【悲劇】東京大空襲経験者の体験談。壊滅した浅草、隅田川の遺体、その後の人々の暮らし等の証言集:映画『東京大空襲 CARPET BOMBING of Tokyo』

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「東京大空襲 CARPET BOMBING of Tokyo」公式HP

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

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この記事の3つの要点

  • 実際に空襲に遭い、命からがら逃げ延びた者たちの証言は、あまりにも具体的で生々しく、圧倒されてしまう
  • 「戦闘機から直接機銃掃射を受けた」「戦争孤児として辛酸を嘗めた」など、「空襲」だけではない様々な話についても語られる
  • 「アメリカを憎んでいますか?」という問いに対する多様な返答もまた印象的だった

原爆投下と比べ日本でもあまり知られていない空襲の話を、まずは日本人の私たちが知って伝えていくべきなのだろうと思う

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

映画『東京大空襲 CARPET BOMBING of Tokyo』は、悲惨な大空襲を体験した者たちへのインタビュー集であり、そのあまりに壮絶な状況に驚かされる

これは実に興味深いドキュメンタリー映画だった。

本作『東京大空襲 CARPET BOMBING of Tokyo』は基本的に、「第二次世界大戦中に行われた東京への大空襲を経験した者たちへのインタビュー」で構成されている。その合間合間に昔の映像が挿入されたり、証言者たちによる「証言する」以外の行動が映し出されたりもするのだが、私の体感では8割以上がインタビューで構成されていたように思う。

そしてそのインタビューで私がまず驚かされたのが、話をする人たちが実に明晰に語っていたことだ。東京大空襲から既に80年が経っている。また、証言者たちの「空襲当時の年齢」は様々だったが、大体15歳以下だった(1人だけ、当時20歳という方がいたが)。と考えると、本作に出演している人たちの現在の(映画公開時の)年齢は概ね、85歳から95歳ぐらいだろう(ただし、インタビューを行ったのは少し前だと思うので、撮影時の年齢はもう少し若かっただろうとは思う)。かなり高齢なので、昔のことを覚えていなかったり、あるいは覚えていてもはっきりとは喋れなかったりしてもおかしくないはずだ。

しかし本作に登場するほとんどの人が、とにかく明晰に、そしてはっきりと当時のことを語っていたのである。これにはかなり驚かされた。観ながら、「今の若い人の方が要領を得ない説明をしちゃうんじゃないか」とさえ感じたほどである。必要な情報を過不足なく織り込みながら当時の状況を具体的に詳細に語る姿にとにかくビックリさせられたし、そのことがまずとても印象的だった。

空襲を体験、あるいは見聞きした者たちによる証言がとにかく凄まじい

本作では主に、「東京大空襲」「山手空襲」「八王子空襲」の3つに焦点が当てられている。そしてこの記事では、この3つを特に区別せずにあれこれ書いていこうと思う(映画を観ながら取ったメモを元にして感想を書いており、どの証言がどの空襲のものなのかまではなかなかメモし切れなかった)。本作では、これらの空襲を直接的に経験した人(つまり、実際に避難をし、その過程で多くの死体を目にするなどした人)や、空襲の炎や様子を遠くから見ていた人たちの話がまとめられている

中でも私は、浅草周辺が壊滅的な被害を受けたという「東京大空襲」の話が特に印象に残った。というのも、まさに私が今住んでいるのが浅草なのである。証言の中にはいくつか小学校の名前も出てくるのだが、その内の1つは、私が普段国政選挙などの投票の際に行く場所だ。超近所の話である。証言者たちの話も、何となくではあるがどの辺りのことを言っているのか分かる感じがあり(浅草生まれというわけではないのでざっくりとしか分からないが)、そういう意味でも実に興味深く感じられた

