERNの研究チームが発見したわけだが、2チームで6000人以上の研究者がいる。またそもそも、LHCという実験施設がなければ絶対に発見できなかったのだから、「LHCの建造に携わった人」や「CERNを運営してきた人」も評価されてもいいかもしれない。当然だが、「ヒッグス粒子を予言した人物」もいる。さて、誰が褒められるべきだろうか?

ここまで読んだ方は、「全員頑張った! でいいじゃないか」と感じるかもしれない。しかしそうもいかない。「ノーベル賞」の問題があるからだ。

著者も本書でこう書いている。

本当に残念なのは、実際にヒッグス粒子を発見した実験家が誰もノーベル賞をもらえそうにないことだ。問題は数で、あまりに多くの物理学者があまりに多くの仕方で実験に貢献しているため、誰か一人または二人または三人を、妥当な根拠に基づいて選び出すことなどできないのだ

ノーベル賞には明確な規定がある。「故人には与えられない」「組織ではなく個人に与える」「1年に3人までしか受賞できない」などである。

ヒッグス粒子の発見に関して、ノーベル賞の受賞規定を無視するならば、「予言したヒッグス氏」「CERNという組織」「ヒッグス粒子の研究チーム」となるだろう。しかし、組織には与えられないのだから、「CERN」と「研究チーム」は外すしかない。また、それら組織から特定の誰かを選ぶとしても不公平感は出てくるし、「1年に3人まで」という規定がかなり厳しい。

さらにヒッグス粒子にはこんな話もある。実は、「ヒッグス粒子」と同等の予測を同時期に行ったチームが、ヒッグス氏の他に2つ存在するという。科学の世界にはこういうことはよくあり、ほぼ同時期に同じようなことを考える人物が出てくる。しかしその場合でも、「1年に3人」という規定に阻まれ、本来的には認められるべき人が評価されない、ということが起こりうる。

本書の原書は「ヒッグス粒子」がノーベル賞受賞となる前に発売されているが、私が読んだ時点ではノーベル賞受賞者が決まっていた。ノーベル賞は、成果の発表から受賞まで数十年掛かることもざらであり、ヒッグス粒子の発見に対するノーベル賞の授与は異例のスピードで決まった。そして、本書の著者が危惧した通り、実験家は誰も受賞できず、「ピーター・ヒッグス氏」のみの受賞となった

彼は、「ヒッグス粒子が発見されたかもしれない」と発表された際、記者からコメントを求められるが、短く発言するに留め、こう言った。

その後の記者室で、記者たちはヒッグスからもっと聞き出そうとしたが、ヒッグスは、今日みたいな日に注目されるべきなのは実験家たちだ、と言ってコメントを控えた

もちろん理論家も素晴らしい仕事をしているが、実験家だって同様に奮闘している。科学の評価は決してノーベル賞だけではないとはいえ、一般向けの知名度で言えばやはり段違いだ。ノーベル賞を受賞できるかどうかは、科学者にとっては非常に大きいだろう。ノーベル賞の規定が変わることはなかなか期待できないかもしれないが、努力した人間が正しく評価される世界であってほしいと感じる。

講談社
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最後に

本書では他にも、「LHCの建造物語」「膨大な実験データをいかに保存するか」「直接利益に結びつくわけではない基礎研究の重要性」など、「科学そのもの」ではなく「科学研究の周辺」について深く語られていく。「ヒッグス粒子」というヘンテコな存在も知的好奇心を刺激するが、科学者がどんな環境で研究を行っているのかという舞台裏を知ることができるのも興味深い。

たった「10のマイナス21乗秒」しか存在できないものに対して、人類がどれだけの叡智と時間とエネルギーを費やしてきたかという奮闘は非常に面白いし、科学という営みが人類をどのように豊かにしていくのかも理解できる。本書を読むことで、なかなか馴染みの薄い「科学者」という存在を、少し身近に感じることができるかもしれない。

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