「『考えることが好きな人』と繋がれたらいいな」と思ってこの記事を書いているし、サイトの更新も続けています
今からこの文章を読もうと考えてくれている方は恐らく、当サイト「ルシルナ」で何らかの記事を読んでくれたことがあるのではないかと思います。そしてそうだとしたら大変ありがたいです。大体の文章が長いので、読み通すのも大変だと思いますが、今後も何か気になる記事があれば是非読んでみて下さい。
それで今回は、「どうしてずっと文章を書き続けているのか?」みたいな部分に関連する話を書いていきたいと思います。私は22歳頃から「読み終わった本の感想を書く」という形で文章を書くようになりました。そして今は、それが映画の感想に変わっています。また、本にしても映画にしても、あるいは時々美術展も取り上げますが、それらの感想を書く際はなるべく「自分の価値観」みたいなものを入れるようにしてきました。既にそんな文章を20年近く書き続けています。
そしてその最大の動機は、「『考えることが好きな人』と繋がるため」なのです。
本でも映画でも美術展でも、それそのものにはさほど興味がない
私はこれまでに4000冊以上の本を読み、1000本以上の映画を観てきました。そしてそれらのほぼすべて(本はすべてとはいきませんが、映画はすべて)に感想を書いています。まずはnoteに文章をアップし、その後、そのnoteにアップした文章をベースにして新たに文章を書き直し「ルシルナ」に載せるというスタイルをここ数年間は続けてきました。ざっくりですが、毎週3万字ぐらいは文章を書いているはずです。
それで私は、15年以上書店員を続けてきたわけですが、その間たぶん、「趣味は読書」みたいな表現を使わなかったと思います。本を読むことについてはずっと「暇つぶし」と表現していて、「趣味」という言い方はしなかったはずです。そして、やはり趣味ではなかったのでしょう、今ではまったく本を読んでいません。ここ5年間で2冊ぐらいしか読んでいないと思います。今では読書が映画鑑賞にまるっと入れ替わったみたいなイメージでしょうか。
同じように、私の中では「映画鑑賞」も「趣味」という括りではありません。もちろん、「趣味は何ですか?」と聞かれれば、その場の雰囲気に応じて当たり障りなく「読書」や「映画鑑賞」などと答えたりもしますが、本質的な意味ではそれらを「趣味」だとは思っていないということです。
じゃあどうして本を読んだり映画を観たりしているのでしょうか? その点については、「何かを考えるための材料にしている」というのが私の感覚です。つまり、私の「趣味」は「考えること」だと言っていいと思います。私には、「趣味は内省」だという友人が2人いるのですが(この2人にはまったく繋がりがなく、本当に偶然、まったく同じ「内省」という表現を使っていて驚きました)、そういう感覚に近いです。まあ、私の場合は「内省(自分自身について見つめ直すこと)」に限らず、もっと広く色んなことについて考えたいという気持ちが強いのですが。
そんなわけで私には、「『本を読んでいる人』『映画を観ている人』と繋がりたい」みたいな感覚がありません。これはつまり、「『好きなこと(趣味)』で人と繋がりたくない」ともまとめられるでしょう。この点に関しては昔から同じように考えていました。SNSが普及したことで、「同じものが好きな人」と繋がり易くなったわけですが、私はどうしてもそういう状況を「嫌だな」と感じてしまいます。「本・映画の話をしたい」というわけではないからです。これは他のすべてのことについても同様で、結局のところ私は「『それそのもの』には興味がない」のだと思います。
じゃあ何に興味があるのかと言えば、やはり「『それそのもの』から何を考えたのか?」という思考の部分です。私が「この人と関わりたいな」と感じる人は、大体こういう「思考」の部分に興味が持てる人で、そういう人たちとはほとんどの場合分かりやすく趣味が合うわけではありません。そもそも私としては、別に相手が盆栽が好きだろうが、裁判傍聴が好きだろうが、アイドルが好きだろうが別にどうでも良かったりします。そうではなくて、「そういうものに触れることでどんなことを考えているか」に興味があるというわけです。
私は、『サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん』(テレビ朝日)という、何かに強い興味を持つ子どもたちを取り上げる番組をよく見ていますが、例えば私は、「彼らとは趣味は合わないけど、話は合いそうだ」と思っています。なんとなくイメージしていただけるでしょうか?