またこの「東京大空襲」に関しては、「雷門の前で外国人観光客に『東京大空襲を知っているか?』と質問する様子」も映し出される。そして多くの人が、「広島や長崎のことは知っているけど、浅草がそんな状況だったなんて知らなかった」と答えていた。「東京大空襲」では、2時間半で10万人もの人が亡くなったとされている。そして当時撮られた被害写真を目にした外国人は、「こんなことが起こっていたなんて」とその驚きを口にしていた

さて当然ではあるが、証言者の話の中ではやはり、実際に空襲に直面し何とか逃げ延びた人たちの話が興味深い。ちょっとびっくりしたのが、当時出されていたある「お触れ」の話である。なんと、「もしも自宅に火がついたら、それを消すまで家族は避難するな」と厳命されていたというのだ。火事の延焼を防ぐためということなのだろうが、平時では考えられない指示だろう。また、戦争が始まって以降、多くの家庭では「防空壕」を作ったそうなのだが、「実際にはまるで役に立たなかった」と語る人が多かったのも印象的だった。ただ地面に穴を堀っただけの代物であり、そりゃあまともに機能するはずもないだろう。というか、空襲の際にそうした簡易の防空壕に逃げ込み、窒息死、あるいは高温による熱死などで命を落とす人も多かったという。あまりにも悲惨すぎる話だなと思う。

そしてさらに印象的だったのが浅草周辺を流れる「隅田川」の話である。多くの人が「隅田川は死体でいっぱいだった」と話していたのだ。以前何かで広島の原爆の話を見聞きした際、「熱さから逃れるために川に飛び込んだ人たちが折り重なるように亡くなっていた」みたいな証言に触れた気がするのだが、それと同じような状況だったそうである。ある証言者は確か、「綺麗な身体の死体が川に整列するように並んでいた」みたいなことを言っていたように思う。

空襲では多くの人が命を落とし、当然、その最期も様々だったわけだが、ある証言者は自分が見た光景として、「マンホールの中に入ろうとしたら、マネキンのような死体があった」みたいな話をしていた。要するに、髪も服も燃えてしまったということだ。どういう状況でマンホールまで辿り着いたのかは推して知るべしだが、その凄まじさが理解できるだろう。

さて、当然と言えば当然の話ではあるが、空襲が収まった後はおびただしい数の死体をどうにかしなければならない。そしてこの点に関しても様々な証言があった。空襲から半年ほど経ってから出現した死体を見に行ったという証言者は、「とんでもない臭いで、それから3日間ぐらいご飯が食べられなかった」と話す。また、「トラックに死体を詰め込んでトタンを載せ、それを別の場所に積み上げていた」のを目撃したという人物は、「川の死体は、底にあったものほど凄まじい臭いだった」と語っていた。

そんな中、個人的に最も衝撃的だったのが「警察官が死体の内蔵を切り取っていた」という証言だ。もちろん、腐敗を避けるためである。「東京大空襲」だけで10万人も亡くなったのだから、火葬場も埋葬場所も当然足りない「東京大空襲」が起こったのは3月10日。当時の気候がどんな感じだったのかは分からないものの、徐々に暖かくなっていく頃合いであることは確かだろう。だから仕方ない処置だったことはもちろん理解できるのだが、それにしても凄まじい状況だなと思う。

その凄まじさについては、こんな字幕も表示されていた気がする(「気がする」については後で説明しよう)。

「広島・長崎の原爆投下」と「東京大空襲」は、過去の戦争の事象においても最も酷いものに数えられる。

本作では時々、書籍や報告書などからの「長文の引用」が表示された。上述の文章は、その内の1つである。ただ本作では、表示される文字があまりにも小さく、まだそこまで目が悪いわけではない私でも全然見えなかった。客席にはお年寄りも多かったので、かなりの人がほとんど表示内容を理解できなかったんじゃないかと思う。配信で観るならあのサイズでも問題ないだろうが、劇場で観るにはちょっと無理がある大きさだった気がする。

