はじめに
この記事で取り上げる映画
この記事の3つの要点
- 大森元貴を筆頭に、「言語化力」に長けたメンバーたちの話はとても面白かった
- 「2人がいなければ無理だった」と力説する大森元貴が語る「50%でもミセス」の真意とは?
- 友達としての距離感・関係性も素晴らしく、さらに大森元貴が抱える「孤独」の話も興味深かった
自己紹介記事


記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません
ファンでも何でもないけど、やっぱりミセスは面白い!Mrs. GREEN APPLEのドキュメンタリー映画『MGA MAGICAL 10 YEARS DOCUMENTARY FILM ~THE ORIGIN~』は最高だった
実に面白いドキュメンタリー映画だったなと思う。

さて、先に書いておくべきだと思うが、私は別にMrs.GREEN APPLEのファンというわけではない。なにせ、映画を観始めた当初は、どちらが若井滉斗でどっちが藤澤涼架か分かっていなかったぐらいだ。観ながら理解していったので今はたぶん大丈夫だが、それぐらい私はミセスのことを知らなかったのである。
しかし、いつも書いていることだが、私は「興味の有無に関係なく様々な情報に触れたい」と考えているし、また、ファンではないとはいえ、ミセスに対しては「凄い人たちがいるなぁ」ぐらいの印象は抱いていた。それで本作観てみようと思ったのである。

そんなわけで私は、同時上映されていた、ライブ映像を収録した方は観ていない。で、本作にも少しライブ映像が収録されているのだが、やはり私は「音楽ライブ」というものにあまり興味がないみたいだ。そもそも、普段から音楽を聴く習慣が全然ないし。でもミセスの曲はどれも良いなと思う。

Mrs.GREEN APPLEの「言語化力」はとても興味深かった
さて、私が他者に興味を抱けるかどうかは、「言語化できるかどうか」にかなり依存する。そして、そういう観点で言えば、ミセスの3人はとても良かった。やはり大森元貴が圧倒的だと感じたが、他の2人も含め、彼らの「認識・価値観」はとても興味深いし、そしてそれをちゃんと言語化できているのが素晴らしかったなと思う。
言語化の話でまず取り上げたいのが、彼らがドキュメンタリー映画を制作しようと決めた背景についての説明だ。「彼ら」というか「大森元貴」なのだが(本作を観て初めて知ったが、大森元貴は作詞・作曲を手掛けているだけではなく、ミセスのプロデューサーを務めてもいるのだそうだ)、彼の中には次のような感覚があったと冒頭の時点で説明される。
ミセスは「ガワで判断される覚悟を持つ」って、フェーズ2に入って決めたんですよ。でもやっぱり、そんなミセスのことをもっと深く知りたいって思ってくれる人もいるだろうし、そういう人たちにちゃんと届けられるものを作りたい。

彼が口にした「ガワで判断される覚悟」という表現がとても良かったなと思う。これは要するに、「つまみ食い的にごく一部の情報・創作物に触れただけの人にもミセスが評価されることを受け入れる」という話だろう。これは音楽に限らず創作に関わるすべての人が否応なしに直面させられる現実だとは思うが、彼らは「そんな存在になる覚悟を持った」というわけだ。
この点に関しては別の場面でも言及があった。
ガワとしてバンドが表に出ているからこそ、もっと奥行きがほしいんだよね。
恐らくライブかなにかが終わった後なのだろう、楽屋で3人が話している時に大森元貴の口から出てきたものだ。これも要するに、「『分かりやすく大衆ウケを狙う』ことに決めたんだから、余計に、自分たちの芯はきちんと持ってないとダメだと思う」みたいな話なのだろう。

さらに同じ場面で大森元貴が、「『肩の力が抜けてる』のと『気が抜けてる』のって何が違うんだろうね?」と問いかけてもいた。若井滉斗・藤澤涼架がそれぞれ答える中、大森元貴は「品の良さ」と自身の考えを口にする。それ以上の説明はなかったが、恐らく「そういう部分も『奥行き』のいち要素だよね」みたいなことが言いたかったのだろう。

