【無二】映画『急に具合が悪くなる』は圧巻だった。2人の女性の出会いが世界を静かに鳴動させる(監督:濱口竜介、主演:ヴィルジニー・エフィラ、岡本多緒、長塚京三、黒崎煌代)

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「急に具合が悪くなる」公式HP

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この記事の3つの要点

  • とにかく素晴らしかったのに、何がどう良かったのか言語化がとても難しい作品である
  • 介護施設の施設長であるマリーが抱える様々な問題が、演劇の演出家である真理による「資本主義社会に関する講義」で解きほぐされていく展開は見事
  • 「ユマニチュードで介護施設を改革する」という野心に燃えるマリーの「限界を認識する」という変化を機に介護施設の雰囲気が変わっていく過程も素晴らしい

起伏の少ない物語なので退屈だと感じる人もいるとは思うが、個人的には是非観てほしいと思える作品だ

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

映画『急に具合が悪くなる』は素晴らしかった。2人の女性の出会いから始まる様々な変化を、3時間16分を感じさせない圧倒的な濃密さで描き出す傑作

不可能なことは、不可能です。でもそれは、可能になるまでは、です。不可能を可能にする抜け道は、見つけた時にだけ「元からあったんだ」と分かる。だから進み続けるしかありません。

まったく素晴らしい作品だった。ホント、さすがとしか言いようがない圧倒されてしまった。ホントにこれは観て良かったなと思う(しかし、私は公開週の日曜に観に行ったのに、割と狭めの劇場がガラガラでビックリしてしまった)。

最初に観た濱口竜介作品は『ドライブ・マイ・カー』である。正直まったく観るつもりはなかったのだが、映画に関する情報収集をほぼしていない私の元にも色んな形でその評判が聞こえるようになってきて、「さすがに観ないわけにはいかないか」という気分になった。で、そのあまりの素晴らしさにぶっ飛んで、その後『偶然と想像』『ハッピーアワー』『PASSION』『親密さ』など、映画館で特集上映が行われる度に色んな作品を観まくったのである。どの作品もそれぞれなりの驚きや面白さがあって、ホントに凄いなと思う。

そんな期待値が大分上がっている状態で観たにも拘らず、本作『急に具合が悪くなる』もやはり素晴らしい作品に感じられた。「カンヌ国際映画祭で日本人初の最優秀女優賞を受賞」という情報も、よりハードルを上げる要素になっていたと思うが、そんなことをものともせずにあっさりと期待を超えてくる感じは見事だなと思う。本作の上映時間は3時間16分もあるらしいが、まったく長さを感じさせない作品だったし、私は最初から最後まで圧倒されっぱなしだった。

ただ、「じゃあ何が良かったの?」と聞かれると、本当に説明が難しい言語化するのは容易じゃないんだよなぁ。3時間を超える物語なのに、本作ではストーリー上、劇的なことは特に起こらない。ざっくり要約するなら、「介護施設の施設長と進行がんを患う劇演出家が出会い、小難しいやり取りをし、その後お互いが少し変わっていく」という感じである。また、時間経過もほぼない。物語は2025年6月6日に始まり、6月23日に終わる。2週間ちょっとぐらいのストーリーというわけだ(しかも、物語の重要な部分は「ある一日の出来事」として描かれる)。

なのに、とにかくずっと惹き込まれたし、グッと来る場面も多々あった。というか、正直何が起こったわけでもないのに「あれ、いつの間にか泣いてる?」と気づかされたりもして、本当に不思議な作品だなと思う。

だが、これは勝手な予想でしかないが、私には「言語化が難しい」と感じられる物語を、濱口竜介は恐らく感覚ではなく理詰めで作っているはずである。彼は、東京大学文学部卒業後に東京藝術大学に入学した秀才だし、読んだことこそないが様々な映画の評論本を出版してもいるので、言葉や理屈を頼りにして作品を生み出しているんじゃないかなと思う(もちろん理詰めだけではないだろうが)。なのに私にはその理屈が掴めないし、本作の「面白さ」がどんな「構造」から生み出されているのかも理解できないのだ。