まあそんなわけで、先の引用もどこまで正確か分からないが、私の記憶では確か、アメリカかどこかの報告書の文章として紹介されていたものだったように思う。表示された文章以上に詳しい説明はなかったはずだが、恐らく「過去の戦争の(民間人が多数亡くなった)事象」という意味ではないかと私は受け取った。もちろんホロコーストのように、さらに多くの民間人の命が失われた事例もある。しかし、「原爆」と「空襲」は「無差別」であり、そういう要素も含めて考えれば、その「悲惨さ」は突出していると言えるのかもしれない。

我々が生きている日本はまさにそのような「世界レベルの『悲惨さ』」を体験したのだと、現代を生きる私たちも改めて認識する必要があるだろうと思う。

空襲と絡めて語られていた「機銃掃射」「戦争孤児」などの話

証言者が語る話には、何となく知っていたこともそれなりにはあったが、もちろん知らないことの方が多かった。そしてその中でも「えっ?」と感じたのが「機銃掃射を経験した」という話である。驚くべきことに、「戦闘機から直接狙い撃ちされた」というのだ。

さて、その話をする前に、そもそも「空襲」がどのように行われたかについて触れておこう。夜間に行われたのだろう(そういう基本的な知識も私にはなかったりする)、まずは照明弾を落とす飛行機が来るのだそうだ。そしてそれから、焼夷弾を落とすB29が飛んでくるB29はとにかく爆音が凄まじく、「それ以外の音が一切存在しない」みたいな状況になるのだそうだ。しかしそんな爆音を響かせるB29は、かなりの上空から焼夷弾を落とす。もちろん、地上での爆発の余波を食らわないためだろう。ある人物は、「B29が焼夷弾を落としたのを目にしてから、それが実際に地上に落ちてくるまで、かなり時間が掛かった」みたいなことを言っていた。ちなみにだがその人物は、焼夷弾が落ちてくる様子を見た母親が「花火みたい」と口にしたのを聞いて、「なるほど、あれが花火なのかと思った」という話もしていた。戦争が始まってからは、花火を打ち上げる機会もなくなっていたので知らなかったのだそうだ。

で、機銃掃射である。機銃掃射の場合は空襲の時とは全然違い、グラマンという飛行機が地上近くまで降下してきて、そこから銃をぶっ放すのだそうだ。ある人物は友人から「グラマンに乗った兵士の顔を見た」という話を聞いたという。また別の人物は、「(機銃掃射による)空の薬莢がトタン屋根のニワトリ小屋に落ちてもの凄い音がしたし、そのせいでしばらくニワトリが卵を産まなくなってしまった」みたいな話をしていた。どちらも、その状況が容易に浮かぶ、リアリティのある光景ではないかと思う。

空襲だってもちろん最悪だが、しかし、「低空飛行する飛行機から銃で直接狙われる」というのはまた全然違った恐ろしさがあるだろう。米軍は当然、銃を向けている相手が民間人だと理解していたはずだし、そう考えると余計に怖いなと思う。現代では「戦争のルール」がある程度明文化されているはずで、だから「民間人が直接的に攻撃対象にされる」という状況は”理論上は”あり得ない。もちろん、実際には「民間人が命を落とすことが分かっていて行われる攻撃」も当然あるとは思うが、しかしそれでも、「民間人が機銃掃射で狙われる」なんて状況はさすがに起こらないのではないだろうか。そういう意味でも、かなり特異的な状況だったと言っていいように思う。

また本作では他にも、「空襲」ではなく「戦争」全般に関係する話として「戦争孤児」についても取り上げられていた

とその前に、本作『東京大空襲 CARPET BOMBING of Tokyo』の制作に関する話を少し書いておこうと思う(その辺りのことが作中で少し触れられていた)。そもそもだが、「空襲を経験した人」を探し出すだけでも相当苦労したようだ。序盤の方で、「探し始めてから2ヶ月は、誰も見つけ出せなかった」みたいな字幕が表示されたぐらいである。制作陣はまず、かつて出版された「空襲についての証言集」みたいな本に載っている名前・住所などから手当たり次第に辿っていったのだが、既に亡くなっている方が多かったという。「空襲について証言してくれる人を探す」という点がまずかなりの困難だったようだ。

