はじめに
この記事で取り上げる映画
この記事の3つの要点
- 私たちが今生きている社会の価値観とは真逆の世界だが、私には「もしかしたらこれは理想的なんじゃないか」とさえ感じられた
- 「『家族』と『恋人』の機能が完全に分離している」という状況は、私にはとても合理的で素敵なことに思える
- 「両親の交尾」から生まれたことに「穢らわしさ」を感じている主人公が抱く「SEXしたい理由」も歪んでいて面白い
自己紹介記事


記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません
映画『消滅世界』は「妊娠・出産が外在化された世界でSEXはどんな意味を持つか?」をリアルに問う狂気的で思索的な物語である
非常に面白い作品だった。原作小説は未読だが、村田沙耶香なら間違いないと思っていたし、やはり狂気的でイカれ倒した素晴らしい世界観だなと思う。
狂気的であることは確かだが、同時に、私には親和性が感じられる物語でもあった
さて、先ほど私は「狂気的」という表現を使ったが、正直私には、本作『消滅世界』の世界観は結構アリだなと感じられた。というのも私は昔から、「もし結婚するなら友達としたい」「恋愛から結婚に進展させるってかなり無理ゲーじゃない?」みたいなことをよく考えてきたし、周りの人にも話してきたからだ。観ながら、「私はこの世界で結構良い感じに生きていけるかもしれない」と思っていたぐらいである。

それで映画の最後の方にこんなセリフがあった。
この世界に、洗脳されてない脳なんてあるの?
どうせなら、その世界に一番合った形で狂った方がいい。
一番怖い狂い方は、「正常」だよ。

このセリフはまさに、本作全体を貫く思想を凝縮したものだと言っていいだろう。そして私はこのセリフを聞きながら、「私の考えは、今の世界では『異常』だが本作の世界観では『正常』だよな」みたいに考えていたし、「『本作に一番合った狂い方』が出来ているよな」とも思う。そのことはなんとなく、私を嬉しくさせた。
さて、以前観た映画『国宝』の感想の中で、私は延々と「『血の繋がり』なんかに意味はあるのか?」みたいなことを書き連ねたことがある。本当に私には、「血の繋がり」なんかまったく大事だとは思えないのだ。だからだろう、私は比較的、本作の後半以降に登場する「エデン」の存在も許容できる。この感覚を他人に強制するつもりはないが、同時に、「それでいいと感じる人がいるならそれでも良くない?」とも思う。要するに「お前らも強制してくるなよ」という話だ。

恐らく多くの人にとって本作は「狂気的な作品」という認識になるのだろうが、私には「割と良い世界だな」という風に見えていたし、だから「ホントにこんな未来になるならそれは案外好ましいよなぁ」なんて思いながら観ていた。もちろんこの感覚が多数派なはずはないが、ただ、私と同じように感じる人は多少なりともいるんじゃないかという気もする。特に、若い世代の中には共感できるという人がそれなりにいてもおかしくないように思う。
本作のテーマの1つを乱暴に要約してみると、「妊娠・出産を外在化できるなら、人類はSEXを不要に出来るか?」となるだろうし、この問いに「YES」と答えられる若い世代は結構増えているような印象がある(私の捉え間違いでなければ)。だから、「突拍子のない世界」だなんて全然感じなかった。また、本作『消滅世界』が描く社会ではどうやら、同性婚はまだ認められていないらしい。そして実際のところ、「同性婚の法制化」よりも「恋愛と結婚の切り離し」の方が先に実現する可能性はあるんじゃないかとさえ思っている。
本作の世界観を「ディストピア」と呼ぶとして、これはまさに「私たちが今向かいつつあるディストピア」のように思えるし、そういう作品として受け取られるべきではないかと感じた。

映画『消滅世界』の内容紹介
映画『消滅世界』は、「人工授精が当たり前となり、それに伴って、夫婦間のSEXがタブーとなった世界」が舞台となる作品だ。実に子どもの9割が人工授精で生まれてくるのだが、そんな世界において、主人公の雨音は両親のSEXによって生まれた子どもである。そしてなんと、彼女はそのせいでいじめられていた。小学校の同級生から、「人工授精じゃないの? そういうの、近親相姦って言うんだよ」とからかわれているのだ。しかし雨音の母親は世の中の変化などお構いなしで、「あなたは好きな人と結婚して、愛し合って子どもを産みなさい」と伝え続ける。