もちろん、個別に色んな要素を上げることぐらいはできる自閉症の青年を演じた黒崎煌代は圧倒的な存在感を放っていたし、フランス語で日常会話や演劇までやってのけた長塚京三も素晴らしい。また、基本的に知的好奇心だけで生きている私にとっては、作中で説明される「ユマニチュード(認知症患者や高齢者のケアの手法)」や「資本主義社会では少子高齢社会になることが避けられない理屈」なども非常に興味深かった。そして、そういうやり取りを含めたマリー(ヴィルジニー・エフィラ)と真理(岡本多緒)の会話は全般的にとても素敵だったなと思う。さらに、介護施設での「理想を追い求めるが故に軋轢や衝突が生まれてしまう」という状況や、「そんな現状を皆がどうにかしようと奮闘している雰囲気」も素敵で、介護施設での描写も全体的に素晴らしかった。

ただ、「そういう個別の要素をすべて足し合わせた総和が本作の魅力なのか」と言われたら、そうじゃないよなと思う。いわゆる「創発」というやつで、本作では「個々の要素の足し算以上の何かが生み出されている」という状況が実現している気がする。

そしてそれをどんな風に成り立たせているのかが全然理解できないのだ。一作だけなら「偶然」ということもあるだろうが、濱口竜介作品では概ねこの「創発」が実現している感じがしていて、だから意図的にやってるとしか思えない。そこに理屈があるなら知りたいなと思うし、ホントにどんな風に作品を生み出しているのか謎である。

映画『急に具合が悪くなる』の内容紹介

介護施設「自由の庭」の施設長であるマリー=ルーは、「施設が抱える問題を改善したい」という改革の意志を強く持って管理職試験を受け、今の立場に就いた。施設長ではあるが、欠勤のスタッフの代わりもこなすなど、やることは多い。というか、副ディレクター(介護学校時代の同期でもある)から「(明日の休日は)絶対に来ないこと」「たまにはちゃんと休め」と言われるぐらい仕事ばかりしているのだ。また、経営陣に介護士の給与増額を要求しているのだが、「その提案では投資家が納得しない」と跳ね除けられている介護を投資で判断されることに違和感を覚えるが、そんなことを言っていても仕方ない。全体として、改革はまだまだ道半ばという感じである。

そんな彼女が施設に持ち込んだのが「ユマニチュード」という手法だ。「要介助者を人間らしく扱うための技法」である。介護施設では基本的に慢性的な人手不足が常態化しており、しかし一方で、企業としては要介助者を多く受け入れて収益を上げなければならない。そのため多くの介護施設では「認知症患者を機械のように扱う」というやり方がまかり通っている。「どんな扱われ方をしたところでどうせ認識できないだろう」という発想で、効率重視が最優先されているのだ。しかしマリーは、そんな現状を変えたいと考えている。認知症を患った母親が、施設(「自由の庭」ではない)に入所してからあっという間に亡くなってしまった経験を持っているからだ。

そこで彼女は、120名のスタッフ全員にユマニチュードの研修を受けさせるため、年3回の研修期間を設けている。通常業務を止めるわけにはいかないので、一度に参加できるのは10人が限界。そのため、全員の研修が終わるまで4年掛かる計算だ。今は、半分のスタッフが研修を終えたところであるだ。

しかしこの研修が軋轢を生み出してもいたユマニチュードの基本は「見る・触れる・話す・立つ」なのだが、現場のスタッフから「そんな丁寧なやり方をしている余裕なんかない」と不満の声が上がっているのだ。しかも、「ユマニチュード研修を受けたスタッフが、効率良く業務を回すスタッフを見下す」という問題も顕在化している。実際のところ、「全員がユマニチュードのやり方を採り入れれば、むしろ効率は上がる」という結果も出ているのだが(効率重視のやり方では認知症患者が暴れることが多く、その制止にかなり時間が掛かってしまう)、その状態に辿り着くまでにはまだまだ時間を要するのが現状だ。

また、ユマニチュードの基本の1つ「立つ」は、「認知症患者を立たせる・歩かせる」ということなのだが(その方が様々な機能の衰えが遅くなる)、この点に関しても現場スタッフから懸念の声が上がっている。当然のことながら転倒リスクは増すわけで、「その責任は現場スタッフが負うんですよ」と指摘されているのだ。

さらにこの話には、金銭面の問題も絡んでくる。公的支援は「要介護度」に応じて変わってくるわけだが、「立ったり歩いたり出来る患者」の要介護度は低くなることが多いため、結果として、「転倒リスクに備えるため人手は必要になるのに、要介護度が低いせいで公的支援が減る」という状況を招くことになるのだ。もちろんマリーはそのような事情を理解しており、それでも「入居者の健康維持のためにはユマニチュードが最適解だ」と信じて突き進んでいるのである。