「思考を出力するための場」としてのブログ
そして私は、「考えたことを記録する」ために思考を文章として出力し、主にブログにアップし続けてきました。
とはいえ、当初は「記録」に重点を置いていたわけではありません。単純に、「頭の中に詰まっているこのモヤモヤしたものを脳外に出して、新たに別の何かを思考できるようにしたい」みたいに考えていただけだと思います(その当時はそこまで明確に言語化出来ていたわけではないはずですが)。文章を書き始めた当初は、本当に「1000字書くのもやっと」というような感じでした。でも、毎日毎日文章を書いていたらそれなりに上達するもので、今では5000字程度の文章ならスラスラっと書けます。
また、文章を書く経験を積み重ねてきたことで興味深い感覚も得られました。それが、「『書くこと』と『考えること』は密接に結びついている」というものです。
これは多くの人が共感してもらえると思いますが、「頭の中だけで何かを考える」というのは実は結構難しかったりします。というのも、「考えること」と「考えたことを覚えておくこと」を同時に行っているからです。しかし、「考えたことを覚えておく」のを止め、「考えたことを文章として出力する」ようにすると、脳を「考えること」だけに使えるようになります。この話は理解しやすいでしょう。
しかし、そういうことを続けてきたことで私は、ちょっと奇妙に聞こえるだろう感覚に行き着きました。それは、「『そうか、自分はこんなことを考えていたのか』と気づく瞬間がある」ということです。
先ほど、「4000冊の本と1000本の映画のほぼすべてに感想を書いている」と書きました。しかし、これは本当に大変です。本を読んだり映画を観たりする時間を確保しつつ文章も書かなければならないので、とにかく時間がありません。なので私は、本・映画の感想を書く際には大体、「ほぼノープランのままとりあえずキーボードを打ち始める」というやり方をしてきました。脳と指先が直結していて、まるで「指先が思考している」みたいな状態になっているというわけです。
そしてそんな風に文章を書いていると、奇妙なことに、「自分はこんなことを考えていたのか」みたいな感覚に陥ることがあります。つまり、「脳内で考えたことを、言語化することで意識し、それを指先で打ち込む」という手順の内、真ん中の「言語化することで意識し」の部分がまるっと抜けてしまい、「脳内で考えたことが、言葉によって意識されないまま、勝手に指先から出力されている」みたいな状態になることが時々あるのです。私にとって、文章を書いていて最も楽しい瞬間だと言っていいでしょう。
こんな風にして私は、「思考力」「言語化力」をかなり鍛えてきました。まあ欲を言えば、この能力・経験がお金になるといいなと思っているんですが、なかなか難しいでしょう。「『書きたくない文章』は絶対に書かない」と決めているからです。「仕事にはしない方がいいんだろうな」とも考えています。
ただ、それはそれとして、「この能力・経験が『人と繋がること』に活かせるといいんだけどな」という感覚は、年々強まっているところです。私は周囲の人間によく、「人間には興味がないけど、人間にしか興味がない」という言い方をしているのですが、これは要するに、「なかなか出会えないけど、『考えることが好きな人』と関わりたい」という意味だったりします。ホントに、これがなかなか難しいのです。私は幸運なことに、これまでの人生の中で「考えることが好きな人」とそれなりには出会えてきたのですが、その絶対数は決して多くはありません。また、生活の拠点を大きく変えた経験があるため、「距離が離れていてなかなか会えない」みたいな人も結構います。
そんなわけで、「いかにして『考えることが好きな人』と出会うか」は、私の人生において常に最重要課題であり、今もそうであり続けているというわけです。
少し前に「哲学カフェ」に参加してみた
さてそんなある日のこと、特別探していたわけではないのですが「哲学カフェ」の存在を知り、参加してみることにしました。定期的に行われるものではなく、ある展示に付随する形で開かれていたイベントで、この記事をアップしている時点では既に終了しています。毎週金曜に行われており、その存在に気づいてからラストまでの3回参加しました。
「哲学カフェ」をご存じない方のためにざっくり説明しておくと、「普段考えないような問いについて参加者みんなで意見を出し合ってみる」みたいな場のことを指します。「哲学」と言ってもテーマは難しいものではなく、大体の場合、日常的な話題であることが多いでしょう。
そして、「そんな『哲学カフェ』に行ってみたら、『考えることが好きな人』と関われるかもしれない」と考えたというわけです。
ただ実際にはそう上手くはいきません。私が参加した「哲学カフェ」は「予約不要、参加人数無制限」だったこともあり、そもそも「人数が多すぎて『対話』になりにくい」という難しさもあったわけですが、それ以上に「『単に喋りたいだけの人』が参加する可能性を排除できない」という点が問題だなと感じました。
その後も参加できそうな「哲学カフェ」がないか調べていることもあり、他の「哲学カフェ」のことも何となく理解しているわけですが、多くの場合、「相手の発言を否定せずに聞きましょう」という基本ルールが設定されています。このルール自体は妥当でしょう。決して「議論をして相手を打ち負かすこと」が目的ではないので、それぞれの意見を尊重して聞くという姿勢は重視すべきだと思います。
しかし一方で、そういうルールがあるが故に、「否定されずに自分の話を聞いてもらえる場」みたいな認識で参加している人もいたような気がしました。もちろん全員ではありませんが、そういう気持ちを持ちつつ参加する人もいたはずです。
そしてそうなってくると、私が求める「『考えることが好きな人』と関わる」という目的にはちょっとそぐわなくなってきます。この辺り、ちょっと難しいなと感じました。
ただ、「哲学カフェ」というフォーマットはやはり興味深いので、色々と調べてみて、いくつか参加してみようとは思っています。まあそんなわけで、そういうことを考えるぐらいには「『考えることが好きな人』と出会いたい」という気持ちを強く持っているというわけです。
最後に
そんなわけで長々と文章を書いてみましたが、本記事の趣旨は「『考えることが好きな人』と繋がりたい」です。先述した通り、「人間には興味がないけど、人間にしか興味がない」ので、「何らかの形で関われる人が出来たらいいな」と思っています。ただ、これまで20年近く文章を書き続けてきて、コメント等で反応をもらう機会はほぼ皆無だったので、今後もそういう機会は少ないかもしれません。まあ私としては、「待つ」しかありませんが。
そんなわけで、本・映画等に触れているかどうかはどうでもいいので、「私が書いた文章中のこの点について議論したい」とか、あるいは「こんな文章を書く人間とこういうテーマで話してみたい」などあれば、何らかの形でアクションをもらえたら嬉しいです。
ただやはり、これは書いておくべきだと思いますが、「考えることが好きな人」だとしても「合う合わない」の問題はあると思いますので、「ちょっと合わないかもしれないなぁ」みたいに感じてしまったらそうお伝えするかと思います。その場合は申し訳ありません。こんな風に言われて「よし連絡を取ってみよう!」なんて思う方は多くないでしょうが、気が向いたらよろしくお願いします。
コメント