本作『MGA MAGICAL 10 YEARS DOCUMENTARY FILM』はこんな風に始まったので、私は割とすぐに「この人たちはちゃんと言語化できるんだな」と感じたし、だから興味深いなと思えた。冒頭から「彼らを追うドキュメンタリーはきっと面白いだろう」という気分で観れたのである。
本作『MGA MAGICAL 10 YEARS DOCUMENTARY FILM』全体の構成と、3人の絶妙な関係性
それでは、そんなドキュメンタリーの骨格部分の説明をしておこうと思う。

本作では冒頭で、「本作をどう構成していくのか」についての制作陣と大森元貴による打ち合わせの様子が映し出される。そしてその中で、恐らく監督からだと思うが、「新曲が出来上がるところから、それをお客さんに届けるところまでを撮りたい」みたいな提案があった。本作の主軸はまさにこの提案に集約されると言っていいだろう。
本作では実際に、大森元貴が『Variety』という新曲をまさに作曲している様子が中盤ぐらいで映し出され、さらにそれが「FJORD」と題された野外ライブで初披露されるまでをカメラに収めている。「情熱大陸」やNHKのドキュメンタリーなんかでアーティストの作曲の様子が映し出されることはたまにあるが(少し前に観たVaundyを取り上げた「情熱大陸」でもあった)、やはりその様子が観られる機会はなかなかないだろう。大森元貴が作詞・作曲とプロデューサーを兼任しているからこそ実現したものだと思う。ちなみに、本作の予告編で使われていた「スマホで撮ったと思しき大森元貴の作曲の様子を映した映像」は本編には出てこなかった。あの映像は一体何だったんだろう?
で、そんな主軸となる「大森元貴の作曲」と「ライブでの初お披露目」の合間に、3人のインタビューや日常の雰囲気を捉えたオフショット、あるいはミセスと関わる様々なスタッフの奮闘などが映し出されるというのが本作の全体像である。

さて、そんな本作において私が一番良かったなと思うのが、彼ら3人の関係性だ。
以前NHKで、KingGnuの常田大希に密着するドキュメンタリーが放送されていた。そしてその中でとても印象的だったのが、millennium paradenなど様々なプロジェクトを同時並行で走らせる司令塔である彼が全然リーダーっぽくなかったことだ。偉そうにしたり、強引に物事を進めたりするのではなく、「全員で1つのものを作っていこう」みたいな雰囲気が隅々から漂っていて、とても素敵だったなと思う。そして、それとまったく同じことをミセスに対しても感じたのである。
本作を観る前の時点で私がミセスについて知っていたことは、「大森元貴がすべての作詞・作曲を手掛けている」「メンバーの一部は小中学校時代の友達」ぐらいのもので、そして何となく「大森元貴がリーダーとしてミセスのすべてを動かしている」とイメージしていた。で、「ミセスのすべてを動かしている」という印象は正しかったのだが、ただ私が抱いていたニュアンスとは大分違ったなとも思う。

何にせよ、「メチャクチャ良い雰囲気でクリエイティブをしているんだな」と思ったし、常田大希と同様、そういう雰囲気を大森元貴が生み出しているんだろうなという印象だった。
大森元貴が「超人」「ソルジャー」と敬意を示す若井滉斗・藤澤涼架との関係性
普通に考えれば、大森元貴が作詞・作曲のみならずプロデューサーまで務めているのだから、若井滉斗・藤澤涼架とは圧倒的な”格差”が存在するとしてもおかしくはないだろう。別にそれを態度に出したりするかどうかはともかく、「役割分担として大森元貴があまりにも多く背負っている」みたいな印象には絶対なるし、若井滉斗・藤澤涼架としては「対等ではいられない」みたいな感覚になってもおかしくはないと思う。