マリーの信念はスタッフ間でもそれなりに理解されていると思うのだが、もちろん全員ではない。温度差を感じ、さすがについていけないと退職を決めた者もいるし、今のやり方には無理があると声を上げる者もいた。マリーは、理想の実現のために反発はある程度仕方ないと考えているし、個人の自由を尊重するために「去る者追わず」のスタンスを貫いてもいる。とにかく、「自分が頑張ってどうにか出来るならそれでいい」という考えがベースにあるようだ。

しかしあるトラブルを機に、副ディレクターから「さすがにちょっと休め」と言われてしまう。彼女は休むつもりなどなかったのだが、その時あるチラシが目に入った。そして、気晴らしにテアトル13へと行ってみることにしたのだ。

その少し前のこと。彼女が乗ったトラム(路面電車)がシャポー・ルージュ公園の傍を走っている時、まさにトラムに触れんばかりの距離まで近づいて並走する青年を見かけた。気になったのでトラムを下りて公園へと向かい、先程の青年(智樹)を見つける。彼は重度の自閉症を患っていた。GPSを持たされていたのでしばらくしたら迎えが来るだろうと思い、しばし2人で雨宿りをする。そしてその後やってきたのが、智樹の祖父で役者の清宮吾朗と、彼が出演する舞台演劇の演出をしている森崎真理だった。その際、演劇のチラシをもらったというわけだ。

その演劇は『近づいてみれば、誰もまともな者はいない』というタイトルの清宮吾朗の一人芝居だった。イタリアで精神病院を廃絶させた実際の歴史に着想を得た物語のようだ。作中には「健康な者は本当に生きていると言えるのか?」「精神病院を閉鎖できるとは誰も想像もしなかった。不可能は可能になるのだろうか」といったセリフが出てきて、介護施設を改革しようとするマリーにグサグサと突き刺さる。実際に彼女は上演後のQ&Aで、「不可能が可能であることを見せつけられて苦しくなりました」と演劇を観た感想を吐露していた

マリーは早稲田大学の大学院に通っていたことがあり、日本語がかなり話せる。それで、真理とは日本語でも話していたのだが、Q&Aのやり取りの中で真理が「進行性のがんを患っていて、余命半年って言われてる」と日本語で答える場面があった。日本語を解さない他の観客には伝わってはいないものの、公表したのは初めてだそうだ。またマリーは、智樹が芝居中に舞台に上がってしまう(予定調和の演出ではないので、そうならないこともある)という状況も含め、吾朗・真理の演劇に圧倒されたこともあり、終演後に真理と会う約束をした。そして合流した2人は、パリの街を歩きながら長々と色んな話をする

こんな風にして出会った2人は、瞬時の内に無二の親友のような存在となり、深く対話するようになるのだが……。

マリーが抱える複雑な事情が、真理との小難しいやり取りによって解きほぐされていく展開が見事

割と長めに内容を紹介したが、これでも全体の1/3ぐらいだと思う。マリーと真理が出会って以降の展開は2人の交流がメインとなり、そして彼女たちのやり取りをきっかけに本人たちやその周囲の考え方・生き方がどう変わるのか(あるいは変わらないのか)に焦点が当てられるという感じである。

それで、ストーリー的にまず面白いと感じたのが、「マリーが抱えるにっちもさっちもいかない状況が、真理とのかなり小難しいやり取りを通じて少し緩んでくる」というような展開だ。マリーは自分が今置かれている現状を「永遠に傷が治り続ける怪物と闘ってるみたい」と表現していた。「起こった問題に対してその対策を考えて実行しても、その対策がまた別の問題を引き起こす」みたいなことが繰り返されているからだ。根本的な問題が「お金」だということは分かっているのだが、そんなことを言っていてもどうにもならない。だから彼女は、「このような状況を生み出している『構造』そのものと闘わなければならない」と考えているのだ。

さて、2人は辺りが暗くなるまで話を続け、それでもお互い「今日は帰りたくない」「あなたを帰したくない」と思ったので、マリーが真理を「自由の庭」の元施設長室に泊めるために連れてくるという流れになる。そして真理は、「資本主義社会では少子高齢社会が不可避である」という話をマリーから聞いていたこともあり、その議論の続きを始めるのだ(マリーが修士で日本の大学を選んだのも、「少子高齢社会の最先端の国だから」というのがきっかけだったらしい)。