「もうそんな世の中じゃないのに」と、雨音は一人思い悩むのだった。
「夫婦間でのSEXがタブーになった世界」において、人々にとっての「性の対象」は大きく2つある。1つが「アニメなどの2次元キャラクター」、そしてもう1つが「家庭外の人」だ。雨音は子どもの頃からずっと、アニメのキャラクターである「不老不死で7000歳の少年ラピス」に恋し続けてきた。また、以前なら「浮気・不倫」と非難された「家庭外に恋人を持つ行為」は、今では「家庭にSEXを持ち込まないための清潔な行為」とされ、むしろ推奨されている。「家庭外に恋人がいる」という事実が「清潔な家庭」の条件にさえなっているのだ。学生時代に雨音は、同級生から「両親がそれぞれお互いの恋人を呼んでパーティーをするの」と聞き「清潔な家庭なんだね」と返していた。ここに、皮肉的なニュアンスは含まれていない。

さて、大人になった雨音は結婚したのだが、夫からSEXを迫られたため思わずワインの瓶で殴り倒してしまった。幸い命に別状はなく、そして病院に付き添った雨音の友人・樹里が雨音の夫に「警察沙汰にならなかっただけ良かったと思ってほしい」と強い口調で話す。そう、この状況では、「殴った雨音」ではなく「家庭内でSEXを望んだ夫」の方が「性加害を行った」として非難される対象なのである。こうして2人は婚姻関係を解消した。
その後雨音は、おせっかいな樹里が勝手に登録した婚活アプリを通じて朔と知り合う。彼と初めて食事をした日、話の流れで雨音が「かつて夫に襲われたことがある」と口にすると、朔はあまりの気持ち悪さからトイレに駆け込んで吐いてしまった。生理的にまったく許容できる状況ではなかったからだ。雨音はそんな朔の姿に安心感を覚え、一緒にいる時の穏やかな雰囲気も心地よく結婚を決めた。2人はそのまま「清潔な家庭」を築くが(朔には別に恋人がいる)、しかし穏やかなはずのそんな日常の中で、雨音は一人、自分の内側から湧き上がるとある葛藤と闘い続けることになり……。
「『家族』と『恋人』とで機能が明確に分離している」というのはとても合理的ではないだろうか?
冒頭でも書いた通り、本作で描かれている世界観は、「今まさに向かっているかもしれない」という意味で「現実離れしている」とは思えなかったし、「凄まじくディストピア的ではあるが、リアリティはきちんとある」みたいに感じられた。「日本が数年後に本作のような状況になっている」なんてことはもちろんないだろうが、「人工授精の精度向上」や「出生率の減少」、加えて「若い世代の『清潔』に対する感覚の鋭敏さ」などの要素の噛み合い方次第では、数十年先には実現していてもおかしくはない気がしてしまう。

ネットでざっくり調べてみても、「若者が恋愛やSEXに興味を抱いていない(失っている)」みたいな記事は色々と出てくる。もちろん、「したくない」のか単に「出来ない」だけなのかは色々見方があるだろうし、軽々には判断できないが、現実に「減っていること」は間違いないだろう。だから、そういう「現実の変化」から新しい価値観が生まれてもおかしくないし、それによって本作と近い世界観が作られていっても全然不思議ではないと思う。例えば日本では、長年続いてきた「家父長制」が時間を掛けてほぼ消滅したわけで、それに近い変化だと考えてもいいだろう。
さらに、個人的な感覚で言えば、「『家族に求めること』と『恋人に求めること』ってほぼ真逆じゃない?」と感じることが多く、だから昔から「恋愛から結婚に至る流れってメチャクチャ不合理じゃないか」と思っていた。そんなわけで、本作で描かれている「『家族』と『恋人』を分けよう」という話はとても理に適っている感じがするし、「理想的」だとさえ感じられる。

それで、誤解がないように書いておくが、この「理想的」というのは別に「結婚した上で外に恋人作り放題なんてハーレム最高!」みたいなことでは全然ない。例えばだが、本作には次のようなやり取りがあって、「分かるなぁ」と感じさせられた。
「ホントに君は最高の妻だよ。君とだけは絶対に恋にはならないでいられるから」
「私も、朔くんと一緒にいると、この世界に『恋』ってものがあることを忘れられるよ」

あるいは、こんな会話もある。
朔くんには幸せな恋愛をしてほしい。
私の大事な家族なんだから。
こんなやり取りが夫婦間で行われていて、私にはとても素敵なものに感じられた。この感覚、伝わるだろうか? 「『家族』と『恋人』に求める機能が完全に分離していて、それぞれがその『機能』の範囲内の存在としてそこにいる」みたいな状態は、個人的にはとても「健全」に感じられるのだ。今の世の中の「常識」を一旦無視してフラットに物事を捉えるように努力してみたら、どうだろう、私と同じような感覚にならないだろうか?