しかし、大森元貴はあらゆる機会を見つけて「2人がいなかったら無理だった」という主旨のことを口にしていて、そのことがとても印象的だった。

少し話はズレるが、本作の最後に「3人に同じ質問をしてその回答を並べる」みたいなコーナーがあり、その質問の1つに「言われて嬉しかったこと」がある。そして大森元貴がそれに対して、「2人(※若井、藤沢)も頑張ってるよね」と答えていたのが印象的だった。これはつまり、「自分が褒められること以上に、若井滉斗・藤澤涼架が褒められた方が嬉しい」ということだろう。大森元貴はどうやら、自分のこと以上に2人を評価しているようなのだ。ちなみにだが、この質問コーナーには「やってて楽しいこと」という質問もあった。で、これに大森元貴は「ミセスでいること」、若井滉斗は「ギターを弾くこと」と答えていたのだが、藤澤涼架の回答が「美味しいものを食べること」で、このズレた感じも面白いなと思う。
本作には、大森元貴が2人のことを「超人」と評する場面がある(個人的には、「それはあなたのことでしょう」と感じたのだが)。そして後に別の場面で、より具体的なイメージとして「ソルジャー」という表現を使っていたのも印象的だった。
「自分がどうしたい」みたいなことは一旦置いておいて、「目の前のこの状況に対して、今自分がどうすべきか」だけを考えて10年間走り続けてきたわけで、だからソルジャーなんですよ彼らは。

本作の後半ではレコーディングやリハーサルの場面が映し出されるのだが、その中で大森元貴が若井滉斗・藤澤涼架にかなりのダメ出しをしていたし、ダンスやバラエティ番組への挑戦も恐らく大森元貴からの“無茶振り”で決まっていったんじゃないかと思う。そんな風に、「自分が何を言っても、兵隊のようについてきてくれる」という状況を指して「ソルジャー」という言葉を使ってもいるのだろう。
また、「『ライラック』のギターソロは、ミセス史上最高難易度」みたいな話が出てきて、「これを弾くのは本当に大変だったと思う」と言っていた。大森元貴はギター・ベース・シンセサイザーなど色々楽器が弾けるようで、作曲の時にもそれらに触りながら作業をしていたのだが、その際、「作曲してる時はこんな風に勢いで決めてるから、『ライラック』のギターソロなんて、俺は二度と弾けないからね」と話していたのだ。「自分には絶対に弾けない」と思えるようなものでも若井滉斗なら出来るはずだと考えているのだろうし、まさにこれは信頼の証だと言っていいだろう。
大森元貴はもちろん死ぬほどハードモードだと思うが、とはいえ、「何をどうするかを自分で決めている」わけで、ある程度は自分なりにコントロール出来るんじゃないかと思う。一方、若井滉斗と藤澤涼架の場合は「ある日突然大森元貴から指令が下る」わけで、しかもそれらが「メッチャ頑張らないと乗り越えられないもの」だったりするのだ。そういう状況に2人を置き続けてきた自覚があるからだろう、大森元貴は「この10年、2人が一番辛かったはず」と語っていた。そしてだからだろう、彼らの軌跡を歌った『Variety』について「『3人の曲です』って言いたかった」みたいに話していたのだと思う。また個別インタビューでは、若井滉斗だったと思うが、「元貴からの愛に最大限返す」みたいな表現を使っている場面もあり、本当に良い関係なんだろうなと感じた。

「50%しか発揮できなくてもそれをミセスと呼ぼう」が「フェーズ2」のスタンス
興味深い話は色々あったが、作曲中に大森元貴が口にしたこんな話もとても良かったなと思う。
デモよりプレイの質が落ちたって別にいいの。それがミセスだから。それがフェーズ2だから。で、それが出来なかったのがフェーズ1。「何で出来ないんだよ」みたいに思っちゃってた。

また、同じようなことをレコーディング中にも話していた。
それぞれが何%ずつか持ち寄って100%なのか120%なのかにしていくんだけど、でもそれが例え50%だとしても、俺はそれをミセスと呼ぼう。そして愛そう。それがフェーズ2なんだよ。