そしてその上で、さらに困難を極めたのが「戦争孤児の捜索」だったという。本作では結局空襲については15~20人ぐらいの人が証言していたと思うが、戦争孤児として登場したのは2人だけだった。もしかしたら「見つけたが映画出演は断られた」みたいなパターンもあったかもしれないが、そうだとしてもかなり少ない人数だったことは確かなんじゃないかと思う。

制作陣は「東京養育院」という、戦後に戦争孤児を受け入れていた施設から捜索を始めたのだが、まったくダメだったそうだ。結局どうやって見つけたのかはよく分からなかったが、本作には「母親が戦争孤児を受け入れる施設を運営していた」という空襲経験者も出演していたので、そういう方面から辿っていったのかもしれない

戦争孤児になってしまった背景には色々な状況があったと思うが、空襲の証言者の方からは「子どもだけ疎開させる」という話が出てきた本作に登場した2人の戦争孤児は恐らく違う状況だったと思うのだが)。本作には「空襲の前日に疎開先から戻ってきた」という凄まじくタイミングの悪い女性が出演していたのだが、彼女は「子どもだけ疎開させたって、親が死んじゃったらどうするの?」みたいに言っていたと思う。まあ確かにその通りである。親の「せめて子どもだけは生きていてほしい」みたいな気持ちも当然理解できるが、現実問題として「戦中戦後に子どもだけで生き延びる」というのは相当な困難だと何となく想像できるだろう。

本作に登場した2人の戦争孤児は、「最初は縁戚に引き取られた」と話していた。しかしどちらも、虐待されたり「死んだ方がマシ」だと感じられたりするような環境だったらしく、そのまま浮浪者にならざるを得なかったそうだ。

さて本作には、そんな「浮浪者」に関する証言も存在した。ある空襲経験者が戦後、高校までの通学路で経験したエピソードである。彼は通学の際、上野駅の地下通路(恐らく現在の、銀座線から地上に出る坂道の通路のことだと思う)を通っていたという。地上よりも暖かかったからだろう、そこには多くの浮浪者がいたそうだ。そして彼は、特に寒くなる時期に、その通路の両脇の壁に白墨で「◯」が書かれているのをよく目にしたという。誰に向けてのサインだったのかは分からないと言っていたと思うが、この「◯」はどうやら「そこにあった死体を回収した」という意味だったのだそうだ。だから彼は寒くなると、「通路に『◯』が書かれているかもしれないなぁ」と思い憂鬱に感じていたと話していた。実に生々しい証言だなと思う。

また当時は、「狩込」と呼ばれる「浮浪者を施設に無理やり収容する」みたいな対策がよく取られていたという。私は最初、「路上生活よりも施設の方がいいんじゃないか?」と思っていたので「狩込」の問題点が理解できなかったのだが、実態はなかなか酷いものだったそうだ。先に紹介した「母親が戦争孤児を引き取る活動をしていた女性」は「友人が東水園に連れて行かれた」みたいな話をしていたのだが、戦争孤児を収容していたこの東水園はかなり酷い施設だったという。

東水園は「人工島に作られた収容施設」であり、「戦争孤児を島に隔離すれば逃げないだろう」みたいな発想で作られたようである。しかし、東水園は子どもたちに対してかなり酷い扱いをしていたらしく、その環境に耐えかねて泳いで逃亡を図る者もいたのだそうだ。そのまま水死してしまう人もいたようだが、先述の「友人」はどうにか泳いで逃げ切れたという。女性は、「当時は東水園の酷さを知らなかった」みたいなことを言っていたので、友人が逃げ出してきたことでようやく状況を理解したのだろう。本当に酷い話だなと思う。