「『妻』と『恋人』の邂逅シーン」の”異様さ”、そして「『恋愛』に『セックス』は欠かせないのか?」という問い
本作には印象的なシーンがかなり多いが、「妻」と「恋人」が邂逅するシーンもその1つだと言っていいだろう。朔が恋人の深雪と一緒に歩いている時、雨音が偶然通りかかるシーンである。その際、深雪も雨音も共に「会いたかった」と口にしていた。お互いに朔から相手の話を聞いていて、「気が合いそう」だと言われていたからだ。私たちが生きる世界の常識に照らせば、この場面は「表向き穏やかに振る舞っているが、実は女性同士のバチバチのバトルが始まっている」みたいな状態だと思うが、本作のこのシーンにはそんな雰囲気は一切ない。どちらも本当に「会いたかった」と思っているのだろうし、どちらも穏やかにやり取りを続けるのである。
3人の会話はその後こんな風に続いていく。深雪が「朔がいつも『最高の妻』だって言ってます」と口にすると、朔が「当然だよ。僕が一番信頼してる人なんだから」と返す。それに対して深雪が「えー、じゃあ私のことは信頼してないってこと?」と冗談みたいに指摘し、朔が「そんなんじゃないよ」と穏やかに答える。そしてそこで3人がクスクスと笑い合うのだ。まるで、昔からの友達みたいな感じで。我々が生きる世界の常識からすればあまりにも”異様”な状況だろうが、しかし作中では彼らの関係性は”正常”に成り立っている。
ここでもやはり、「恋人は恋人としての存在」「妻は妻としての存在」としてそこにいて、そしてその場にいる全員がそのことをきちんと諒解し合っているというのが重要なのだと思う。「恋人」「妻」という存在の範囲からはみ出さないことで全体が美しく調和しているみたいな感じがあって、個人的にはとても素晴らしいなと感じる(誤解されないように書いておくが、本作では「妻が外に恋人を持つこと」も当然とされており、男女でその点に差はない)。

また本作では「関係性」だけではなく「性欲」そのものにも焦点が当てられていた。いや、結局これも「関係性」の話になるのか。要するに、「『恋人』で居続けるために『SEX』は不可欠なのか?」が問われるのだ。

本作には、次のようなことを口にする人物が登場する(具体的には触れないが、セリフからイメージされる人物像とはかけ離れていると思う)。
体の関係が辛い。ダメみたい。
恋人になるためって思って頑張ったんだけど。

この場面も非常に倒錯的で面白かった。つまり本作『消滅世界』においては、「夫婦間」に限らず「恋人間」であっても「性欲」が介在しなくなってきているというわけだ。後半のある場面では「性欲を人工的に刈り取る」みたいな機能を持つらしい部屋がチラッと紹介されるし、また、「性欲って無駄ですよね」とはっきりと口にする人物も出てくる。何となくだが、性欲が「生理」のような捉えられ方になっている印象で、このような感覚も非常に興味深かった。
主人公の雨音は「SEXしたいと望んでいる」のだが、その理由もまた歪んでいて面白い
さて、このような“イカれた世界”において、雨音はメインで描かれる人物の中ではほぼ唯一と言っていいぐらい「他者とのSEXを望んでいる人物」として登場する。しかし、その理由もまた歪んでいて面白いなと思う。
そもそもだが、彼女は子どもの頃に「少年ラピス」に恋心を抱いたことで「安心した」のだという。何故なら、「2次元の存在に恋すること」は彼女が生きる世界では「当たり前」のことだからだ。彼女は、「自分が『両親の交尾』から生まれた存在だ」という事実に負い目・嫌悪感みたいなものを抱いており、その「普通ではなさ」「穢らわしさ」みたいなものから逃れたいと考えていた。だからこそ、「『母親とは異なる』かつ『世間と同じ』価値観」を自分の中に見つけられてホッとしたのだと思う。

そして「彼女がSEXを望む感覚」にも同じような発想が見て取れる。彼女は母親を「家庭に性欲を持ち込む人」と捉えていた。だから、「母親とは違う」と思いたい彼女は、
外の恋愛で発情すると、「自分はノーマルなんだ」って思えて安心する。
と考えているのだ。さすがに私も「ぶっ飛んだ発想だな」と感じるが、ただ、雨音が生きてきた人生の背景を踏まえると「そういう考えになってしまうのも仕方ないか」とも思えてくる。
しかし、そんな感覚を抱いている雨音はその後、ある場面で「正しい発情なんてどこにもないから」という言葉を突きつけられてしまう。「『正しい発情』って何だよ?」って感じかもしれないが、我々が生きている世界で言うなら、大雑把に「『恋人・配偶者に向ける発情』が正しく、それ以外は正しくない」となるだろうか。しかし本作の世界で生きるある人物は「そもそも正しい発情なんてない」と考えているのであり、そして雨音はこの価値観にショックを受けたのだと思う。「どんな理由であれ発情してしまった自分は正しくない」と感じさせられたはずだからだ。恐らくこの時突きつけられた言葉が、後半に至る彼女のある決断の背景にあるのだろうなと思う。