凄く良い表現だなと思う。確か「フェーズ1はこの点で失敗した」みたいなことも言っていたと思うのだが、「フェーズ2」では要するに「全力でやって、そうやって生み出されたものが多少不完全だとしても、『それがミセスなんだ』みたいに考えることにした」のだろう。これを「クオリティを諦めている」みたいに捉える人もいるかもしれないが、そうではないと思う。「50%」には「自分はまだ納得できていない」という意味が込められているはずだ。つまり、「自分の納得はさておいて、まず出してみる」みたいなスタンスに切り替えたということなのだろうし、これも「ガワで判断される覚悟」と呼応する話に感じられた。
さて、少し話は変わるが、「そうやって生み出されたものがミセスである」という感覚は、ミセスのチーム全体に対しても言えるようだ。プロデューサーでもある大森元貴は、様々な案件に対する判断を常に行っている。作中で誰かが、「こんなにたくさんの案件を抱えているミュージシャンはいない」と言っていたが、その様子を見ていた監督が「スタッフにメチャクチャ委ねるんですね」と感想を口にしていた。確かに、大森元貴はスタッフから「今こんな感じです」と報告がある度に、「なるほど、良いね」「お任せします」「それで行こう」みたいなことばかり口にしていたのだ。
このスタンスについて大森元貴は、「これって実は怖いことしてるよね」と自らまず口にしていた。「ホントはああしろこうしろみたいなことを言った方がスタッフも動きやすいんだろうね」なんて風に考えているのだろう。ただ、大森元貴は同時に、
僕の打ち合わせって結局、「沈む時はチームみんなで沈むからね」って話をしてるだけ。
みたいなことも言っていた。まさに「みんなでクリエイティブをやって、ダメならしゃーない!」みたいなスタンスというわけだ。

また彼は、ミセスのクリエイティブに関わり始めた当初のことについて、
最初は、5~6人のスタッフとZoomを繋いで、8~9歳の子どもみたいな感じで、「それはどうかなぁ」みたいに言ったら負けみたいな打ち合わせをずっとしてた。
なんて風にも話していた。「とにかくクリエイティブが楽しいと感じられる人じゃないとミセスでは一緒にやれない」とも言っていたし、彼自身、「お金があるとかないとか、実現可能かどうかなんてことは関係なく、クリエイティブについて話すのがとにかく楽しかった」のだそうだ。だからこそ、「とにかくみんなに委ねる」みたいなスタンスを貫いているのだと思う。

また、誰かが「元貴を見ていると、戦国武将ってあんな感じだったのかなって思う。とにかく配置するのよ、スタッフを」みたいに話していたのも印象的だった。大森元貴が全体像をかなりちゃんと把握し、スタッフの最適配置を常に考えているのだそうだ。さらに同じ人物は、「『みんなで一緒に高みに上っていくぞ』という元貴のスタンスにも驚かされる」と話していた。アーティスト自身がプロデューサーだと、「まずミセスをどうするか」みたいな発想になりそうだが、大森元貴は明確に「ミセスだけじゃなく、みんなで一緒に上に行こうぜ」と考えているようなのだ。こういうことが周囲の人間に伝わるからチームとして上手く機能しているのだろうなと思う。

それでこの流れで、大森元貴の「プロデューサーとしての覚悟」の話にも触れておこう。ミセスは『コロンブス』という楽曲で批判を浴びたが、その際、公式の謝罪文を「Mrs.GREEN APPLE」ではなく「Mrs.GREEN APPLE 大森元貴」で発表したのだ。大森元貴は、「この時世間に初めて自分がプロデューサーであるとオープンにしたと思う」みたいに言っていた気がする。グループ名で謝罪文を出せばいいところ、個人名で発表したことにプロデューサーとしての覚悟が垣間見えるし、作中では誰かが「彼はあまりにも大きなものを背負っている」とも話していた。
というわけで話を戻そう。「50%でもミセス」という話だ。大森元貴はたぶん、昔は「自分が理想とする地点に辿り着けたら正解」みたいに考えていたんじゃないかという気がする。しかしそれを、「みんなで全力を尽くして辿り着いた場所を正解としよう」というスタンスに変えていったのだと思う。そういう認識も興味深いなと感じた。