というわけでまずは、マリーが指摘していた「少子高齢社会が不可避な理由」からざっくり説明しておこう。主に、以下の2点に集約できると思う。

  • 賃金がちゃんと支払われるので食事がきちんと摂れるようになり、さらに、回復に必要な余暇が与えられることで休息できるため、人々はどんどん健康になっていく
  • 一方で、資本家は当然「賃金を下げたい」と考えるので、「長時間労働」を前提としなければ生活が出来なくなる。そしてそのせいで、余暇・休息に回すべき時間も仕事に充てなければならず、子育ての余裕がなくなってしまう

まあ、言われてみればその通りという感じだろう。「既に生まれている者は健康になり、新たに生まれる子どもが少なくなる」というのだから、少子高齢社会になるのは必然である。そしてその話の続きという形で、真理はホワイトボードを使ってさらに「資本主義社会の本質的な問題点」を整理していく

核心となるのは、「資本主義社会では『外部からの収奪』が必然だ」という点だろう。真理は、資本主義社会が成り立っている場所を「now/here」と表記した(そしてこれは概ね「都市部」を指していると考えていい)。で、それに対する「外部」とは「自然」や「地方」などである。要するに、「都市部は、自然・地方などから資源を収奪することで成り立っている」というわけだ。

しかし当然だが、自然も地方も、あるいは他にも「外部」として挙げられていた「身体」や「時間」も決して無限ではない。どこかの時点で収奪できなくなるポイントに達してしまう。じゃあそうなったらどうするのか。1つは、「now/here」の範囲を狭める、つまり「今まで『now/here』だった場所の一部を『外部』にする」ことでさらに収奪を続けるという方法。あるいは他にも、戦争などによって「外部」の環境を強制的に変え、さらに収奪できる環境を整えたりもする。こうして資本主義社会では、無理やりにでも「収奪を続けられる状況」を生み出しているというわけだ。

さらに言えば、「個々の市民の自由・尊厳を尊重する」という民主主義が成り立つのも、本質的には「資本主義が成立している場所」だけであり、つまりそれは都市部など一部のみである。となれば、収奪され続けている地方が現状に不満を抱くのは当然だ。しかし、地方に住む人たちのそのような態度を、都市部の人間は「知的に劣っている」と見做す。「地方からの収奪によって現状が成り立っている」という状況を理解しないまま、「高尚な資本主義を理解しないなんて野蛮だ」みたいな発想になってしまうのである(まさにこれは、近年のアメリカの現状ではないかと思う)。そのため、金銭的にも現状認識的にも都市部と地方とでは格差が広がり、そしてだからこそ余計に資本主義が成り立つ場所が狭まっていくというわけだ。

というような形で、真理は「資本主義が抱える本質的な問題」をまとめていく(私の説明は概ね間違っていないと思うが、正確ではないとも思うのであまり参考にしないでほしい)。で、面白いのが、まさにこのように説明された問題が、マリーが今置かれている現状とピッタリ重なるという点だ。マリー自身も説明の途中でそのことに気づいたのだろう、真理に「(この講義には)何か含みがある?」と聞いていた。つまり、「『自由の庭』の現状を理解した上で、遠回しに私を非難してるの?」という意味だ。もちろん、ついさっき再会したばかりの真理がそんな思惑を抱いているはずがない。マリーは確かに、真理を連れて施設内を案内し、ユマニチュードの実践も見せたが、それでもこの講義の時点では、真理よりも観客の方が「自由の庭」について詳しいはずだ。

これはつまり、「資本主義社会が孕む問題を指摘したら、それがそのまま『自由の庭』の問題とそっくり重なっていた」ということである。そしてそれはそのまま、「私たちが日々抱えている様々な問題も、本質的には同じように理解できるのではないか」という受け取り方にも繋がるだろう。そういう意味で、真理の講義は「資本主義社会に生きるすべての人が抱える問題を包摂している」と言えるんじゃないかと思う。

今説明した部分は「映画的に面白い」というわけではないが、知的好奇心を満たすという意味では非常に興味深かったし、私にとってはかなり刺激的に感じられる話だった。

マリーや介護施設の変化、そして役者の演技の見事さ

資本主義社会に関する講義を含め、真理とのやり取りには色々と感じることがあったのだろう、そこからマリーは施設長として様々な変化を見せることになる。決して「理想の追求」を諦めたわけではなく、「限界を認めた上で、より広く助力を求める」という方針に転換したのだ。そしてトップのこの変化によって、「自由の庭」の雰囲気も大きく変わっていく