それで本作には、「こんなありがちな定型句に、よくもまあこれほどの狂気をまとわせられたな」と感じるようなシーンがある。例えば、ある人物が「産んでみたら分かるよ」と口にする場面もその1つだ。ここでの「分かるよ」は、我々が普通にイメージするものとはまったく異なるものである。

で、この「産んでみたら分かるよ」は、私も言われたことがある。私は子どもにまったく興味がないのだが、そういう話をすると、子育てをしている人から「産んでみたら分かるよ」と言われることがあるのだ。これは要するに、「自分と血が繋がった子どもだったら絶対に可愛いって感じられるから」みたいなことなのだろう。しかし本作では、まったく違う意味合いで使われている。
本作全体に言えることではあるが、このような「聞き馴染みのある言葉」に全然違う響きをまとわせて使っている場面がちょいちょいあり、「価値観の転倒」を感じさせられた。ホント、良い具合にイカれていて、メチャクチャ興味深い作品だなと思う。

「感情の起伏がほぼない」という、本作『消滅世界』の映像的な特異さ
ここからは少し内容から離れた話をするが、本作には「感情の起伏がほぼない」という映像的な面白さもあるなと感じた。そしてこの点から2つの意味が読み取れるように思う。
1つは「母親の“異常さ”を浮き彫りにする効果」である。本作『消滅世界』において、唯一と言っていいぐらい感情をむき出しにする存在が雨音の母親だ。彼女は「今の世の中は狂ってる」「こんな世の中でも真っ当な考えで生きていけるようにお前を育てたつもりだ」と、娘に対して強い口調で自身の価値観をバリバリに押し付ける。雨音はそんな母親の主張にまるで取り合わないが、母親も全然引こうとはしない。そんなわけで、「感情の起伏がない」という要素が、「作中における圧倒的な少数派」だと言っていい母親の”イカれた価値観”を際立たせる役割を果たしているのである。
そしてもう1つ、「『結婚やSEX』と『恋愛』とが切り離されたことで、『恋愛』の価値が相対的に下がった」という事実を示唆しているようにも感じられた。

今でも割と一般的に、「最も感情が高ぶる状況」として「恋愛」がかなりのウェイトを占めているように思うのだが、やはりそれは「『恋愛』の価値が高いと捉えられているから」だろう。「素晴らしい恋人と付き合えていること」「素敵な恋愛が出来ていること」が「その人自身の価値」に直結するみたいな発想が当たり前に存在するからこそ「恋愛=感情を高ぶらせるもの」という認識になるのだろうし、実際に感情が高ぶるのだとも思う。

しかし作中世界では、「恋愛」の価値が相対的に下がっている(「恋愛」というか「性欲」と表現する方が正確かもしれないが)。そしてそれ故に、「恋愛」が「感情を高ぶらせるもの」としては機能しないのだ。で、そうなってしまった世界では、「『突出して人々の感情を高ぶらせるもの』がそもそも存在しない」みたいなことも起こり得るだろう。だからこそ、何事に対しても人々の反応がフラットになっているのではないか。私は登場人物たちの反応を見ながら、そんな風に考えていた。そうだとして、これもまたとても面白い演出だなと思う。
しかし、演じる側としてはかなり難しかったんじゃないだろうか。「感情の起伏がない」とはいえ、「喜び」や「悲しみ」は伝えなければならないわけで、「感情を大きく変動させることなく、感情の情報だけを伝える」ことが求められていたように思う。そして主演の蒔田彩珠を始め、役者は皆そういう雰囲気を上手く醸し出していた気がする。そういう点もよく出来ていたなと思う。


最後に
本作『消滅世界』が一般的にどんな風に受け取られるのかは分からないが、個人的にはメチャクチャ好きな作品だった。狂気的だし異様であることも間違いないが、私としては親和性を感じられる設定・展開が多く、「ここで描かれていることって、ある種の理想と言ってもいいんじゃないか」とさえ感じたぐらいだ。とはいえ、もし私が20代の頃に本作を観たとしたら、同じようには感じられなかっただろう。その頃はまだ全然「恋愛したい」と思っていたからだ。長い時間を掛けて自分の価値観が変わっていった気がしているし、本作を観た42歳の時点では本作で描かれている価値観と自分との距離がかなり近くなっている感じがした。
本作に共感できてしまうことは「正しくない」のかもしれないが、それならそれで別にいい気もするし、いずれにせよ、非常に面白い作品で良かったなと思う。







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