大森元貴は、「成熟とか完成なんてものはないし、それを目指しているわけでもない」みたいなことも口にする。また「FJORD」のライブ後のステージでも、「これで完成ってわけじゃないけど」と言っていた。その時の彼の発言がとても良かったので覚えている限り引用してみよう。
「報われることなんてない」って思ってずっとやってきたけど、今日はなんか凄く届いた感じがするし、報われたって言っていいかもしれない。完成したってわけじゃないけど、正解だったのかなみたいな。
こんな感覚を持っているからこそ、彼らは長いことトップを走り続けられるのかもしれない。また、大森元貴はある場面で、
バンドに限らず人が集えば当然だけど、どうしたって「至らない」わけで、それが自分には「良い不自由さ」だったんだと思う。
みたいに話していた。さらに、若井滉斗だったと思うが、3人それぞれについて「不器用な面が違う」とも言っていて、3人が絶妙な形で補い合うことで成り立っている関係性だと感じられたのも良かったなと思う。

バンドメンバーとしてではない、友達としての3人の関係性
ここまでで触れてきた通り、「Mrs.GREEN APPLEのメンバーとしての3人の関係性」ももちろんとても良かったのだが、それ以上にやはり「友達としての関係性」も凄く素敵だった。
個別インタビューの中で若井滉斗と藤澤涼架は「3人が友達に戻る瞬間ってありますか?」と聞かれている。そしてそれぞれがエピソードを語っていた。
藤澤涼架の話は、彼の誕生日をメンバーが祝ってくれた後で話したことについて。藤澤涼架はそもそも、「長い事、メンバーやスタッフから不安視されていた」のだそうだ。理由はよく分からないが、恐らく「実力不足」みたいなことなのだろう。それでかなり悩んでいたのだが、ただメンバーにそんな話をするのも悪いなとずっと思っていたそうだ。そして誕生日の日に、(たぶん)初めてそういう想いを打ち明けたのだと話していた。

この時のことについては大森元貴も別途言及している。彼は「仕事仲間としてじゃなく、友達としてグチるってのが大事なんだよね」みたいに言っていて、そういう感覚も凄く良かったなと思う。バンドメンバーとして話を聞いてるわけじゃないから、別に解決策を提示するでもなく、「そうだよねー」みたいにただ話を聞いていただけだったそうだ。そういう距離感って大事だよなぁ。

一方、若井滉斗が話していたのは、「使えるか分かんないんだけど」と言いながら口にした「週刊誌に撮られてしまった時の話」である。この件に限ったことではないと思うが、彼もまた悩んだり抱えたりしているものがあり、そしてやはりそれを人に話すことが出来ずにいたそうだ。また、彼は以前から「陰で努力する奴」みたいに評価されることが多く、それ自体は嬉しかったのだが、次第に「『陰で努力する奴』で居続けないといけないのか?」と感じられるようになり、そのことにもしんどくなっていったという。
そんな若井滉斗について藤澤涼架は、「若井は『ちょっともう大変なんだけど~』みたいなレベルのことも全然口にしないし、だからずっと心配だった」と言っていた。でも恐らく、「本人が話し始めるまでは自分からは何も聞かない」というスタンスでいたのだろうし、そういう距離感も良いなと思う。

それで若井滉斗は、アルバム『10』のアー写撮影の後でメンバーと話す機会があり、そこで「週刊誌に撮られたこと」などについて自分から相談できて良かったと言っていた。若井滉斗はその話をしている最中に泣き出してしまったそうだが、なんと彼が泣くよりも早く藤澤涼架が泣いていたという。彼はこの時のことについて、「『心配で夜も眠れなかった』って伝えるだけのつもりだったんだけど、なんか思わず泣いちゃった」と話していた。どっちもメチャクチャ良い奴じゃねぇか。
ちなみに若井滉斗は。「この時、元貴からは『甘いな』みたいなことを言われた」と話していた。そして大森元貴はこの時のことについて、
「孤独が辛くなって逃げたとしたら、それはお前が甘い」って話をした。
と振り返る。この発言に対して監督が「それは友達じゃなくてメンバーとしての発言ですよね?」と突っ込む大森元貴は「藤澤が『分かるよ』みたいなスタンスだったから、俺は違う感じがいいかなと思ってそうしたんだけど、もちろん友達としては超心配だった」と言っていた。この辺りのバランス感覚もさすがだなと思う。