というわけで、証言者たちが語る話を色々と紹介してきたが、もちろんまだまだ興味深い話は色々と出てきた。一部箇条書きにしてみようと思う。

  • 警視庁でカメラマンとして働いていた父親が東京大空襲の被害の様子を写真に撮り、その後、GHQに接収されないようにフィルムを庭に埋めた(作中では、そのフィルムを印刷した実際の写真も映し出される)
  • 別の場所で空襲があったという話を聞いてはいたが、まさか自分のところも狙われるなんて想像もしていなかった
  • それまで日本は戦争に負けたことがなく、それゆえ「戦争で死ぬこと」は「名誉」だった。だから「死ぬこと」を怖いと感じたことはない
  • 兄が特攻隊に入れられたのだが、結局飛行機が足りなくて生きて帰って来られた。しかし、恐怖心を取り除くために渡されていたモルヒネの中毒になってしまい、戦後相当苦しんだ

このように様々な話が語られるのだ。

また本作には、恐らく証言者全員に同じことを聞いたのだろう、「アメリカを憎んでいますか?」という質問に対する返答がまとめられている箇所もあった。この返答もまた、実に興味深い

「意外」という感想で間違っていないと思うのだが、ほとんどの証言者が「アメリカを憎んではいない」と言っていた。もちろんここには様々なグラデーションがあり、簡単にはまとめられないので、いくつか具体的な証言を紹介しておくことにしよう。

  • 「アメリカ」という国家のことはともかく、「アメリカ人」のことは嫌いになれない
  • 「アメリカ」のことは別に嫌いではないが、ただ「アメリカに行く」というのはどうにも抵抗がある
  • 「アメリカ」のことはまったく憎んでいません。「戦争」は悪いと思っていますけどね

どれも「なるほど」と感じる返答だし、このような感想はきっと、戦後の長い時間の中でも色々変遷があったのではないかとも思う。今後変わることだってあるだろうそれで全然いいし、他人がとやかく評価するようなことでもないと思う。

さてその一方で、戦争孤児の女性はまったく違う感覚を持っていて、その際に話していたエピソードも実にインパクトがあった。彼女は「アメリカは嫌い」とはっきり口にするのだが、自分のその気持ちの強さを伝えるために「戦後にアメリカ兵が配ったチョコレート」の話をしていたのだ。

戦争孤児だった彼女は当然常に空腹で、アメリカ兵がばら撒いて地面に落ちていたチョコレートを拾って口に入れたことがあるという。しかしやはり、どうしても「悔しい」という気持ちを抑えることが出来ず、口からチョコレートを吐き出してそのまま踏んづけたというのである。絶望的な空腹を抱えていたはずなのに、そんな生理的な欲求を押さえつけるほどにアメリカへの憎しみの方が強かったというわけだ。それぐらい苦労させられたということなのだろう。個人的には「憎しみは何も生まない」と思っているが、しかしそれは、「平和な人生だったからこそ言えること」だとも理解している。どうしたって捨てきれない憎しみを抱えながら生きていくことはかなり大変だと思うのだが、しかしそういう生き方もまた許容されるべきだろう。

そんなことを色々と考えさせられる作品だった。

最後に

前述した通り、インタビューを行ったのがいつなのかは分からないが、証言者たちの年齢を考えると、本作『東京大空襲 CARPET BOMBING of Tokyo』に収録されたものが「実際に体験した人の最後の証言」になる可能性も十分にあるだろう。そもそも貴重な証言なのだが、そういう観点からもその希少さが理解できるのではないかと思う。

また本作は、「国境なき医師団」の人が登場したり、ウクライナ侵攻の映像が使われたりと、「現代の戦争」との繋がりを感じさせる構成にもなっていた。私たちは戦争を経験していないからこそ、再び戦争を起こさないようにその歴史を知るべきだと思うし、本作の証言はまさにその一助となるだろう。

原爆投下と比べると、世界にもそして日本でもあまり知られていない「東京大空襲」の実態。まずは私たち日本人が知り、そして伝え、残していかなければならないだろう。色々と考えさせられる作品だった。

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