さて、そんなマリーが、「境界を少しずつ曖昧にしていくための決断だ」みたいなことを言う場面がある。ここには、「介護士と看護師とボランティアの境界」や「施設の内と外の境界」など色んな意味が込められていると思う。で、私はこの場面を観ながら、少し前に見た「情熱大陸」で取り上げられていた山崎健太郎という建築家のことを思い出した。彼は、ホスピスや障がい者支援施設の設計などに関わることが多く、そしてその過程で「境界を取り払う」みたいなスタンスを意識するようになったと紹介されていた気がする。

そしてそんな経験が買われたのだろう、「情熱大陸」では、「新たに検討されている『開放型刑務所』のモデル案に関わる様子」が映し出されていた。実際に建てる刑務所の設計ではなく、「『開放型』というコンセプトを具現化するためのアイデアを出してほしい」という依頼である。刑務所という「内と外を区切るしかない建造物」で、いかに「開放型」というコンセプトを実現するのかそんな彼の試行錯誤が、私の中で、マリーと重なって見えたのである。

また、マリーの変化に触発されるようにして「自由の庭」の雰囲気も大きく変わったし、その変化はとても魅力的なものに感じられた。例えば、真理がワークショップとして「入居者とスタッフがお互いに足を揉み合う」みたいな手法を提示する場面がある。それ自体も素敵だったのだが、ラストシーンに近い場面で再びそのやり取りが映し出されたのも凄く良かった。「あまりにもカオスだけど、なんか成立している気がする」と感じさせられる、不思議で素敵なシチュエーションだったし、真理がその場面を目にして「どう考えてもこの世界がサイコー」と口にしていたのも「確かにそうだよな」という感じである。真理は資本主義社会に関する講義の中で「この社会の”終わり”を私は見ずに死ねそうだけど」と、進行がんのせいで長く生きられない自身の状況を踏まえた発言をしていたが、この場面で思いがけず「社会の希望」を目にすることが出来たのではないかなと思う。

そんなわけで、とにかく設定・物語・展開が素晴らしい作品だった。本作は「がんを患った哲学者」と「臨床現場の調査を積み重ねた人類学者」による同名の往復書簡が原作なのだが、原作は未読なので、どこまでが原作にある話で、どこまでが濱口竜介のオリジナルなのかは正直よく分からない。ただ、とにかく設定・物語・展開が素晴らしかったので、全体的には淡々と進んでいくにも拘らず、最初から最後までずっと作品世界に惹きつけられてしまったなと思う。ホントに凄いものを観たという感じが強い。

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というわけで最後に、物語そのものではない部分に触れてこの記事を終えようと思う。

まずは、冒頭でも少し触れた通り、自閉症の智樹を演じた黒崎煌代が天才的に素晴らしかった。これまでも色んな作品で彼のことは観てきたが、かなり話題を集めた『見はらし世代』で主演を務め、さらに注目度が上がっているように思う。また、全然知らなかったが、長塚京三はソルボンヌ大学に通っていたこともありフランス語は元から話せたようだが、それにしても80代でフランス語を駆使する役というのもまた凄いものだなと思う。そんなわけで、もちろん主演の2人も素敵だったのだが、個人的には黒崎煌代・長塚京三の演技がとても印象的に感じられた。

あと、マリーと真理のように「出会ってすぐに、お互いがお互いを唯一無二だと感じる」みたいな関係性には凄く憧れる。だから2人に対してはずっと「いいなぁ」という感覚を抱かされてしまった。ある場面で真理が、「出会った時に、その出会いを逃さないための準備をずっとしていた人生だった」みたいなことを言っていたのだが、凄く分かるなと思う。私もいつも準備をしているつもりだし、だから時々、自分でも「凄いな」と感じる状況・タイミングで興味深い人と仲良くなれたりすることもある。ただやはり、この2人ほどの深さで関われることはなかなかないし、だからずっと「羨ましいなぁ」と思いながら2人の関係を追っていたそういう部分も素敵な作品だったなと思う。

最後に

冒頭でも触れたが、物語的に特段何が起こるわけでもないので、本作を「退屈」と感じる人もきっといるだろう。それは好みの問題なので仕方ないと思う。ただ、私のように最初から最後までぶっ飛ぶほど惹きつけられたという人もいるはずだし、個人的にはホントに観てほしい作品である。良い映画に出会えたなと思うし、こういう感動をどうにか継続して得ていきながら生きていきたいものだなとも感じた。

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