大森元貴が抱く「孤独」
というわけで「孤独」の話をしよう。これは本作中でもかなり印象的な話だった。
若井滉斗も藤澤涼架も口を揃えて言っていたが、「大森元貴は圧倒的な孤独を抱えている」のだそうだ。若井滉斗は「俺らと会っている時は孤独が紛れているんだと思う」と言っていた。つまり、それ以外の時には強い孤独を感じているはずだというわけだ。また、「どんな時に大森さんが孤独に見えますか?」という質問に、藤澤涼架は「バイバイする時」と言っていた。その日の予定が終わり解散となった時に孤独が見え隠れするのだそうだ。

そんな大森元貴は個別インタビューの中で、こんなことを言っていた。
何万人の前で歌ったって孤独であることに変わりはないし、自分の辛さを他人に話して「分かる」みたいなことも言われたくない。分かるわけないんだから。

そして、そんな風に思うようになったきっかけは、子どもの頃の経験にあるのだという。
大森元貴は小学生の頃から「みんなとは馴染めない感覚」を抱いていたそうだ。例えば「友達を作る」という行為にしても、他の人はもっとカジュアルに軽やかにやれているのに、彼はどうしても「狭く、深く」という感じになってしまう。ただ、そんな風に仲良くなれた相手にも「別の友達」がいるわけで、大森元貴は「そういう軽やかさを自分は持てなかった」みたいに言っていた。
そんなわけで彼は、中学からは学校に行かずに作曲ばかりするようになったそうだ。ただ彼は、「学校に行かずに作曲ばかりしていた」という話を方々でしすぎたせいで、
「学校に行きたくなくて作曲に没頭した」のか「作曲に没頭したかったから学校に行かなくなった」のか、自分でも分からない。たぶんどっちもあると思うけど。
みたいに言っていた。とはいえ、次のような感覚についてははっきりと覚えているそうだ。

自分では、学校に行かないで作曲してるのが正解だと思ってた。でも、傍から見たらどう考えてもクズですよね。だから、「自分はクズなのか、あるいは天才なのか」を証明しないといけないと思っていた。
中学生の思考ではないなという感じがするし、天才の片鱗を感じさせるエピソードだなと思う。

しかしその後、ある感覚が彼の人格形成に大きな影響を与える。ミセスが無事メジャーデビュー出来ることになった後のことだ。彼はこれで「自分が天才だったことを証明できた」はずである。しかし、「メジャーデビュー」という事実をもってしても、彼の心に空いた穴は埋まらなかったそうだ。そしてその上で彼は、次のような実感に行き着いたのだという。
あのタイミングで大事に出来なかったことって、もう一生大事に出来ないんだなってことが分かった。

彼は、「中学生の頃に抱えていた葛藤」を「メジャーデビューすること」によって払拭できると考えていた。しかしそうはならなかったという経験を通して彼は、「その時の感情は、それを抱いたまさにその時にどうにかするしかない」と悟ったのだと思う。そしてだからこそ、「『幼い頃に自身に巣食ってしまった孤独感』も一生解消されることがない」と考えているのだろう。彼のこの「孤独感」の話もとても興味深かった。

最後に
どうでもいいことだが、エンドロールで「監督 豊島圭介」と表示されて驚いてしまった。「映画『三島由紀夫VS東大全共闘』の監督だよな?」と感じたからだ(調べてみたら、やっぱり合ってた)。人の名前なんて基本的に全然覚えられないのだが、時々こういうことがあって自分でもビックリする。で、「どうしてそんな人がミセスのドキュメンタリーを?」と思ったのだが、どうやら彼は、大森元貴主演の映画『#真相をお話します』の監督でもあるようだ。なるほど、そういう繋がりなのか。

そんなわけで、本作『MGA MAGICAL 10 YEARS DOCUMENTARY FILM』は実に興味深いドキュメンタリー映画だった。冒頭で書いた通り、やはり私は「言語化できる人」が好きなので、そういう観点から面白く観られたなと思う。ミセスの音楽は好きだが、バンドとしての彼らにはさほど興味はない。ただ本作を観て、クリエイティブの環境は凄く良かったなと思うし、チームもとても素敵である。さらに、友達としての関係性も凄く良かった。そんな存在が日本のトップクリエイターであるという事実も実に素晴らしいし、興味の尽きない存在だなと思う。








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